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徳川家康が犯した【桶狭間の戦い】での裏切り!今川義元は恩人だった

今回のテーマは徳川家康とくがわいえやすです。

 

この記事では、1600年の桶狭間おけはざまの戦いのとき、徳川家康が何をしていたのかについて、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば【桶狭間の戦いのときの徳川家康の行動】を、カンタンに理解できます。

 

徳川家康は桶狭間の戦いをきっかけにして、今川家へ重大な裏切り行為を行っているのです。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,桶狭間の戦いのとき徳川家康は何をしていたのか?

家康は今川義元いまがわよしもとの軍に所属し、切り込み隊きりこみたいとして織田信長おだのぶながの軍団と交戦していた。鵜殿長照うどのながてるが守る大高城おおだかじょうへ食料を補給し、鷲津砦わしづとりで丸根砦まるねとりでの2つを攻撃していた。

 

2,桶狭間の戦いの直後、家康がとった行動とは?

桶狭間の戦いに敗北した家康は、故郷・三河国みかわこく(愛知県東部)へ逃亡し、先祖の墓がある大樹寺だいじゅじへ逃げ込んだ。切腹しようとしたところを登誉上人とうよしょうにんに救われ、岡崎城を目指して逃亡を開始。

 

3,桶狭間の戦いのあと、家康がとった裏切り行為とは?

岡崎城に立てこもった家康は、恩のある今川家を裏切り、今川義元の仇である織田信長と清洲同盟きよすどうめいを締結。今川家に攻撃をしかけていくことになる。

目次

桶狭間の戦いで、徳川家康は何をしていたのか

【1560年】、織田信長が今川義元を討ち取った桶狭間の戦いで、徳川家康は何をしていたのでしょうか?

 

結論からいえば、家康は桶狭間の戦いで、今川軍の先陣つまり一番前で織田軍と戦っていました。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

徳川家康はこの当時、松平元康まつだいらもとやすと名乗っていました。

 

松平元康の【元】の字は、今川義元の【元】の一文字をもらったものです。
(当時の風習として、元服げんぷくつまり成人せいじんするとき、武士は名前を幼名から大人の名前に変えるわけだが、そのとき烏帽子親えぼしおやと呼ばれる目上の方から、お名前の一文字を偏諱かたいみなといってもらうことになっていた)

 

桶狭間の戦いの当時、家康は今川義元の軍に所属し、切り込み部隊として織田信長と交戦していました。

 

家康は、織田軍に攻められていた尾張にあった今川軍の大高城に、兵糧ひょうろうを搬入する任務についていたのです。

 

当時、この大高城は、今川義元の妹の息子である鵜殿長照という武将が守っていました。

 

【永禄3年(1560年)5月19日午前3時頃】、大高城への兵糧搬入を終えた家康は、織田軍の砦である丸根砦と鷲津砦の2つを攻撃。

 

その約10時間後、今川義元は桶狭間において、織田信長の猛攻を受けて戦死してしまうのです。

 

→→→→→【桶狭間の戦い】についてくわしくはこちら


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桶狭間の戦いの直後、家康は切腹しようとしていた

徳川家康は、今川義元が討たれた桶狭間の戦いの直後、先祖が眠る大樹寺だいじゅじというお寺で切腹しようとしていました。

 

織田信長によって総大将・今川義元を討たれた今川軍は壊滅します。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

家康も敗走して、尾張国のとなりにある故郷・三河国へ逃亡。

 

家康は大樹寺という寺に逃げ込みますが、敵に包囲されてしまいます。

 

大樹寺は家康の先祖たちの菩提寺でした。

 

絶望した若き家康は、先祖たちの墓の前で切腹しようとします。

 

しかし登誉上人とうよしょうにんという住職が、家康を説得して、切腹を思いとどまらせたのだとか。

 

家康は登誉上人の協力を得て、なんとか敵の包囲を突破し、生き延びたのでした。

 

そして、家康はこの瞬間から、今川家からの独立を画策するようになります。

 

→→→→→【今川義元】についてくわしくはこちら


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切腹をやめた家康は、どさくさ紛れに故郷【三河・岡崎城】を奪い返す

桶狭間の戦いを生き延びた家康は、なんとどさくさ紛れに、今川軍から岡崎城おかざきじょうを奪い返してしまうのです。

 

大樹寺から逃げ延びた家康は、岡崎城を目指します。

 

岡崎城は家康の故郷であり、居城きょじょうでした。

 

しかし岡崎城は今川義元によってとりあげられ、義元の部下が支配していたのです。

 

桶狭間の戦いで敗北した今川軍は、岡崎城を捨てて逃亡。

 

そのため家康は、無人の岡崎城をやすやすと取り戻すことに成功したのです。

 

