皆さんは「織田信長(おだ のぶなが)」を、ご存知でしょうか?
「織田信長」について、くわしく知っている方は、実はそれほど多くないみたいです。
この記事では「織田信長」について、「最期の様子」、「生涯年表」、「子孫や家系図」など、そのすべてを可能な限り、わかりやすくカンタンに、短い文章で解説いたしました。
今は「織田信長」について漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど「織田信長」にくわしくなれます。
この記事を読んで、「織田信長」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,「織田信長」とは、戦国時代に活躍した武将で、「応仁の乱」から【100年】以上も続いた内戦を終わらせる基礎をつくった人物。
2,「織田信長」は、「桶狭間の戦い」や「長篠の戦い」などで強敵を次々と撃破し、「日本の4割」を支配するまで領土を拡大した。
3,「信長」は【1582年】に「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれた。そのあとを引き継いだ「豊臣秀吉」が、「信長」の死後【8年間】で、「天下統一」に成功した。
織田信長とは「何をした人」なのか?その「功績」を解説
「織田信長」とは、天下統一の直前まで勢力を拡大しながらも、【1582年】に亡くなった戦国武将です。
これより「織田信長が残した功績」について、わかりやすく解説いたします。
織田信長が残した「功績」とは何か?何をした人なのかを解説
「織田信長」とは、【1467年】の「応仁の乱」から始まり、実に【100年】以上も続いた「戦国時代」を終わらせるための基礎をつくった人物です。
信長は、常識を超えたアイディアと、圧倒的な行動力で、「天下統一」目前まで勢力を拡大した名将なのです。
当時の日本では、「100年以上」ものあいだ、「戦争」が果てしなく繰り返されていました。
織田信長はその戦国時代を、武力で、つまり力づくで終わらせようとした人なのです。
「100年も続く戦乱の世の中を、武力でもって終わらせようと戦い続け、戦国を終わらせる基礎をつくった人物」
それが「織田信長」です
信長が残した最大の功績は、「戦国時代を終わらせる基礎をつくりあげたこと」です。
しかし信長は、「天下統一」を達成することはできませんでした。
天下統一を実現する直前の【1582年】、重臣だった「明智光秀」に裏切られて亡くなったからです。
織田信長が「やったこと」や「功績」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長が「日本史におよぼした影響」とは何か!
織田信長という天才が出現したことで、室町幕府・八代将軍「足利義政」の時代に始まり、【100年】以上も続いた「戦国時代」は、ついに終息します。
信長が日本の歴史におよぼした影響とは、すなわち「日本国内の戦争(内乱)を終わらせ、平和な時代の基礎をつくったこと」でしょう。
もしも信長が歴史に登場しなかったら、日本はどうなっていたでしょうか?
信長がいなかったら、その後の「江戸時代265年」の平和は、なかったかもしれません。
ということは、現代の「平和な戦後の日本」もなかったはずです。
織田信長について、「教科書」や「日本史」で学ぶべきことを一覧でザッ表示すると、以下のとおりです。
- 1560年「桶狭間の戦い」
- 1561年「清洲同盟」
- 1567年「美濃国を支配」
- 1568年「足利義昭をつれて上洛」
- 1570年「姉川の戦い」
- 1573年「室町幕府を滅亡させる」
- 1575年「長篠の戦い」
- 1570~1580年「石山戦争」
- 1582年「天目山の戦い」
- 1582年「本能寺の変」
歴史に刻まれた「信長の業績」は、ほとんどが「戦争」です。
信長はこれらの戦争にことごとく勝利し、戦乱を終結へと導いた人物なのです。
織田信長と「室町幕府」の関係とは?
織田信長は「室町幕府」を一時的にではあるものの再興し、そのあとで自ら滅亡させています。
信長は、【1568年】に「足利尊氏」の末裔である「足利義昭」を連れて上洛(京都へ進軍し、征服・支配すること)しています。
そして「足利義昭」を「征夷大将軍」に任命させて、弱体化していた「室町幕府」を再興します。
ところが、「足利義昭」はあまりにも無能でした。
足利義昭は、信長が目指す「天下静謐(てんかせいひつ・平和な世のこと)」の邪魔をするようになったのです。
義昭は信長と敵対し、「浅井長政」「朝倉義景」「本願寺顕如」「武田信玄」と協力して、信長と戦います。
「平和な世の中」を目指していた信長は、やむを得ず「足利義昭」を京都から追放。
こうして【1336年】に「足利尊氏」が開き、237年続いた「室町幕府」は、滅亡することとなったのです。
しかし、信長は「室町幕府」を滅亡させたかったわけではありません。
京都から「足利義昭」を追放したあと、「京都へ戻って欲しい」と義昭にお願いしているのです。
おそらく信長は「平和を実現する」という夢を、「足利義昭」にも一緒に追ってほしかったのでしょう。
「織田信長」と「室町幕府」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
天才・織田信長の「すごいところ」と「魅力」とは何か?
織田信長は、よく「天才」と呼ばれます。
そして、とても「魅力的な人物」として描かれることが多い武将です。
信長は、なぜ「天才」なのか。
そして「どこがスゴイ」のでしょうか?
信長が「天才」と呼ばれた理由は「常識を超えた発想を次々と生み出し、強敵をことごとく追い抜いて、一気に飛躍した」ことにあるでしょう。
当時の日本では、「工業」が中心の現代とは違い、「農業」が生活の中心でした。
戦国大名たちは、さらなる農地を求めて、土地争いのための戦争を繰り返していたのです。
ところが信長は、「農業」よりも「商品の売買」による「商業」を重視したのです。
信長は、積極的に「商業」をすすめ、そこから得られた莫大な「お金」で、天下を支配していきます。
当時は「農民」を雇って戦いを行わせる「農民兵」が常識でした。
しかし信長は、違いました。
信長は、その有り余る財力で「戦いが専門の傭兵」を多数やとって、傭兵の軍団をつくります。
そしてそれらの「傭兵集団」に、当時最新鋭の兵器「鉄砲」を装備させて、最新鋭かつ最強の軍団に育て上げます。
「圧倒的な財力」と「圧倒的な軍団」、そして「圧倒的な武器」で、敵勢力を迅速に排除する。
そうすることで、戦国時代を短期間で終わらせようとしたのです。
これが信長の「スゴイところ」でしょう。
そして「信長の魅力」についてですが、その圧倒的な「カリスマ性」ではないでしょうか。
「豊臣秀吉」や「徳川家康」には、たくさんの「失敗の逸話」があります。
ところが信長には、その「失敗の逸話」がそれほど多くありません。
とはいえ、信長は「失敗しなかった」わけでは決してありません。
「失敗してもあきらめず、再び立ち上がっている」のです。
たとえば【1570年】、「金ヶ崎の退き口」で大敗北した信長は、直後の「姉川の戦い」で大勝利し、失敗を取り戻しています。
「失敗をものともしない精神力と行動力」
それが「信長のカリスマ性」を強め、信長を「魅力的」にみせているのでしょう。
「信長の天才ぶり」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長の身におきた「出来事」を一覧で紹介
「織田信長の生涯」に起こった出来事を、ザッとですが一覧にまとめてみました。
信長に起きた出来事を一覧でまとめると、以下の通りです
甲賀忍者「杉谷善住坊」による「信長・暗殺」未遂事件とは?
織田信長は、「杉谷善住坊(すぎたに ぜんじぼう)」という忍者に鉄砲で狙撃され、暗殺されかけたことがあります。
その事件の内容を、ざっと解説いたしますと、以下のとおりです。
【1570年】4月、「金ヶ崎の退き口」で義弟「浅井長政」に裏切られた「織田信長」京都へ逃亡。
その後「信長」は、京都から岐阜へと帰還します。
その岐阜への道の途中で、「杉谷善住坊」に鉄砲で狙撃されたのです。
信長は幸いにも「かすり傷」で済んだとのこと。
この「杉谷善住坊」は捕らえられ、「のこぎり引き」という残酷な方法で処刑されています。
織田信長の「プロフィール」や「経歴」を、わかりやすく解説
「織田信長」について、わかりやすくカンタンに解説
『織田信長(おだ のぶなが)』とは、「戦国時代」に活躍した「武将」です。
今から約【450年前】の「戦国時代」、【1534年】に、現在の愛知県西部に位置する「尾張国」で、「織田信長」は誕生しました。
織田信長は、強敵「今川義元」「武田信玄」「本願寺顕如」「上杉謙信」などとの勢力争いを勝ち抜き、天下統一目前にまで勢力を拡大しました。
ところが【1582年】、信長は最も信頼していた部下「明智光秀」に裏切られて、京都の「本能寺」で亡くなります。
信長は、その生涯を「天下統一」を達成するために注ぎ込み、達成目前で突然の死をむかえたのでした。
「織田信長についてわかりやすく簡単にまとめた記事」は、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「織田信長とは何者なのか」を小学生向けに、みじかくカンタン解説
「織田信長とは何者なのか」を「小学生向け」にわかりやすく解説すると、「戦国時代で最強の武将」ということになるでしょう。
など、戦国時代には「名将」と呼ばれる優れた武将たちが数多くいました。
信長はそれらの強敵をことごとく撃破したのです。
それだけではありません。
織田信長は強敵たちを次々と撃破した後、広大な領土を手に入れています。
現在の「群馬県(下野国)」から「岡山県(備中国)」までを支配して、日本最大の勢力をつくりあげたのです。
織田信長は「魔王」や「鬼」などと呼ばれ、「残酷な独裁者」と呼ばれることが多い人物です。
しかし、一級の資料である「信長公記(しんちょうこうき)」によれば、とても優しい一面も持つ人物です。
人々から恐れられると同時に、慕われてもいた「織田信長」。
【1582年】、「信長」は最も信頼していた家来「明智光秀」に、「本能寺の変」によって討ち果たされてしまうのです。
「織田信長」とは「どんな人」だったのかについては、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「【織田信長とは】について小学生向けに詳しく解説!信長は何をした人?」の記事はコチラ
「織田信長についての歴史年表を簡単略式で紹介!小学生向け自由研究用」の記事はコチラ
織田信長の「プロフィール」を一覧で解説
【織田信長のプロフィール】を簡単に解説いたします
信長のプロフィールをざっとまとめると、以下のとおりです。
- 【誕生日】、「天文3年(1534年)5月12日」
- 【幼名】、吉法師
- 【出身地】、愛知県名古屋市
- 【特技】、水泳・乗馬・弓術
- 【あだ名】、うつけもの(ばかもの)、第六天魔王
- 【口癖】、「であるか」
- 【最期の言葉】、「是非に及ばず」
- 【妻】、「帰蝶(濃姫)」
- 【子供】、「信忠」「信雄」「信孝」
- 【父】、「信秀」
- 【愛刀】、「義元左文字」「へし切長谷部」「実休光忠」
- 【墓】、「京都・阿弥陀寺」
- 【兄妹】、弟「織田信勝」、妹「お市の方」、義弟「浅井長政」
- 【親戚】、義父「斎藤道三」
- 【死没】、「天正10年(1582年)6月2日」、明智光秀によって、京都「本能寺」で死亡
- 【享年】、数え49歳(満年齢48歳)
「織田信長のプロフィール」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長の「経歴・略歴」を「信長の主君」との関係から解説
織田信長がつかえた主君の移り変わりについて、「経歴・略歴」として解説したいと思います。
信長は、独立した戦国大名のように思われがちですが、実は「主君」がいました。
織田信長が仕えた「主君」を一覧にすると、以下のとおりです。
- 織田信友
- 斯波義銀(しば よしかね)
- 足利義昭
- 正親町天皇
信長が生まれた家である「織田弾正忠家(おだだんじょうのちゅうけ)」は、もともと「清洲三奉行」と呼ばれた三つの家の一つでした。
その「織田弾正忠家」は、尾張国の守護代「織田大和守家」につかえていたのです。
「織田大和守家」の当主、それが「織田彦五郎信友」です。
織田信友は、【1555年】に信長と敵対し、滅ぼされています。
尾張国の守護「斯波義銀(しば よしかね)」は、もともと守護代「織田信友」の主君でした。
しかし、「斯波義銀」と「織田信友」は対立。
信長は「斯波義銀」に味方して「織田信友」を滅ぼしましたが、のちに「斯波義銀」とも対立します。
「斯波義銀」は今度は「今川義元」と手を組んで「織田信長」を滅ぼそうとしたため、「信長」の手で尾張国から追放されてしまいます。
「斯波義銀」は、のちに「豊臣秀吉」に部下として仕えています。
「足利義昭」は、【1568年】に「織田信長」の協力によって、武士たちのトップ(棟梁)を意味する「征夷大将軍」に就任。
しかし「義昭」も、やはり信長と対立。
「槇島城の戦い」で信長に敗北した義昭は、【1573年】に京都から追放されます。
これにより、「足利尊氏」から「足利義昭」まで、15代続いた「室町幕府」は滅亡します。
その後「義昭」は、「豊臣秀吉」に部下として仕えています。
「正親町天皇」は、【1557~1586年】に在位しておられた天皇です。
信長は【1568年】に京都を制圧すると、「正親町天皇」を保護して、経済的な援助を行っています。
その後、信長は【1577年】に「右大臣」に任命されて、朝廷の重臣となります。
信長の死後、「正親町天皇」は孫にあたる「後陽成天皇」へ位を譲って崩御、つまり亡くなっておられます。
これらの人々は、全て「織田信長」の主君と呼んで良い方々です。
同時に複数の主君に仕えていたこともあるため、「信長がだれに、いつから、いつまで仕えていた」のような解説は、少しむずかしいです。
「織田信長のプロフィール」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長の「血液型」と「手相」の特徴
織田信長の血液型は「A型」といわれています。
信長の遺品に残された「髪の毛」と「血痕」から、「A型」と判明したのだそうです。
しかしその「毛髪」と「血」が、本当に「織田信長」のものかどうかハッキリしていないため、「A型ではない」ともいわれています。
性格からすると、「B型」ではないかともいわれています。
信長の「手相」には「ますかけ線」という、幸運を表す手相があったのだとか。
どうやら「織田信長」だけではなく、「豊臣秀吉」「徳川家康」も、この「ますかけ線」の持ち主だったといわれています。
「織田信長は」の「血液型」や「手相」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長の【誕生日・生年月日】と【出身地】
織田信長の「誕生日・生年月日」と、「干支」に秘められた「不思議な逸話」をご紹介いたします。
また「織田信長の生まれた場所」についても解説いたします。
織田信長の「生年月日」と「干支」を解説
織田信長の誕生日については、「二通りの説」が唱えられています。
【天文3年5月11日、または12日(1534年6月22日、または23日)】
あるいは
【天文3年5月28日(1534年7月9日)】
干支は「午(うま)年」
信長は、「午年」であり、真逆の「子年」に生まれた「明智光秀」と、因縁があると言われています。
方位で表すと、「午年」が南に位置し、その正反対の北に「子年」が位置しているのです。
「信長は、馬がネズミに食い殺される夢をみた」
そんな逸話も残っている程です。
この夢は
午年の「織田信長」が、子年の「明智光秀」に討たれるという予知夢
だったのかもしれません。
「織田信長の誕生日」と「干支」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長の「出身地」はどこ?
織田信長の「出身地」は、尾張国です。
尾張は、現在の「愛知県名古屋市」。
一説によると信長は、「那古野城で生まれた」と言われています。
現在の「名古屋城二之丸」に、信長の居城であった「那古野城(なごやじょう)」の跡が残っています。
別の説として、「愛知県稲沢市」にある「勝幡城(しょばたじょう)」で誕生したという説もあります。(那古野城を今川家から奪ったのは「1538年」といわれている。つまり【1534年】生まれの信長が、敵の城だった那古野城で誕生できるはずがない)
信長生誕地として、最近では「那古野城」よりも「勝幡城」のほうが有力と考えられています。
「織田信長」の「出身地」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長の「年齢」や「年代」をカンタン解説
織田信長の年齢は、【1534年】生まれなので、亡くなった【1582年】の時点で数え齢【49歳】となります。
「数え齢」とは、誕生したときに「1歳」と数えた場合の年齢。
現在我々が使っている「満年齢」は、誕生したときに「0歳」と考えます。
しかし当時は旧暦だったため、年齢が「誕生から何年経過したのか」を正確に表していなかったのです。
信長の年齢を、「歴史的な重大事件」が起こった年とあわせて年表にすると、以下の通りとなります。
- 【1560年】「桶狭間の戦い」のときは「27歳」
- 【1567年】「美濃攻略」のときは「34歳」
- 【1568年】「京都への上洛」のときは「35歳」
- 【1570年】「姉川の戦い」のときに「37歳」
- 【1575年】「長篠の戦い」のときは「42歳」
- 【1580年】「石山戦争・終結」のときは「47歳」
- 【1582年】「本能寺の変」のときは「49歳」
「1546年」、古渡城にて元服(成人式)が行われました。
このとき信長13歳。幼名「吉法師」から、「三郎信長」と改名しています
【1552年】、「上総守信長」と改名していますが、直後に「上総介信長」とふたたび改名しています。
信長の「年代」を同時代の武将と比較してみると、
- 「武田信玄」よりも13歳年下
- 「上杉謙信」よりも4歳年下
- 「豊臣秀吉」よりも3歳年上
- 「徳川家康」よりも9歳年上
となります。
「織田信長」の「年齢」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長の生涯を「年表」で解説
織田信長の「生涯年表」を、小学生向けに、簡単にわかりやすくまとめて解説
織田信長の「生涯年表」を、わかりやすくご紹介いたします。
詳しくは、以下の通りです。
- 【1534年】(1歳)
織田信秀の三男として、尾張国の「那古野城」または「勝幡城」で誕生 - 【1537年】(4歳)
「豊臣秀吉」誕生 - 【1543年】(10歳)
「徳川家康」誕生 - 【1546年】(13歳)
「元服」し、「三郎信長」と名乗る - 【1552年】(19歳)
父「織田信秀」が病死し、信長が家督継承 - 【1556年】(23歳)
「長良川の戦い」で「斎藤道三」が息子「斎藤義龍」に討たれる - 【1558年】(25歳)
弟「信勝(信行)」を暗殺する - 【1560年】(27歳)
「桶狭間の戦い」で「今川義元」を討ち果たす - 【1561年】(28歳)
「松平元康(徳川家康)」と「清洲同盟」を締結 - 【1567年】(34歳)
「美濃国」から「斎藤龍興」を追い出して、稲葉山城を奪取。 - 「稲葉山城」を「岐阜城」と改名して、ここに本拠地を移す
- 【1568年】(35歳)
「明智光秀」の仲介により「足利義昭」を連れて上洛 - 【1570年】(37歳)
「金ヶ崎の退き口」で「浅井長政」に追いつめられる - 同年「姉川の戦い」で「浅井・朝倉連合軍」を撃破
- 【1571年】(38歳)
「比叡山焼き討ち」 - 【1573年】(40歳)
「足利義昭」を京都から追放し、「室町幕府」滅亡 - 【1575年】(42歳)
「長篠の戦い」で「武田勝頼」の軍を撃破 - 【1580年】(47歳)
「石山戦争」終結 - 【1582年】(49歳)
「本能寺の変」により、「明智光秀」によって攻め滅ぼされる
「織田信長の年表」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
『織田信長がしたことを年表にまとめて簡単解説!『天下の取り方』教えます』の記事はコチラ
「織田信長の「美濃攻略」を年表で解説!美濃攻めにおける意外な戦略とは」の記事はコチラ
「織田信長の石高はどれくらい?石高推移を年表でわかりやすく解説」の記事はコチラ
「織田信長の有名な戦いを年表で一覧にして紹介!信長は戦に弱かった?」の記事はコチラ
「【織田信長の歴史】年表形式で当時の時代の流れをわかりやすく解説!」の記事はコチラ
「織田信長が天下統一事業に成功した理由!統一までの流れを年表で解説」の記事はコチラ
「【織田信長の年齢】歴史的事件の際の年齢を年表で解説!」の記事はコチラ
「【織田信長】尾張統一までの14年を年表で解説!立ちはだかる6つの敵」の記事はコチラ
「【織田信長】官位の移り変わりを年表で解説!太政大臣に就任予定だった?」の記事はコチラ
「織田信長の「有名な戦い」や「有名な出来事」を年表形式で簡単に紹介」の記事はコチラ
織田信長と「日本の歴史」との関わりをカンタン解説!信長は「何時代の人」なのか?
織田信長は「戦国時代」または「室町時代」から「安土桃山時代」にかけて生きた武将です
信長ほど「室町時代」と「安土桃山時代」に関係が深い人物はいません。
なぜなら「室町時代」という時代を終わらせたのも、「安土桃山時代」と呼ばれる時代を始めたのも、まさに「織田信長」だからです。
【1573年】、織田信長は「室町幕府」の征夷大将軍「足利義昭」を京都から追放して「室町幕府」を滅ぼしたため、「室町時代」は終焉をむかえました。
そのあと信長は「安土城」に拠点をおいていたため、信長が中央を支配していたこの時代は、居城「安土城」の名前からとって「安土桃山時代」と呼ばれたのです。
ちなみに信長と「豊臣秀吉」が天下を制していた時代のことを、「安土桃山時代」または「織豊時代」と呼んでいます。
その名前の由来は、信長・秀吉それぞれの最期の拠点「安土城」「伏見桃山城」の名前をとって「安土桃山時代」と呼んでいるのです。
または、それぞれの苗字の一字をとって「織豊(しょくほう)時代」というわけです。
信長は、「江戸時代」が始まった【1603年】の21年前に、「本能寺の変」で亡くなっていますが、「安土桃山時代」が終わったのは江戸時代開始と同時「1603年」です
信長が生きた時代の年号を一覧で表すと、以下のとおりとなります。
- 「天文1532~1555」(1534年、「織田信長」誕生)
- 「弘治1555~1558」
- 「永禄1558~1570」
- 「元亀1570~1573」
- 「天正1573~1593」(1582年、「織田信長」死去)
信長は「天文年間」に誕生し、「天正年間」に亡くなったのです。
「天」という字がつく時代に生まれて亡くなるとは、何か天命のようなものを感じます。
「織田信長」と「歴史の関わり」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長の「人生・生涯」を短く簡単にまとめ
織田信長の人生・生涯を「ひとこと」で言ってしまうと、「戦国時代という混乱の時代を終わらせるための一生だった」といえます。
信長が生まれた【1534年】の当時は、「応仁の乱」から約「70年」も戦乱が続いた時代でした。
信長はその戦国時代において、当時としては画期的な改革を次々とおこない、強力な軍団をつくりあげます。
その軍団で、信長は連戦連勝。
長く続いた戦乱を、力づくで終わらせることを目指したのです。
信長は、自分の手で戦国を終わらせることはできませんでした。
しかし「天下泰平」の土台をつくったのは、間違いなく「織田信長」だったのです。
【1534~1582年】、信長の48年の生涯は、まさに「天下を平和にする」ための一生でした。
「織田信長の年表」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長の「生い立ち」とは?
