織田信長のご先祖様が、一体誰なのか、ご存知でしょうか?
そして織田信長の子孫を自称しておられるフィギュアスケート選手・織田信成さんと織田信長の真の関係とは?
織田信長と正室・濃姫こと帰蝶とのあいだに、子供はいるのでしょうか?
じつは織田信長は、平安時代に活躍した武将・平清盛の末裔を名乗っていました。
そして濃姫(別名・帰蝶)と織田信長のあいだに子供はいないようです。
この記事では、織田信長の家系図について簡単に解説いたします。
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この記事を短く言うと以下の通り
- 織田信長は、平安時代に活躍した武将・平清盛の子孫を自称していた
- 織田信長と正室・帰蝶のあいだには子供がいない。ただ帰蝶は信長の嫡男・信忠を養子にしている
- フィギュアスケート選手・織田信成さんは、おそらく織田信長の子孫で間違いないだろう
織田信長の家系図!先祖から兄妹・子孫まで完全解説
織田信長の先祖は、平清盛?
織田信長は、自分のご先祖さまを【平清盛】だと主張していたようです。
平清盛といえば、平安時代末期の武将です。
清盛は【1181年】に亡くなっております。
【1582年】に亡くなった織田信長よりも、約400年ほど前に活躍した人ということです。
信長は、平清盛の長男・平重盛の次男である平資盛の末裔を名乗っていました。
つまり平資盛の愛妾が、近江国津田郷で産んだ子が織田親真という人物です。
その織田親真が、のちに越前国(福井県)で神職につき、代々子孫を伝えていったのです。
室町幕府の時代に織田家は、越前国で守護を務めていた斯波氏に部下としてつかえ、尾張国の守護も兼ねていた斯波氏は、越前から尾張へ転居します。
これ織田家も着いていき、織田家は尾張国(愛知県西部)へ住み着くことになったわけです。
この越前国から尾張国への移動のときに、織田家が後に滅ぼすこととなる越前の守護代・朝倉氏から、木瓜紋という織田家の家紋をゆずってもらったといわれています。
越前国と尾張国の守護を務めた斯波氏に部下としてつかえた尾張守護代・織田家ですが、後に守護代の織田家から、織田弾正忠家という分家が誕生します。
その弾正忠家から織田信長が誕生するのです。
ちなみに、織田信長の簡単な家系図は、以下のとおりです。
織田信長の祖父は、織田信定という人物です。
織田信定の息子が、織田信秀。この信秀という人が、織田信長の父親です。
信定と信秀親子は、交通の要衝をおさえ、貿易と水運を重視し、巨額の資金をたくみに使って権力を整え、織田弾正忠家の基礎をしっかり固めました。
その基礎を受け継いだ織田信長は、天下統一の目前まで迫りながらも、【1582年】におこった本能寺の変で、部下だった明智光秀の裏切りによって亡くなりました。
ちなみに、織田信長が本当に平清盛の子孫だったのかどうかについては、諸説あります。
信長は当初、藤原氏を自称していました。
しかし途中から平氏を名乗るようになりました。
これは、当時からいわれていた噂のひとつである【源氏と平氏が交代で世を支配している】という説を信じた織田信長が、源氏の血を引く室町幕府の足利将軍家を倒す大義名分を欲しがったため、平氏を名乗ったのではないかといわれているようです。
たしかに当時の日本の権力者交代の順序を見てみると、源氏と平氏が交代で天下を支配しています。
- 平清盛(平氏)
- 源頼朝(源氏)
- 北条義時(平氏)
- 足利尊氏(源氏)
- 織田信長(平氏)
- 明智光秀(源氏)
- 豊臣秀吉(平氏)
- 徳川家康(源氏)
豊臣秀吉と徳川家康は、経歴を詐称して平氏や源氏という名門貴族の姓を名乗ったといわれています、真実は不明です。
織田信長の先祖は、白河法皇?
