MENU

浅井長政はなぜ裏切った?裏切りの理由と織田信長との戦いを総解説

この記事では、織田信長と浅井長政の戦いについて、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば、浅井長政が、なぜ織田信長を裏切ったのかを、カンタンに理解できます。

 

浅井長政は、織田信長から過小評価され、部下としてあつかわれることに我慢できなくなり、裏切ったのです。


スポンサーリンク


歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,浅井長政は、なぜ織田信長を裏切ったのか?

織田信長が、対等な同盟関係にあったはずの浅井長政を、低くあつかったため。家康を国主としてあつかい、長政は国衆つまり地方豪族として、さらにはまるで部下のようにしてあつかったため、長政は信長に支配されることを恐れて、独立を保つために信長を裏切った

 

2,浅井長政と織田信長の戦いとは?

【1570年】の金ヶ崎の退き口を始めとして、姉川の戦い、志賀の陣、【1573年】に小谷城の戦いで浅井長政が亡くなるまで、戦いは3年続いた

 

3,浅井長政の最期と、子孫とは?

浅井長政は、妻・お市の方や子供たちを逃したあと、自害して亡くなった。子孫は皇室にも受け継がれ、今に続いている

目次

なぜ浅井長政は、義兄・織田信長を裏切ったのか?

浅井長政が義兄・織田信長を裏切った理由、それは織田信長が、対等な同盟者だった浅井長政を、まるで部下のように、そしてさらには長政を地方の豪族のように雑にあつかったからだと考えられています。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

もともと織田信長と浅井長政は、対等な関係の同盟者同士のはずでした。

 

しかし、信長は急速に力をつけて、浅井長政との間には大きな実力の差が出来ていたのです。

《浅井長政》
『引用元ウィキペディアより』

1570年】、織田信長は浅井長政の長年の盟友・朝倉義景を攻撃。

 

撤退戦・金ヶ崎の退き口の始まりです。

 

このとき、浅井長政は信長を裏切り、朝倉義景の軍と協力して信長を挟み撃ちにしようとします。

 

長政が裏切ったという急報がぞくぞくと入るなかで、信長はこう言ったといいます。。

「長政には、近江国の北半分を任せている。そのことに不服を述べるとは思えない。長政が裏切ったというのは、朝倉義景の策略だ」

ところがこの発言は、すでに信長が長政のことを見下していた感があります。

 

そもそも近江国の北半分(滋賀県北部)は、浅井氏が代々支配してきた領地です。

 

信長から与えられたものではありません。

 

これだけではなく、信長は事あるごとに浅井長政のことを臣下であるかのようにあつかっていたのでした。

 

さらに、信長は長政のことを、地方の国衆つまりは豪族としてしかあつかっていなかったともいわれています。

 

信長はもう一人の同盟者である徳川家康のことは、国主としてあつかっています。実際このころの家康は、三河国と遠江国という2カ国を丸ごと支配し、三河守という官位を天皇・朝廷から認められていた実質的な国主でした。

 

しかし長政はというと、信長の妹・お市の方と結婚していたとはいえ、近江国の北半分を領有していたにすぎなかったのです。

 

もともと浅井家は、主君であるはずの京極家や六角家からの支配を力づくで脱却し、下剋上を成功させて独立を勝ち取った、とても独立心の強い家柄なのです。

 

長政は、この信長の態度に危機感を募らせたのでしょう。このままでは、独立を保つことが出来ず、信長の部下に組み込まれてしまうと・・・。


スポンサーリンク

信長は、長政と同じく、当初は対等な同盟者であった徳川家康を、のちに家来としてあつかっています。

 

長政は、「織田信長の部下として組み込まれてしまう」ことを恐れ、信長を裏切り、戦いを仕掛けたと考えられています。

 

「長政は、長年の盟友である朝倉義景を、信長がひとことの断りもなく攻撃したことに激怒。

【朝倉義景は攻撃しない。攻撃する際には一報を入れる】という約束をしていたのに、それを破った」

 

この朝倉義景に対する約束違反を、長政が裏切った理由とする説もあります。

 

しかし近年では、長政が信長の支配を嫌ったためというのが、裏切りの通説となっているようです。

 

なぜなら、浅井家と朝倉家が長年の盟友であったという、歴史上の根拠がないのだとか。

 

2023年の大河ドラマ【どうする家康】では、長政が織田信長を裏切った理由は、室町幕府や将軍・足利義昭をも乗り越えて、天下を自分一人で征服してしまおうとする織田信長に対して、正義感が強いてまじめな浅井長政が恐怖と危機感を抱き、それを阻止するためとされています。