信長の生い立ちは、とても複雑です。
【1534年】、「織田信長」は、尾張国の奉行であった「織田弾正忠家(おだ だんじょうのちゅうけ)」の当主「織田信秀」の三男として誕生しました。
幼名は「吉法師」。
母親は「織田信秀」の正室「土田御前」。
乳母の乳首を噛みちぎるほど、「信長」は気性の荒い子でした。
そんな「信長」は、幼い頃から「奇妙な行動」をとる子供でした。
- 派手に着飾り、町を徘徊する
- 奇抜な行動で人々を不快にさせる
そのため信長は「うつけ者」、つまり「バカ者」とあだ名されるようになったのです。
そんな信長を、母親の「土田御前」は毛嫌いします。
弟の「信勝(信行)」を溺愛していた「土田御前」は、「信勝」を「織田弾正忠家」の後継者にしようと画策します。
ところが、信長はその類まれな能力で、母や弟の策略を次々と排除していくのです。
【1552年】、父「織田信秀」が亡くなると、周辺の敵勢力が、一気に信長に敵対し始めます。
信長はそれらを次々と撃破していきます。
- 【1555年】、主君だった「織田信友」を撃破。
- 【1556年】、最大の理解者であり協力者だった「斎藤道三」が「斎藤義龍」に敗北して戦死。
- 【1558年】、宿敵だった弟「信勝」を罠にはめて殺害
- 【1560年】、最大の脅威だった宿敵「今川義元」を「桶狭間の戦い」で討伐。
- 【1567年】、父「織田信秀」の悲願だった「美濃国攻略」に成功。
信長は、恩人でもある義父「斎藤道三」からゆずりうけた「美濃国」を土台として、一気に躍進していくことになります。
「織田信長の生い立ち」と「最期」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長の「性格」を「逸話・エピソード」で解説
織田信長の【性格】は、どんなものだったのか?
「うつけ者(バカモノ)」と呼ばれた「織田信長」ですが、近年の研究では「とても真面目だった」といわれています。
実は信長は、「超」がつくほどの「現実主義者」でもあったのです。
信長の性格・人柄を簡単に言ってしまうと
「優しくて真面目な現実主義者」
となります。
信長はとてもマジメです。
その真面目さを物語るエピソードとして「足利義昭」を追放したときの話があります。
【1573年】、織田信長は「足利義昭」を京都から追放し、「室町幕府」は滅亡します。
実はこの直後、信長は「足利義昭」に対して、「京都へ戻って欲しい」とお願いしているのです。
信長は、政治をかえりみない「足利義昭」を京都から追放することで、反省をうながしたかったのでしょう。
このお願いを、「足利義昭」は拒絶します。
もしも義昭が京都へ帰還していたら、室町幕府は滅亡していなかったでしょう。
そもそも【1568年】に、「足利義昭」を連れて上洛(京都へ進軍)したときも、全国の大名がだれも「義昭」を助けなかったなかで、信長だけが足利義昭に手を差し伸べています。
京都はこのとき、義昭の兄「13代将軍・足利義輝」を暗殺した「三好三人衆」が制圧していました。
信長は、この謀反人であった「三好三人衆」を許すことができなかったのでしょう。
「天下静謐(てんかせいひつ)」という言葉を、信長は当時、頻繁につかっています。
「天下静謐」とは、つまり「平和」のことです。
「信長」は、平和を実現するために戦っていたのです。
悪逆非道などと呼ばれる信長ですが
- 「徳川家康」
- 「浅井長政」
- 「武田信玄」
- 「上杉謙信」
などなど、数々の大名と同盟を締結しているなかで、自分から同盟を破棄したことはありません。(四国・土佐の戦国武将「長宗我部元親」との同盟は、信長から破棄しているが、一応理由はあった・・・)
信長は、「魔王」と呼ばれるような「不真面目」な性格ではなく、とても真面目な働き者であったと考えられます。
「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
この俳句に象徴されるような、残酷な性格ではありませんでした。
とても現実的で、行動力にも優れていたのです。
織田信長の「性格」や「人柄」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長が「優しい人柄」だったことを表す逸話・エピソード
信長は非常に「心優しい人物」であったと考えられます。
「織田信長」には、「昼寝をする農夫を見つけて喜んだ」という逸話があるのです。
くわしく以下の通りです。
ある日、織田信長が出陣する際に、畑で昼寝をしていた農夫がいました。
これをみた信長の家来は、激怒。
領主である「織田信長」が出陣するときには、「農民は道に平伏し、頭を下げる」のが常識だったからです。
信長は激怒する家来たちをたしなめて、こう言いました。
「俺はあのような平和な光景が好きだ。
はやくあのような光景が当たり前になるように、平和な世の中をつくらなくてはいけない」
また、とある村で苦しんでいた障害者の世話を、その周囲の住民に頼んだこともあります。
信長は「魔王」などではなく、とても心の優しい人だったのです。
「信長の優しいエピソード」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長のおもしろエピソード「池に潜む龍」
信長の面白いエピソードとして、「池に潜む龍」という逸話があります。
あるとき、「大池の中に龍が住んでいる」という噂が広まりました。
領民たちは、この噂を信じて恐れ、池に近づかなくなりました。
「龍などいない」と知っていた現実主義者の「信長」は、この悪い噂が領民を苦しめていると考え、噂を打ち消そうと動き始めます。
信長はその「大池」に、短刀をもって一人で潜っていったのです。
水泳がとても上手だったという信長は、何度も何度も池に潜って、龍を探して見せます。
そして長時間の捜索の末、信長はキレます。
「龍なんかいないじゃないか!」
龍がいないということを、わざわざブチギレてみせることで、領内すべてに噂として広まるようにしたのです。
そして信長は、「龍がいる」という風説を広めることを禁止して、領民を安心させて去っていきました。
【2020年】の大河ドラマ「麒麟がくる」。その第9話「信長の失敗」において、この「龍」のエピソードが登場します。
俳優「染谷将太」さん演じる「信長」が、妻「帰蝶」と初めて対面したとき、このエピソードが語られるシーンがあったのです。
染谷将太さん演じる「織田信長」のセリフは、以下のとおりです。
「ワシは昨晩、『あまが池』の化け物を探していた。
村の者たちは、心の底から恐れていた。
ワシはそれを『嘘』と言って捨て置くだけではイカンと思った。
ワシは池に入ってみせた。
ワシが池に入れば、皆が安心するであろう。
村の者たちは、また商売に出かけることが出来るし、田を作ることができる。
それが大事じゃ!!」
これは「信長公記」という、かなり信頼できる資料に記されたエピソードです。
信長は「行動力」に優れた「現実主義者」で、しかも領民想いな「優しい人」だったのです。
ただし、「麒麟がくる」で「染谷将太」さんは、徳川家康の父「松平広忠」を暗殺し、その首を笑顔で父に「贈り物」として差し出す人物として、「織田信長」を演じています。
優しいだけではなく、残酷なことを平然とやってのける「サイコパス」としての一面も、信長はあわせ持っていたのかもしれません。
「信長の逸話・エピソード」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の「武勇伝」!「天王寺砦の戦い」と「桶狭間の戦い」
織田信長の「武勇伝」といえば、やはり「桶狭間の戦い」でしょう。
そしてもう一つ「天王寺砦の戦い」が有名です。
【1560年】、信長は駿河国の大勢力「今川家」と「桶狭間」で激突します。
今川家の総大将「今川義元」は、5千人の兵とともに「桶狭間」に布陣。
それに対して信長は、約2千人の軍で突撃。見事に今川義元の首を討ち果たしています。
このとき信長は、自ら先陣をきって槍を振り回して戦った、といわれています。
信長は家来にかたく守られて、陣の奥に座っているだけの武将でありません。
自ら先頭に立って戦う猛将だったのです。
「天王寺砦の戦い」では、さらに凄まじい修羅場をくぐっています。
【1576年】、織田軍の猛将「明智光秀」は、現在の「大阪城」の位置に建てられていた「石山本願寺」という要塞を攻撃していました。
難攻不落の「石山本願寺」に苦戦していた光秀は、逆に本願寺の襲撃を受けて、「天王寺砦」を包囲されます。
絶体絶命の危機に陥った「明智光秀」を救ったのが、主君「織田信長」でした。
信長は自ら先頭に立って「明智光秀・救出部隊」をひきいて「本願寺軍」や最強の鉄砲傭兵集団「雑賀衆」と交戦します。
このとき信長は、鉄砲を足にくらって負傷。
それでも奮戦し、見事に光秀救出に成功しています。
信長は「みずから戦闘をおこなう猛者」であり、とても勇敢な武将だったのです。
「桶狭間の戦い」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の「幼少期」を解説!「うつけ」と呼ばれた理由とは?
幼少期の信長は、奇行を繰り返していたといわれています。
そのため、人々は信長のことを「うつけもの(バカ者)」と呼んで見下していたとのことです。
具体的に、どのようなことをしていたのでしょうか?
派手な格好で、悪ガキを大勢引き連れ、町を練り歩き、「栗・柿・瓜」などを食いながら、行儀悪く振る舞った・・・とのこと。
礼儀を重んじることなく、人前でも行儀悪く、とても評判が悪かったようです。
挙句の果てには、父「織田信秀」の葬儀で、父親の位牌にむかって「抹香(粉のお香)」を投げつけたという逸話があります。
実は信長、本当に「バカ者」だったわけではなく、「うつけ者・バカ者」を演じていたに過ぎませんでした。
信長が「バカ」だと信じた者たちは、信長をまったく怖がらず、少しも信長を警戒しませんでした。
そのため信長のライバルたちは、信長と戦うこととなっても、油断して全く準備をしなかったのです。
本気になった信長は、それら油断した敵を次々と撃破。
「うつけ者」のふりをしていたことに騙された「織田信勝」「織田信友」「今川義元」は、あっさりと信長に敗れています。
ただ、「うつけ者」のふりがあまりにも見事だったためか、教育係だった「平手政秀」も、「信長は本物のバカ者」だと思い込み、完全に騙されてしまいました。
「平手政秀」は信長のバカな行いを止めさせるために、「切腹」してしまうのです。
「織田信長の幼少期・若い頃の逸話」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の「豆知識」をご紹介!実は「うつけ」ではなく「エリート」だった!
若い頃の「織田信長」は、珍しい物好きで、スポーツ好きな、結構どこにでもいるような人でした。
信長は幼い頃から父「信秀」の英才教育を受けて育ちました。
そのため、「馬術」と「水泳」がめちゃくちゃ得意だったのです。
当時「馬術」と「水泳」は、自らの命を守るために、必要不可欠な技術でした。
また、信長は「鷹狩」と「相撲」が大好きだったといわれています
「伊達政宗」の父親「輝宗」からプレゼントされた「鷹」を、信長は大切にしていたという逸話が残っています。
相撲については、頻繁に大会を開いて、自ら相撲をとることもあったほど、熱中していたようです。
信長の「口癖」や「悪い癖」をご紹介!
織田信長には「奇妙な癖」が2つありました。
「であるか」という口癖と、「鼻をほじる」という悪い癖です。
織田信長は、事あるごとに「であるか」とつぶやいていました。
現代語に訳すと「そうなのか」となるでしょうか。
また「集中すると鼻をほじる」という変な癖もありました。
どうやら「相撲」などに熱中すると、いつの間にか鼻に指が伸びていたようです。
織田信長の「最期の様子」と「死因」を徹底的に解説
信長の「死因」は何か?
信長の死因は「自害」または「焼死」であると考えられます。
なぜ死因がハッキリしていないのかというと、「信長の遺体が行方不明」だからです。
しかも「最期の瞬間を見届けた者が誰もいない」のです。
【1582年】、「織田信長」は京都「本能寺」で、部下の「明智光秀」に裏切られて亡くなりました。
このとき「織田信長」は、自らの首を「明智光秀」に渡さないために、「本能寺」に放火し、亡くなったのです。
おそらく「自害」だとは思いますが、もしかすると「放火」したことで、焼死したかもしれません。
遺体が発見されていないので、死因は今もハッキリとはわかっていません。
「織田信長」の「死因」と「最期の様子」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の「最後の様子」を解説
信長の最期は、【1582年】の「本能寺の変」で、重臣「明智光秀」に攻められたことによるものです。
その遺体は見つからなかったのですが、「阿弥陀寺の住職・清玉上人が遺体を持ち帰り埋葬した」という逸話が残っています。
信長は最後に、お気に入りの部下だった黒人武将「彌助(やすけ)」に対して、「敵に私の首を渡してはならない」という指示を残して自害。
しかし考えてみると、本能寺は周囲を明智軍に厳重にとり囲まれていたため、首も遺体も持ち出せない状況でした。
弥助は本能寺の墓地にあった「投馬(とば)」を燃やして、信長の首を火葬。
そこへ偶然、騒ぎを聞きつけた「清玉上人」が「本能寺」の住職のふりをして駆けつけたのです。
信長の逃亡を防ぐため、明智軍は明け方になって明るくなるまで、本能寺へ攻めかけていませんでした。
そのスキをついて、信長の首は火葬されたのでしょう。
「弥助」は「清玉上人」に信長の頭部の骨を託し、「清玉上人」はまたしても「本能寺の住職」のフリをして阿弥陀寺へ逃亡。
そこで「信長の骨を埋葬」したといわれています。
その後「清玉上人」は、「二条御新造(旧・二条城)」で亡くなった信長の子「織田信忠」の骨を求めたそうですが、見つからなかったといわれています。
おそらく最期の地の土を持ち帰って、骨のかわりに埋葬・供養したのでしょう。
「阿弥陀寺」には、今も「織田信長・信忠」親子のお墓が残されています。
黒人武将「弥助」はというと、明智軍に囚われたものの、「下賤の者は殺すにおよばず」といわれて、光秀に命を救われています
以上の結果により、信長の遺体は見つからず、明智光秀は「信長は生きているかもしれない」という噂に怯えることとなります。
「信長は生きている」という噂は、各地を駆け巡りました。
そのおかげで「織田信長が生きている」ことを恐れた各地の戦国武将は、光秀に味方して処罰されることに恐怖しました。
信長が最後に仕掛けた罠「信長は生きている」という噂に惑わされた各地の大名は、光秀を見捨てて、「羽柴秀吉」に味方をするのです。
「本能寺の変」からわずか11日後の「山崎の戦い」で、各地の武将を味方につけて「4万」もの大軍団に膨れ上がった「羽柴軍」は、「明智軍1万5千」をあっさり撃破。
光秀は、逃亡の途中で「落ち武者狩り」に襲われ、命を落とすこととなります。
明智光秀が命を落とした場所は、「明智藪(あけちやぶ)」と呼ばれて、現在は石碑が建てられています。
「本能寺の変」や「織田信長の最期」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
『【本能寺の変】の謎や真相をすべて解説!黒幕や動機について完全網羅』の記事はコチラ
『織田信長の死因と最後の様子とは?最後の言葉にかくされた死の真相』の記事はコチラ
信長の「葬式」について解説
信長の後継者を目指す「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」によって、「信長の葬儀」は派手に行われました。
【天正10年(1582年)10月】、「本能寺の変」から4ヶ月が経過した頃、京都「大徳寺」で、「秀吉」により「織田信長の葬儀」が行われています。
このとき、秀吉は「自らが織田信長の後継者である」ということを天下に披露するため、「信長の位牌」と「信長の愛刀・不動国行」をもって喪主を務めています。
当時、秀吉と対立していた武将たち
- 「柴田勝家」
- 「滝川一益」
- 「織田信雄」(信長の次男)
- 「織田信孝」(信長の三男)
彼らはこの葬儀に参列していません。
葬儀の半年後の【天正11年(1583年)4月】、「羽柴秀吉」は「賤ヶ岳の戦い」で、「柴田勝家」とその妻だった信長の妹「お市の方」を討ち果たします。
勝利した秀吉は織田家を完全に乗っ取ることに成功し、【1590年】、信長の悲願だった天下統一を達成するのです。
信長の「お墓」はどこにあるの?候補地を一覧でご紹介
信長のお墓は「供養塔」も含めれば日本各地に存在しています。
ただ、「信長のご遺体」は行方不明であるため、どれが本物のお墓なのかは不明です。
一般的に、信長の遺体が埋葬された可能性が高いと考えられるお墓は、先程解説しました通り、京都「阿弥陀寺」にあります。
信長が亡くなった「京都・本能寺」には、「信長公廟」があり、「安土城跡」にも「廟(びょう)」があります。
それだけではなく、なぜか「静岡県富士宮市」の「西山本門寺」には、「信長公首塚」があります。
その他、日本全国「20ヶ所」に、墓や供養塔が置かれているのです。
以下、「織田信長のお墓」を一覧表にしてみました。
- 阿弥陀寺(京都市)
- 今宮神社
- 総見院 (京都市)
- 大雲院
- 本能寺
- 妙心寺玉鳳院
- 建仁寺
- 聖隣寺
- 西光寺
- 摠見寺
- 南宗寺
- 金剛峯寺
- 瑞龍寺
- 西山本門寺
- 長興寺
- 総見寺 (名古屋市)
- 総見院 (清須市)
- 泰巌寺
- 三宝寺
- 建勲神社
ちなみに「建勲神社」には、「今川義元」や「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」が愛用した刀「義元左文字」が納められています。
「織田信長」の「お墓」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「織田信長のお墓の場所を全部ご紹介!京都・高野山などに複数ある理由」の記事はコチラ
名刀「義元左文字」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の「享年」は何歳?いくつで亡くなったのかを解説
織田信長は【数え歳49歳】、満年齢にすると【48歳】で亡くなっています。
「敦盛」という舞を好んでいた信長は、この舞の歌詞である「人間五十年」という言葉になぞらえて、「50年に1年足りないまま亡くなった」と、よくいわれています。
しかし「人間五十年」とは、一般的に知られているものとは、意味が違うのです。
「敦盛」の歌詞である「人間五十年」とは、「人間の寿命は約五十年」という意味ではありません。
「敦盛」の「人間五十年」とは、「人間世界の五十年は、天界の一日でしかない」という意味になります。
つまり「人の世は儚い」という意味なのです。
「織田信長」の「享年」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の「命日」は、いつ?
織田信長の命日は、【天正10年6月2日(1582年6月21日)】です。
この日、織田信長は「明智光秀」の襲撃を受けて「本能寺」で戦死しています。
「明智光秀」はというと、この日から11日後の【天正10年6月13日】に「山崎の戦い」で戦死しています。
「本能寺の変」を、徹底的にわかりやすく解説
「本能寺の変」とは何か?「織田信長」の最期を徹底解説
「本能寺の変」とは、信長がもっとも信頼していた部下「明智光秀」に、突然襲われて亡くなった事件です。
【天正10年(1582年)6月2日】、西国の「毛利輝元」を討伐するために出陣を予定していた「織田信長」は、京都「本能寺」に宿泊していました。
「明智光秀」はこのとき、「織田信長」より先に西国へ出陣するようにと命令されていました。
居城「丹波亀山城」で1万3千の軍団を整えた「明智光秀」は、西へ行くべきところを、東へ移動し「京都・本能寺」を襲撃。
わずか「100名」ほどの兵しかもたない「織田信長」は、為す術もないまま戦死。
この「本能寺の変」は、動機が明らかではないまま現代に至っており、「戦国最大のミステリー」と呼ばれています。
「本能寺の変とは何か」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「【本能寺の変】の謎や真相をすべて解説!黒幕や動機について完全網羅」の記事はコチラ
「本能寺の変」の謎!「明智光秀」の動機は何?
「本能寺の変」には、謎が多いといわれています。
最大の謎は「明智光秀の動機」です。
なぜ「明智光秀」は「織田信長」を討ち果たしたのか、その理由が諸説ありすぎて、ハッキリしていないのです。
それだけではありません。
「明智光秀」を背後で操る「黒幕」がいたのか否かも、いまだ謎となっているのです。
動機については
- 「光秀が天下を狙った」
- 「織田軍に追いつめられていた四国の戦国武将『長宗我部元親』を救うために、信長を討った」
- 「信長から暴力を受けていた光秀の怨恨」
- 「足利義昭にそそのかされたため」
などが挙げられています。
「明智光秀」を裏で操っていた「黒幕」についても諸説あります。
- 「足利義昭」
- 「正親町天皇」
- 「近衛前久」
- 「徳川家康」
- 「羽柴秀吉」
その他にも数々の「黒幕候補」が挙げられています。
「本能寺の変」は、未だにその全容が解明されていない、まさに「ミステリー」なのです。
「本能寺の変」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
『【本能寺の変】の謎や真相をすべて解説!黒幕や動機について完全網羅』の記事はコチラ
「本能寺の変」で「信長」が残した「名言」とは?
「本能寺の変」で「信長」が残した名言といえば
「是非に及ばず(ぜひにおよばず)」
(「是か非かを確認するまでもない」つまり「仕方のないことだ」という「あきらめ」を表す意味になる)
信長は、自分を襲撃したのが「明智光秀」だとわかると、即座にあきらめたのです。
「光秀」という武将が、いかに緻密であるかを「信長」は知り尽くしていました。
信長は「裏切り者が襲撃してきた」と知ると、真っ先に息子の「織田信忠」が裏切ったのではないか、と疑いました。
それに対して「明智光秀」の裏切りは全く疑っていません。
それほどまでに、信長は光秀を信頼していたのです。
もっとも信頼していた光秀に裏切られたショックで、信長は生きる気力を失い「是非に及ばず」と言って、全てを諦めたのかもしれません。
織田信長の「名言」ついては、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
『織田信長の名言集と意味解説!ホトトギスや人生50年に潜む秘密とは』の記事はコチラ
【織田信長の家族】について!「妻」や「子供」そして「兄弟」を一覧で紹介
信長の「子供たち」を一覧でご紹介
信長には、数多くの子供たちがいました。
しかし「長男から三男」以外の子供たちは、父親の「信長」から、ほとんど顧みられることはなかったといいます。
- 信忠(長男・嫡男)
- 信雄(二男)
- 信孝(三男)
- 羽柴秀勝(四男)
- 信房(五男)
- 信秀(六男)
- 信高(七男)
- 信吉(八男)
- 信貞(九男)
- 信好(十男)
- 長次(十一男)
- 信正(庶子)
- 相応院(長女)
- 徳姫
- 秀子
- 玉泉院
- 報恩院
- 振
- 万里小路充房の妻
- 三の丸殿
- 月明院
四男の「於次丸(おつぎまる)」は、信長の家来「羽柴秀吉」へ養子に出されて「羽柴秀勝」と名乗っています。
信長の後継者「織田信忠」は、「本能寺の変」と父親の信長と同時に戦死。
「信忠」の子「三法師(織田秀信)」は、のちの「豊臣五奉行」の筆頭「前田玄以」守られて京都から脱出。
生き延びた「三法師(織田秀信)」は、「関ヶ原の戦い」で「石田三成」に味方して敗北し、一気に没落。その後は失意のうちに病死しています。
織田信長の「子供たち」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「織田信長の息子・娘達の名前一覧!信長の子供達のその後は悲惨だった」記事はコチラ
「織田信長の長男『織田信忠』が生きていたら、歴史は変わっていたのか?」の記事はコチラ
信長の「兄妹」一覧
織田信長の兄妹は、以下のとおりです。
信長は三男です。
庶子であった「信広(のぶひろ)」の弟に当たり、織田家の家督を争った「信勝」の兄ということになります。
- 織田信広
- 織田信時
- 【織田信長】
- 織田信勝(信行)
- 織田信包
- 織田信治
- 織田秀俊(信時)
- 織田信興
- 織田秀孝
- 織田秀成
- 織田信照
- 織田長益(有楽斎)
- 織田長利
- くらの方(信長の姉)
- 犬山殿
- 神保・稲葉夫人
- 斎藤道三の室
- 苗木勘太郎の室
- お犬の方
- お市の方(浅井長政・柴田勝家の妻)
- 小幡殿
- 栄輪院
- 津田出雲守の室
- 飯尾尚清の室
- 乃夫殿
- 信徳院
- 丹羽氏勝継の室
- 乃木九郎の室
信長の兄妹といえば、最も有名なのが「織田信勝」と「お市の方」。
また、同母弟とされているのが「織田信包」です。
この三名は、全員が父「信秀」の正妻「土田御前」の子と考えられています。
そのため、裏切り者である「信勝」を除いて、「お市の方」と「信包」は、信長から特に大切にされています。
織田信長の「弟たち」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「織田信長の弟たちを一覧で紹介!弟・信勝(信行)を暗殺した理由が悲惨」の記事はコチラ
「お市の方」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
『お市の方のすべてを徹底解説!家系図や[織田信長]との関係を完全網羅』の記事はコチラ
信長の父「織田信秀」とは、どんな人物なのか?
