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織田信長と全国統一の真実!そもそも信長は天下統一したのか?

この記事では「織田信長」と「全国統一」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「織田信長が、全国統一・天下統一に成功したのか?失敗したのか?」を、カンタンに理解できます。

 

実は「織田信長」、「天下統一」にあと一歩まで近づきながらも「失敗」しているのです。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「織田信長」はそもそも「全国統一」を目指してたのか?

近年の研究では、織田信長は「全国統一」を目指していなかったと考えられている

 

2,「織田信長」は「全国統一」に成功したのか?

「信長」は「全国統一」出来なかった。あと一歩のところで、重臣「明智光秀」に裏切られて「本能寺の変」で亡くなってしまった

 

3,もしも「信長」が「本能寺の変」で死ななかったら、「全国統一」できたのか?

おそらくあと「2~3年」で全国統一に成功していた

織田信長は、「全国統一」を目指していなかった!

「天下布武(てんかふぶ)」、「天下を武力で制圧する」という意味です。

 

つまり「天下布武」という言葉は、「天下統一してみせるぞ」という、一種のスローガンだったと考えられていたのです。

 

「天下布武」という言葉を使った「織田信長」ですが、近年では「全国統一」を目指していなかったと言われています。

 

ただ、じぶんの領地を増やし、さらには京都を支配して、誰よりも名を挙げようとしていただけなのだとか。

 

「天下布武」の「天下」とは、「日本全国」のことではなく、現在の「京都・奈良・大阪・兵庫」を意味する言葉でしかなかったと、近年の研究で明らかになっています。

 

つまり「天下布武」とは、「天下統一してみせるぞ」という意味ではなく、「京都・奈良・大阪・兵庫を武力で支配する」という意味でしかなかったのです。

 

信長は「天下統一」や「全国統一」を目指していたのではありません。

 

ただ、「自分に襲いかかってくる強敵」たちを次々と倒していったら、いつの間にか「全国統一」目前の状態だったというだけの話しなのです。



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信長は「天下統一」したのか?

ところで織田信長は、天下統一に成功したのでしょうか?

 

結論から言えば、信長は「天下統一」が出来ませんでした。

 

信長は「天下統一」目前で、もっとも信頼していた部下「明智光秀」に「本能寺の変」で討たれて、亡くなっているのです。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

「日本全国を支配すること」を「天下統一」というのなら、信長は「天下統一」には手がとどきませんでした。

 

しかし、信長が支配した領地は、とてつもなく広大でした。

 

東は「群馬県(下野国)」から、西は「岡山県(備中国)」まで、当時の戦国武将たちの中でも、最大の領地を持っていました。

 

それだけではなく、信長は「関東」と「九州」をすでに屈服させていたので、天下統一まで、本当にあと一歩に迫っていたのです。

 

「本能寺の変」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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実は関東「北条氏」と、九州「島津氏」は信長に屈していた

「群馬県」から「岡山県」まで信長は支配していたと申しました。

 

しかし「関東の大部分」を支配していた「北条氏政」は、【1580年】に信長にすでに臣従、つまり家来になっていました。

 

「九州南部」を支配していた「島津義久」も、【1582年】の時点で、織田信長のことを「上様」、つまり「殿様」と呼んで崇拝していたので、臣従していたことになります。(とはいえ、島津の臣従は「表向き」だけという見方もできる)

 

信長は「群馬」から「岡山」どころか、「関東」から「九州」までを支配下に置いていたことになるのです。

 

残るは

  • 「四国・長宗我部元親」
  • 「中国・毛利輝元」
  • 「越後・上杉景勝」
  • 「奥州の諸大名たち」

 

四国・長宗我部元親」は、信長の三男「織田信孝」がひきいた「四国遠征軍」に攻め込まれる直前で、滅亡寸前でした。

 

中国・毛利輝元」は、「羽柴秀吉」に攻められ苦戦。さらには「織田信長」と「明智光秀」が援軍に駆けつける予定でした。それだけではなく、「島津義久」も「九州」から「中国・毛利輝元」を攻撃する予定だったので、毛利はすでに滅亡寸前。

 

越後・上杉景勝」はというと、猛将「柴田勝家」や「森長可」の猛攻により、風前の灯。

 

奥州の大名たち」はというと、「伊達政宗」の父「伊達輝宗」はすでに信長と交流を重ねていたので、臣従に近い状態でした。他には織田家に対抗できる勢力が皆無なので、奥州(東北)は問題になりません。

 

信長は、思った以上に、すでに「天下統一」目前の状態だったのです。

 

「明智光秀」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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あと「2~3年」、信長が生きていたら、天下統一に成功していたかもしれない

信長は「毛利輝元」「長宗我部元親」「上杉景勝」などを残して、すでに天下のほとんどを手に入れていました。

 

残ったこれら三人の武将も、すでに「羽柴秀吉」「織田信孝」「柴田勝家」によって、攻め滅ぼされる寸前の状態だったのです。

 

1582年】、「織田信長」は「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれて命を落とします。

 

しかし、もしも信長が生きていたら、あと【2~3年】程度で、天下統一に成功していたと思います。

 

もしかすると、【1年】くらいで統一してしまったかもしれないほど、信長の勢力は「天下統一」へ近づいていたと言っても、過言ではないと思います。

 

信長が「本能寺」で亡くなったことで、「天下統一事業」は一度ストップします。

 

しかし信長の後継者「豊臣秀吉」は、信長が亡くなった8年後の【1590年】、関東の「北条氏政」を屈服させて、「天下統一」に成功するのです。

 

「豊臣秀吉の天下統一」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

 

まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「織田信長」は「全国統一」を目指していなかったと考えられている

 

2,「織田信長」は「全国統一」出来なかった。あと一歩のところで、重臣「明智光秀」に裏切られて「本能寺の変」で亡くなってしまった

 

3,もしも「信長」が「本能寺の変」で死ななかったら、おそらくあと「2~3年」で「全国統一」に成功していた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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