 

ですがこれは、史実ではなかなか考えにくい説です。

 

当時の信長は、足利義昭を乗り越えて天下を支配するような素振りはまるで見せていません。

 

ちなみに浅井長政の妻で、織田信長の妹・お市の方は、この長政の裏切りを両端をヒモで縛った小豆のふくろで信長に知らせた、という逸話があります。

 

この小豆のふくろの逸話は、後世の創作と考えられています。

 

大河ドラマ【功名が辻こうみょうがつじ】では、小豆の袋は、かつての織田家と今川家が戦い敗北した、【小豆坂の戦い】を暗示し、挟み撃ちを警戒させるためのものといわれていました。

《お市の方》
『引用元ウィキペディアより』

2023年の大河ドラマ【どうする家康】では、小豆あずきが入れられた袋の代わりに、阿月あづきという名前の侍女が、家康に危機を伝えたという設定になっています。これは斬新で面白い設定だったと、筆者は思っています。

 

→→→→→【お市の方のすべて】についてくわしくはこちら

 


スポンサーリンク

信長と長政の「戦い」の歴史を総解説!

織田信長と浅井長政の戦いは、【1570年】の金ヶ崎の退き口から始まり、【1573年】の小谷城の戦いで終結します。

 

1570年】、浅井長政は朝倉義景を攻撃していた織田信長の背後を急襲。

 

しかし、羽柴秀吉や明智光秀・徳川家康・松永久秀たちの活躍により、織田信長は窮地を脱します。

 

同じく【1570年】、織田信長と徳川家康の連合軍は、浅井・朝倉連合軍と姉川の戦いで激突。

 

姉川の戦いは、織田・徳川連合軍の勝利で終わります。

 

→→→→→【姉川の戦い】についてくわしくはこちら

 

この姉川の戦い以後、浅井長政は難攻不落の居城・小谷城に立てこもり、籠城戦を開始します。

 

信長は籠城する浅井長政に対して、小谷城の周りにある浅井軍の城を次々と攻略。

 

1570年】、浅井・朝倉連合軍は、志賀の陣で織田軍団と激突。

 

苦戦した浅井・朝倉連合軍は、比叡山へ逃げ込みます。


スポンサーリンク

1571年】、浅井・朝倉連合軍をかくまった比叡山延暦寺に対して、信長は比叡山焼き討ちを行います。

比叡山延暦寺・根本中堂

この比叡山焼き討ちは、僧侶でもあった武田信玄を激怒させ、織田信長はこれ以降、魔王と呼ばれるようになります。

 

1572年】、武田信玄が京都へ向けて進軍を開始し、三方ヶ原の戦いで徳川家康を撃破。

 

この武田信玄の動きと連携して、浅井長政も信長に攻勢を強めるものの、【1573年】、武田信玄が信濃国駒場で病死。

《武田信玄》
「引用元ウィキペディアより」
クリックすると拡大できます

武田信玄という強敵が亡くなったことで、織田信長は浅井長政と朝倉義景に猛攻をかけます。

 

1573年9月】、一乗谷の戦いで朝倉義景が自害し、朝倉家は滅亡。

 

朝倉家が滅亡した数日後、小谷城の戦いで浅井長政も自害。

 

浅井・朝倉両家は、滅亡したのでした。

 

→→→→→【信長が魔王と呼ばれた理由は仏教を守るためだった】についてくわしくはこちら

 


スポンサーリンク

浅井長政の最期と、今も続く子孫のゆくえ

浅井長政は最期の最期に、側室が産んだ息子・万福丸と、妻・お市の方、そして茶々・初・江の三人の娘を小谷城から逃がしています。

 

自害する場合は、妻子などの家族も道連れにしてもおかしくありません。

 

例えば明智光秀が亡くなった後、その娘婿の明智秀満は、光秀の家族を全員死なせてから自らも自害しています。

 

ところが浅井長政は、息子や娘、妻たちを全員逃がしてから、自害しているのです。

 

長政は、家族を心から大切に思っていたのでしょう。

 

1573年9月26日(天正元年9月1日)】、浅井長政は自害。享年29歳。

 

その直後、逃亡した万福丸は、関ヶ原で羽柴秀吉によってはりつけにされて処刑。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)
「引用元ウィキペディアより」

お市の方と三人の娘は、信長の弟・織田信包のぶかねのもとで保護されます。(叔父・織田信次に保護されたとも言われている)

 