「織田信長」の父は「織田信秀」です。
信秀は「尾張の虎」と呼ばれた猛将です。
信秀は、尾張国内の「津島神社」「熱田神宮」という、人が集まる要衝をおさえて商業活動を奨励し、莫大な冨を得た人物です。
これにより、織田家は豊富な軍資金を手に入れ、弱小勢力から「今川義元」「斎藤道三」などの名将と互角に戦うことができるほどに、勢力拡大できたのです。
息子の「信長」は、この「信秀」の「商業重視政策」を引き継ぎ、更に発展させました。
「信長」は、父「信秀」のマネをして、莫大な資金を手に入れ、凄まじい速度で勢力拡大することに成功したのです。
信長の父「織田信秀」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
『織田信秀のすべてを徹底解説!子孫や家系図・葬儀の逸話まで完全網羅』の記事はコチラ
『【織田信秀】子孫と家系図をカンタン解説!子共や側室が何十人もいた』の記事はコチラ
信長の「結婚」と、正室「帰蝶」について解説
信長の妻・正室は「帰蝶姫」とよばれる人物です。
「帰蝶」は、通称「濃姫」とも呼ばれています。
信長は【1549年】に「帰蝶」と結婚したと考えられているのです。
その後、「信長」と「帰蝶」の間に子供はできませんでした。
信長には側室が多数いて、特に「生駒吉乃(類)」は寵愛され、嫡男「信忠」と次男「信雄」を産んでいます。
また、「坂氏」と呼ばれる身分の低い女性との間には、三男「信孝」が誕生。
実は「信孝」は、次男「信雄」よりも20日ほど早く生まれていました。
しかし母「坂氏」の身分が低かったため、次男であるにも関わらず、三男とされて、「信雄の弟」ということにされたのです。
詳しくは後述しますが、信長には10人もの「側室」がいたと考えられています。
織田信長の妻「帰蝶(濃姫)」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
『濃姫(帰蝶)の全てを徹底解説!織田信長との関係や家系図を完全網羅』の記事はコチラ
『帰蝶は信長の死後に再婚したのか?彼女の最後と死因を調査!』の記事はコチラ
『【本能寺の変】帰蝶は織田信長と共に戦死した?生存説についても解説』の記事はコチラ
「織田信長と正室・帰蝶の複雑な関係とは?結婚生活はうまくいかなかった」の記事はコチラ
信長の「側室」を一覧で紹介
信長には数多くの側室がいました。
そのほとんどが「子持ち」で、未亡人などの女性が多かったようです。
信長は「年上の女性」が好みだったと考えられています。
側室を一覧にすると、以下の通りとなります。
- 生駒氏
- 坂氏
- お鍋の方
- 養観院
- 土方氏
- あここの方
- 原田氏
- つまき(明智光秀の妹、または妻「煕子」の妹と考えられている。光秀の逸話にある、光秀が結婚するの際に「姉・熙子の身代わり」として差し出された女性かもしれない?)
- 春誉妙澄大姉
- 慈徳院
「つまき」殿と呼ばれた女性は、明智光秀の妹といわれています。
または「光秀」の妻「熙子(ひろこ)」の妹かもしれない、と考えられている人物です。
織田信長の「嫁・妻」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の「孫」について解説!孫「三法師」のその後とは?
信長の孫は多数いますが、中でもっとも有名なのが「三法師」こと「織田秀信」です。
「三法師」は、信長が亡くなったあと、その後継者を決める「清須会議」で、信長の後継者に指名された人物です。
その末路は極めて悲惨なものでした。
「織田秀信」は「豊臣秀吉」を後見人として、織田家の家督を継承したものの、実権を豊臣秀吉に奪われて没落した武将なのです。
秀信は【1600年】の「関ヶ原の戦い」で「石田三成」がひきいた西軍に味方し敗北。
領地没収されて高野山へ送られたが、信長がかつて高野山の信者を虐殺していたため入山できず、失意のうちに病死しています。
織田信長の「子孫・末裔」を「家系図」でわかりやすくご紹介
ここでは「織田信長」の子孫・末裔について解説いたします。
信長の「子孫・末裔」は今どこにいるのか?
織田信長には、数多くの末裔がいます。
次男「信雄」の家系で18代目子孫が、フリーライター「織田信孝」氏です。
しかし「織田信孝(孝一)」氏は、曽祖父の夫妻が養子としてむかえられている関係で、織田家の血筋をひいていないのです。
他にも信長の次男「信雄」の末裔には、明治~昭和の政治家「織田信恒」さんがいます。
信雄の別流として、「織田東禹」「織田一磨」という兄弟画家がいます。
織田信長の「子孫」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「織田信長の家系図・子孫をわかりやすい画像で紹介!お市との関係とは」の記事はコチラ
信長の「家系図」を画像つきで解説
織田信長の家系図を簡単にご紹介いたします。
織田信長は「平清盛」の末裔を自称しています。
「織田信長」の血筋は今も続いています。
信長の血筋は次男「信雄」を通じて、「天皇陛下」へと引き継がれているのです。
「織田信雄」の子孫は、現代の山形県に存在していた「天童藩」を治めていました。
「天皇陛下」の他にも、「天童藩」を通じて、信長の子孫は今に伝わっています。
現在、信長・信雄の子孫には、「織田孝一」さんというライターの方がおられます。
「織田信長の子孫」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
『織田信長の家系図と子孫を解説!「きちょう」こと濃姫との子供とは?』の記事はコチラ
信長とスケート選手「織田信成」の関係とは?
フィギュアスケート選手「織田信成」さんは、信長の息子「信高」の末裔を自称していますが、あまり信憑性がないらしいです。
先程の家系図でご紹介した通り、織田信成さんの「4代・5代」前の先祖は、氏名がわかっていません。
その理由は、「織田信成」さんが公表していないからです。
なぜ公表していないのかというと、「信成」さんが言うには、「親戚に迷惑をかけないために、公表していない」とのこと。
確かに先祖を公表してしまうと、信成さん以外の、その末裔たちが判明してしまいます。
そうなると、取材やら問い合わせが殺到してしまうでしょう。
ただ、先祖を公表していないため、「織田信成」さんが「織田信長」の末裔であるという説の信憑性が疑われているのです。
「彼は何者なのだろう」
他の織田家子孫達は、そう言って不思議に思っている、と聞いたことがあります。
織田信長の「子孫」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長の「人間関係」を徹底解説
ここでは「織田信長」と、その周辺人物との「人間関係」について解説いたします。
信長と「徳川家康」の関係
「織田信長」と「徳川家康」は、幼馴染であり同盟関係にありました。
そして、のちに「徳川家康」は、「織田信長」の家来となっています。
二人は兄弟のように仲が良かったと言われていますが、家康は親族を次々と信長によって殺されています。
例えば家康の伯父「水野信元」は、信長の命令が原因で、自害して死んでいるのです。
おそらくですが、「家康」は「信長」に対して、恐怖とともに憎しみを抱いていたでしょう。
二人は「清洲同盟」と呼ばれる軍事同盟を締結したあと、「織田信長」が「本能寺の変」で亡くなるまで、約20年ものあいだ、ともに天下統一へ向けて戦い続けました。
この間に「織田信長」は日本全国の4割を支配するほどに勢力を拡大しました。
それに対して「徳川家康」は、「三河・遠江・駿河」の三カ国を支配するのみ。
圧倒的な力量差が生まれたことで、両者の関係は「対等な同盟者」から、「主君と家来」の関係へと変化していくことになるのです。
「織田信長」と「豊臣秀吉」と「徳川家康」の関係をカンタン解説
「織田信長」と「豊臣秀吉」は、主従関係、つまり主君と家来の関係にありました。
そして「信長」と「家康」は、幼なじみで同盟者という関係です。
では「秀吉」と「家康」はどういう関係なのでしょうか?
当初は「秀吉」からみると「家康」は、「主君である織田信長の同盟者」でした。
今でいうなら「自分が勤める会社(織田家)の提携先(徳川家)の社長」といったところです。
「信長」が亡くなったあと、「秀吉」の妹が「家康」に嫁いでいるため、二人は義理の兄弟となっています。
その後、「家康」は「秀吉」に臣従しているので、両者は主君と家来の関係になっています。
「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康」の関係については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
『織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の関係や人柄・性格をエピソードで簡単解説』の記事はコチラ
信長と「武田信玄」の関係とは?
「織田信長」と「武田信玄」は、ライバル関係にありましたが、当初両者は「同盟」を締結していました。
信長は信玄を、極端に恐れていました。
そのため、信玄の子「勝頼」に自分の姪を嫁がせて、親戚となったのです。
その「姪」が、「勝頼」の子「信勝」を産んですぐに急死。
そのため、信長は「信玄の娘」を嫡子「信忠」の妻にもらおうとしたのですが、両者の関係が悪化したため、その結婚は実現しませんでした。
織田信長と「武田信玄」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長と「斎藤道三」の関係
「織田信長」と「斎藤道三」は、元々ライバル関係にありましたが、のちに「娘婿」と「姑」という関係になっています。
「斎藤道三」は、信長の父「織田信秀」と、何度も戦っているライバルだったのです。
ところが「斎藤道三」は、娘「帰蝶」を信長に嫁がせて、同盟を締結。
「道三」は「信長」と聖徳寺(正徳寺)という場所で会談しているのですが、そのとき道三は、信長の才能を高く評価したといわれています。
道三は、死の間際に、自らの領国「美濃」を信長に譲ると、遺言書に記して送ったといわれています。
「織田信長」と「斎藤道三」の関係については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
『斎藤道三の全てを徹底解説!年表やエピソードから子孫まで完全網羅』の記事はコチラ
『斎藤道三と織田信長の関係を解説!道三の残した予言と息子たちの最期』の記事はコチラ
『【斎藤道三】織田信長との関係とは?道三が信長に託した3つの遺産』の記事はコチラ
信長と「浅井長政」の関係
信長と「浅井長政」は、義理の兄弟という間柄でした。
信長は、自らの妹「お市の方」を、北近江・小谷城主だった「浅井長政」へと嫁がせたのです。
京都へ進出しようとした信長は、「浅井長政」と同盟することで、琵琶湖周辺におけるの交通の安全を確保しようとしたのです。
ところが長政は信長を裏切り、二人は仇敵関係となります。
最終的に、「浅井長政」は信長の猛攻により敗死。
「お市の方」は「茶々・初・江」という3人の娘たちとともに、信長の元へと引き取られるのです。
「浅井長政」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
『浅井長政の子孫は現在東京にいる!織田信長に戦いを挑んだ2つの理由』の記事はコチラ
信長と「伊達政宗」の関係
「織田信長」と「伊達政宗」のあいだに、直接的な関係はありません。
信長が活躍していた当時、「伊達政宗」はまだ幼い子供だったからです。
政宗の父「伊達輝宗」は、織田信長に対して「鷹」などの献上品を贈り、友好関係を築き上げようとしていました。
また、政宗は信長にあこがれていた様子もあります。
苛烈な戦い方を好んだ政宗は、まさに織田信長を手本としたかのような生き方をしているのです。
「織田信長と伊達政宗の関係」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長と「ルイス・フロイス」の関係
「ルイス・フロイス」とは、キリスト教の宣教師であり、のちに「日本史」という歴史書を記した人物です。
信長は、「ルイス・フロイス」のような宣教師を保護していました。
なぜなら、「南蛮貿易」とよばれるポルトガルとの貿易を行うには、「キリスト教の布教を許す」という条件を飲まなくてはいけなかったからです。
ポルトガルは、「布教」を認めてもらう代わりに、日本に対して貿易を許可していたのです。
しかし、信長が「摠見寺(そうけんじ)」というお寺をつくり、自ら「神」を名乗ったことに、フロイスは失望し、怒りを覚えたとのこと。
「キリスト教」という一神教を信じていた「ルイス・フロイス」にとっては、人の身でありながら「神」を名乗った信長は、「悪魔の化身」のようにうつったことでしょう。
ルイス・フロイスが織田信長に献上した「地球儀」が、現在も「天理大学」に保管されています。
信長と「松永久秀」の関係
織田信長と「松永久秀」は、当初「宿敵」でしたが、のちに「主従関係」となりました。
【1568年】、織田信長は「足利義昭」を連れて、京都へ向けて進軍を開始。
「三好義継」・「三好三人衆」・「松永久秀」らを討伐することが、信長の目的の一つでした。
このとき、「大和国(奈良県)」を支配していた「松永久秀」は、信長に対して名茶器「九十九髪茄子(つくもがみなす)」を献上して降伏してきたのです。
そのまま「信長」に仕え続けるのかと思いきや、なんと久秀は二度も信長を裏切ったのです。
久秀の能力を評価していた信長は、久秀を一度は許したのです。
ところが、二度目に裏切った久秀は、「明智光秀」に攻められ切腹。
一説によると、「松永久秀」は居城「信貴山城」の天守閣で、信長が欲しがった名茶器「平蜘蛛」を抱えて爆死したともいわれています。
「松永久秀」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
『松永久秀のすべてを徹底解説!子孫・家系図や家紋に茶器まで完全網羅』の記事はコチラ
信長と「坂本龍馬」の関係
信長と「坂本龍馬」には、間接的にではありますが、関係があります。
明治維新の英雄「坂本龍馬」は、なんと「明智光秀の末裔」を自称していたらしいです。
坂本龍馬の苗字「坂本」は、「明智光秀」の本拠地「坂本城」が由来。
そして龍馬が起こした会社「亀山社中」の「亀山」も、光秀の居城「丹波亀山城」が由来だというのです。
どうやら坂本龍馬は、明智光秀のことを尊敬していたようです。
「坂本龍馬」は、「明智光秀」の娘ムコである「明智秀満」の末裔であるという説もあります。
「坂本龍馬」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
『坂本龍馬が明智光秀の子孫説を検証!2人は似たような業績を残してる』の記事はコチラ
信長と「毛利元就」その孫「毛利輝元」の関係
信長は中国地方の智将「毛利元就」を尊敬していたらしく、その死に際して弔問の使者を送ったといわれています。
「毛利元就」といえば、小領主の身でありながら、「大内家」と「尼子家」という、中国地方の巨大勢力を飲み込み、中国地方の覇者となった「戦国一の智将」です。
その「毛利元就」の死後に、中国最大勢力「毛利家」を継承したのが、元就の孫「毛利輝元」でした。
織田信長は、京都を支配した後、順調に勢力を拡大し、ついには「毛利家」と激突することになります。
この「毛利家」の攻略を命じられたのが、「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」です。
輝元は名将の誉れ高き二人の叔父「吉川元春」と「小早川隆景」の支援を得ながら信長に対抗。
しかし敗北寸前にまで追い込まれます。
毛利家が滅亡寸前のそのとき、「本能寺の変」が勃発し、「織田信長」は亡くなります。
その後「毛利輝元」は、「豊臣秀吉」「徳川家康」に仕え、薩摩藩とともに「明治維新」を成し遂げた「長州藩」の基礎をつくりあげたのです。
織田信長に仕えた武将「織田家・家臣団」を一覧でご紹介
信長の主な家来たち「方面軍司令官」一覧
織田信長には、数多くの家来がいました。
そんな信長の家来たちは織田家の最盛期に、「方面軍」という「戦争を自由に行う権限」を与えられる者によって統率されていたのです。
「方面軍」を任されていた武将は、主に6名いました。
- 佐久間信盛(対本願寺・方面軍司令官)
- 明智光秀(近畿地方・方面軍司令官)
- 羽柴秀吉(中国地方・方面軍司令官)
- 柴田勝家(北陸地方・方面軍司令官)
- 滝川一益(関東地方・方面軍司令官)
- 織田信孝(四国地方・方面軍司令官)
ただし、「織田信孝」は信長の三男であり、まだ経験が乏しかったため、万能型の名将「丹羽長秀」が補佐をしていました。
信長は軍が大きくなったため、指揮権をこの6名にあたえ、「倒すべき敵や方針」のみを伝えて任せきりだったのです。
「佐久間信盛」は【1580年】に「本願寺」が降伏すると、職務怠慢を理由に追放処分となっています。
その後の方面軍司令官は他の「5名」で構成されています。
「織田信長の家臣団」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の「家臣団」一覧
信長の部下たちは、主に以下の4つに分類されてました。
- 信長と血縁のある「連枝衆(れんししゅう)」
- 独立軍を保有していた小豪族「部将」
- 馬廻衆(親衛隊・精鋭部隊)や小姓衆で構成される「旗本衆」
- 右筆(ゆうひつ・秘書)や各地の代官・京都所司代などの実務をおこなう官僚たちで構成される「吏僚(りりょう)」
そんな信長の主な部下は、以下のとおりです。
- 林秀貞
- 平手政秀
- 池田恒興
- 佐々成政
- 前田利家
- 林通勝
- 佐久間信盛
- 森可成
- 羽柴秀吉
- 毛利良勝
- 服部一忠
- 村井貞勝
- 太田牛一
- 松井友閑
- 武井夕庵
など
さらに詳細な「織田家家臣団一覧」は、以下にリンクを貼った別記事で解説しております。
「織田信長の家臣団」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長と「明智光秀」の関係
「織田信長」と「明智光秀」は主君と部下の関係であり、信長は光秀を誰よりも信頼していました。
明智光秀の前半生は謎が多いのですが、一説によると光秀は「織田信長」の正妻「帰蝶姫(濃姫)」の「いとこ」であるとされています。
【1576年】、「天王寺砦の戦い」で明智光秀は敵軍に包囲され、絶体絶命の状態に追い込まれていました。
「信長」は、そんな「光秀」を救出するため、決死の覚悟で敵軍に突撃したといいます。
鉄砲をくらって負傷しながらも「信長」は「光秀」を救おうとしたのです。
それほど「信長」は、「光秀」を大切に思っていたということです。
ところがそんな「信長」に対して、「光秀」は「本能寺の変」を引き起こし、命を奪ってしまうのです。
「本能寺の変」を起こした理由は諸説あるものの、謎のままです。
歴史家「小和田哲男」先生は、「日本の伝統的な秩序を破壊し続ける信長を、光秀が危険視したため」とおっしゃっておられます。
「明智光秀」は、「織田信長」がもっとも信頼した部下だったのです。
「織田信長」と「明智光秀」の関係については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
『明智光秀と織田信長・豊臣秀吉の関係を解説!実は互いを憎んでいた?』の記事はコチラ
『明智光秀はなぜ織田信長を裏切った?最新説『徳川家康の陰謀』を考察』の記事はコチラ
信長と黒人武将「弥助」の関係
当時としてはめずらしく、「織田信長」は黒人の家来がいました。
彼の名は「弥助(やすけ)」。
「弥助」はもともと、イエズス会の宣教師「オルガンティーノ」が連れていた奴隷でした。
信長は、「弥助」の人並み外れた体格と怪力を気に入り、家来として譲りうけたのです。
「弥助」は「本能寺の変」において、信長を守るために奮戦します。
ところが武運拙く「明智光秀」の軍に捕縛されます。
ところが「光秀」は、捕らえた「弥助」を、「この者は獣と同じであるから、罪などない」と言って開放したのです。
「弥助」は南蛮寺で保護されたといいますが、その後の消息は不明。
その後「弥助」が、どこで何をして生きたかは、全くわかりません。
「織田信長」に仕えた黒人武将「弥助」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長が寵愛した家臣「森蘭丸」とは何者なのか?
織田信長が愛したという小姓「森蘭丸」は、今でいうところの「秘書」兼「ボディガード」を務めた人物です。
「森蘭丸」の正式名称は「森成利(もり なりとし)」、または「長定(ながさだ)」ともよばれています。
絶世の美男子といわれている「蘭丸」は、「浅井・朝倉連合軍」との戦いで壮絶な最期を遂げた「信長」の部下「森可成(よしなり)」の息子。
若くして5万石もの領地を与えられた「蘭丸」ですが、優秀だったといわれています。
何よりも「織田信長の愛人だった」という説があり、心身ともに愛されていたという噂があります。
「織田信長」と「森蘭丸」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
『織田信長と森蘭丸の関係がスゴイ!信長との家臣と主君を超えたBL関係』の記事はコチラ
信長と猛将「前田利家」の関係
「織田信長」にとって「前田利家」は、愛人であり、頼れる親衛隊(母衣衆・ほろしゅう)でもありました。
「前田利家」は、派手好きなイケメンで、しかも槍の達人という、信長が好む要素を全て持ち合わせた人物でした。
「利家」は、のちの「森蘭丸」と同じく、信長の愛人を務めた武将と考えられています。
その「利家」も「信長」を強く慕っていました。
「前田利家」は、信長お気に入りの部下「拾阿弥(じゅうあみ)」を喧嘩の末に斬り殺し、織田家から追放処分となってしまいます。
ここで他の家へ仕えればいいものを、利家はあくまでも織田信長に仕えることを望み、何年もの間「浪人生活」をするのです。
その忠誠心を評価されて、「利家」は信長に再び採用されます。
信長から「能登23万石」を与えられた「利家」は、「加賀百万石」の基礎を築き上げるのです。
「前田利家」についは、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「織田信長と前田利家の関係が危ない?2人は愛人関係で親戚でもあった」の記事はコチラ
信長の守役「平手政秀」の関係
織田信長の傅役(もりやく)、つまり教育係だったのが、織田家の家老「平手政秀」です。
「平手政秀」は、「切腹」という衝撃的な最期を遂げた武将です。
なぜ切腹したのかというと、「うつけ」と呼ばれた「織田信長」の奇行をいさめて、止めさせるためです。
「私は切腹します。
私の命に免じて、馬鹿な行動は止めてください。
そして、立派な武将になってください」
というわけです。
織田信長は、幼い頃から自分を育ててくれた「平手政秀」の死が、よほどショックだったのでしょう。
信長は「平手政秀」の菩提を弔うために「政秀寺」というお寺を建立し、「沢彦宗恩」という自分の軍師を、そこの住職にしています。
信長と「池田恒興」の関係
織田信長と「池田恒興」は、主君と家来というだけではなく、「乳兄弟(ちきょうだい)」という間柄です。
「池田恒興」の母「養徳院」は、信長の乳母(めのと・教育係)だったのです。
「養徳院」は、気性の激しい赤ん坊だった信長から、唯一なつかれた女性だったといわれています。
「池田恒興」はその後、「織田信長」にもっとも信頼された部下として各地を転戦。
【1582年】、「本能寺の変」で信長が亡くなると、「池田恒興」は「羽柴秀吉」に味方するようになります。
「清須会議」では、信長の孫「三法師(織田秀信)」を後継者として推挙します。
【1584年】、「恒興」は女壻「森長可」とともに、「小牧・長久手の戦い」で「徳川家康」の軍に討ち取られています。
後継者である「池田輝政」は、父の仇である「徳川家康」の娘を妻として、家康に重用されます。
そして「池田輝政」は、池田一族全員あわせて「百万石」の基礎を作り上げています。
「織田信長」と「池田恒興」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
『織田信長と池田恒興(つねおき)の関係と最期を解説!子・輝政の逸話』の記事はコチラ
信長が追放した最古参の家臣「佐久間信盛」と「林通勝」について
「織田信長」が追放処分とした部下「佐久間信盛(さくま のぶもり)」と「林通勝(はやし みちかつ)」。
この「佐久間」と「林」の二人は、信長にもっとも古くから仕えた武将でした。
「佐久間信盛」は、信長の父「信秀」から仕えた家老であり、「信長」が弟「信勝(信行)」に裏切られた際に、最後まで「信長」に味方した武将です。
その功績から、「佐久間信盛」は長く、織田家で最高位に位置する武将でした。
「林通勝」は、信長と「信勝」の争いで、「柴田勝家」とともに弟「信勝」を支持していました。
しかし「柴田勝家」とともに信長に許されて、信長に重く用いられることとなるのです。
【1580年】、この二人は「信長」から突然追放処分となります。
追放の理由は「佐久間信盛」については職務怠慢。「林通勝」については「23年前に信勝に味方したこと」が原因なのだとか。
「林通勝」の追放理由は、難癖に近いものがあり、今も真相は不明と考えられています。
一説によると、二人が追放された理由は「明智光秀の告げ口」であるとのこと。
それまで織田家で最大の勢力を保持していた「佐久間信盛」が追放され、そのあとを引き継いだ「明智光秀」は、近畿地方を支配する織田家で最大の軍団長になっています。
信長の「馬廻衆」とは、いったい何なのか?
