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「美濃のマムシ」と呼ばれた武将「斎藤道三」の名前は知っていても、道三がどんな武将だったか詳しく知らない人は多いかもしれません。
私も「斎藤道三」については、小説や大河ドラマのイメージが強く、実像はあまり詳しく知りませんでした。
実は「斎藤道三」は戦国時代の美濃の武将ですが、あの「織田信長」の「義理の父親」でもあるのです。
この記事では「斎藤道三」に詳しくない方のために、わかりやすく解説していきます。
これを読んで「斎藤道三ってそういう武将だったのか!」と、疑問をスッキリと解消してくださいね。
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この記事を短く言うと
- 織田信長と斎藤道三は、娘婿と義父の関係。織田信長の妻「帰蝶(濃姫)」は斎藤道三の実の娘
- 織田信長と斎藤道三は、【1553年】に「正徳寺」という寺で会見。そこで道三は「うつけ」と呼ばれていた信長の才能を見抜き、自分の子供達が信長に屈すると予言した
- 道三の予言は的中はしなかったものの、道三の子「義龍」は信長に押され続け、孫「龍興」は信長に敗れたのちに戦死。道三は息子「義龍」に敗れて戦死した
斎藤道三と織田信長の関係!宿敵であり、義父と娘婿の関係だった
実は「斎藤道三」と「織田信長」は、「義理の父」と「息子」という関係なのです。

《斎藤道三》
「引用元ウィキペディアより」
どういうことかというと、「織田信長」の妻「帰蝶(きちょう)」が「斎藤道三」の娘なのです。
つまり、道三からすると信長は、「娘婿(むすめむこ)」というわけですね。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」
斎藤道三の生涯は、いまだに解明されていないことが多く、小説や大河ドラマで広く知られるイメージは、以下のようなものではないでしょうか。
「(斎藤道三は)元々は京都のお坊さんだったが、還俗して油商人となり、土岐家の家臣からその技量を商いだけに使うのはもったいないと誘われて、一念発起して武芸の稽古をし、土岐氏守護代『長井長弘』の家臣となった」
「その後、主君の『長井長広』を倒して家督を奪い、さらには土岐家の身内同士の抗争に乗じて美濃国を奪い取り、美濃の国主となった」
こうして斉藤道三は下剋上を果たし、油商人から美濃の国主となりました。
しかし近年の研究では、道三の事績として伝わるこれらの出来事は、道三の父「松波庄五郎」のものが含まれている・・・と指摘されています。
さて、美濃の国を奪われた主君であった「土岐家」は、尾張の「織田信秀(織田信長の父)」に援助してもらい、斎藤道三討伐の戦を起こしました。
しかし道三の居城「稲葉山城(岐阜城)」は難攻不落の城であり、籠城作戦を取った道三は、織田軍を壊滅状態に追い込むことに成功。
【1547年】の冬、土岐家の当主が亡くなったことにより織田信秀は戦をする大義名分を失います。これを好機として、道三は「織田信秀」と和睦。
【1548年】にその和睦の証として、道三の娘「帰蝶」を信秀の嫡男「織田信長」に嫁がせたのです。
「帰蝶(きちょう)」と聞くと「誰?」と思う人もいるかもしれませんが、「濃姫(のうひめ)」と聞けばわかるでしょう。
「濃姫」というのは本名ではなく、「美濃のお姫様」という意味なのです。
こうして娘を信長に嫁がせたことにより、「斎藤道三」と「織田信長」は、義理の父と息子の関係になりました。
道三と信長の逸話!信長の才能を見抜いた道三の予言
和睦の証として娘「帰蝶」を嫁がせたものの道三の耳には、婿である「織田信長」は『とんでもないうつけ者だ』という評判ばかりが聞こえてきます。
「うつけ者が織田家の家督を継いだら、尾張も儂のモノにできるやもしれん
長年、信長の教育係を務めていた家老『平手政秀』も、信長の奇行をいらめるために自害したと言うではないか。
信長本人に会い、そのうつけ者ぶりをこの目で確かめることとしよう。」
本当に道三がそう考えたかどうかわかりませんが、【1553年】、道三の方から婿である織田信長に会見を申し入れました。
場所は互いの居城の中間地点である、愛知県一宮市の「正徳寺」というお寺です。(現在は「聖徳寺跡」となっている)
帰蝶が信長の元に嫁いでから、5年の月日が経っていました。
現代の我々の感覚からすると、娘の結婚相手と5年も顔を合わせていなかったの?とびっくりしますよね。
しかし戦国時代の政略結婚は、こういうものだったのでしょう。
さて、婿「信長」のうつけ者ぶりを確かめるために、道三はこっそりと、信長が正徳寺に来る際の行列をのぞき見していました。