その後、お市の方は柴田勝家と再婚したものの、【1583年】の賤ヶ岳しずがたけの戦いで敗北し、夫の柴田勝家とともに自害。

《柴田勝家》
「引用元ウィキペディアより」

茶々は淀殿と呼ばれて、豊臣秀吉の側室となり豊臣秀頼を出産。

 

初は、名門であり浅井長政の姉・マリアの息子・京極高次と結婚。(初と京極高次は、従兄弟いとこ同士)

 

江は、2度の離婚のあと、二代将軍・徳川秀忠と結婚し、三代将軍・徳川家光を産んでいます。

《徳川家光》
「引用元ウィキペディアより」

浅井長政の子孫は、天皇陛下にも受け継がれ、今も続いているのです。

 

→→→→→【浅井長政の家系図と子孫】についてくわしくはこちら

 


スポンサーリンク

もし長政が、織田信長を裏切っていなかったら、どうなっていた?

もしも浅井長政が織田信長を裏切っていなかったら、長政は徳川家康のように、信長の部下にされていたでしょう。

 

徳川家康は【1562年】に清洲同盟と呼ばれる軍事同盟を織田信長と締結し、対等な同盟関係とつくっていました。

 

ところが、20年後の【1582年】、両者の関係は明確にかわっていました。

 

この年、信長は甲州征伐によって武田勝頼を滅ぼし、その領国・駿河を奪い取りました。

《武田勝頼》
「引用元ウィキペディアより」

その駿河国が、織田信長から徳川家康へ【与えられている】のです。

 

奪い取った国を、与えるとは、主君が部下に対しておこなうことです。

 

つまり家康は、このときすでに信長の部下になっていたと考えられるのです。

 

信長は、対等な同盟者を、その圧倒的な武力で屈服させて、対等関係から主従関係へと変化させていったのでした。


スポンサーリンク

おそらく浅井長政も、徳川家康のように、信長の臣下としてあつかわれる運命にあったでしょう。

 

それを事前に察知したからこそ浅井長政は、織田信長を裏切り、独立を保とうとしたのです。

 

もしかすると浅井長政は、織田信長のもとで明智光秀や羽柴秀吉とならぶ大勢力をつくりあげていたかもしれません。

 

なんといっても浅井長政は、織田信長の妹・お市の方の夫であり、信長の義弟にあたるのです。家康は信長の娘・五徳姫(家康の長男・信康の妻)を与えられていたとはいえ、長政とはあつかいの格が違います。

 

信長の信頼を勝ち取っていたら、さらなる飛躍も可能だったはず。

 

しかし独立を選んだというとこは、長政は人に仕えることを嫌う、とても誇り高い人だったのでしょう。

 

家康と長政は、まったく違う性質があります。

 

家康は父の代から、生き残るために、自分より強い奴には絶対に逆らわない、という性質があります。

 

それに対して浅井長政は、先祖代々、独立を守るためには、自分より強い奴にでも平気で逆らっていく、という性質があります。

 

家康は、父の松平広忠の代から、今川や織田など、自分より強い奴にしたがい、生き残るためならば、絶対に逆らいません。豊臣秀吉に従った時も、家康は実に従順で、秀吉が亡くなって自分より強い奴がいなくなった時に、初めて天下を狙って関ヶ原の戦いという博打をうち、勝利しました。

 

対して長政はというと、父・久政より前の時代から、主君である京極家に逆らって独立し、あらたな主家となった六角家も裏切って織田と同盟し、独立を勝ち取っています。

 

家風の違いというのか、徳川家は生き残るためならなんでもやる家であるのに対し、浅井家は独立を勝ち取るためならなんでもやる家なのでしょう。

 

信長に臣従した徳川家康が、最後には天下を取っているのですから、長政もこのとき、我慢して信長に臣従していたら、天下を取る機会があったかもしれません。

 

→→→→→【徳川家康とは何した人なのか】についてくわしくはこちら

 


スポンサーリンク

まとめ

本日の記事をまとめますと

1,浅井長政は、織田信長と対等な同盟関係にあったはずだが、信長が長政を、まるで部下のようにしてあつかったため、長政は信長に支配されることを恐れて、独立を保つために信長を裏切った

 

2,浅井長政と織田信長の戦いは、1570年】の金ヶ崎の退き口を始めとして、姉川の戦い、志賀の陣、【1573年】に小谷城の戦いで浅井長政が亡くなるまで、戦いは3年続いた

 

3,浅井長政は、妻・お市の方や子供たちを逃したあと、自害して亡くなった。子孫は皇室にも受け継がれ、今に続いている

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

スポンサーリンク
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次