織田信長の精鋭部隊「馬廻衆」には
- 「前田利家」
- 「佐々成政」
- 「河尻秀隆」
- 「蜂屋頼隆」
そして「桶狭間の戦い」で「今川義元」を追いつめた
- 「毛利良勝」
- 「服部一忠」
などがいます。
「馬廻衆」とは、「大将が乗っている馬のまわりを守る者たち」のことです。
この「馬廻衆」には、特に武勇に優れた者たちが抜擢されました。
この馬廻衆のなかでも、とくに精鋭だったものが「赤母衣衆(あかほろしゅう)」と呼ばれる部隊に編入されたのです。
また、信長の側近である「小姓(こしょう)」から選抜された精鋭部隊は、「黒母衣衆」と呼ばれていました。
「母衣」とは、騎馬武者が背中に背負う風船のような代物のことです。
俳優「岡田准一」さんが主演を務めた映画「関ヶ原」で、「役所広司」さん演じる「徳川家康」が、「母衣」をつくってその由来を解説するシーンがありました。
「母衣」は、後ろから飛んでくる矢や投石から身を守るための「防災頭巾」のような役割をもっていたと考えられています。
織田信長と「豊臣秀吉」の関係を徹底解説
この項目では「織田信長」と、その次の天下人「豊臣秀吉」の関係について解説いたします。
信長と「豊臣秀吉」の関係
「織田信長」と「豊臣秀吉」は、主君と部下という関係でした。
「信長」は、身分の低い足軽「木下弥右衛門」の子「木下藤吉郎(豊臣秀吉)」を気に入り、重く用い続けます。
「木下藤吉郎」も信長の期待に応え、「墨俣一夜城の築城」や「名参謀・竹中半兵衛重治の引き抜き」などに成功。
「小物(契約社員)」から「侍大将(正社員・管理職)」にまで出世を果たすのです。
秀吉は「中国地方・方面軍司令官」という、織田家でもトップ5に入る地位にまで出世します。
【1582年】、「本能寺の変」が起こり、「織田信長」は「明智光秀」によって殺害されてしまいます。
「明智光秀」の討伐に成功した「秀吉」は、織田家乗っ取りに成功。
名実ともに「信長」の後継者としての地位を手にします。
【1590年】、「豊臣秀吉」はついに、「信長」も達成できなかった「天下統一」に成功するのです。
「経済政策」を重視して莫大な富を手に入れ、その富で強大な軍事力を手に入れた信長は、「武力による弾圧」を繰り返しました。
それに対して「豊臣秀吉」は、「刀狩り」による身分制度の明確な分割や、「太閤検地」による税収の明確化など、全国支配のための法整備をすすめ、信長とは異なる政治手法をとって、天下を支配したのです。
「豊臣秀吉」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長は「秀吉」を「猿(サル)」と呼ばずに、「ハゲネズミ」と呼んでいた!
「織田信長」は「豊臣秀吉(羽柴秀吉)」を「ハゲネズミ」と呼んでいたようです。
「秀吉」といえば、特徴的なサル顔が原因で、主君「信長」から「サル」と呼ばれていた逸話で有名です。
ところが、じつは「信長」が「秀吉」のことを「サル」と呼んでいた記録は、存在しません。
信長の公式記録「信長公記」には、信長が秀吉のことを「サル」よりもヒドイあだ名で呼んでいた事実が記録されています。
それが「ハゲネズミ」です。
秀吉の妻「ねね(のちの北政所)」は、子供が出来ないことで八つ当たりして、浮気までする夫「秀吉」について、主君「信長」に愚痴をこぼしていたようです。
その愚痴を聞いた信長は、「ねね」をかわいそうに思ったのか、手紙を送って励ましているのです。
「先日お目にかかったときに思いましたが、あなたの美しさは、さらに際立っておりました。
秀吉が、あなたの不満をこぼしているようだが、言語道断!
あのハゲネズミにあなたのような素晴らしい妻が他に見つかるはずがないのですから、あなたは妻らしく堂々として、決して嫉妬などしてはいけませんよ。
この手紙を秀吉に見せてやるといい」
信長は、秀吉を「サル」ではなく「ハゲネズミ」と呼んでいたのです。
織田信長と「ハゲネズミ・豊臣秀吉」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「織田信長」VS「豊臣秀吉」!二人が戦ったら、どちらが勝つのか?
もしも「織田信長」と「豊臣秀吉」が戦っていたら、信長が敗北していたでしょう。
織田信長は、名将ではあるものの、生涯「100戦」以上の戦いで、「20戦」も敗北を経験しています。
「豊臣秀吉」はというと、敗北したのは「徳川家康」と戦った「小牧・長久手の戦い」くらいでしょうか。(実質的には秀吉の圧勝という説もある)
秀吉は、「軍団を迅速に移動させる技術」と「城攻め」にとても優れていました。
「中国大返し」や「賤ヶ岳の戦い」では、恐るべき進軍速度で「明智光秀」や「柴田勝家」を圧倒しています。
「鳥取城・攻略戦」や「備中高松城の戦い」では、「兵糧攻め」や「水攻め」で城を落としています。
信長は「改革」によって強力な軍団を形成する力には優れていたものの、一軍を率いて敵を撃破する能力については、「秀吉」に遠く及ばないと思います。
信長と秀吉の「草履」の逸話
「織田信長」と「豊臣秀吉」の逸話のなかで、「草履」の話しは有名です。
「草履取り」という低い身分の家来だった「秀吉」が、信長の「草履」をふところに入れて温めて付加価値をつけるという、創意工夫の物語です。
幕末から明治にかけて成立した「名将言行録(めいしょうげんこうろく)」という本には、その「草履」の逸話が描かれています。
ところが「名将言行録」では、草履を「ふところ」ではなく、「背中」に入れていたことになっています。
ある寒い日のこと、「信長」が外へ出ようとすると、「秀吉」がサッと草履を足元に並べたのです。
すると、その草履が生暖かくなっていたのです。
「草履が温いぞ!
貴様、俺の草履を尻の下に敷いて座っていただろう!」
激怒した信長は、秀吉を叩きます。
ところが秀吉は、尻になど敷いていないの一点張り。
寒い日なので、草履を背中に背負って暖めていたというのです。
その証拠に、秀吉の背中には、草履の後がくっきりと残っていたといいます。
このとき以来、信長は秀吉の能力を見抜き、秀吉は出世を繰り返すこととなったのです。
「豊臣秀吉」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長の「ライバルたち」をまとめて解説
ここでは「織田信長」が激闘を演じたライバルたちについて、解説したいと思います。
vs「一向宗・石山本願寺」および「本願寺顕如」
「織田信長」にとって最大のライバルといえば、「本願寺顕如」が率いた「石山本願寺」の宗教武装勢力「一向宗」でしょう。
「信長」は、「本願寺顕如」と「一向宗」を相手に、10年もの長きに渡り「石山戦争」を戦い抜いたのです。
【1570年】、「一向宗」の本拠地「石山本願寺」において、一向宗のトップであり「浄土真宗」の開祖「親鸞上人」の末裔「本願寺顕如」が、「織田信長」に対して戦いを挑みます。
「死ねば極楽へ行ける」と教えられた一向宗の門徒は、死を恐れない戦いぶりで、覇王「信長」を苦しめます。
【1580年】、圧倒的な軍事力を誇る「織田信長」の前に壊滅的な打撃を受けた「一向宗」は、事実上の降伏。
10年の長きにわたる激戦は、「信長」の勝利に終わり、重要拠点「石山本願寺」には「信長」の後継者「豊臣秀吉」によって、「大坂城」が築かれることとなるのです。
織田信長と「石山本願寺」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
vs「武田信玄」
もしも「織田信長」が、まともに「武田信玄」と開戦していたら、信長に勝ち目はありません。
織田信長が、その生涯に渡って恐れ続けたのが、名将「武田信玄」でした。
信長は、徹底的に「信玄」のご機嫌とりを続けました。
【1565年】、「信長」は自分の姪を養女として、「信玄」の息子「勝頼」の妻とします。
その次には「信玄」の娘「松姫」を、自分の息子「織田信忠」の妻とする約束を交わすのです。
【1571年】、「比叡山焼き討ち」を行った信長は、熱心な仏教徒であり僧侶でもあった「信玄」と、決定的に決裂してしまいます。
【1573年】、「三方ヶ原の戦い」で、信長の同盟者「徳川家康」を撃破し、「織田信長」を寸前のところまで追いつめた「信玄」でしたが、その直後に病死。
信玄の死は、「織田信長」による「ヒ素」をつかった毒殺という説もあるほど、信長にとってタイミングの良い出来事だったのです。
しかし、信長は「信玄」の死後も、その息子「武田勝頼」を恐れ続けたのです。
織田信長と「武田信玄」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
vs「武田勝頼」
「信長」にとって「武田勝頼」は、父親の「信玄」にも劣らないほど、油断のならない強敵だったはずです。
「武田信玄」の息子「武田勝頼」は、名門「武田家」を滅亡へと誘った愚将と呼ばれていましたが、近年では「名将」として再評価されています。
【1575年】、信長は「武田勝頼」を「長篠の戦い」で圧倒したものの、その後【7年】ものあいだ、信長は勝頼に苦しめられ続けるのです。
しかも「長篠の戦い」の大敗後も、「武田勝頼」は領土を拡大し続けています。
ついには父「信玄」の悲願だった「日本海」に面する越後国の一部を手に入れているほどです。
【1582年】、「徳川家康」と「北条氏政」の協力を得た「織田信長」は「甲州征伐」を開始。「天目山の戦い」でついに「武田勝頼」の討伐に成功したのです。
長年戦い続けた「武田勝頼」の首を目の当たりにした「信長」は、「勝頼」の首を足蹴にしたといいます。
それほど「信長」は、「武田」という呪縛から開放されたことが嬉しかったのでしょう。
考えてみれば「信長」の後半生は、「武田信玄・勝頼」親子との死闘の歴史でした。
【1565年】、「信玄」の子「勝頼」に養女を嫁がせたことから外交戦開始
【1573年】、「信玄」の「西上作戦」で「信長」絶体絶命
【1582年】、「勝頼」を討伐。
「勝頼」を討ち取ったわずか3ヶ月後、完全に油断した「信長」は、そのスキを突かれるように、「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれるのです。
「武田勝頼」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「武田勝頼の評価が上昇している理由は?天目山の最後が見事だったから!」の記事はコチラ
「【武田勝頼】妻・北条夫人の最後がすごい?2人の正室について解説!」の記事はコチラ
vs「明智光秀」!「信長」と「光秀」が戦ったら、どちらが勝利するのか?
もしも「織田信長」と「明智光秀」が、戦争で勝負していたら、「明智光秀」が勝利していたはずです。
明智光秀はとても緻密な作戦をたてる名将でした。
それを物語るエピソードが残されています。
「本能寺の変」を起こした時、「光秀」はすぐには攻撃を仕掛けず、朝日が昇るのを待ったといいます。
未明に攻撃しては、闇夜に紛れた「織田信長」を伸ばす恐れがあったからです。
それほどまでに緻密で用心深い「明智光秀」の性格を、「織田信長」は知り尽くしていたため、敵が「明智光秀」とわかった瞬間に、逃亡を諦めたといわれています。
難攻不落の山岳地帯「丹波国」を迅速に平定した名将「明智光秀」を、「織田信長」は信頼しきっていたのです。
「明智光秀」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長を苦しめた二人の名将!「今川義元」と「上杉謙信」
「本願寺顕如」や「信玄・勝頼」の他にも、「織田信長」を苦しめた猛将が二人います。
「今川義元」と「上杉謙信」です。
先程、「信長の後半生は、信玄・勝頼親子との死闘の歴史だった」と申しましたが、前半生は「今川義元」に苦しめられていました。
「今川義元」は、義弟「武田信玄」すらも恐れさせた名将です。
そして「上杉謙信」はというと、「武田信玄」もかなわない最強の軍神。
信長は、隣国だった「今川義元」との戦いは避けられなかったものの、「上杉謙信」との戦いは徹底的に避け続けています。
謙信が攻めてきた「手取川の戦い」で、信長は全く出陣せず、部下の「柴田勝家」に任せきりにしたほどです。
「上杉謙信」に対して信長は、徹底的に下手に出続ける戦略を取っていったのです。
「今川義元」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
『今川義元のすべてを徹底解説!家紋や首の行方・墓の場所など完全網羅』の記事はコチラ
「上杉謙信」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「【上杉謙信】強さの秘密を逸話・エピソードで解説!世界史上最強か?」の記事はコチラ
「上杉謙信の死因と最後の様子とは?急死の理由は『暴飲暴食』だった」の記事はコチラ
織田信長の「家紋」を画像つきでご紹介
ここでは「織田信長」の「家紋」を解説させていただきます。
信長が使った織田家の家紋「織田木瓜紋」
「織田信長」の家紋は「織田木瓜(おだもっこう)」と呼ばれるものです。
信長が当主をつとめた「織田家」では、代々この「織田木瓜紋」を家紋としていたのです。
「木瓜紋」の由来ですが、諸説あります。
「ウリの断面」のような形をしているから「木瓜(きうり)紋」と呼ばれているわけですが、実際には「鳥の巣」がモデルとなったと考えられています。
「鳥の巣」を上から見おろしたのが、この「木瓜紋」のモデルなのだとか。
または「花」をイメージしたものであるとも言われていますが、「花」にしても「鳥の巣」にしても、「子孫繁栄」を願ってのものであると考えられているので、とても縁起の良い家紋であることだけは確かです。
織田信長の「家紋」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長が使ったもう一つの家紋「揚羽蝶」
「織田信長」は、もう一つ「揚羽蝶」という家紋を使っていたと考えられています。
「揚羽蝶」は「平氏」を表す家紋です。
信長は、「平氏」の末裔を自称していたので、「揚羽蝶」は自らの血筋を表す家紋として使っていたのでしょう。
「織田家」は、「平清盛」の子孫を自称していました。
「平清盛」の孫「平資盛」の子孫から「織田家」が起こり、その織田家の分家「織田弾正忠家」から「織田信長」が誕生したのです。
蝶といえば、織田信長の正室「帰蝶姫」を思い出します。
もしかすると、「帰蝶」はこの家紋について、何かしらの縁を感じていたかもしれません。
信長が軍旗に使った「旗印」とは?
織田信長が使用した「旗印」ですが、とてもめずらしいデザインだったことで有名です。
信長は「永楽通宝」という貨幣、つまり「お金」を旗印にしていたのです。
「永楽通宝」とは、室町時代に行われていた「日明貿易」の際に、「明(現在の中国)」から大量に輸入された貨幣です。
この「永楽通宝」は、室町時代から江戸時代初期まで日本で流通し、使用されていました。
当時の日本の産業は「農業」が中心だったにもかかわらず、信長は「商業」つまり「商売」を重視していました。
そのおかげで莫大な軍資金を手に入れていた信長は、「永楽通宝」という貨幣を旗印にすることで、「金銭の力で天下を統一してやる」という意志を表明していたのかもしれません。
織田信長の「旗印」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長が使った印「天下布武」の真の意味
「天下布武(てんかふぶ)」とは、「天下を武力で統一する」つまり「天下を力づくで制圧・支配してやる」という意味だと考えられていました。
しかし近年の研究では、「天下布武」の意味について、異なる説が唱えられています。
「天下布武」とは、「五機内を平和にする」という意味だというのです。
「天下布武」の天下とは、当時は「日本全国」という意味ではありませんでした。
天下とは「五機内」、すなわち「山城」「大和」「摂津」「河内」「和泉」の五カ国を指す意味だったのです。
この五カ国は、現在の「京都府の一部」「兵庫県の一部」「大阪府」「奈良県」のこと。
そして「布武」とは、「武を布(し)く」、すなわち「武を広める」という意味になります。
「武」とは、「戈(ほこ)を止める」と書くので、「戦争を止めさせる」という意味です。
その「武」を広めるわけですから、「天下布武」とは「全国制覇」という意味ではなく、「五機内の戦争を止めさせて、平和にする」という意味になるわけです。
「天下布武」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の「馬印」とは、一体どんなものなのか?
織田信長の馬印は「金の唐傘」と「南蛮傘」です。
馬印の由来や目的には、諸説あります。
馬印とは、敵味方が入り乱れての戦場において、自分の存在をアピールするためのものでした。
なぜ自分の存在をアピールする必要があったのかというと、「戦場で良い働きをしていることをアピールするため」です。
しかしアピールが必要なのは部下たちであって、大将である「織田信長」が戦場での功績をアピールする必要はありません。
それではなぜ大将の「信長」にも馬印が必要なのかというと、「家来たちに信長の位置を知らせて、やる気を出させるため」です。
信長が見ていることがわかれば、部下たちは自分の活躍をアピールするために、やる気満々になってくれるというわけです。
まるで「プロ野球のスカウト」を前にして、自分の能力をアピールする「大学・高校の球児」のようです。
「馬印」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長の「名前」について徹底解説
ここでは「織田信長」の「名前」について、わかりやすく解説いたします。
信長の「本名」とは?実は「平氏」だった
「織田信長」の本名・フルネームは「平朝臣織田三郎信長」です。
当時の人は「名字」や「名前」の他に、「氏」や「姓」そして「諱」ももっていたため、正式名称がとても長かったのです。
織田信長は「平清盛」の末裔を自称していたので、「平」という氏(うじ)を名乗っていました。
「朝臣」というのは、「姓(かばね)」(姓とは、氏の中での序列を表す称号。「朝臣」は「真人」に次ぐ2番目)。
「苗字」が「織田」。
「名前(通称または仮名)」が「三郎」。
「諱(いみな)」が「信長」。
「平朝臣織田三郎信長(たいらのあそんおださぶろうのぶなが)」
というわけです。
織田信長の「本名」や「フルネーム」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の「呼び名」とは何か?実は「信長」と呼ばれたことがなかった!
「織田信長」の呼び名は「三郎」、または「上総介」や「尾張守」、「弾正忠」や「右大臣・右府(うふ)」などと、官位で呼ばれることも多かったはずです。
「信長」と、名前で呼ばれることはありませんでした。
「織田信長」は、ドラマや映画で「信長」と気安く呼ばれることがありますが、実際には「諱(いみな)」を呼ばれることはありませんでした。
「諱」を呼ぶということは、当時とても失礼なことだったのです。
「織田信長」のことを「信長」と呼ぶことが出来たのは、親くらいのものだったはずです。
そのため、当時の人は「織田信長」のことを
- 「三郎」
- 「上総介」
- 「尾張守」
- 「弾正忠」
- 「右大臣・右府」
と、官位・位階で呼んでいたのです。
織田信長の「呼び名」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の名前「三郎」とは、いったい何を意味しているのか?
「織田信長」の呼び名「三郎」とは、信長が「三男」であったことを意味しています。
「織田信秀」の後継者であった「信長」ですが、実は「長男」ではなかったのです。
信長には、二人の兄がいました。
諸説あるものの、信長には「信広(長男)」と「信時(次男)」という、兄がいたのです。
当時は「長男でさえあれば、跡継ぎになることができる」わけではありませんでした。
戦国武将の「後継者」となるためには、「母親の身分」がとても重要な要素だったのです。
「織田信長」の母親「土田御前」は、「織田信秀」の正室(正妻)であり、身分が高い女性でした。
それに対して「信広」「信時」の母親は、身分が低い側室だったため、二人は父「信秀」の後継者にはなれなかったわけです。
とはいえ、三男でなくても「三郎」と名乗ることもありました。
たとえば「真田幸村(信繁)」の兄「真田信之」は、長男だったにもかかわらず「源太郎」ではなく、「源三郎」と名付けられていました。
「織田信長」の父「信秀」も、祖父「信定」も、「三郎」と名乗っていたので、もしかすると「織田家」では代々「後継者は三郎」とする伝統があったのかもしれません。
織田信長の名前「三郎」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の「あだ名」と「魔王」と呼ばれた理由
「織田信長」には、その生涯において、2つの有名な「あだ名」がつけられました。
- 「尾張の大うつけ」
- 「第六天魔王」
この2つの「あだ名」の由来をご紹介いたします。
「尾張の大うつけ」とは、若い頃の「織田信長」が、派手な格好で馬鹿な「いたずら」を繰り返したことでつけられた「あだ名」です。
「第六天魔王」とは、宿敵「武田信玄」との手紙のやり取りで名乗った「あだ名」です。
【1571年】、「織田信長」は敵対していた仏教勢力「比叡山・延暦寺」を焼き討ちしました。「比叡山焼き討ち」です。
出家して僧侶となっていた「武田信玄」は、自らを「天台座主(てんだいざす)」、つまり「比叡山で最も偉い僧侶」と名乗って、信長の「比叡山焼き討ち」を厳しく批判したのです。
それに対して信長は、「第六天魔王」という「仏教の修行を邪魔する悪魔」の名前を自ら名乗って反論したのです。
これ以降、「織田信長」は事あるごとに「魔王」と呼ばれることとなったのでした。
織田信長が「魔王と呼ばれた理由」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の「幼名」とは?
「織田信長」の幼名は、「吉法師(きちほうし)」です。
その名前には「魔除け」や「おまじない」としての意味が込められていました。
なぜ信長は「吉法師」と名付けられたのでしょうか?
当時の子供たちの生存率は、細菌やウィルスなどの病気によって、とても低かったのです。
まだまだ「細菌」や「ウィルス」というものを、人類は理解していませんでした。
そのため当時の人は、「魔除け」や「まじない」で、それらによるの犠牲を防ごうと考えたのでしょう。
幼名には
- 「奇妙丸(きみょうまる・織田信忠)」
- 「茶筅丸(ちゃせんまる・織田信雄)」
- 「梵天丸(ぼんてんまる・伊達政宗)」
のように、「丸」という文字が付けられる例が多数あります。
「丸」とは、子供用のトイレ「おまる」を意味するものです。
「目に見えない悪霊は、汚物の悪臭に弱い」という迷信から、子供の名前に「丸」をつけたのです。
「信長」の幼名「吉法師」には、「丸」はつけられていません。
しかし、「僧侶」を意味「法師」という言葉に、縁起の良い「吉」という文字をつけることで、聖なる力の加護と幸運を期待したと考えられます。
織田信長の「幼名」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長の「政策」と「政治」をわかりやすく解説
ここでは「織田信長」の「政策」や「政治のやり方」について解説いたします。
信長が行った「経済政策」をまとめて解説
誰よりも『経済』を重視した「織田信長」は
- 「楽市楽座」
- 「関所撤廃」
- 「道路整備」
などの『経済政策』を行っていました。
信長は「楽市楽座」という政策で、誰もが自由に商売(金儲け)ができるようにし、民衆が「お金持ち」になりやすいようにしたのです。
さらに信長は「関所撤廃」をおこない、「道路整備」をすることで、物や人の移動をしやすくしました。
つまり「物流」のスピードと効率をあげることで、お金や物が活発に動くようにしたのです。
そうすることで、人や物やお金が各地を活発に移動し、売買が活性化。
誰もが利益をあげてお金持ちになり、豊かになっていったのです。
「関所撤廃」は、今でいうところの「高速道路」の無料化のこと。
これらの「経済政策」によって、誰よりも「織田信長」が莫大な利益を手に入れました。
莫大な利益を「軍資金」として利用した「信長」は、鉄砲などの最新兵器を次々と導入して、強大な軍団をつくりあげることに成功したのです。
「織田信長の政策」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長が行った「楽市楽座」とは何か?