まさにどさくさ紛れに岡崎城を奪い取ったのでした。

 

家康はこの岡崎城を奪い取ったときから、主である今川家から独立する動きを見せるようになります。

 

それはまさに、恩のある今川義元と今川家への裏切り行為でした。

 

→→→→→【徳川家康】についてくわしくはこちら


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恩人【今川義元】を裏切り、妻【築山殿】を捨てて独立

家康は恩人・今川義元のみならず家族をも捨てて今川家を裏切っています。

  1. 妻・築山殿つきやまどの(別名・瀬名姫せなひめ
  2. 長男・竹千代たけちよ松平信康まつだいらのぶやす
  3. 長女・亀姫かめひめ加納御前かのうごぜん

この3名を今川家の本拠地・駿府すんぷに置き去りにして、独立してしまったのです。

 

岡崎城にたてこもった家康ですが、表向きは

 

「織田軍団の侵攻を食い止めるために、岡崎城を守っている」

 

と、今川義元の息子で後継者の今川氏真いまがわうじざねに説明しています。

 

しかし、家康は今川氏真が仇討ちのための出陣をしないということを理由にして、ある日、今川家からの独立を宣言してしまいます。

 

これは重大な裏切り行為です。

 

【1562年】、家康は今川義元の仇である織田信長と、清洲同盟きよすどうめいを締結してしまいます。

 

そして、織田軍と協力体制を構築し、今川家へ猛攻をしかけていくのです。

 

実は家康、今川義元から相当に期待されていました。

 

今川義元の師であり、今川家の軍事最高責任者でもあった天才軍師・太原雪斎たいげんせっさいからエリート教育を施されていたほどです。

 

半端ではないほどに期待されていた家康は、義元のめいである築山殿つきやまどの(別名・瀬名姫せなひめ)を妻として与えられて、今川家の一族としてあつかわれたほどです。

 

築山殿は桶狭間の戦いが起こったとき、人質として今川氏真の住む駿河国するがこく(静岡県中央部)の駿府にいました。

 

家康の裏切りを知った今川氏真は激怒。

 

築山殿と、家康の子である松平信康と亀姫を処刑しようとします。

 

このとき家康は、今川義元の妹の息子である武将・鵜殿長照うどのながてるが守る城を攻撃。

 

鵜殿長照を捕まえてようとしたものの、長照がなくなってしまったため、かわりに捕縛した鵜殿長照の息子・鵜殿氏長うじなが氏次うじつぐの兄弟と、築山殿・信康・亀姫の人質交換を成功させて、妻と子の救出に成功しています。(この人質交換の難しい交渉を成功させたのが石川数正いしかわかずまさ

 

築山殿の父・関口氏純せきぐちうじずみ(別名・関口親永せきぐちちかなが)とその妻は、この騒動の責任をとって自害しています。

 

家康は事あるごとに、今川義元のもとで人質として生活していた当時について、【苦労した】と言っています。

 

本当に苦労していたのでしょうか?

 

確かに、家康のふるさと三河国において、家康の家来たちは苦労に苦労の連続だったようです。

 

しかし家康は、駿府でエリート教育をほどこされ、何不自由ない生活をおくれたはずなのです。

 

家康は、恩人である今川義元を裏切り、妻の両親を死に追い込んでいます。

 

この後ろめたさから家康は、【今川義元のせいで苦労させられた】と、嘘をついたのではないでしょうか。

 

家康は晩年、駿府城を隠居場いんきょじょうとして定め、ここに移り住みます。

 

家康にとって駿府は、幼い頃の思い出が残る、もっとも穏やかに生活することができる場所だったのではないでしょうか。

 

→→→→→【石川数正の子孫と裏切りの真相】についてくわしくはこちら

→→→→→【徳川家康の死因と最期】についてくわしくはこちら

→→→→→【徳川家康の生涯年表】についてくわしくはこちら


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【追記】三河武士みかわぶしの苦労と、家康が今川を裏切った真の理由

2023年1月8日、大河ドラマ【どうする家康】の第一話【どうする桶狭間】が放送されました。

 

そこで、今川義元が徳川家康のことを息子同然に大切にする様子が描かれていました。

 

すでに解説いたしましたが、近年の研究では、今川義元は家康を今川一族に迎え入れ、息子・今川氏真の補佐役にしようと考えていたといわれています。

三河武士は今川家からひどい扱いを受けていたのか?