行列をひきいている時の信長の格好は、いつものうつけ者スタイル(ド派手な衣装に奇抜な髪型)だったのですが、正徳寺に着くと髪を整えヒゲもそり、舅である目上の「道三」に対して礼儀正しく凛々しい姿へと変貌していました。
行列をのぞき見していた時の「うつけ者スタイル」で来ると思っていた道三は度肝を抜かれ、それから舅と婿は酒を酌み交わし、和やかに会談は進みました。
会談が終わり、別れ際に道三はあることに気が付きます。
自分の家臣が持っている「槍」よりも、信長に従ってやってきた織田家家臣の持っている「槍」の方が長かったのです。
つまり、道三が信長に対し命を狙うような行動を取れば、すぐさま織田家家臣団が臨戦態勢に入れるように準備していたわけですね。
信長が「うつけ者」ではなく、類まれなる器量と度量を持った武将であることを悟った道三は
「自分の息子たちがいずれ信長の門前に馬をつなぐだろう」
と家臣の「猪子兵助」に語ります。
門前に馬をつなぐというのは「信長の家臣として仕える身となる」という意味ですから、それだけ道三が信長に感心したということですね。
こうして道三は信長の器量と度量に感心し「娘を嫁がせたのは間違いではなかった」と思いながら美濃へと戻ったのでしょう。
ただ、帰蝶には信長との間に男子が誕生していませんでしたから、それは残念に思っていたに違いありません。
これら「正徳寺会談」のエピソードは、信長の右筆であった「太田牛一」が記した「信長公記」に記されています。
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「信長公記」は一級の歴史資料として、今も織田信長という人物の功績を後世に伝える役割を果たしています。
予言はあたったのか?道三や、その息子と孫の最期が悲惨
斎藤道三の予言は外れた・・・。しかし斎藤家は信長に滅ぼされた
さて、道三の「わが息子たちは信長の門前に馬をつなぐ」という予言は、的中したのでしょうか?
道三と信長の会談から3年後の【1555年】、道三は隠居して「鷲山城」で暮らしていましたが、家督を譲った息子「斎藤義龍」との不仲がますます悪化していました。
もともと父「道三」と息子「義龍」の仲は良いとは言えず、道三は義龍よりも弟の「孫四郎」や「喜平次」ばかりを可愛がっていたのです。
義龍の母「深芳野」が道三と結婚した時にすでに身ごもっており、お腹の子の父親は道三ではなく「土岐頼芸(とき よりあき)」だったという説があります。
この「土岐頼芸」とは、美濃守護であり、斎藤道三によって追放された人物です。
道三は自分の子ではないかもしれない義龍を、かわいいとは思えなかったのでしょうね。
こうして義龍が子供の頃から確執があった父子関係は、義龍が家督を継いだ後に、悲劇的な結末を迎えてしまうのです。
【1555年】、義龍は自分が家督を継いだにも関わらず「道三が自分を追い出し、弟たちに改めて家督を譲り直そうとしている」と聞き、弟たちを呼び出して家臣に殺害させました。
驚いた道三は「大桑城」に逃げましたが、【1556年】、義龍は長良川で道三と激突します。
美濃国内には道三に味方する勢力は少なく、土岐氏の勢力に支えられた「斎藤義龍」が、道三を討ち果たしてしまいました。
土岐氏の勢力が味方した理由は、やはり義龍の父が「道三」ではなく「土岐頼芸」だったからかもしれませんね。
娘婿「織田信長」は急を聞いて、義父「道三」を救うために援軍をひきいて美濃国へ入いりしましたが、時すでに遅く「斎藤道三」は帰らぬ人となってしまったのです。
父と弟たちを殺した義龍は「親殺し」の汚名を避けるためか、室町幕府13代将軍「足利義輝」に願い出て、斉藤から「一色(いっしき)」へと改名。
美濃の国主として戦国大名のひとりとなった「義龍」ですが、舅を殺された信長に度々攻め込まれ、勢力を拡大することは叶わず、【35歳】で病死したのです。
義龍の後をその子「斎藤龍興」が継ぎ、信長の侵攻に対抗します。
しかし【1567年】に居城の「稲葉山城」を信長に攻め落とされ、長良川を船で下り伊勢の長島へ逃亡。
それ以降、大名として美濃に返り咲くことはありませんでした。
道三の予言めいた言葉は、すべて的中したわけではありません。しかし道三と息子2人が道三の実子ではないかもしれない「義龍」に殺害され、義龍は信長に阻まれて勢力を伸ばせないまま病死しするという・・・極めて不幸な最期を遂げたのです。
さらに義龍の子「龍興」は信長によって美濃を追われ、伊勢長島に落ち延びて一向一揆に加わり信長に抵抗。
さらには客将として越前の大名「朝倉義景」に迎え入れらました。
しかし龍興は【1573年】、「朝倉義景」と「浅井長政」が信長に滅ぼされる際、織田軍の追撃を受けて戦死しています。
こうして道三の子「義龍」とその孫「龍興」は、信長の門前に馬をつなぐことはしなかったのですが、信長の前に屈し続けたのでした。