「織田信長」は、「楽市楽座(らくいちらくざ)」という経済政策を行ったことで有名です。
「楽市楽座」とは、「誰でも自由に商売をすることができるようにする」という政策です。
ということは、当時は「誰でも自由に商売できなかった」ということなのでしょうか?
実は当時は「誰でも商売できたわけではない」のです。
当時は「座」と呼ばれる組合が、商売を独占していたため、誰でも自由に商売することが出来なかったのです。
そこで信長は、「座」という組合を破壊して、誰でも市場で物を売ってよいことにしたのです。
この「楽市楽座」により、織田信長の領地では商売が活性化して、商業が発展していきました。
そこから得られる税金や献上されたお金により、信長は莫大な富を手に入れたのです。
ちなみに「楽市楽座」を最初に行ったのは、「織田信長」ではなく、南近江国の戦国武将「六角氏」であるとされています。
織田信長と「楽市楽座」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長と「南蛮貿易」の関係とは?
「織田信長」は、「南蛮貿易」と呼ばれる貿易を積極的に行っていました。
貿易によって、莫大なお金を手に入れるとともに
- 「鉄砲」などの最新兵器
- 鉄砲で使用する「黒色火薬」の原料
- 「鉄砲の弾」に使うための「鉛」
などを輸入していました。
黒色火薬には、「木炭」「硫黄」「硝石(硝酸ナトリウム)」が必要なのですが、当時の日本では「硝石」が手に入らなかったため、100%輸入に頼っていたのです。
さて、そもそも「南蛮」とは何のことなのでしょうか?
「南蛮貿易」とは、「ポルトガル」と「スペイン」、そして「明(中国)」を相手にして行われた貿易のことです。
「ポルトガル」と「スペイン」のことを、当時の日本人は、「南蛮人」、つまり「南の国に住む野蛮人」と呼んで見下していたのです。
「ポルトガル」と「スペイン」は当時、世界最大最強の帝国を世界中に広めており、日本にも貿易を求めてきたのです。
ところが「ポルトガル」と「スペイン」は、日本に対して「貿易」をする見返りとして、「キリスト教」の布教を迫ってきたのです。
「硝石」を必要としていた織田信長は、この「キリスト教」布教を認め、南蛮貿易を積極的に行ったのです。
織田信長と「南蛮貿易」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の「政治」のやり方をまとめて解説
虐殺を繰り返したといわれている「織田信長」ですが、その政治は民衆にとっては、とてもありがたいものだったようです。
数々の「経済政策」と「キリスト教の布教」、そして圧倒的な軍事力で自国の領土と民衆を守ったため、信長が支配する領内の領民は、「豊か」で「安全・平和」に生活ができていたのです。
まとめると、信長が採用した「政治政策」は、以下の通りになります。
- 「楽市楽座」
- 「関所撤廃」
- 「道路整備」
- 「キリスト教の布教許可」
- 「南蛮貿易」
これらの「政治政策」によって、当時の日本人は、経済的にも豊かに生活できるようになりました。
織田領内で生活する領民たちは、この経済力に支えられた圧倒的な軍事力を持つ「織田軍団」によって守られていたため、「平和」で「安全」な生活を約束されていたのです。
国家の「経済」と「軍事力」、領民たちの「豊かさ」と「平和」、それを重視したのが「信長」でした。
織田信長の「政治」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の「外交」について、わかりやすく解説
「織田信長」の外交は、大きく分けると「2つの勢力」に対して行われていました。
- 「武田信玄・上杉謙信など、国内にいる他の戦国大名」
- 「スペイン・ポルトガルなどの外国勢力」
信長は外交戦略が、非常に上手です。
そして「外交」の基本をとても大切にしています。
「戦略」とは、「戦を省略する」と書きます。
つまり争いを避けることが、外交戦略の基本なのです。
織田信長は「外交戦略」を駆使して、「武田信玄」や「上杉謙信」との戦いを、徹底的に回避(省略)しました。
信長は「信玄」や「謙信」のような、戦いの天才を相手にしても勝ち目がないことをよく知っていたのです。
そして「スペイン・ポルトガル」に対して、「鉄砲・火薬」などを輸入する代わりに、「キリスト教の布教許可と保護」を与えて、協力関係を構築しました。
信長は「外交」によって、「信玄・謙信」などの「戦っても勝てない敵」を遠ざけ、「スペイン・ポルトガル」を味方にすることに成功しているのです。
信長の「検地」とは、どんなものなのか?
「検地(けんち)」とは、土地の生産力を調査することです。
「検地」といえば、「豊臣秀吉」の「太閤検地」が有名です。
織田信長は、秀吉の「太閤検地」とは違う「指出検地」というやり方を採用していました。
「指出検地」とは、調査員を現地に派遣して検地をする「太閤検地」に対して、領主自らに調査をさせて、結果を差し出させる検地です。
この調査によって領主たちは、収穫時期を待つまでもなく、その土地の耕作者に対して、税を収めるように義務付けるわけです。
それにより、将来の収入の見込みがわかるため、税収が予測しやすく、税金の使いみちも、計画が立てやすくなります。
税金の使いみち以外にも、検地には大きな目的があります。
それは「軍役」です。
つまり「織田信長」は、「検地」をおこなって土地の生産力にあわせて、その土地の領主に対して兵役・軍役を与えていたのです。
「検地」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長と「同盟」を締結した武将たちを、一覧でご紹介
「織田信長」は、生涯において数多くの武将と同盟を締結してきました。
その同盟者の名前を、一覧でご紹介いたします。
- 斎藤道三
- 浅井長政
- 姉小路頼綱
- 徳川家康
- 武田信玄
- 上杉謙信
- 長宗我部元親
- 北条氏政
「斎藤道三」は、【1556年】の「長良川の戦い」で戦死し、同盟消滅。
「浅井長政」は、【1570年】の「金ヶ崎の退き口」で裏切り、同盟破棄。
「姉小路頼綱」は、【1582年】に「本能寺の変」で信長が亡くなるまで同盟維持。
「徳川家康」は、信長が亡くなるまで同盟維持。
「武田信玄」と「上杉謙信」は、のちに同盟を破棄して信長と開戦。
「長宗我部元親」は信長に実質的な臣従を続けたものの、信長の死の直前に「四国征伐」が進行。
「北条氏政」も信長に臣従したものの、信長が亡くなると織田軍を攻撃し、同盟破棄。
こうしてみると、「徳川家康」と「姉小路頼綱」だけが、信長の生涯を通じて同盟を維持していたことがわかります。
織田信長と「同盟」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長の「戦い」を徹底的に解説
ここでは「織田信長」が参戦した有名な「戦い」をご紹介いたします。
織田信長の「有名な戦い」一覧
生涯に「100戦」に近い戦を経験した織田信長。
そんな信長の有名な戦いを選りすぐり、初陣「吉良大浜城の戦い」から最期を遂げた「本能寺の変」までを一覧でご紹介いたします。
- 1547年・「吉良大浜城の戦い」(初陣)
- 1555年・「清州城の戦い」
- 1556年・「稲生の戦い」
- 1560年・「桶狭間の戦い」
- 1567年・「稲葉山城の戦い」
- 1568年・「観音寺城の戦い」
- 1570年・「金ヶ崎の退き口」
- 1570年・「姉川の戦い」
- 1570年・「志賀の陣」
- 1571年・「比叡山焼き討ち」
- 1573年・「小谷城の戦い」
- 1573年・「槇島城の戦い」
- 1575年・「長篠の戦い」
- 1576年・「天王寺砦の戦い」
- 1577年・「大和信貴山城の戦い」
- 1579年・「第1次天正伊賀の乱」
- 1581年・「第2次天正伊賀の乱」
- 1582円・「天目山の戦い」
- 1582年・「本能寺の変」(織田信長・戦死)
「織田信長」の「戦い」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「織田信長の有名な戦いを年表で一覧にして紹介!信長は戦に弱かった?」の記事はコチラ
「織田信長の初陣《吉良大浜の戦い》とは?実は織田信長の大敗だったという逸話がある」の記事はコチラ
「織田信長の【伊賀攻め】と伊賀忍者がヒドい!忍者の戦い方と子孫の今」の記事はコチラ
「長篠の戦い」について、カンタン解説
【1575年】、「織田信長」と「徳川家康」は、「武田勝頼」が率いる戦国最強軍団「武田騎馬軍団」を「長篠の戦い」で撃破します。
「鉄砲三段構え」で絶え間なく銃撃を浴びせた、と言われていますが、実際には違います。
「信長」は、決戦地である「長篠・設楽原」に、即席の砦(陣城)を作り上げ、そこで武田騎馬軍団を迎撃したのです。
もちろん織田軍団には、無数の鉄砲があったため、突撃してくる武田騎馬軍団に対して、集中砲火を浴びせました。(鉄砲の数は3千と言われているが、実際には1千だったらしい)
「武田勝頼」からすれば、無理に「陣城」を攻撃しなければいいだけと思われがちですが、そうはいきませんでした。
このとき、武田軍の背後にあった「鳶ヶ巣(とびがす)砦」は、徳川四天王筆頭「酒井忠次」によって陥落させられていたのです。
そのため、背後から「酒井忠次」に、正面から「織田・徳川連合軍」に挟み撃ちにあう可能性があったのです。
それを回避するためには、迅速に正面の陣城にこもっていた「織田・徳川連合軍」を撃破するしかなかったのです。
逆に「鳶ヶ巣砦」の「酒井忠次」を撃破しようとすれば、「織田・徳川連合軍」の大軍団に背後を攻撃されて武田軍は一気に壊滅していたでしょう。
つまり、小規模な「酒井忠次」の軍には背後を取られても仕方ないが、「織田・徳川連合軍」の大軍勢に背後を取られるわけにはいかなかったのです。
ところが「陣城」の強固な守りと、無数の鉄砲により、「武田騎馬軍団」は無残にも大敗してしまったのでした。
「長篠の戦い」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「【織田信長と長篠の戦いまとめ】鉄砲の嘘と戦法の真実を簡単に解説!」の記事はコチラ
「武田信玄の死因は織田信長による暗殺?もし長篠の戦いで生きていたら」の記事はコチラ
『長篠の戦いをわかりやすく簡単解説!戦場・場所は現在どこの県?』の記事はコチラ
「桶狭間の戦い」について、カンタン解説
【1560年】、「織田信長」は長年の宿敵「今川義元」を「桶狭間の戦い」で討伐しています。
「桶狭間の戦い」は、「今川義元」が上洛、すなわち「京都へ進軍」するためのもので、通り道の尾張国を踏み潰そうとしたと考えられていますが、実際には違います。
そして「桶狭間の戦い」は、これまで「奇襲戦だった」と考えられてきましたが、それも違うようです。
「今川義元」の目的は上洛ではなく、尾張国を支配することだったのです。
当初は「織田軍3千人」に対して、「4万人」の軍団を率いた今川軍の勝利は確実と考えられていました。
ところが信長が今川軍の正面に攻撃を仕掛けてみると、偶然そこには今川義元本人がいたのです。
夢中で突撃していると、偶然今川義元の首を取れてしまった・・・というわけです。
これまでは、「織田信長が今川義元の軍団に奇襲(サプライズアタック)を仕掛けた」といわれていました。
しかし近年の研究では、「偶然だった」という説が有力なようです。
「桶狭間の戦い」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
『【桶狭間の戦いとは】簡単にわかりやすく解説!隠されていた真実に驚愕』の記事はコチラ
「織田信長と桶狭間の戦いを簡単に解説!どのような戦法で勝利したのか」の記事はコチラ
「【今川義元と桶狭間の戦い】その謎や疑問のすべてを短く簡単に解説」の記事はコチラ
信長の「戦い方」と「戦術」をわかりやすく解説
「織田信長」の戦い方・戦術には、3つの特徴があります。
- 砦や城を敵に攻撃させることにより、砦や城の防御力を最大限に活かして戦う
- スピードを重視していた。凄まじい速度で敵に攻撃を仕掛けて、不意を突く
- 鉄砲や大砲などの最新兵器を、ためらうことなく次々と導入していった
信長は「長篠の戦い」において、敵の攻撃を防ぐために「陣城」と呼ばれる野戦築城をし、武田勝頼の軍団を阻みました。
実は信長は「砦」や「城」をつくって戦うことが、得意だったのです。
また、織田軍団は凄まじい速度で敵の不意を突くのが得意でした。
その戦い方は、「中国大返し」を成功させた「羽柴秀吉」に引き継がれています。
さらに織田軍団は、「和泉国・堺」という街で、「鉄砲」や「大砲」を次々と購入し、軍団を強化していました。
「堺」という重要な貿易港を手に入れ、最強の兵器を次々と導入していく織田軍団には、もはや誰もかなわなかったのです。
織田信長の「戦い方」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長は戦争に「強い」のか?
天下のほとんどを制覇した「織田信長」ですが、「戦争に強いのか?」というと、それほど強くはないのです。
実は「織田信長」、「戦争」はそれほど得意ではなく、「武田信玄」や「上杉謙信」に比べると、とてもかなわないほど弱いと言わざるを得ません。
「上杉謙信」も「武田信玄」も、生涯において敗北したのはわずか2~3回です。
それに対して「織田信長」はというと、生涯100戦ほどの戦の中で、敗北は20回ほど。
それほど強くなかった織田信長ですが、その弱さを「鉄砲」や無尽蔵な財力による物量で補い、敵を次々と撃破。
弱さや弱点を、「鉄砲」や「財力」で補い、強い敵は外交力で遠ざけるなど、全力で「天下統一」を目指したのです。
織田信長の「強さ」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の「初陣」についてカンタン解説
「織田信長」は、【1547年】に【14歳】で初陣を飾っています。
「吉良大浜城の戦い」です。
織田軍団は「8百人」、対する今川軍は「2千人」。
結果は「織田信長」の大勝利といわれていますが、実際には違うようです。
史実では、「織田信長」が傅役「平手政秀」の反対を押しきって出撃。
「吉良大浜」の各地に次々と放火して、風に煽られた火は広がり、敵に損失を与えた・・・。
これが、織田信長の華々しい初陣を物語る史実とされています。
ところが、実際には「織田信長の大敗」だった可能性が指摘されています。
この戦いで、敵である今川軍の武将は、戦後に数多くの「首塚」を建立しているのです。
つまり、「無数の首塚をつくらなくてはいけないほどに、織田軍は大敗した」ということです。
傅役「平手政秀」からすれば、「織田家の御曹司」の初陣を「大敗した」ということには出来なかったのでしょう。
織田信長の「初陣」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長がついた「官位」や「官職」をカンタン解説
ここでは「織田信長」が名乗った「官位・官職」について解説いたします。
信長の「官位・官職」を一覧でご紹介
織田信長といえば、「上総介」から「右大臣・右近衛大将」まで、数々の「官位・官職」を名乗ったことで有名です。
織田信長の官位・官職を、以下に一覧でご紹介いたします。
- 「上総介」、【1549~1566年頃】
- 「尾張守」、【1566年頃】
- 従五位下「弾正忠」、【1568~1574年】
- 従四位下「弾正忠」、【1568~1574年】
- 正四位下「弾正忠」、【1568~1574年】
- 従三位「参議」、【1574~1575年】
- 従三位「権大納言 兼 右近衛大将」、【1575~1576年】
- 正三位「内大臣 兼 右近衛大将」、【1576~1577年】
- 従二位「右大臣 兼 右近衛大将」、【1577~1578年】
- 正二位「前右大臣 兼 右近衛大将」、【1578~1582年】(右大臣も右近衛大将も辞任したため、「前」と名乗った)
一説によると、「織田信長」は「征夷大将軍」に就任する予定だったとのことですが、その直前に「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれています。
織田信長と「官位」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長と「征夷大将軍」について解説
「織田信長」は「征夷大将軍」になろうとしていた説があります。
「三職推任問題」といって
- 「征夷大将軍」
- 「太政大臣」
- 「関白」
この3つのうち一つに、織田信長は就任しようとしていたというのです。
3つの職のうち、どれかにつくことを、「織田信長」自身が望んでいたのか、それとも朝廷から「職についてほしい」と頼まれたのか。どちらなのかはわかりません。
ただし「織田信長」はこのとき、「征夷大将軍」になることが出来ませんでした。
なぜならこの時、まだ「足利義昭」が「征夷大将軍」という職についていたからです。
おそらく信長は、先祖である「平清盛」にならって、「太政大臣」の職につこうとしていたのではないかと考えられています。
「征夷大将軍」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「織田信長が征夷大将軍にならなかった理由!実は将軍になる予定だった」の記事はコチラ
『征夷大将軍とは何か?簡単にわかりやすく子供でもわかるよう解説!』の記事はコチラ
信長の「役職」をまとめて解説
織田信長は、「上総介」から「右大臣」まで、数々の役職についています。
それをもう一度一覧でまとめてみますと、以下の通りです。
- 「上総介」
- 「尾張守」
- 「弾正忠(弾正少忠と弾正大弼)」
- 「参議」
- 「権大納言 兼 右近衛大将」
- 「内大臣 兼 右近衛大将」
- 「右大臣 兼 右近衛大将」
- 「前 右大臣 兼 右近衛大将」
【1577年】、織田信長は、最高で「右大臣」という役職にまで上っています。
「右大臣」とは、「太政大臣」と「左大臣」に次ぐ上から三番目の役職。
おそらく信長は、次に「太政大臣」になろうとしていたのでしょう。
織田信長と「官位・官職」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長が支配した「領地」と「石高」の広さや大きさを解説
ここでは織田信長が支配した「領地」や「石高」について解説いたします。
信長が支配した「領地」とは、どれくらいの規模だったのか?
のちに天下のほとんどを制圧することとなる「織田信長」ですが、当初は「尾張国」の北半分を支配するだけの小規模勢力でした。
織田家の家督継承から約30年、「織田信長」の最大版図は、
東は「群馬県(下野国)」
西は「岡山県(備中国)」まで
とてつもないほどに広大な領地を支配していたのです。
そんな織田信長の領地拡大の経緯は、実に合理的で巧みです。
以下に、信長の領地拡大について、年表をご用意いたしました。
- 【1560年】、「桶狭間の戦い」で、「駿河国」の大勢力「今川義元」を撃破
- 【1562年】、「今川義元」の息子「今川氏真」の侵攻を防ぐために、隣国「三河国」の「徳川家康」と「清洲同盟」を締結
- 【1565年】、「犬山城」の「織田信清」を倒して「尾張国」統一に成功
- 【1567年】、長年の宿敵であった「美濃国」の「斎藤龍興」を追い出し、「美濃国」を平定
- 【1568年】、「足利義昭」を連れて上洛(京都制圧)。「三好家」を四国へ追い出し、「近畿地方の各国」を制圧
- 【1573年】、「朝倉義景」と「浅井長政」を撃破。「越前国」と「近江国」を平定
- 【1575年】、「長篠の戦い」で「武田勝頼」に勝利し、武田の侵攻を阻止
- 【1579年】、「明智光秀」が「丹波・丹後」を平定
- 【1580年】、「石山本願寺」が降伏し、「摂津国」平定
- 【1582年】、「甲州征伐」で「武田勝頼」を滅ぼし、「甲斐・信濃・上野・駿河」を平定
- 【1582年】、「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれる
「織田信長の領土・石高の推移」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長が支配した領土の「石高」は、どれくらい?
【1582年】、「織田信長」の最大版図における「石高」は、約「787万石」でした。
【1552年】に「織田信長」が、織田家の家督継承した当初、信長の領地における石高は約「30万石」でした。
しかしこれら全てが「信長」一人だけの収入となったわけではありません。
当時、領地から得られる作物の取り分は
- 「5割が民衆」
- 「3割が家来・部下たち」
- 「2割が領主のもの」
という割合でしたので、「787万石」なら、信長の取り分は約「157.4万石」ということになります。
織田信長の領地は、【1552年】の時点で「尾張国の北半分」のみ。
それが、信長が「本能寺の変」で亡くなる【1582年】には、東は「下野国(群馬県)」から、西は「備中国(岡山県)」までと、急拡大したのです。
「1石」とは、お米「2.5俵」に当たります。
「1俵」とは、約「60kg」ですので、「1石」は約「150kg」。
一説によると、「1石」は一人あたりの成人が、1年に必要とする食料なのだそうですが、現代の成人で考えてみると、お米だけを食べて生活するなら「1年で1石」は少なすぎます。
お腹がいっぱいになるまで食べるのなら、「1年で3石」は必要だと考えられます。
織田信長の「石高」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長の「勢力図」を解説
織田信長の勢力図は、【1567年】に「美濃国」を支配したあたりから、一気に拡大を開始しています
そこから【1582年】に亡くなるまでの【15年間】で、天下の4割を支配するまで、文字通り日本の勢力図を塗り替えていったのです。
信長の勢力が急激に拡大していった理由はもう一つあります。
その理由とは「足利義昭」です。
織田信長は「征夷大将軍・足利義昭に歯向かう者を討伐する」という名目で、敵対勢力を次々と撃破。
侵略したその領地を、信長は自らのものとしたのです。
「足利義昭」は、征夷大将軍という「武士の棟梁(トップ)」に位置した人物でした。
「征夷大将軍」には、全国各地の武士に命令する権限があったのです。
その「足利義昭」の命令に従わないものは、「征夷大将軍の命令に背いた反逆者」というレッテルが貼られて、足利義昭の部下だった「織田信長」に討たれたのです。
「朝倉義景」は、この方法によって「織田信長」に滅ぼされています。
「朝倉義景」や「征夷大将軍」について、以下のリンク記事でくわしく解説しております。
「朝倉義景のすべてを徹底解説!子孫や家紋・明智光秀との関係をご紹介」の記事はコチラ
織田信長の「城」を徹底解説
ここでは「織田信長」と「お城」について解説させていただきます。
信長・最後の居城「安土城」とは、どんなものなのか?
「安土城」とは、織田信長が最後に居城として利用したお城です。
現在の「滋賀県・琵琶湖」に面したお城で、「地下1階地上6階」、天主閣の高さは「32m」だったといわれています。
このお城がつくられた目的は、「上杉謙信」または「一向宗」にあったと考えられています。
- 「越前・加賀の一向一揆を防衛するため」
- 「南下してくることが予想された上杉謙信を迎撃するため」
とはいえ安土城は、軍事基地として建築された様子がありません。
当時常識だった「攻めにくいクネクネ曲がりくねった道」ではなく、安土城への道はまっすぐにつくられているのです。
このことから、信長は「安土城」を軍事基地としてではなく、政治・経済の中心地として建築したことが予想されます。
「安土城」は、信長の前の居城「岐阜城」よりも京都に近く、琵琶湖に船を浮かべれば水運を利用できるなど便利であり、しかも「北陸街道」という主要道路に位置していたため、経済的な重要拠点でもあったと考えられます。
このお城をつくったのは、織田信長の部下「丹羽長秀」。
【1576年】に築城を開始し、【1579年】に信長は天主閣へと移り住んでいます。
【天正10年(1582年)6月15日】、織田信長が亡くなった13日後に「織田信雄」または「盗み目的で侵入した野盗」によって放火され、消失しています。
宣教師「ルイス・フロイス」が残した記録によると、安土城が完成した直後の【1579年】に、落雷で本丸が焼失したとのことです。
織田信長と「安土城」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の居城「岐阜城」とは、どんなお城なのか?