織田信長は、12世紀の絶対権力者である白河法皇の子孫かもしれない、という説があります。
実は、織田信長が先祖であると主張していた平清盛には、不思議な出生の秘密があるのです。
それは平清盛が、白河法皇の隠し子であるという噂です。この噂は清盛が生きた当時からされていたものでした。
白河法皇とは、院政という政治のやり方で、権力を握った当時の絶対権力者です。
「サイコロ、鴨川、山法師。この三つ以外は全て私の思うがままだ」
という言葉を残すほどの権力を持っていまいした。
平清盛は、平忠盛という武士の長男でしたが、母親がもともと白河法皇の愛人だったのです。
白河法皇の愛人を下げ渡されて妻とした平忠盛でしたが、そのときすでに平清盛が母親のお腹の中にいたというわけです。
平清盛は、武士としては異例の速度で出世を遂げ、太政大臣という最高の地位にまで上りつめた人物です。
「平家でなくては人ではない」
という言葉を残すほどの権力を極めたのが、平家とそのボスである平清盛です。(この言葉を実際に口にしたのは、平清盛の妻の弟である平時忠)
清盛の異例の出世速度に驚いた人々は、平清盛はあの絶対権力者・白河法皇の隠し子なのではないか?と噂したのです。
清盛が白河法皇の隠し子ならば、異例の出世ができるのも説明がつくと、当時の人々は考えたのです。
しかしこれは当然ですが、根拠のない噂話です。
織田信長が平清盛の子孫であるという話も、根拠にとぼしい話ですので、信長が白河法皇の子孫であるという話も、可能性は極めて低いと考えられます。
余談ですが【2012年】の大河ドラマ【平清盛】では、清盛は平忠盛の子ではなく、白河法皇の隠し子であるという設定になっています。
織田信長は紫式部の子孫だった?
織田信長が、源氏物語を描いた紫式部の子孫である可能性もあります。
先ほど、信長は平清盛の孫・平資盛の子孫であると申しました。
実はこの平資盛の祖母で、清盛の最初の妻が、紫式部の子孫にあたる女性なのです。
清盛の最初の妻は、長男・重盛と、次男・基盛を産んで、亡くなってしまいました。
つまり、平清盛の長男と次男が、紫式部の血を引く人物なのです。
平清盛の長男・重盛の子である資盛は、当然ですが紫式部の子孫です。
その資盛の子孫とされている織田信長もまた、紫式部の子孫というわけです。
しかし、織田信長が平清盛・資盛の子孫であるという説は、信憑性に乏しいと思います。
紫式部の子孫という説は、可能性が低いかもしれません。
ちなみに可能性は低いかもしれませんが、鉄砲が伝来した種子島の領主である種子島時尭は、紫式部の末裔である可能性があります。
織田信長の兄弟・姉妹
織田信長の父・織田信秀は、数多くの側室をもっていたため、織田信長にはたくさんの兄妹がいます。
ちなみに信長は長男ではなく、三男です。
そのため織田信長は、通称【三郎】と呼ばれていたのでした。
- 長男・織田信広(長島一向一揆で戦死)
- 次男・不明??