三河武士は今川義元から、ひどいあつかいをされたという逸話もありますが、これも事実と異なると考えられます。

 

ドラマ【どうする家康】の中で三河武士たちが、今川義元に対して

 

「今川家は俺たちに危険な任務ばかりを押し付けてくる。つまりは俺たちに死んで欲しいんだ。」

 

と文句を言うシーンがありました。

 

しかし、これに対して俳優・野村萬斎のむらまんさいさん演じる今川義元は

 

「断じてそんなことはない」

 

と否定していました。

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」

実際に、家康の家臣である三河武士は今川家の命令によって、常に最前線に立たされていました。

 

そして、危険な任務ばかりをやらされていたのです。

 

苦労も多かったはずです。

 

しかしこれは、当時としては当然のことでした。

 

特に三河武士が不幸だったわけではありません。

 

どういうことかというと、当時は戦争となると【戦う敵のもっとも近くに住む者たちが最前線へ送られ、もっとも多くの将兵を送る】のが当然でした。

 

【1592年】から始まった豊臣秀吉とよとみひでよしの朝鮮出兵が良い例です。

 

前線基地である肥前ひぜん(佐賀県)の名護屋城なごやじょうにもっとも近かった戦国大名せんごくだいみょう毛利輝元もうりてるもとは日本全国の戦国大名のなかで、もっともたくさんの軍団を朝鮮へと送り出していました。

 

その反対に、肥前名護屋からはもっとも遠い東北の戦国大名・独眼竜どくがんりゅう伊達政宗だてまさむねは秀吉から、わずかに【兵を500人だけ出陣させれば良い】といわれています。
(政宗はこれに対して3000人の兵を送ったという逸話がある)

《伊達政宗》
「引用元ウィキペディアより」

話を戻しましょう。

 

桶狭間の戦いが行われる直前、今川義元の敵は、尾張国(愛知県西部)を支配していた武将・織田信長でした。

 

そしてこの尾張国・織田信長の領地にもっとも近い場所に位置していたのが、三河国(愛知県東部)の三河武士たちだったのです。

 

三河武士たちが、最前線へ置かれ、もっとも危険な任務を任されるのは当然でした。

 

その分、手柄てがらを挙げる機会も多かったため、家康の家臣団は、ハイリスクではあるもののハイリターンでもあったはずなのです。

 

さらに、当時三河武士といえば、日本でも屈指の戦闘集団でした。

 

そのため今川義元は、戦闘能力が極めて高い三河武士を頼りに思い、先頭に立たせていた可能性もあります。

 

  1. 家康は人質として苦労した
  2. 三河武士は今川義元にひどい扱いをされた

 

これらの逸話は、今川義元を悪者とすることで、のちに今川家を裏切った徳川家の印象をよくするための工作であったと考えられます。


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家康が今川家を裏切った真の理由

上の解説で、【家康は今川氏真が援軍を送らないことを言い訳にして、今川家を裏切った】と申しました。

 

しかし、家康はもともと今川家を裏切るつもりなどなかったものの、今川からの援軍がなかったため孤立無援となり、生き残るためにやむを得ず織田信長と同盟を結んだという説があります。

 

先ほども解説いたしましたが、家康は桶狭間の戦いのあと、今川に無断で故郷・三河国の岡崎城へ帰還しています。

 

このとき、岡崎城の守備兵は逃亡していたため、もぬけの空だったといわれています。

 

家康は、この空となった岡崎城へ入城して、今川家を守るために、織田信長の軍団を相手に、防衛戦をしていたというのです。

 

ところが、強大な力を持つ織田信長の軍団を相手に、家康は苦戦。

 

今川家へ援軍を求めるものの今川氏真は、事情があって危険な状況に追い込まれていたため、援軍をさっぱり送れませんでした。

 

実はこのとき今川氏真は、家康がいる西の三河方面とは逆の東の方向を、とてつもない強敵に襲われていたのです。

 

上杉謙信うえすぎけんしんです。

《上杉謙信》
「引用元ウィキペディアより」
画像をクリックすると拡大できます

このとき今川家は、お隣りの相模国さがみのくにの戦国大名・北条氏康ほうじょううじやすと同盟を結んでいました。

 

そして桶狭間の戦いのが起こった年と同じ【1560年】、その北条氏康が住む小田原城おだわらじょうを、上杉謙信が10万人以上の大軍団で攻撃したのです。(小田原城の戦い)

 

今川氏真の妻は、北条氏康の娘でした。

 

当然、今川氏真は妻の父である北条氏康に援軍を送ったはずです。

 

もし万が一、小田原城が上杉謙信に攻め落とされれば、次は今川氏真が、上杉謙信に攻め落とされることになるからです。

 

このとき、北条・今川と同盟を結んでいた武田信玄も、北条氏康に援軍を送っています。

《武田信玄》
「引用元ウィキペディアより」
クリックすると拡大できます

さらに武田信玄は、上杉謙信の本拠地である越後国へ攻撃を仕掛ける動きをみせています。そのおかげもあって、上杉謙信は小田原城の攻撃を中止し、北条氏康は寸前のところで滅亡を免れたのでした。