「岐阜城」は、信長の義父「斎藤道三」の居城だった城であり、信長が【9年間】も居城としたお城です。
【1567年】から【1576年】まで、信長は「岐阜城」に住んでいました。
この城は、元々「稲葉山城」と呼ばれていました。
【1201年】、「二階堂行政」という武将が、稲葉山に砦をつくったことが始まりです。
【1539年】、信長の妻「帰蝶」の父「斎藤道三」が、稲葉山に巨大な城をつくり始めたのです。
【1556年】、「斎藤道三」が息子「斎藤義龍」に討たれると、「義龍・龍興」親子二代が居城として利用します。
【1567年】、「織田信長」が「斎藤龍興」を追い出して、居城とします。
このとき信長は、軍師「沢彦宗恩」の発案で
- 古代中国・周の武王が商・殷の暴君・紂王倒すためにを挙兵した地「岐山(きざん)」
- 儒教の孔子の故郷「曲阜(きょくふ)」
この2つから一文字ずつ取って、「稲葉山城」から「岐阜城」と改名したのです。
【1576年】、織田信長は息子「織田信忠」に「岐阜城」と織田家の家督を譲り、「安土城」へ移動。
【1601年】、「徳川家康」によって、「岐阜城」は廃城となります。
「家康」は「岐阜城」という「天下統一への足がかりとなるお城」を恐れたという説があります。
「岐阜」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「織田信長の居城と場所を紹介!安土・岐阜の名前の由来や城下町の政策」の記事はコチラ
「『明智光秀』ゆかりの地を一気に紹介!京都・岐阜周辺の地まとめ」の記事はコチラ
信長と「名古屋城(那古野城)」の関係とは?
名古屋城は「織田信長」が生まれた場所と、かつては考えられていました。
現在の「愛知県名古屋市」にそびえ立っている「名古屋城」ですが、元々あの場所には「那古野城」という、異なる漢字のお城が置かれていました。
この「那古野城」は、「今川義元」の父「今川氏親」が建設したものです。
その「那古野城」を「織田信長」の父「信秀」が奪い取り、自らの居城としたのです。
その後、「那古野城」は「織田信長」に譲られ、【1555年】に信長が居城を「清州城」に移したあと廃城となります。
【1609年】、「徳川家康」の九男「徳川義直」の居城として、「那古野城」の跡地に「名古屋城」が築かれます。
「名古屋城」は「尾張藩・徳川家」の居城として、幕末まで使用されることとなるのです。
ちなみに「織田信長」の生誕地ですが、近年の研究では、「那古野城」ではなく、同じ愛知県の「勝幡城」である可能性が高いと考えられています。
余談ですが、「なごや城」は、有名なもので3つ存在しています。
- 信長の居城だった「那古野城」
- 尾張徳川家の居城「名古屋城」
- 朝鮮出兵の前線基地「名護屋城」
豊臣秀吉は故郷「尾張国」の「那古野城」と同じ名前の「肥前・名護屋」を気に入り、そこに朝鮮出兵の前線基地をつくったのです。
織田信長と「名古屋城」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「織田信長と名古屋城の関係!信長の居城・那古野城と名古屋城は違う?」の記事はコチラ
信長と「大阪城」の隠された関係
「織田信長」は、現在「大阪城」がそびえ立っている場所を手に入れるため、最強の武装宗教勢力「一向宗」と、10年にも及ぶ戦争を行っていました。
「石山戦争」です。
現在の「大阪城」がある場所には、信長の時代、「石山本願寺」というお寺が建てられていました。
浄土真宗の一派である「一向宗」の総本山です。
「石山本願寺」という地は、とても交通の便が良い「西日本攻撃のための格好の要衝」だったのです。
信長はこの「石山本願寺」を手に入れるため、「一向宗」と10年にわたる「石山戦争」を戦い抜き、「石山本願寺」から「一向宗」を追い出すことに成功。
その後、「石山本願寺」には信長の手で「砦」が建設されました。
信長は「安土城」の次に、この場所に「大阪城」を建設し、本拠地にする構想をもっていたといわれています。
その構想を「豊臣秀吉」は引き継ぎ、「大坂城」が建築されたのです。
織田信長と「大阪城」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「織田信長と大阪城の意外な関係!信長は大坂に居城をつくる予定だった」の記事はコチラ
信長がつくった「城下町」の特徴とは?
「織田信長」の「城下町」のつくり方には、一つの特徴があります。
それは「戦いのためのまちづくり」ではなく、「商業のためのまちづくり」を優先したということです。
実はこの「商業重視のまちづくり」は「織田信長」が、「ある名将のやり方」をマネしたものと考えられます。
その「マネした名将」とは、信長の妻「帰蝶」の父親「斎藤道三」です。
通常「城下町」というのは、敵の軍団に攻撃された時に、敵軍が動きにくいように、「クネクネと曲がりくねった道作り」をするのが鉄則なのです。
ところが「斎藤道三」は、居城であった「稲葉山城(のちの岐阜城)」の城下町をつくるに当たり、道を真っ直ぐに整備したのです。
こうすることで、人も物も移動しやすくなり、商業は発展し、町に住む人々は利益をあげて、豊かになっていきました。
織田信長も、義父「斎藤道三」のマネをして、「安土」の町を「戦のための町」ではなく、「商業重視のまちづくり」を優先して開発していったのです。
宣教師「ルイス・フロイス」は、安土の城下町を見て、こんなことを言っています。
「安土の町は3年も経っていないうちに新しく作り上げられ、全く休む間もなく成長した。
もう4~5kmもの巨大な町が出来上がっているではないか。
町に住む武士たちの家は、美しい白塗りの壁に覆われ、中には金箔で彩られた屏風が設置されていた。
彼らの家には何頭もの名馬が繋がれて、清潔な厩(うまや)で生活している。
その清潔さはまるで「娯楽」のための部屋のようだった。
町の道はまっすぐで、とてつもなく長くて、そして広かった。
この広い道は、1日に2~3回も掃き清められていた。
町は遠方から来た者たちや、外国からの訪問客で賑わっている。
その賑わいは、それを見た者をあっと言わせるほどだった。」
これは「安土の町」を見た「ルイス・フロイス」の感想です。
ヨーロッパ出身の「ルイス・フロイス」をこれほどまでに驚かせるとは、信長の「城下町」は、よほど賑わっていたのでしょうね。
織田信長と「城下町」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長と「清洲城」の関係
「清州城」は、織田信長が長く居城としていた城です。
信長はこの「清州城」を、【1555年】から【1563年】までの【8年間】にわたって居城としていました。
「清州城」は、歴史上でも重要な出来事が発生した場所であり、その名前は度々教科書などにも登場しています。
清州城は、元々「信長」の宿敵「織田彦五郎信友」の居城でした。
しかし、信長の叔父「織田信光」が「信友」を暗殺し、「信長」は「那古野城」から「清州城」へと、居城を移したのです。
【1562年】、この「清州城」において「織田信長」と「徳川家康」が、のちに「清洲同盟」と呼ばれる軍事同盟を締結します。
この同盟は、戦国時代にめずらしいほど長く続き、実に【20年】も守られ続けたのです。
【1582年】、「織田信長」が「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれた直後に、この「清洲城」で「清洲会議」と呼ばれる会議が開かれました。
「清洲会議」は、「織田信長」の後継者を誰にするかを決定する会議だったのですが、「羽柴秀吉」が推した信長の孫「三法師(織田秀信)」が後継者に決定。
「三法師」を操り人形として利用した秀吉は、天下統一に成功。
「清洲会議」によって、「秀吉」は「織田家」から天下を奪い取ったのです。
「清洲会議」の後、「清洲城」の城主は次々と変わっていきます。
- 「織田信雄」
- 「豊臣秀次」
- 「福島正則」
- 「松平忠吉」(徳川家康の四男)
- 「徳川義直」(徳川家康の九男)
余談かもしれませんが、「清洲」は「清須」という字で書かれることがあります。
両方ともに正しい漢字で、間違いはありませんが、最も古い文書には「清須」と記されているようです。
「清洲同盟」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の「本拠地・居城」を一覧でご紹介
「織田信長」は、生誕地である「勝幡(しょばた)城」を加えると、生涯で5度も居城を変えています。
つまり「居城」が「6つ」あったのです。
「勝幡城」の次に「那古野城」へ拠点を移し、最後の居城「安土城」に住んでいた【1582年】に亡くなっています。
信長の居城一覧は、以下のとおり。【】の中は信長が居城として利用した期間です。
- 勝幡城【1534年】
- 那古野城【1534~1555年】
- 清洲城【1555~1563年】
- 小牧山城【1563~1567年】
- 岐阜城【1567~1576年】
- 安土城【1576~1582年】
元々今川家の城だった「那古野城」。
その「那古野城」を、信長の父「信秀」が攻め落としたのは、【1538年】のことだといわれています。
そのため信長が「那古野城」に移ったのは、【1534年】ではなく【1538年】のことだと、最近では考えられています。
そしてこれら以外にも京都での宿舎として、「二条城(二条御新造)」という城を使っていた時期があったようです。
織田信長と「居城」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長がつくった城「小牧山城」と「安土城」について解説
生涯において無数の城をつくった「織田信長」ですが、自らが築城して住んだお城は、2つあります。
「小牧山城」と「安土城」です。
「小牧山城」とは、【1563~1567年】の4年の間、信長が居城とした尾張国の城です。
このとき信長は、「斎藤龍興」が支配していた「美濃国」を攻撃していたため、その前線基地として「小牧山城」が築城されたのです。
【1567年】、美濃国攻略に成功すると、信長は美濃国「稲葉山城」を「岐阜城」と改名して移り住んでいます。
もう一つが「安土城」です。
信長は【1576年】に「安土城」の築城を開始。
築城の開始とほぼ同時に、「岐阜城」を息子の「信忠」にゆずって、この「安土」という地へ移り住んでいます。
【1579年】に「安土城」の天主閣が完成すると、信長はこの天主閣で生活し始めます。
そして3年後の【1582年】、信長は「本能寺の変」で亡くなり、「安土城」は信長が亡くなった13日後に、信長の次男「信雄」の失火で焼失してしまうのです。
「安土城」の姿は、今も謎とされており、ドラマなどで使われている豪華絢爛な姿は、近年一般公募で募集されたお城のデザインが基礎となっているようです。
織田信長と「築城」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の「城」は、一体どこにあるのか?地図でご紹介
織田信長の居城を地図にまとめると、以下のとおりです。
やはり現在の「愛知県名古屋市」に城が集中していることがわかります。
- 「勝幡城」
- 「那古野城」
- 「清洲城」
- 「小牧山城」
信長ほど居城を頻繁に移す武将もめずらしいです。
「上杉謙信」も「武田信玄」も、生涯に居城を移動したことは一度もありませんでした。
「信長」がこれほどまでに居城を移動した理由は、配下の武将たちの土地に対する土着性を弱め、兵農分離をよりすすめるためだと考えられています。
織田信長と「居城」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長と縁のある「場所」や「外国」について徹底解説
今度は「織田信長」と「縁がある地域や外国」について、解説いたします。
信長と「岐阜県」の関係
現在も残る「岐阜」という名前は、「織田信長」がつけた名前です。
「井ノ口」または「稲葉山」と呼ばれていた「岐阜城」とその城下町を、織田信長が「岐阜」と改名したのです。
そしてこの「岐阜」において、信長は歴史に残る数々の功績を残しています。
岐阜において信長は、「楽市楽座」を行って経済を活性化し、「兵農分離」で長期遠征が可能な軍団をつくりあげ、「天下布武」という印を使い始めて勢力拡大の意思を表明するなどです。
現在の「岐阜県」は、【1567年】当時に織田信長が支配していた「美濃国」と、その北にあった「飛騨国」の2カ国が合併するような形で今に至っています。
「岐阜県」を土台にして、「織田信長」は【1568年】の上洛から、【1576年】まで
- 「金ヶ崎の退き口」
- 「姉川の戦い」
- 「比叡山焼き討ち」
- 「長島一向一揆」
- 「長篠の戦い」
など数々の死闘をくぐり抜けていったのです。
「岐阜」は「織田信長」の義父「斎藤道三」が死の間際に、「信長にゆずる」と遺言した土地です。
そのため信長も、特に思い入れの強い土地だったのでしょう。
織田信長と「岐阜」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「織田信長の居城と場所を紹介!安土・岐阜の名前の由来や城下町の政策」の記事はコチラ
「『明智光秀』ゆかりの地を一気に紹介!京都・岐阜周辺の地まとめ」の記事はコチラ
京都における「信長ゆかりの地」とは、どこ?
京都には、「織田信長」に縁のある場所が数多くあります。
「信長の墓」や「信長を祀った神社」など、信長が最期を遂げた「本能寺」も、京都に遺構が残っています。
「本能寺」は、信長が「明智光秀」に襲われて最期を遂げた場所です。
現在の「京都市役所前駅」にある「本能寺」は当時のものではありません。
信長が実際に亡くなった「本能寺」の跡地には「石碑」が建てられ、現在は学校と老人福祉施設が建てられています。
「南蛮寺跡」は、キリスト教の布教を保護した信長が、京都に建てさせた教会です。
信長は【1578年】、息子の「織田信忠」とともに、この「南蛮寺」を訪れたと記録されています。
10年後、「南蛮寺」は「バテレン追放令」を出した「豊臣秀吉」によって破壊されています。
「二条城跡」には、「足利義昭」を守るために信長つくった城の跡地が広がっています。
この「二条城跡」は、現在も残っている「二条城」とは別物です。
現在の「二条城」は「徳川家康」がつくらせたものであり、最後の将軍「徳川慶喜」が「大政奉還」を行った場所です。
寺町「阿弥陀寺」は、「織田信長」とその子「織田信忠」のお墓がある場所です。
「清玉上人」という僧侶が、本能寺から「信長」の遺体を持ち帰り、埋葬したという伝説が残されています。
また、この寺には「森蘭丸」のお墓もあります。
「建勲神社(たていさおじんじゃ)」は、明治天皇が創建した神社で、「織田信長」をまつる神社です。
明治天皇は信長の功績を評価し、ここに「建勲神社」を創建したのです。
この神社には信長の愛刀で、「今川義元」から奪い取った名刀「義元左文字(宗三左文字)」が納められていました。
現在「義元左文字」は、「京都国立博物館」に保管されているとのことです。
織田信長の「ゆかりのお寺」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長と「伊賀」の因縁とは?
織田信長は、忍者で有名だった「伊賀国」を侵略し、虐殺を行ったことで有名です。
信長の次男「織田信雄」は、【1578年】と【1581年】の二度にわたって、伊賀国を侵略しているのです。
この戦いは「天正伊賀の乱」と呼ばれています。
【1578年】の「第一次天正伊賀の乱」は、「織田信雄」が父「信長」の命令もないのに「8千」の軍を率いて勝手に出陣した戦いでした。
勝手に出陣した「信雄」は、「伊賀忍者」たちを相手にして大敗北。
激怒した「織田信長」は、息子「信雄」に対して、「親子の縁をきるぞ」という内容の手紙を送ったといいます。
【1581年】の「第二次天正伊賀の乱」で、「信雄」は父「信長」の命令により「5万~10万」という大軍団を率いて再び伊賀国へ進軍。
この「第二次天正伊賀の乱」によって約3万人もの人間が虐殺された挙げ句に、「伊賀国」は「織田信長」に侵略されたのでした。
織田信長と「伊賀」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の故郷「尾張」の統一について、年表でカンタン解説
織田信長は、故郷である「尾張国(愛知県西部)」を統一するために、【1552年】から【1565年】まで、13年の時間を要しています。
それまでに信長は
- 「織田大和守家」
- 弟「織田信勝」
- 「今川義元」
などの強敵たちを次々と撃破しています。
以下で、「尾張統一」までの経緯を、年表を使いわかりやすく解説いたします。
【1552年】、父「織田信秀」が死去したことで、信長は織田家の家督を継承。
尾張国内の半分を支配していた信長は、親戚である【織田大和守家】との戦いを開始。
【1554年】、「織田彦五郎信友」を討ち果たした信長は「織田大和守家」を討伐することに成功。
次に家督の継承で争っていた弟「織田信勝」を暗殺。
【1560年】、宿敵だった「今川義元」を「桶狭間の戦い」で討ち果たすことに成功。
【1565年】、「犬山城」の「織田信清」を追放したことで、信長はようやく故郷「尾張国」の統一に成功。
尾張国という「豊かな生産力を有する土地」と「東海道という陸路・海路の要衝」を手に入れた信長は、莫大な資金を獲得することに成功したのです。
織田信長と「尾張統一」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長と越前「福井」の関係とは?
【1573年】、「織田信長」は「朝倉義景」を討伐して、越前国を支配することに成功しています。
ところがその直後、「越前国」は「一向宗」に奪われてしまいます。
【1575年】の「越前一向一揆」で信長に奪還されるまで、越前国は【2年間】も「百姓の持ちたる国」になっていました。
実はこの「越前国」こそが、織田家発祥の地だと考えられているのです。
現在の「福井県越前町」には、「織田」という地名が残されています。
戦国時代の当時にも「織田城」という城があったといわれています。
信長のご先祖様は、越前に今も残る『劔神社(つるぎじんじゃ)』の神職を務めていたと言われています。
織田信長は、「平清盛」の孫「平資盛」の末裔を自称していました。
「資盛」の息子「平親真(織田親真)」が、「劔神社」の神主だったというのです。
ただし、「織田信長」が「平親真」や「平清盛」の子孫であるというのは、織田信長のでっち上げ、という説が近年では最も有力であると考えられています。
織田信長の「家系図」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の悲願「美濃国・攻略」についてカンタン解説
「織田信長」は、妻「帰蝶」の父で美濃国の支配者であった「斎藤道三」から、「美濃国をゆずる」と書かれた遺言状を受け取ったと言われています。
信長はこの遺言状を受け取った【1556年】から【11年】をかけて、美濃国と「稲葉山城」を攻略しているのです。
以下に、信長の美濃侵略の経緯を年表でカンタンに解説いたします。
【1556年】、「斎藤道三」が息子「斎藤義龍」に「長良川の戦い」で討ち取られる。
【1560年】、「桶狭間の戦い」で「今川義元」を討ち果たした信長は、「徳川家康」や「浅井長政」と同盟して美濃国攻略を開始。
【1567年】、病死した「斎藤義龍」の息子「斎藤龍興」を美濃国から追い出した信長は、稲葉山城を「岐阜城」と改名して居城とする。
豊かな美濃・尾張を支配した信長は、【1568年】に「足利義昭」を連れて京都へ進軍し、天下統一へ一気に進むこととなるのです。
織田信長と「美濃国」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長と「ポルトガル・スペイン」の関係
織田信長は「ポルトガル」と「スペイン」、通称「南蛮」という国々と貿易を通じて、有効的な関係を維持していました。
信長は、当時の日本では生産できなかった「黒色火薬」の主な原料である「硝石」を必要としていたため、「ポルトガル・スペイン」と友好関係を結ぶしかなかったのです。
「黒色火薬」は、鉄砲を撃つために必要不可欠な代物です。
「大航海時代」と呼ばれていた当時、「ポルトガル・スペイン」は世界中に植民地を広げていました。
「ポルトガル・スペイン」は、キリスト教の宣教師を世界各地に送り込み、現地でキリスト教徒を増やしていました。
このキリスト教徒を戦闘員として利用し、世界各国を支配するのが、「ポルトガル・スペイン」のやり方だったのです。
「ポルトガル・スペイン」は、日本と貿易をする見返りとして、キリスト教の布教を要求。
信長は「貿易」による利益を得るために布教を認め、キリスト教を保護。
そのおかげで信長は、莫大な利益と豊富な「鉄砲・火薬」を手に入れ、迅速に日本各地を侵略していったのです。
織田信長と「南蛮貿易」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長と「琵琶湖」の関係
琵琶湖の周辺には、織田信長ゆかりの地が数多く存在しています。
- 安土城(信長の居城)
- 比叡山(延暦寺)
- 坂本城(明智光秀の居城)
- 長浜城(羽柴秀吉の居城)
なぜ信長ゆかりの地が「琵琶湖」の周辺に多いのかというと、信長が「琵琶湖の水運を重視していたから」です。
当時は「鉄道」も「高速道路」もなく、自動で動いてくれる輸送手段といえば「船」しかありませんでした。
そのため、「船」や「水路」という手段が物流のために、とても重視されていたのです。
「琵琶湖」は、京都という人口の多い大都市に近かったため、数多くの品物が集まる重要な拠点だったのです。
信長は「琵琶湖」という物流拠点を、誰よりも重視していたのです。
信長と「津島」「熱田」の関係とは?
尾張国にいた頃の織田信長が、何よりも重要視した2つの地点がありました。
それが、現在の愛知県西部にある「津島」と「熱田」です。
信長はこの2つの重要拠点から、莫大な利益をあげていたのです。
「津島」とは、現在の「愛知県津島市」のことです。
「津島」は「津島神社」の門前町として繁栄を極め、信長にとっては重要な湊町として、尾張国内で最大の商業都市だったのです。
「熱田神宮」は、三種の神器の一つ「草薙の剣」をまつる神社で、同じく参拝者で賑わう場所でした。
信長はこの地で戦勝祈願をし、「桶狭間の戦い」に出撃。
見事に「今川義元」の首を取ることに成功したのです。
「熱田神宮」には、「桶狭間の戦い」に勝利した信長が、そのお礼のためにつくった「信長塀(のぶながべい)」と呼ばれる「塀」が、今も残っています。
「桶狭間の戦い」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
その他の「信長と縁のある場所」一覧
「織田信長」と縁のある地といえば、日本全国数多くあります。
特に「愛知県名古屋市」から「京都」にかけて、信長ゆかりの地は多いです。
信長が生まれた愛知県「勝幡城」から、最期と遂げた京都市「本能寺」まで、ゆかりの地が各地に点在しています。
一覧でざっと上げてみると、以下のとおりです。
- 「桶狭間古戦場」(今川義元を討ち取った場所)
- 「長篠古戦場」(武田勝頼ひきいる武田騎馬軍団を撃破した場所)
- 「政秀寺」(信長の傅役「平手政秀」の菩提寺)
- 「熱田神宮」(信長が信仰した神宮)
- 「清洲城」(信長が居城とした城)
- 「名古屋城(那古野城)」(信長が生まれたという説のある城)
- 「小牧山城」(信長が美濃国攻略のために拠点とした城)
- 「岐阜城」(信長が名前をつけた居城)
- 「安土城」(信長最後の居城)
- 「姉川古戦場」(信長が「浅井長政」や「朝倉軍」を撃破した地)
- 「京都・本能寺」(信長が最期と遂げた場所)
などなど。
他にも、天下人「織田信長」にゆかりの地は、日本全国各地に存在しています
織田信長と「ゆかりのお寺」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長と関わりの深い「寺」「神社」を徹底的に解説
この項目では、「織田信長」と縁のある「寺」や「神社」について解説いたします。
信長ゆかりの「神社」とは?
