今回のテーマは「徳川家康」です。
この記事では「桶狭間の戦い」のとき、「徳川家康は何をしていたのか」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「桶狭間の戦いのときの、家康の行動」を、カンタンに理解できます。
「徳川家康」は「桶狭間の戦い」をきっかけにして、「今川家」へ重大な裏切り行為を行っているのです。
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この記事を短く言うと
家康は「今川義元」の軍に所属し、先方として「織田信長」の軍団と交戦していた。「大高城」へ食料を補給し、「鷲津砦」と「丸根砦」の2つを攻撃していた。
2,「桶狭間の戦い」の直後、家康がとった行動とは?
「桶狭間の戦い」に敗北した「家康」は、故郷「三河国」へ逃亡し、先祖の墓がある「大樹寺」へ逃げ込んだ。切腹しようとしたところを「登誉上人」に救われ、「岡崎城」を目指して逃亡を開始。
3,「桶狭間の戦い」のあと、家康がとった「裏切り行為」とは?
「岡崎城」に立て籠もった家康は、恩のある「今川家」を裏切り、「今川義元」の仇である「織田信長」と「清洲同盟」を締結。「今川家」に攻撃をしかけていくことになる。
目次
「桶狭間の戦い」で「徳川家康」は何をしていたのか?
【1560年】、「織田信長」が「今川義元」を討ち取った「桶狭間の戦い」で、「徳川家康」は何をしていたのでしょうか?

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」
徳川家康はこの当時、「松平元康(まつだいら もとやす)」と名乗っていました。
「松平元康」の「元」の字は、「今川義元」の「元」の一文字をもらったものです。
「桶狭間の戦い」の当時、家康は「今川義元」の軍に所属し、先方として「織田信長」と交戦していました。
家康は、今川軍がたてこもり、織田軍に攻められていた尾張国「大高城」に、兵糧を搬入する任務についていたのです。
【永禄3年(1560年)5月19日午前3時頃】、大高城への兵糧搬入を終えた家康は、織田軍の砦である「丸根砦」と「鷲津砦」の2つを攻撃。
その約10時間後、今川義元は「織田信長」の猛攻を受けて戦死してしまうのです。
「桶狭間の戦い」については、以下のリンク記事をどうぞ。
戦後、切腹しようとした「家康」
織田信長によって総大将「今川義元」を討たれた今川軍は壊滅します。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」
家康も敗走して、尾張国のとなりにある故郷「三河国」へ逃亡。
家康は「大樹寺」という寺に逃げ込みますが、敵に包囲されてしまいます。
「大樹寺」は「家康」の先祖たちの菩提寺でした。
絶望した若き「家康」は、先祖たちの墓の前で切腹しようとします。
しかし「登誉上人(とうよしょうにん)」という住職が、説得して家康に切腹を思いとどまらせたのだとか。
家康は「登誉上人」の協力を得て、なんとか敵の包囲を突破し、生き延びたのでした。
そして、家康はこの瞬間から、「今川家からの独立」を画策するようになります。
「今川義元」については、以下のリンク記事をどうぞ。
どさくさ紛れに故郷「岡崎城」を奪い取る
大樹寺から逃げ延びた家康は、「岡崎城」を目指します。
「岡崎城」は家康の故郷であり、居城でした。
しかし「岡崎城」は「今川義元」によってとりあげられ、義元の部下が支配していたのです。
「桶狭間の戦い」で、「岡崎城」を守っていた今川軍は逃亡。家康は「岡崎城」をやすやすと取り戻すことに成功したのです。
まさに「どさくさ紛れ」に「岡崎城」を奪い取ったのでした。
家康はこの「岡崎城」を奪い取ったときから、主である「今川家」から独立する動きを見せるようになります。
それはまさに、恩のある「今川義元」と「今川家」を裏切る背信行為でした。
「徳川家康」については、以下のリンク記事をどうぞ。
恩人「今川義元」を裏切り、妻を捨てて独立!
「岡崎城」にたてこもった家康ですが、表向きは
「織田軍団の侵攻を食い止めるために、岡崎城を守っている」
と、「今川義元」の息子で後継者の「今川氏真」に説明しています。
しかし、家康は「今川氏真が仇討ちのための出陣をしない」ということを理由にして、ある日「今川家」からの独立を宣言してしまいます。
これは重大な「裏切り行為」です。
【1562年】、家康は「今川義元」の仇である「織田信長」と、「清洲同盟」を締結してしまいます。
そして、織田軍と協力体制を構築し、「今川家」へ猛攻をしかけていくのです。
実は家康、「今川義元」から相当に期待されており、天才軍師「太原雪斎」からエリート教育を施されていたほどでした。
半端ではないほどに期待されていた家康は、義元の姪である「築山殿」を妻として与えられて、「今川家」の一族としてあつかわれたほどです。
「築山殿」は「桶狭間の戦い」が起こったとき、人質として「今川氏真」の住む駿河国の「駿府(すんぷ)」にいました。
家康の裏切りを知った「今川氏真」は激怒。
「築山殿」と家康の子である「松平信康」と「亀姫」を処刑しようとします。
このとき家康は、捕縛していた「今川氏真」の親戚「鵜殿氏長・氏次」兄弟と、「築山殿・信康・亀姫」の人質交換を成功させて、妻と子の救出に成功しています。
「築山殿」の両親は、この騒動の責任をとって自害しています。
家康は事あるごとに、「今川義元」のもとで人質として生活していた当時について、「苦労した」と言っています。
本当に苦労していたのでしょうか?
確かに、家康のふるさと「三河国」において、家康の家来たちは苦労に苦労の連続だったようです。
しかし家康は、「駿府」でエリート教育をほどこされ、何不自由ない生活をおくれたはずなのです。
家康は、恩人である「今川義元」を裏切り、妻の両親を死に追い込んでいます。
この後ろめたさから家康は、「今川義元のせいで苦労させられた」と、嘘をついたのではないでしょうか。
家康は晩年、「駿府城」を隠居場として定め、ここに移り住みます。
家康にとって「駿府」は、幼い頃の思い出が残る、もっとも穏やかに生活することができる場所だったのではないでしょうか。
「織田信長」については、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「桶狭間の戦い」のとき「徳川家康」は「今川義元」の軍に所属し、先方として「織田信長」の軍団と交戦していた。「大高城」へ食料を補給し、「鷲津砦」と「丸根砦」の2つを攻撃していた。
2,「桶狭間の戦い」に敗北した「家康」は、故郷「三河国」へ逃亡し、先祖の墓がある「大樹寺」へ逃げ込んだ。切腹しようとしたところを「登誉上人」に救われ、「岡崎城」を目指して逃亡を開始。
3,「岡崎城」に立て籠もった家康は、恩のある「今川家」を裏切り、「今川義元」の仇である「織田信長」と「清洲同盟」を締結。「今川家」に攻撃をしかけていくことになる。
以上となります。
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ありがとうございました。
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