 

ところが、武田信玄が越後を攻撃する動きをみせたことで、【1561年】に起こったのが、戦国屈指の激戦・第四次川中島の戦いです。

 

小田原城の戦いで北条氏康はあと一歩のところまで追いつめられ、川中島の戦いでは武田信玄が絶体絶命のところまで追いつめられていました。

 

ちなみに武田信玄の嫡子・武田義信の妻は、今川氏真の妹です。ですので今川氏真は、武田信玄にも援軍を送っていた可能性があります。

 

妻の父・北条氏康と、妹の夫の父・武田信玄、この両者に援軍を送らなくてはいけない立場にあった氏真は、とてもではありませんが家康に援軍を送る余裕など無かったはずです。

 

つまり氏真は、北条氏康・武田信玄と協力して、上杉謙信という軍神の相手をしていたため、家康を助ける余裕などなかったということです。

 

一方、家康はこのままでは織田信長に滅ぼされてしまいます。

 

そこで家康は、生き残るためにやむを得ず、【1562年】に、織田信長と同盟を締結したのだとか。(清洲同盟きよすどうめい

 

この話は、信長からしても悪い話ではありませんでした。

 

今川義元を失ったとはいえ、今川家は強大です。

 

そこで、家康と同盟することで、家康を今川家からの盾として使えるのです。

 

そのあいだに織田信長は、宿敵であった美濃国みのこく(岐阜県南部)の斎藤義龍さいとうよしたつとの戦いに集中することができるのです。

 

家康は、妻である築山殿(瀬名姫)と、嫡子・竹千代(松平信康)、そして長女・亀姫を人質に取られたものの、石川数正いしかわかずまさの巧みな交渉と人質交換により救出に成功。

 

その後、家康は武田信玄たけだしんげんと協力して、遠江国と駿河国を攻撃し、今川家を滅亡へと追い込みます。

 

今川氏真はその後、一時的に妻の父・北条氏康ほうじょううじやすを頼ります。

《北条氏康》
「引用元ウィキペディアより」

しかし最後は家康によって保護され、徳川幕府で高家こうけというかくの高い家としてあつかわれることとなるのです。

 

→→→→→【今川氏真の子孫】についてくわしくはこちら

 

→→→→→【上杉謙信は世界史上最強の武将なのか?】についてくわしくはこちら


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信長に奪われた今川義元の名刀【義元左文字よしもとさもんじ

2023年の大河ドラマ【どうする家康】の第一話の最後のシーンで、岡田准一おかだじゅんいちさん演じる織田信長が、兜をかぶった今川義元の首を持って疾走する様子が描かれていました。

 

実はこのとき、織田信長は今川義元の愛刀を奪い、自分のものとして長く愛用し続けているのです。

 

この刀は【宗三左文字そうざさもんじ】というもので、実は武田信玄の父・武田信虎たけだのぶとらが、娘を今川義元へ嫁がせる際に贈った代物なのです。

 

【左文字】という愛刀は、織田信長から豊臣秀吉へ渡り、最後は家康の手に渡ります。

 

恩人である今川義元の愛刀を取り戻した家康は、どんな気持ちだったのでしょうか。

 

義元の愛刀【左文字】は、その後【義元左文字】と呼ばれ、京都の織田信長をまつる神社が所有しており、現存しています。

 

【義元左文字】は

  • 武田信虎
  • 今川義元
  • 織田信長
  • 豊臣秀吉
  • 徳川家康

と、天下を狙うか又は天下人の手を代々渡り歩いていることから、【天下取りの刀】という、いわく付きの名刀として知られているようです。

 

ちなみに、義元が首を取られた際にかぶっていた兜も現存しているといいます。

 

これも余談かもしれませんが、【義元左文字】は、2000年の大河ドラマ【あおい〜徳川三代〜】にも少しだけ登場します。

 

左文字と兜のゆくえについて、以下のリンク記事にて、細かく解説させていただいております。

 

→→→→→【名刀・義元左文字と義元の兜】についてくわしくはこちら


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,桶狭間の戦いのとき徳川家康は今川義元の軍に所属し、先方として織田信長の軍団と交戦していた。大高城へ食料を補給し、大高城を包囲するためにつくられた鷲津砦と丸根砦の2つを攻撃していた。

 

2,桶狭間の戦いに敗北した家康は、故郷の三河国へ逃亡。先祖の墓がある大樹寺へ逃げ込んだ。切腹しようとしたところを登誉上人に救われ、岡崎城を目指して逃亡を開始。

 

3,岡崎城に立て籠もった家康は、恩のある今川家を裏切り、今川義元の仇である織田信長と清洲同盟を締結。今川家に攻撃をしかけていくことになる。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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