「織田信長」に縁のある「神社」といえば、先程も紹介しました愛知県の「熱田神宮」や「津島神社」の他に、京都市「建勲神社」が有名です。
この「建勲神社」には、織田信長が「今川義元」から奪い取って愛用していた名刀「義元左文字(宗三左文字)」が納められています。
「建勲神社(たけいさおじんじゃ)」とは、明治天皇が織田信長の功績をたたえて、建立することを命じた神社です。
明治天皇は、織田信長が愛用し、のちに皇室で保管されていた名刀「義元左文字」を「建勲神社」に奉納しています。
現在「義元左文字」は、「京都国立博物館」に保管されているとのことです。
無神論者で、自らが神であると名乗ったといわれている「織田信長」がまつられるとは、少し不思議な気がします。
織田信長と「義元左文字」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長ゆかりの「寺」をまとめて解説
織田信長に縁のある「寺」といえば、たくさんあります。
- 愛知県名古屋市の「万松寺(萬松寺)」(織田家の菩提寺)
- 京都市「阿弥陀寺」(織田信長の墓があるお寺)
- 滋賀県「総見寺」(信長が自らを神としたお寺)
- 滋賀県「比叡山・延暦寺」(信長が焼き討ちした寺であり、最澄が開いた鎮護国家の大道場)
中でも岐阜県岐阜市「崇福寺」は、織田信長とその子「信忠」の位牌が納められたお寺です。
岐阜市「崇福寺」
【1582年】、織田信長が「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれると、信長の側室「お鍋の方」が、信長の遺品を岐阜へ持ち帰り「崇福寺」へ納めたのでした。
そしてこの崇福寺に「供養塔」と「位牌」を納め、「お鍋の方」は「信長・信忠」の菩提を弔ったのです。
「崇福寺」には
- 「お鍋の方が丹羽長秀に送った書状」
- 「織田信長愛用の時計」
- 「清洲城のシャチホコ」
- 「関ヶ原の戦いの際の岐阜城・血天井」(岐阜城での激戦を物語る、血が染み込んだ板を使った天井のこと)
などが保管されています。
織田信長と「ゆかりのお寺」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長と「比叡山・延暦寺」の因縁
最澄が開いた「延暦寺」のある「比叡山」を焼き討ちした「織田信長」ですが、なぜ信長は「比叡山焼き討ち」を行ったのでしょうか?
その理由は、「比叡山」が「織田信長」の宿敵だった「浅井長政」と「朝倉義景」をかくまったためです。
【1570年】、「浅井長政」は、妻「お市の方」の兄である「織田信長」を裏切り、「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる撤退戦へと「信長」を追いつめます。
同年「姉川の戦い」で「浅井長政・朝倉連合軍」を撃破した「織田信長」ですが、その後の戦いで、「浅井・朝倉連合軍」は、突然「比叡山」へと逃げ込んだのです。
これに対して信長は、比叡山へ手紙を送りました。
「浅井・朝倉を比叡山へかくまうことをやめてほしい。
さもないと、比叡山を攻撃する」
【1571年】、手紙を送ってから1年後、なんの音沙汰もないことに激怒した信長は、比叡山を襲撃。
老若男女を問わず、僧侶も含めて「3千人」を皆殺しにしたといわれています。
実は当時の「比叡山延暦寺」では、高利貸しや水運業を行って莫大な利益をあげており、仏教修行を怠けて、肉食をし女性を山に連れこんで悪事の限りを尽くしていたといわれています。
信長はこういった比叡山の状況を憂い、罰を与えたと考えられているのです。
織田信長と「比叡山焼き討ち」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長と最強の宗教武装勢力「本願寺」の因縁
「織田信長」の人生で最大のライバルといえば、「武田信玄・勝頼」親子と「石山本願寺」でしょう。
なぜ織田信長は、「石山本願寺」と10年もの長きに渡って戦い続けたのでしょうか。
その理由は、「石山本願寺」が置かれていた土地が、信長にとって重要な意味ある土地だったからです。
織田信長は、「本願寺顕如」が率いた「石山本願寺」と、10年におよぶ「石山戦争」を戦い抜いて勝利しています。
信長は宗教武装勢力「本願寺」が本拠地としていた摂津国「石山本願寺」を、重要な軍事拠点として高く評価していたのです。
「石山本願寺」は当時、瀬戸内海に面した河内湾にせり出しており、この地を軍事拠点とすれば、中国・四国・九州地方へ船を使って大量の物資を送り込むことが可能だったのです。
信長は「西日本」攻略の軍事拠点として「石山本願寺」をつかうため、何が何でもこの地を手に入れなくてはいけなかったのです。
「石山本願寺」を手に入れた信長は、この場所に「安土城」の次の居城をつくる予定だったといわれています。
のちに「石山本願寺」跡には、「豊臣秀吉」の手によって「大坂城」が建築されています。
織田信長と「本願寺」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の「菩提寺」は、どこにあるのか?
菩提寺とは、「先祖代々の位牌がおさめられているお寺」のことです。
織田信長の菩提寺はどこなのかというと、諸説ありますが「岐阜県岐阜市・崇福寺(すうふくじ)」ではないでしょうか。
信長の菩提寺と考えられているお寺は複数あります。
- 愛知県名古屋市「万松寺」
- 岐阜県岐阜市「崇福寺」
- 京都府京都市「大徳寺総見院」
- 滋賀県近江八幡市「摠見寺」
これらの寺の中でも「信長の位牌」がおさめられているのは、「岐阜県岐阜市・崇福寺」です。
「万松寺」は、織田家代々の菩提寺と考えられています。
「大徳寺総見院」は、豊臣秀吉が信長の葬儀を行った寺です。
「摠見寺」は、信長が自らを神としてまつったお寺です。
果たしてどれが菩提寺なのか・・・。
筆者は、この中では「崇福寺」がもっとも菩提寺と呼ぶにふさわしいのではないかと感じています。
織田信長と「菩提寺」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長と「高野山」の血塗られた因縁
織田信長が攻め込んだ仏教の聖地は「比叡山」だけではありません。
「比叡山」を開いた「最澄」と並ぶ高僧「空海」が開いた「高野山」も、織田信長による虐殺を受けたといわれています。
【1581年】、高野山は信長による虐殺で、1000人以上の犠牲者を出したといわれています。
発端は、信長を裏切った武将「荒木村重」でした。
「荒木村重」は、信長を裏切って戦いを挑んだものの、敗北して逃亡。
このとき、荒木村重の軍から逃亡した落ち武者5人が、「高野山」へ逃亡したのです。
信長は、この落ち武者を引き渡すように高野山へと申し入れましたが、高野山は拒絶。
挙句の果てには、その落ち武者を捜索に来た織田家の武士たちを、高野山は討ち果たしてしまったのです。
激怒した信長は「堀秀政」に命じて高野山を攻撃した、というわけです。
この虐殺が原因で、「関ヶ原の戦い」に敗北し高野山へ落ち延びてきた信長の孫「織田秀信(三法師)」は、入山を希望したものの、山へ入ることが出来なかったといわれています。
織田信長と「高野山」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長の「名言」を徹底的に解説
この項目では、「織田信長が残した名言」について解説いたします。
信長の「名言集」一覧と、その意味
織田信長がのこした名言には、今でも役立つものが数多くあります。
その名言について、一覧でご紹介いたします。
- 「才ある者は、鍛錬を怠り、自惚れる。才なき者は、日々努力する」
- 「攻めるところは一つに絞れ。無駄なところは攻めてはならぬ」
- 「絶対など、絶対にない」
- 「臆病者には、敵は常に大軍に見えるものだ」
- 「仕事は自ら探してつくるものだ。与えられた仕事をこなすのみでは、雑兵と同じだ」
- 「必死に生きてこそ、その一生は光り輝く」
- 「理想を掲げて、信念に生きよ。理想や信念を無くしたものは、戦う前からすでに敗北している。そんな者は死人と同じだ」
この他にも、信長が残した名言がいくつかあります。
次は「人間五十年~」の意味について解説いたします。
織田信長の「名言」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「織田信長が【本能寺の変】で残した名言!その意味に隠れた覚悟と後悔」の記事はコチラ
信長が残した「言葉」とその意味を解説
織田信長といえば「人間五十年~」で始まる「敦盛」という能(のう)を好んでいたといわれています。
その「敦盛」の歌詞と意味を、わかり易く解説いたします。
「人間五十年 下天のうちをくらぶれば夢幻の如くなり
一度生をえて、滅せぬもののあるべきか」
(人間界の五十年は、天界(下天)では一昼夜にしかすぎない。
まさに人の世は、夢や幻のようなものなのだ。
一度この世に生まれでて、滅びないものなど、あるはずがない)
織田信長と「敦盛」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長が残した最期の言葉「是非に及ばず」に込められた真の意味とは?
諸説あるものの、「織田信長」の最期の言葉は
「是非に及ばず」(ぜひにおよばず)
(仕方のないことだ)
だったといわれています。
この言葉には、一つの意味が込められていたと、「明智光秀」の子孫を自称する「明智憲三郎」さんがおっしゃっておられました。
「是非に及ばず」を、正確に現代語訳すると
「是か非かを確認するに及ばない」
つまり
「(わかりきっていることだから)確認するまでもない」
という意味になります。
「本能寺」に宿泊していた「織田信長」の部下たちは、「明智光秀」が襲撃してきたという部下の報告を耳にして驚愕し、「そんなはずはない」「何かの間違いだ」と思ったわけです。
「織田信長から信頼され、誰よりも評価されていた明智光秀が、裏切るはずがない」
しかし信長だけは、「明智光秀に襲撃される理由」について、思い当たることがあったようなのです。
そのため、「明智光秀に裏切られるならば仕方ない」という意味で
「是非に及ばず」
(本当に光秀が裏切ったかどうかを確認するまでもない)
と言ったのです。
その「光秀に裏切られた理由について、思い当たること」については、以下のリンク記事でくわしく解説いたしました。
「光秀に裏切られた理由」と「信長が残した最期の言葉」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長の「俳句」や「歌」を徹底調査
ここでは「織田信長」が残した「俳句」や「歌」について、考察してみたいと思います。
信長は「辞世の句」を残したのか?
結論から言えば、「織田信長」は「辞世の句」を残していません。
ただし、最期に「舞」を舞ったといわれています。
最期に舞ったものとは、先程も説明いたしました「敦盛」のことです。
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を得て、滅せぬものの、あるべきか」
織田信長はこの「敦盛」を「辞世の句」の代わりとしたと考えられます。
戦国武将や幕末の志士たちは、いつ死んでもいいように、常に「辞世の句」を用意していたといわれています。
信長は、「辞世の句」を用意する暇もなく討ち果たされたので、辞世の句は残されていません。
このことからも「本能寺の変」が、どれほど唐突で驚くべき事件だったか、想像できます。
「織田信長の最期の言葉」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長は「俳句」をたしなまなかったのか?
織田信長がつくった「俳句」は、現在まで未だに発見されていません。
信長は「俳句」をたしなまなかったのかもしれません。
ただし信長といえば、「ホトトギス」に関する俳句が有名です
「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
この句は、信長のがつくった俳句ではありません。
「耳嚢(みみぶくろ)」という、江戸時代【1784~1814年】に書かれた本に掲載された歌なのです。
「豊臣秀吉」や「徳川家康」も、「ホトトギス」にちなんだ歌が有名ですが、全て後世の人がつくった歌です。
織田信長と「ホトトギス」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長の名言「ホトトギス」の意味とは?
「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
「織田信長」の性格を表す歌として有名ですが、「豊臣秀吉」や「徳川家康」の性格を表す歌も有名です。
「豊臣秀吉」
「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」
「徳川家康」
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」
それぞれの俳句が、三人の性格を表しています。
- 気が短く、残虐な性格の「織田信長」
- 頭が良くてアイディアマンだった「豊臣秀吉」
- 我慢強く、穏やかで気が長かった「徳川家康」
それぞれがそれぞれの特徴を活かして、天下を取ったのです。
余談ですが、「ホトトギス」は当時から「死をつかさどる鳥」と考えられていました。
そのため「ホトトギス」は、「辞世の句」に好んで使われたのです。
「足利義輝」も「柴田勝家」も「お市の方」も「久坂玄瑞」も、「ホトトギス」を辞世の句に使っています。
「ホトトギス」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「織田信長の名言集と意味解説!ホトトギスや人生50年に潜む秘密とは」の記事はコチラ
「徳川家康の性格エピソードを紹介!ホトトギスを待てない短気者だった」の記事はコチラ
「【久坂玄瑞】子孫と家系図を紹介!辞世の句がとてつもなく悲し過ぎる」の記事はコチラ
「《足利義輝》辞世の句の意味と込められた想い!剣豪将軍の壮絶な最期」の記事はコチラ
信長が残した「歌」とは?
織田信長が残した「歌」、つまり「短歌」はないのか調査してみました。
やはり信長は「短歌」や「俳句」をたしなまなかったらしく、見つかりませんでした。
「歌」といえば、「敦盛」の「人間五十年~」があまりにも有名で、それ以外のものは後世まで残らなかったみたいです。
織田信長といえば、「うつけ(バカ者)」とあだ名された劣等生だと思われているようですが、実際には違います。
信長は幼い頃から、父「織田信秀」により英才教育を施されていました。
歴史書「信長公記」には、「若い頃の信長が常に家庭教師を連れて歩き、いつでもどこでも学んでいた」と記されています。
おそらく信長は、「兵法」など武将に必要な素養は体得していたものの、「歌」や「短歌」のような教養はなかったのではないでしょうか。
織田信長と「歌」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長と「敦盛」の関係を徹底的に解説
信長が好んだ「敦盛の舞」とは何か?
「織田信長」が好んでいた「敦盛の舞」とは、どういうものなのか?
この歌は「源義経」で有名な「一ノ谷の戦い」で戦死した平家一門の若武者「平敦盛」についての歌なのです。
「平清盛」の甥「平敦盛」は、「一ノ谷の戦い」で源氏武者「熊谷直実」に討たれました。
我が子と同じ年頃の若武者「敦盛」を討ち果たしてしまった「熊谷直実」は、そのことを悔やんで苦しみ、出家してしまいます。
出家したあとの「熊谷直実」の様子を歌ったのが、この織田信長が好んだ「人間五十年~」から始まる一節なのです。
実は「敦盛」という歌は、かなり長いのですが、織田信長はその一部分「人間五十年~」のところしか歌っていませんでした。
もしかすると信長は、この一節以外は知らなかった、または興味がなかったのかもしれません。
余談ですが、信長が先祖であると主張していた武将「平資盛」は、「平敦盛」のいとこ「重盛」の子供です。
織田信長と「敦盛」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長が好きだったのは「能」ではなく「幸若舞」の「敦盛」だった
「人間五十年~
下天のうちをくらぶれば~」
と、重々しく歌われる「能」の「敦盛」。
実は織田信長が好んでいたのは、重々しい「能」の「敦盛」ではなく、もっと軽やかでポップな感じの「幸若舞」の「敦盛」でした。
重々しい「能」にも、軽くポップな「幸若舞」にも、ともに「敦盛」という演目があるのです。
おそらくドラマ的には、重々しい「能」のほうが画(え)になるため、「幸若舞」ではなく、「能の敦盛」が使われているのでしょう。
「幸若舞」とは、平安時代に「桃井直詮」という武将が創始した舞曲です。
【2020年】の大河ドラマ「麒麟がくる」の第21話「決戦!桶狭間!」で、俳優「染谷将太」さんが演じる「織田信長」が、出陣前に「敦盛」を軽やかに舞うシーンがありました。
あれが「能」ではなく、「幸若舞」の「敦盛」に近いものであると考えられます。
「麒麟がくる」などの「大河ドラマを無料で視聴する方法」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「人間五十年」とは「人生五十年」という意味ではない?
「人間の寿命は約50年」という意味で解釈されている「敦盛」の一節「人間五十年」ですが、実は意味が全く違います。
「人間五十年」とは、「にんげんごじゅうねん」と読むのではなく、「じんかんごじゅうねん」と読むのが正解です。
「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり
一度生を得て、滅せぬものの、あるべきか」
この一節の意味を正確に現代語訳すると、以下の通りになります。
「人間世界の五十年は、神々が住む世界で一番下に位置する『下天』の一日にしかあたらない。
人の命は、夢や幻のような儚いものなのだ」
織田信長が、この「五十年」に一つ足りない「四十九歳」で亡くなったため、「人間五十年」とは「人の寿命は五十年」と勘違いして解釈されたのでしょう。
「敦盛」の「歌詞」とその「意味」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長が率いた「軍団」について、徹底解説
ここでは「織田信長」が率いた「軍団」について解説いたします。
信長軍の「鉄砲隊」の真実とは?
織田信長といえば「長篠の戦い」で「武田勝頼」が率いた最強の「武田騎馬軍団」を、「鉄砲三段撃ち」で撃破したと考えられています。
しかし、実際には「鉄砲」の三段撃ちなど存在せず、「陣城」と呼ばれる「砦」を構築して勝利したと考えられています。
織田信長といえば「鉄砲」を重視して、革命的な戦い方を発案したと考えられていますが、実はそうではありません。
近年の研究では、当時の「長篠古戦場」では足場が雨でぬかるんでいて、「三段撃ち」などとても不可能であったことがわかっています。
しかも信長が「長篠の戦い」で勝利する以前から、鉄砲傭兵集団「雑賀衆」は、「釣瓶撃ち」という「五段構え」の鉄砲戦術を考案していたことがわかっています。
信長は、傭兵集団を活用して勝利を繰り返した武将です。
しかし「傭兵集団」には「敗色濃厚になると逃亡しやすい」という弱点があったため、最新兵器「鉄砲」によって、その弱点を補って勝利していったのです。
「織田信長と鉄砲」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長軍の「最大兵力」は、どれくらいなのか?
織田信長の「最大動員兵力」は、最盛期には「20万人」前後であったと考えられます。
この数字は、織田信長が支配していた地域の「石高」つまり「生産力」から計算したものです。
詳しくは、以下のとおりです。
【1582年】、「織田信長」の最盛期、その石高は約「750万石」でした。
信長の重臣「明智光秀」は、「100石につき兵士6人」を出すようにと、自分の領地に軍役を課していました。
ただ、江戸時代の軍役は、その半分以下の「100石につき兵士2.5人」でした。
「100石につき兵士2.5人」で考えると、「750万石」で約「18万人」。
「明智光秀」のように、「100石6人」という重税の地域もあったと考えると「20万人」はくだらなかったと考えられます。
織田信長の「兵力」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
恐るべき「織田信長の水軍」の実力
織田信長は、志摩国の武将「九鬼嘉隆(くき よしたか)」を配下に従えて、彼の水軍「九鬼水軍」を支配下においていました。
この「九鬼水軍」が、当時の世界でも類を見ない「鉄甲船団」で、日本最強だった「毛利水軍」を撃破したのです。
【1588年】、「アルマダの海戦」と呼ばれる戦いで、当時の世界最強国「スペイン」の「無敵艦隊」が、エリザベス女王率いる「イギリス軍」に撃破されたことは有名です。
大航海時代と呼ばれた当時の世界では、海軍・水軍の力はとても重要だったのです。
織田信長は、その水軍の力をよく理解していたらしく、「九鬼嘉隆」と「九鬼水軍」を重く用いています。
【1576年】、信長は宿敵だった「石山本願寺」を包囲したものの、救援物資を運び込もうとする「毛利水軍(村上水軍)」との海戦で大敗します。(第一次木津川口の戦い)
【1578年】、前回の敗戦で「毛利水軍」の火器に敗北した信長は、「九鬼嘉隆」に命じて「鉄を貼った鉄甲船」をつくり、再び「毛利水軍」と開戦し撃破。(第二次木津川口の戦い)
この戦いにより、物資補給路を絶たれた「石山本願寺」は、2年後の【1580年】、信長に降伏。
信長は最大のライバル「石山本願寺」を、「水軍」の力を使ってようやく屈服させたのです。
織田信長と「天下統一」について、わかりやすく解説
ここでは「織田信長」と「天下統一」について解説いたします
信長と「全国統一」の真相
織田信長が、なぜこれほどまでに有名なのかというと、「戦国時代」という内戦の時代に、もっとも勢力拡大に成功した武将だからでしょう。
信長は戦乱の時代に、「天下統一」まであと一歩、というところまで勢力を拡大させました。
信長といえば「天下布武」という印で有名です。
「天下を武力で統一する」という意思表示だといわれていますが、実はそうではありません。
「天下」とは、現在の「京都府南部」「兵庫県東部」「大阪府」「奈良県」など、機内の一部を指す言葉だったと考えられています。
ということは「天下布武」とは、「京都・兵庫・大阪・奈良」などの地域を武力で治めるという意味になります。
織田信長は「尾張国」という、肥沃だけれども小さな土地の領主から、日本全国の4割を支配する大勢力へとのし上がりました。
【1552年】の家督継承から、【1582年】の「本能寺の変」まで、わずか20年で領地を20倍以上に拡大したのです。
「北条氏政」「長宗我部元親」「島津義久」など、全国各地の有力大名も信長に臣従していたので、「本能寺の変」がなかったら、あと2~3年で「天下統一」は達成されていたはず。
そんな織田信長ですが「明智光秀」によって、「本能寺の変」を起こされて、あっけなく命を落とすこととなるのです。
織田信長と「全国統一」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長と「天皇」「朝廷」との関係とは?
ここでは「織田信」と「天皇・朝廷」について解説いたします。
信長と「天皇」の関係とは?
織田信長といえば、「自分を神として人々に祈らせた」ことで有名です。
一説によると信長は、「天皇を滅ぼして自分が王になろうとした」といわれていますが、実際にはそんなことはないのです。
【2020年】の大河ドラマ「麒麟がくる」で、天皇が住む「京都御所」の壁が崩れ、「正親町天皇」が困っていたというシーンがありました。
これが、織田信長と「正親町天皇」の関係を物語るシーンとなっています。
当時の「正親町天皇」は、財政的にとても困窮していました。
ところが【1568年】、「織田信長」が上洛してくると、多額の支援をして「正親町天皇」を支えたのです。
「信長」には、「正親町天皇に誠仁親王への譲位を迫った」という説があります。
一説によると、「誠仁親王」のほうが、操り人形として適していたから、という理由だそうです。
ところが近年では、その逆で、「信長は譲位しようとしていた正親町天皇を止めた」といわれています。
ちなみに筆者は、「信長は正親町天皇を庇護した支援者であり、正親町天皇の譲位を止めた」と思っています。
織田信長と「天皇」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長と「朝廷」の関係!信長は「朝廷」を滅ぼそうとしたのか?