そして道三が死の間際に残した遺言である「美濃は義龍ではなく信長に譲る」という言葉が記された「国譲り状」は、その孫「龍興」が美濃を追われる形で成就したのです。
ただ、「斎藤道三」の息子で、「義龍」の弟に当たる「斎藤利治」と「斎藤利堯」の二人は、信長の臣下として活躍。
信長の一門衆として、最期の最期までともに戦い、「斎藤利治」は「本能寺の変」で戦死し、「斎藤利堯」は「賤ヶ岳の戦い」の直後に主君だった「織田信孝」が切腹すると、誰にも仕えることなく静かに亡くなっています。
「義龍」の実父?「土岐頼芸」のその後と、「義龍の実父」が誰かを考察
余談ですが、「斎藤義龍」の実父とされた「土岐頼芸」は、斎藤道三に追放されたのち、甲斐「武田氏」を頼って亡命。
【1582年】、織田信長の「甲州征伐」で武田勝頼と武田家が滅亡した際、旧臣「稲葉一鉄」によって美濃国へ帰還。
同年6月、「本能寺の変」で信長が「明智光秀」に討たれた6ヶ月後、「土岐頼芸」は亡くなっています。
ちなみに「土岐頼芸」が「斎藤義龍」の実父かどうかについては、「後世の創作」という説もあります。
「土岐頼芸」が自らの愛妾「深芳野」を家来の「斎藤道三」に下げ渡したのが【1528年】、義龍が生まれたのが翌【1529年】。
「斎藤義龍」と「土岐頼芸」のような、実の父か否か・・・という疑惑については、「秦の始皇帝」とその宰相「呂不韋(りょふい)」、「白河法皇」と「平清盛」にも似たようなエピソードがあります。(始皇帝の父が「荘襄王」ではなく宰相「呂不韋」であるという逸話)
「斎藤道三」や「秦の始皇帝」など、権力を手にしたものの正統性を否定するためのデマとも考えられますので、真相は闇の中でしょうね。
『斎藤道三』について「ひとこと」言いたい!
筆者が子供の頃、「斎藤道三」についてこんな話を聞いたことがあります。
道三がある武将に
「お前に美濃・尾張をやろう」
と言い、その武将は喜びました。
美濃と尾張の2国をもらえたら、それは嬉しいですよね。
しかし道三のその言葉は、恐ろしい駄洒落でした。
「美濃=身の」「尾張=終わり」を意味し、繋げると「お前に【身の終わり】をやろう」という言葉になるわけです。
その言葉をかけられた武将は、その後、道三に殺されてしまったよ・・・・・・・という話でした。
しかし似たような話が「源頼朝」にもあるそうなので、もしかしたらオリジナルは「頼朝」の方かもしれません。
元々お坊さんだった道三が還俗し、油商人となって今で言う「実演販売」で大儲けしていたと言われる斎藤道三。
(油をお客様の容器に移す際に、「じょうご(漏斗)」という容器を使わずに一文銭の穴に入れてみせる。
それに失敗したら、お題は無料・・・という実演販売をして大儲けしたエピソードが残っている。)
その後、土岐家の家臣と出会い、一念発起して武芸の稽古に精進。
土岐家家臣の一員となり、主君を討ち果たして美濃の国を手中に収めました。
道三が油商人からそこまで上り詰める間に、いったいどれだけの血を流したのでしょう?
大勢の敵をなぎ倒し、出世を果たしていく過程で冷酷で残虐な道三のイメージが、同時代の人たちにも広がっていったでしょうから、「美濃、尾張」という言葉を吐いたのも頷けるものがあったのでしょうね。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 斎藤道三は織田信長の義父にあたる人物。織田信長の妻「帰蝶(濃姫)」は斎藤道三の実の娘。
- 織田信長と斎藤道三は、「正徳寺」で会見した。道三は「うつけ」と呼ばれていた信長の才能を見抜き、自分の息子達が信長に屈するという予言を残したと「信長公記」に記されている
- 道三の予言は的中はしなかった。しかし道三の子「義龍」は信長に押され続けたのちに病死。孫「龍興」は信長に敗れたのちに戦死。道三は息子「義龍」に敗れて戦死した
この記事を短くまとめると、以下の通り
「斎藤道三」は戦国時代の美濃国(岐阜県南部)の武将です。
「織田信長」に娘「帰蝶」を嫁がせたので、2人は舅と婿の関係でもあります。
道三は娘を嫁がせてから5年後、「うつけ者」と評判だった信長と初対面。その技量、度量に大変感心しました。
「いずれ息子たちは信長の門前に馬をつなぐことになる」と家臣にもらします。
それから3年後、道三の息子「義龍」は父と弟たちを殺害。
義龍は信長に対抗するも、領土を拡大することはできず、【35歳】で病没。その子「斎藤龍興」も信長に対抗しましたが敗北。龍興は美濃を奪われ、大名として返り咲くことはできなかったのです。
道三の「美濃は義龍ではなく信長に譲る」という遺言は、こうして実現したのでした。
以上となります。
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