この記事では「今川義元が、なぜ織田信長に敗北したのか」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「今川義元の敗因」を、カンタンに理解できます。
「今川義元が敗北した原因」は「信長がまさか出撃してくるとは考えていなかった」から。
つまり「油断」です。
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この記事を短く言うと
1つが「奇襲戦法」を信長が仕掛けたため。2つ目が「偶然」つまり「今川義元が不運だった」から
2,「今川義元」は、「信長が出撃してくるとは思っていなかった」
義元は、「信長が出撃してくるとは思っていなかった」おらず、「籠城する」と思い込んでいたため、信長の突撃に混乱した
3,もしも「今川義元」が「桶狭間の戦い」で勝利していたら?
おそらく「織田信長」を従属させて、「尾張国」を属国とし、京都への道を塞ぐ敵を倒すように命じていただろう。
今川義元が織田信長に敗北した2つの理由!
【1560年】、「桶狭間の戦い」で「今川義元」が「織田信長」に敗北した理由は、「奇襲」または「偶然」であると考えられます。

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」
織田信長の軍は「2千~3千」。
それに対して今川義元の軍は2万5千~4万。
信長からすれば、正面から攻撃しても、勝ち目などありません。
そうであるなら、勝利するためには、「今川義元の首を取ってしまう」しかなかったのです。
奇襲
少数の軍団で勝利するためには、敵の総大将を倒してしまうしかありません。
そのためにもっとも有効な方法が、「敵の総大将への奇襲」だったのです。
信長は、とにかく敵の総大将「今川義元」のみを倒すことだけを考えたはずです。
信長は、「今川義元がどこにいるのか」を知るために、全力を尽くします。
そして、今川義元が桶狭間で休憩していると知ると、即座に出撃。
「梅雨将軍」と呼ばれた信長は、大切な戦いで、いつも雨に降られていました。
このときも、桶狭間は豪雨が振って、信長が今川義元の本隊へ近づく音をかき消した、といわれています。
義元の本隊を急襲した信長。
奇跡的に、今川義元の首をあげることに成功したのです。
「奇襲戦法」
- 「毛利元就」の「厳島の戦い」
- 「北条氏康」の「河越夜戦」
この二つと並んで、「桶狭間の戦い」は、「日本三大奇襲戦」と呼ばれて、讃えられる事となったのです。
偶然
実は、「織田信長が今川義元に勝利できたのは、偶然」という説があります。
信長についての一級資料「信長公記」によると、「奇襲」などという言葉が全く出てこないのです。
「信長公記」にかかれている「桶狭間の戦い」を解説してみると、こうなります。
「信長は、沓掛城から出てきた今川軍の部隊に攻撃を仕掛けた。
そこに今川義元がいたので、討った」
ザックリ言うと、こんな感じです。
信長公記」によると、「信長は奇襲などやっていなかった」「敵の前線部隊を攻撃したら、たまたま今川義元の本隊だった」ということになるのです。
明智光秀の末裔を自称しておられる作家「明智憲三郎」さんの著書「織田信長~435年目の真実~」によれば
「信長は緻密な作戦をたてて、今川義元を討った」
とのことです。
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しかし、もしかすると意外にも「織田信長が今川義元に勝利できたのは、偶然」だったのかもしれません。
今川義元は、織田信長が「出撃してくる」とは思っていなかった!
今川義元が敗北した原因は、数多くありますが、ひとことで言えば「運が悪かった」ということになります。
義元が敗北した原因は、「自分の居場所を、信長に知られてしまったこと」でしょう。
そして、なによりも「油断していた」ということがあると思います。
「籠城戦」
織田軍は「2千~3千」。対して今川軍は「2万5千~4万」。
これほどの兵力差があれば、少数の織田軍は、「籠城」するのが常識でした。
そのため、今川義元も、「信長は清洲城に籠城するだろう」と考えていたはずです。
ところが、信長は予想に反して「出撃」してきたのです。
【1614年】の「大坂冬の陣」で、「7万の豊臣軍」は、「15万の徳川軍」を相手にして、「大坂城」へ籠城しました。
兵力差は、2分の1でも籠城するのが当然だったのです。
しかし、信長は籠城しませんでした。
この「信長は籠城するだろう」という「今川義元の油断」が、義元の敗因だったと言えます。
もしも桶狭間の戦いで、義元が勝利していたら?
もし「今川義元」が「桶狭間の戦い」で勝利していたら、「織田信長」は義元に降伏し、属国化つまり信長は義元の家来になっていたはずです。
今川義元は、三河国を属国とし、三河国主の正統後継者「松平元康(のちの徳川家康)」を、自分の部下として「桶狭間の戦い」で先陣をきらせています。
おそらく「今川義元」が織田信長に勝利していたら、その生命を奪うのではなく、「尾張国・織田家」を、「駿河国・今川家」の属国としていたはずです。
- 「美濃国・斎藤家」
- 「南近江・六角家」
- 「京都・三好家」
今川義元は、最終目標として、京都を目指していたと考えられます。
織田信長に勝利したら、その力を利用して、京都への道を塞ぐ「斎藤家」「六角家」「三好家」と戦わせていたはずです。
「今川義元の生涯と最期」を描いた人気漫画「センゴク外伝」
後世において「弱い武将」、「愚かなバカ殿」と、極めて低い評価をされている「今川義元」。
実は「今川義元」は、戦国時代トップクラスの名将でした。
そんな名将「今川義元」を主人公として描かれた人気マンガがあります。
「センゴク外伝~桶狭間戦記~」
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「今川義元」と、その軍師「太原雪斎」を主人公とした作品です。
今川義元という武将が、どれほど凄い人物だったのかを、カンタンに、面白く、わかりやすく知ることができる名作です。
また、以下のリンク記事でも、「今川義元」のことを可能な限りくわしく解説しております。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「今川義元」が「織田信長」に敗北した理由は2つ、「奇襲戦法」と「偶然」
2,義元は、「信長が籠城する」と思い込んでいた
3,もしも「今川義元」が「桶狭間の戦い」で勝利していたら、「信長」を従属させて、京都への道を塞ぐ敵を倒すように命じていたはず。
以上となります。
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ありがとうございました。
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