「織田信長」と「朝廷」は、協調関係にあったと考えられます。
「朝廷」は「織田信長」に権威を与え、その代わり「織田信長」は困窮していた「朝廷」に金銭的援助を行う、というわけです。
朝廷は信長の財力を利用して、荒れ放題だった京都御所の修復や、多額の費用を必要とする式典や儀式を行っていました。
それに対して「信長」も、朝廷からの「戦争の停止命令」を上手に利用しています。
- 【1570年】、「浅井長政・朝倉連合軍」との戦い
- 【1573年】、「足利義昭」との戦い
- 【1580年】、「石山本願寺(本願寺顕如)」との戦い
これら信長を苦しめた戦いは、全て「朝廷」からの命令という名目で中止させられています。
信長と「朝廷」は、互いに必要なものを補い合う、持ちつ持たれつの関係だったのです。
室町幕府三代将軍「足利義満」は、「朝廷」の権威を乗り越えて、自らがさらなる権力者になろうとしましたが、信長にそんな野望はなかったと思います。
織田信長と「朝廷」や「天皇」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長が所持していた「刀剣」や「甲冑」「兜鎧」
ここでは「織田信長」の「刀剣」や「甲冑」について解説いたします。
織田信長の愛用した「名刀」一覧
織田信長は生涯に数多くの名刀を集め、愛用していたといわれています。
特に「光忠(みつただ)」という備前長船一派の刀工がつくった刀を好んで、この「光忠」一派の刀を20以上も持っていたとのことです。
信長は、「本能寺の変」で亡くなる際に「実休光忠」と「薬研藤四郎」という刀を使って戦ったといわれています。
その他にも信長の愛刀は数多くあります。
- 茶坊主を圧(へ)しきった後、黒田官兵衛に与えられた「へし切長谷部」
- 「桶狭間の戦い」で「今川義元」から奪い取った「義元左文字(宗三左文字)」
- 信長お気に入りの刀工「光忠」の息子「長光」が制作した「津田遠江長光」
- 同じく「長光」が制作し、大工道具の「鉋(かんな)」をも一刀両断した「鉋切長光」
- 信長の葬儀で秀吉が手に持って葬列に並んだ「不動国行」
これらの刀は後の世に伝えられ、現存しています。(「不動国行」は現在行方不明)
「織田信長の刀」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
『【本能寺の変】織田信長の愛刀!本能寺で焼けた自害に使った刀とは?』の記事はコチラ
織田信長の「甲冑」の真実と行方
織田信長の鎧といえば、「南蛮胴」つまりヨーロッパ風の鎧を思い描く方も多いと思います。
しかし、信長は「南蛮胴」を使っていなかったといわれています。
信長が着用したという鎧は現存しています。
信長が着用したという鎧は
「紺糸縅胴丸具足」
(こんいとおどしどうまるぐそく)
と呼ばれており、現在では京都市の「建勲神社」に収蔵されています。
ちなみに「南蛮胴」といえば、「徳川家康」が着用した「南蛮胴」が「日光東照宮」に置かれています。
この「南蛮胴」には複数のへこみがあり、鉄砲ですら貫くことができなかったといわれていますが、実際には「火薬量を減らした鉄砲で撃っただけ」と考えられます。
織田信長の「帽子」とは?
織田信長は、宣教師「ルイス・フロイス」から「黒いビードロの帽子」を受け取ったといわれています。
信長はその「帽子」を、「南蛮傘」と呼んで愛用していたのだとか。
信長は西洋の品物に強い関心を示したといいますが、特に「帽子」を気に入ったようですね。
- 「欧州製の大鏡」
- 「孔雀の尾」
- 「ベンガル産の藤杖」
- 「ビードロの帽子」
「ルイス・フロイス」はこれらを信長に献上したそうですが、信長は「ビードロの帽子」のみを受け取って、他は返却したとのことです。
信長と「食べ物」の関係について解説
ここでは「織田信長」と「食べ物」について解説いたします。
織田信長は「金平糖」を好んでいた
信長は金平糖(こんぺいとう)をとても気に入っていたといわれています。
「ルイス・フロイス」は【1569年】に「織田信長」と初めて面会した際に、「フラスコ入りの金平糖」と「ろうそく」を贈ったと記録されています。
金平糖は元々は「コンフェイト(ポルトガル語で砂糖菓子のこと)」という名前でした。
西洋の品物を好んだという好奇心旺盛な信長のことですから、「金平糖」をとても気に入ったのでしょう。
この信長に献上された金平糖が、日本全国へ広まり、非常に人気となりました。
どうやら「徳川綱吉」が治めた「元禄時代」には、金平糖は大衆に広まっていたようです。
信長と「薄味な京料理」のエピソード
「織田信長」といえば、愛知県出身で、とても「濃い口」の食事を好んだといわれています。
宿敵だった「三好家」のまかない料理人を捕らえた「信長」は、天下一と呼ばれたその料理人に食事を作らせて、味を確認します。
すると、信長は激怒してしまうのです。
「味が薄くて不味い!食えない!」
と言って、料理人を殺そうとしたのでした。
料理人は「もう一度チャンスをくれ」と頼みこみ、今度の料理では「濃い味の料理」をつくり、信長を満足させたのでした。
どうやら「田舎風の濃い味」のほうが、信長の口にあっていたようです。
信長は運動量が多かったため、大量の塩分を必要としていたのでしょう。
そのためか、信長には「脳溢血」の危険性があったと指摘されています。
信長と「ワイン」の関係
織田信長は「フランシスコ・ザビエル」が日本へ持ち込んだワインを飲んだことでも有名です。
当時のワインは「珍陀酒(ちんたしゅ)」と呼ばれており、相当に珍しい代物だったとのことです。
しかし、甘党であるはずの「信長」は、極めて酸味の強い「ワイン」を飲まされていた可能性が高いのだとか・・・。
当時のワインは、ヨーロッパから長旅を経て日本へ持ち込まれました。
その色を「血」にたとえて飲んだともいわれている「織田信長」ですが、長いあいだ船で保管されていたワインは、酸味が相当に強かったはず。
もしかすると信長は「酸味の強いワイン」よりも、「ブランデーを加えた甘いポートワイン(果実酒)」を飲んだのかもしれません。
大河ドラマ「秀吉」の第22話「母御前、はりつけ」で、信長が「前田利家」とともにワインを飲み、「私にはぶどうの酒より米の酒のほうが合っている」と利家から言われるシーンがありました。
信長の「好物」とは何か?
織田信長の好物といえば「干し柿」が有名です。
信長は「うつけ」と呼ばれていた若い頃、「干し柿」や「栗」や「瓜」などを歩きながら食べていたとのことです。
南蛮貿易が盛んとなったあとは、「ビスコート」と呼ばれるパンのような、ビスケットのようなものも好んでいたといいます。
または「金平糖」も好んでいたようですね。
おそらく信長は、京都風の薄味を好まない、塩分過多の食生活を送っていたのでしょう。
信長と「湯漬け」の関係
信長は、濃い味を好んでおり、よく「焼き味噌」を「湯漬け」と一緒に食べていたとのことです。
湯漬けとは、ご飯にお茶をかけて食べる「お茶漬け」ではなく、「お湯」をかけて食べるもののこと。
当時は「ご飯」が炊けたあとの保温が出来なかったため、「ご飯」はすぐにかたくなってしまうのです。
そのため、かたいご飯にお湯をかけてほぐし、サラサラと食べられるようにしたのでした。
【645年】、「蘇我入鹿」が暗殺された「乙巳の変」のときには、すでに「水漬け」と呼ばれる「湯漬け」の原型が存在していたとのことです。
さらには「湯漬けは、香の物と一緒に食べないといけない」などの作法まで存在していたようです。
信長は、出陣前に湯漬けを食べて腹を満たしていたともいわれています。
織田信長の「服装」について解説
信長の服装といえば、「うつけ」と噂されていた若い頃は、かなりド派手な格好をしていたようですね。
髪は粗末に結い上げて、衣はド派手、腰からは「干し柿」などが入っていた袋をぶら下げて、仲間にもたれかかって町を練り歩いていた・・・
と、「信長公記」には記されています。
そんな信長も、大人になると少し落ち着いた服装をするようになります。
晩年に行った「京都の馬揃え(軍事パレード)」では、「黒い西洋の帽子」をかぶり、「マント」を身に着けて、京都の民衆や天皇を驚かせたといいます。
特にマントはお気に入りだったようで、出陣の際には身に着けていたのだとか。
織田信長という人が、とても派手好みな人であったことがよくわかります。
織田信長の「肖像画」「絵」または「像」について徹底的に解説
ここでは「織田信長」の肖像画や絵、または木像・銅像などについて解説いたします。
信長の「肖像画」や「絵」は、どこにあるのか?
織田信長の肖像画といえば、各地に複数ありますが、特に有名なものは「長興寺」に納められている、こちらの肖像画でしょう。
これは、教科書などにもよく登場する、愛知県豊田市のお寺「長興寺」所蔵の肖像画です。
これは「信長一周忌に寄贈された肖像画」です。
「長興寺」は、臨済宗東福寺派のお寺。
織田信長の家臣だった「余語正勝」が、「本能寺の変」の翌年【1583年】に信長の葬儀を行ったため、そのときに作成させた信長の肖像画が、今に伝わったのです。
信長の肖像画や似顔絵は、各地に複数ありますが、これは特に有名なものといえるのではないでしょうか。
織田信長の「肖像画」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の顔は「イケメン」だったのか?
織田信長は、当時としてはかなりのイケメンだったと考えられています。
なぜなら「信長」と父母を同じくするの妹「お市の方」が、「戦国一の美女」と呼ばれ、実際に「30歳過ぎ」であるにもかかわらず「20歳」にしか見えないほど美しかった、という証言が残っているからです。
その「お市の方」と同じ血を引く信長ですから、かなりの美男子であったことは想像に難くありません。
ルイス・フロイスの証言によると、織田信長の容姿は以下のとおりです。
- 「背が高い」
- 「細身」
- 「髭が薄い」
- 「甲高い声」
その他にも、「切れ長の目」だったという証言が残されています。
おそらく信長は、当時としてはかなりの美男子だったのでしょう。
織田信長の「肖像画」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長の「銅像」や「木像」の在り処を一覧でご紹介
織田信長の銅像・木像といえば、各地に複数存在しています。
もっとも有名な木像といえば、京都市大徳寺総見院にある「織田信長」の木像でしょう。
この大徳寺総見院の木像は、豊臣秀吉が行った信長の葬儀のときに作られた、二体の木像のうちの一つです。
一体はご遺体の代わりに火葬されて、埋葬されたといいます。
銅像はというと、日本全国各地に建てられています。
ざっと一覧でご紹介いたしますと、以下のとおりです。
- JR岐阜駅前
- 清洲公園
- 桶狭間古戦場
- 大阪青山歴史文学博物館
- 勝幡駅前
- 岐阜公園
- 東京都武蔵野市井の頭自然文化園
- 島原城跡公園
- 越前織田町
- 大垣市ソフトピアジャパンセンタービル
- 安土駅前
やはり岐阜や愛知などの、織田信長に縁のある地に銅像が建てられているようですね。
信長の「顔写真」を画像でご紹介
山形県天童市の「三宝寺」には、「顔写真」と間違いかねない信長の肖像画が保管されています。
この肖像画は、当時のバテレン絵師が描いた代物です。
この絵を描かせたのは、信長の次男「織田信雄」といわれています。
「三宝寺」は、信長の次男「信雄」の子孫が代々治めた「天童藩」の菩提寺です。
そのため、信長の肖像画が現代まで保管されていたのだと考えられます。
すでにおわかりだとは思いますが「信長の顔写真がある」という噂は、実際にはこの「宣教師が描いた信長の肖像画」が、まるで写真のような精度をほこっている、というだけの話しなのです。
織田信長の「肖像画」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
信長と「馬」の関係
ここでは「織田信長」と「馬」または「鷹」について解説いたします。
信長の「愛馬」一覧
「織田信長」は馬術をとても得意としていました。
また、馬には誰よりもこだわっていたらしく、名馬を多数保有していました。
信長の愛馬を、判明している限り、一覧でざっとご紹介いたします。
- 鬼葦毛(おにあしげ)
「鬼葦毛」は「荒々しくさし毛の入った葦毛馬」の意味。【1581(天正9)年2月】京都の馬揃えで、一番入り。 - 小鹿毛(こかげ)
体毛が褐色で、背・尾と膝から下が黒いもの。【1581(天正9)年2月】京都の馬揃えで、二番入り。 - 大葦毛(おほあしげ)
【1581(天正9)年2月】京都の馬揃えで、三番入り。 - 遠江鹿毛(とほたふみかげ)
【1581(天正9)年2月】京都の馬揃えで、四番入り。 - 「やばかげ」「駮の馬」「遠江鹿毛」
【1582(天正10)年1月】爆竹馬場入りのとき、信長は仁田から進上された「やばかげ」と、奥州から贈られた「駮の馬」「遠江鹿毛」の名馬三匹を乗り回した。 - 小雲雀(こひばり)
【1581(天正9)年2月】京都の馬揃えで、五番入り。 - 大黑(おほぐろ)
【1581(天正9)年2月】京都の馬揃えで、信長が乗った。 - がんぜき黒(がんぜきぐろ)
【1575(天正3)年10月】「伊達輝宗」から信長に進上された馬 - 白石鹿毛(しろいしかげ)
【1575(天正3)年10月】「伊達輝宗」から信長に進上された馬。奥州でも有名な駿馬で、「竜の子」と呼ばれた。 - 星河原毛(ほしかわらげ)
栗毛の名馬。関東の常陸国から献上された馬で骨柄太く、30里の道をも乗りこなすとの評判であった。
信長を「動物」に例えると・・・
- 「豊臣秀吉」は「サル」または「ハゲネズミ」
- 「前田利家」は幼名「犬千代」にちなんで「犬」
- 「徳川家康」は「タヌキ」
と呼ばれていました。
では「織田信長」はというと、実は信長には「尾張の大うつけ」というあだ名のみで、かっこいい「動物に例えたあだ名」はないようです。
以下に戦国大名を動物に例えた「あだ名」を一覧でご紹介いたします。
- 「伊達政宗」・・・「独眼竜」
- 「最上義光」・・・「羽州の狐」
- 「上杉謙信」・・・「越後の龍」
- 「武田信玄」・・・「甲斐の虎」
- 「北条氏康」・・・「相模の獅子」
- 「斎藤道三」・・・「美濃のマムシ」
- 「織田信秀」・・・「尾張の虎」
- 「龍造寺隆信」・・・「肥前の熊」
戦国武将には、その強さを表現するあだ名がよくつけられるわけですが、信長にはそういった「あだ名」が付けられることはありませんでした。
強いてあげるなら、動物ではないものの「第六天魔王」と自ら名乗っていたことがありました。
織田信長と「忍者」「戦国武将」「戦国大名」との関係
ここでは「織田信長」と「忍者」などについて解説いたします。
信長と「忍者」の関係
「織田信長」といえば、「天正伊賀の乱」など、忍者の国「伊賀国」で虐殺を行った武将として有名です。
そんな信長ですが「桶狭間の戦い」で、「饗談(きょうだん)」と呼ばれる忍者集団を使ったといわれています。
「饗談(きょうだん)」とは、尾張・三河(現在の愛知県)を中心に活動した忍者集団なのだとか。
「桶狭間の戦い」で、信長は「今川義元」の首をとった「毛利良勝」ではなく、「今川義元」の居場所をつきとめた「梁田政綱」を勲功第一にした逸話は有名です。
信長は「伊賀国」で虐殺は行ったものの、忍者の能力は評価していたようですね。
余談ですが、信長は「杉谷善住坊」という忍者から、鉄砲で狙撃されたことがあります。
運良く命は助かったようですが、「杉谷善住坊」はその後かなり悲惨な方法で処刑されたといわれています。
織田信長と「忍者」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長の「軍師」とは誰なのか?
織田信長には「軍師」と呼ばれる存在は、いなかったのでしょうか?
信長には「軍師」がおらず、何事も自分で考えて決定したという噂があります。
ただし信長には、「沢彦宗恩(たくげん そうおん)」という名前の参謀・ブレーンがいたという噂もあるのです。
「沢彦宗恩」とは、「織田信長」の兵法の師であり、信長の傅役だった「平手政秀」の菩提寺「政秀寺」の住職を務めた人物です。
この「沢彦宗恩」は、「織田信長」が稲葉山城を陥落させたとき、「岐阜」と改名するようにアドバイスした人物なのだとか。
三国志の天才「諸葛亮孔明」のように、どのようにすれば戦争に勝利できるのかをアドバイスする「軍師」は、信長にはいなかったようです。
ただ、次どのような「戦略」を取るべきなのかをアドバイスしてくれる「黒田官兵衛」のような軍師・参謀の役を、この「沢彦宗恩」が担っていたのかもしれません。
織田信長の「軍師」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
戦国大名の中で「織田信長」だけが飛躍できた理由
織田信長たちは、なぜ「大名(だいみょう)」と呼ばれたのでしょうか?
農民たちのまとめ役だった大地主や豪農を「名主(なぬし)」と呼んだらしいのですが、大名とは有力な「名主」である「大名主(おおなぬし)」が由来であるとされています。
その「大名」の中でも、「織田信長」は他の大名たちとは異なるところに目を向けていました。
戦国大名は、「農業」を主な収入源としていました。
農地を耕作し、そこから得られる産物を税として徴収し、それを金銭に代えて軍団を強化していました。
ところが信長は、「農業」よりも「商業」すなわち「商売」を重視していたのです。
信長は徹底的に商業を振興し、そこから得られる莫大な利益を使って、「鉄砲」などの最新兵器を装備した最強の軍団を形成したのです。
信長は、圧倒的な経済力と軍事力をもって、他を寄せ付けない大大名に成長できたのです。
織田信長と「政策」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長について書かれた「おすすめの本」
ここでは「織田信長」について書かれた本・書籍について解説いたします。
織田信長について学べる「小学生」におすすめの「本・伝記」とは?
織田信長の伝記・本の中でもっともおすすめしたいのが、「織田信長」の伝記・元祖といっても良い名著「信長公記(しんちょうこうき)」です。
「信長公記」とは、織田信長の右筆(秘書)を務めていた武将「太田牛一」が記した一級資料です。
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「太田牛一」は各方面に綿密な取材を行い、織田信長の生涯を非常にわかりやすく、面白おかしく解説してくれています。
今回ご紹介するこの「現代語訳 信長公記」は、読みやすいように現代語訳がされていますので、小学生でも問題なく読みすすめることができるはずです。
「織田信長」についての読書感想文を書くなどする場合、この「信長公記」ほど役立つ伝記はないと思います。
信長の姿をその眼で見ていた武将「太田牛一」が記した「信長公記」、ぜひともご一読くださいますことを、おすすめします。
織田信長についての「おすすめ歴史小説」
織田信長の伝記としては「信長公記」がおすすめですが、「歴史小説」ならば、「山岡荘八」さんの「織田信長」がもっともおすすめです。
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「山岡荘八」といえば、「徳川家康」などの名著でも有名な文豪です。
この「織田信長」も、名著「徳川家康」に負けない名作と言って良い代物だと思います。
「山岡荘八」さんが描いた「織田信長」像は、最近の研究で明らかになった近年の「織田信長」とは異なっているかもしれません。
しかしそれでも、この小説には一読の価値が十分すぎるほどにあると思います。
織田信長を演じた「俳優たち」と「おすすめ映画」
ここでは「織田信長」を演じた俳優たちや、おすすめの「映画」をご紹介いたします。
「織田信長」役を演じた「俳優」たち一覧
織田信長を演じた俳優たちは数多くいますが、筆者が個人的にもっとも気に入っているのは、大河ドラマ「秀吉」で「織田信長」を演じた俳優「渡哲也」さんです。
また、大河ドラマ「国盗り物語」で「織田信長」を演じた俳優「高橋英樹」さんも、迫力に満ちて素晴らしかったと思っています。
その他にも、数多くの俳優さんが「織田信長」を演じていました。
ザッと一覧にすると以下のとおりです。
- 「役所広司」さん
- 「江口洋介」さん
- 「豊川悦司」さん
- 「市川海老蔵」さん
- 「吉川晃司」さん
- 「舘ひろし」さん
- 「反町隆史」さん
- 「緒形直人」さん
- 「石橋凌」さん
- 「染谷将太」さん
また、ほんの一瞬しか登場しませんでしたが、大河ドラマ「真田丸」で「織田信長」を演じた俳優「吉田鋼太郎」さんも、とても魅力あふれる演技をしてくれていたと、筆者は思っています。
織田信長と「俳優」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長についての「おすすめ映画」
織田信長を描いた映画で、おすすめの作品といえば【2016年】の映画「信長協奏曲(のぶながコンツェルト)」でしょうか。
現代からタイムスリップしてきた「三郎」という少年が、「織田信長」になりかわる、という作品です。
その他におすすめの映画といえば、いくつか候補があります。
古い映画でならば、「織田信長」を描いた映画はいくつもあるのですが、近年の作品ならば
- 「3人の信長」
- 「本能寺ホテル」
この2つでしょうか。
個人的には「綾瀬はるか」さん主演で、「織田信長」の最期を描いた「本能寺ホテル」がおすすめなのですが、「織田信長の一生」を楽しみながら学ぶなら、「信長協奏曲」がもっとも適しているのかもしれません。
信長が残した「手紙」と「茶器」
ここでは「織田信長」の残した「手紙」と「茶器」について解説いたします。
織田信長が「秀吉」の妻「ねね」に送った手紙とは?
織田信長が、部下であった「羽柴秀吉」の妻「ねね」に対して送った手紙が、今も東京「永青文庫」に残されています。
その手紙の内容は、とても優しさに満ちあふれたもので、信長の人柄を物語っています。
「秀吉が(子供が出来ないことで)あなたに当たり散らしているようだが、言語道断である。
あなたのような素晴らしい妻は、あのハゲネズミに見つかるはずもないのだから、決して悩んだりしないようにしてください」
浮気を繰り返し、子供が出来ないことを妻「ねね」に八つ当たりしていた秀吉を叱り、その妻「ねね」を慰める信長。
その心根の優しさに、「ねね」は感激したことでしょう。
その証拠に、400年以上経過した今も、この手紙が残っているのです。
織田信長が愛用していた「茶器」一覧
織田信長は「茶の湯」を好み、茶道を好んでいたといわれています。
特に「茶器」にはとても関心が強く、天下の名物と呼ばれる茶道具を多数持っていたようです。
- 「松島の茶壺」
- 「九十九髪茄子」
- 「初花肩付」
- 「楢柴肩付」
など「天下の名物」と呼ばれる品物を38点も持っていました。
しかし、これらの品物を「本能寺」へと持ち込んでいたため、「本能寺の変」で焼失してしまったようです。
もしもこれらの品物が「本能寺」へ持ち込まれていなかったら、歴史的な価値ある品物が、今に伝わっていたかもしれません。
織田信長の「茶器・茶道具」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
『織田信長』について「ひとこと」言いたい!
織田信長が他の戦国大名と大きく違っていたところは
「一戦に勝利することよりも、負けてもすぐに復活できる体制をつくった」
という点だと思っいます。
「武田信玄」や「上杉謙信」のように、一戦で必勝を志すよりも、信長は圧倒的な物量(兵力・食料・鉄砲)で、敵を根負けさせる戦法を得意としていました。
「戦に勝つ」よりも、「負けても即座に復活できる」ようにしたのです。
織田信長は、「商業」を重視して、莫大な資金を手に入れていました。
その資金を使って
「いくら負けても、軍団も武器も食料も補給して、すぐに復活できる軍団」
をつくったことこそが、信長が他の戦国大名よりも強大な領地と軍団を形成出来た理由だと、筆者は思います。
いつの時代も、「人と違うやり方をする」ということこそが、優れた生き残り戦略なのかもしれません。
「麒麟がくる」などの「大河ドラマを無料で視聴する方法」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「大河ドラマの無料視聴方法を簡単解説!「麒麟がくる」もまとめて見直せる」の記事はコチラ
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」とは、戦国時代に活躍した武将で、「応仁の乱」以来100年も続いた内戦を終わらせる基礎をつくった人物。
2,「織田信長」は、「桶狭間の戦い」や「長篠の戦い」などで強敵を次々と撃破し、日本の4割を支配するまで領土拡大を成し遂げた。
3,「信長」は【1582年】に「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれたが、そのあとを引き継いだ「豊臣秀吉」が、その死後8年で「天下統一」に成功した。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
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