- 三男・信長(1582年、本能寺の変で戦死)
- 四男・信行(信勝)→(信長の策略で暗殺される)
- 五男・信包(1614年、大阪城内で急死!片桐且元による毒殺説もある)
- 六男・秀俊(1556年戦死)
- 七男・信興(1570年、小木江城を死守して戦死)
- 八男・秀孝(享年不明!叔父・織田信次により10代半ばで殺害される)
- 九男・秀成(1574年、伊勢長島攻めで戦死)
- 十男・信照(信長の次男・織田信雄に仕えたが、その後の動向は不明)
- 十一男・長益(有楽斎)(茶道・有楽流を創設し、現代まで続く)
また、織田信長には数多くの妹たちもいますが、浅井長政の妻となった絶世の美女【お市の方】以外は、それほど有名ではないみたいです。
織田信長の息子たち
信長には男子だけで10人以上の子供がいました。
- 長男、信忠(1582年、本能寺の変で戦死)
- 次男、信雄(1630年死去。享年73歳)
- 三男、信孝(1583年、秀吉に敗北し切腹)
- 四男、信勝(秀吉の養子。1585年病死)
- 五男、津田信房(本能寺の変で戦死)
- 六男、織田信秀(1597年以降、病死)
- 七男、信高(1603年死去)→フィギュアスケート選手・織田信成の先祖
- 八男、信吉(1615年死去)
- 九男、信貞(1624年死去)
- 十男、信好(1609年死去)
- 十一男、長次(1600年の関ヶ原の戦いで戦死)
- 庶長子・信正(1647年に94歳で死去)
- 信長の娘といえば、徳川家康の長男・松平信康に嫁いだ徳姫
- 前田利家の息子・前田利長に嫁いだ永姫
- 豊臣秀吉の側室となった三の丸殿
この3名が有名です。
織田信長の血筋は、信長の次男・信雄の子孫が、明治時代まで存続しています。
また信長の弟である織田有楽斎の子孫が、現在も愛知県名古屋市で、茶道・有楽流の家元を継承し続けています。
織田信長の正室・帰蝶(濃姫)のその後!信長とのあいだに子供はいたのか?
織田信長の正室(正妻)である帰蝶こと別名・濃姫は、織田信長の死後も長生きし、78歳まで生きたといわれています。
二人のあいだに子供がいませんでした。
ただ、信長の長男・織田信忠は、帰蝶の養子として育てられています。
美濃の国主・斎藤道三の娘・帰蝶こと濃姫といえば、織田信長の正室として有名なお方です。
美濃国出身であったため濃姫と呼ばれたといわれています。
帰蝶は、1548年に織田信長に嫁いできました。
年齢は、信長のほうが1歳上だったとのことです。
記録がきわめて少ないために、帰蝶が織田信長の生前にいったいどのような活動をしていたのかは、定かではありません。
ただし、総見院という寺社に葬られた【養華院殿要津妙玄大姉】という法名の人物が、帰蝶のものなのではないかといわれています。
もしもこの法名が、帰蝶のものなのだとしたら、彼女は78歳で亡くなったことになります。
夫・織田信長が亡くなったとき、帰蝶は48歳でした。
ですので、信長が亡くなったあと30年も生きたことになります。
帰蝶と織田信長のあいだに子供はありませんでした。
しかし、信長の嫡男・織田信忠の生母・生駒の方が、早くに亡くなっているので、織田信忠は帰蝶の養子として育てられています。
子供がいない正室が、側室の産んだ子を養子にして養育することは、よくあることなのでです。
帰蝶は実は、明智光秀の従姉妹だったともいわれています。
それが本当ならば、従兄弟である明智光秀が、夫の織田信長を討ったということになってしまいます。
一説には帰蝶は安土殿と呼ばれていたといいます。
しかし、信長から離縁された説や、若くして亡くなった説などもあり、詳細は不明です。
フィギュアスケート選手・織田信成は、本当に織田信長の子孫なのか?
織田信長の子孫といえば、フィギュアスケート選手の織田信成さんが有名です。
しかし、一説には【彼は信長の子孫ではない】という声も聞こえてきています。
彼の先祖をくわしく辿ってみると、以下のようになります。
織田信成さんのご先祖さま一覧
織田信成さんは、織田信長の七男・織田信高から数えて16代目の子孫に当たられます。
初代、織田信高
戦国武将・織田信長の7男【織田信高】
織田信高は1576年生まれで、母親は【お鍋の方】
- 2代目、織田高重
- 3代目、織田一之
- 4代目、織田信門
- 5代目、織田信倉
- 6代目、織田信直
- 7代目、織田長孺
- 8代目、織田長裕
- 9代目、織田信真
10~12代までが戦争で資料が消失し、不詳となっています。
織田信成さんの曽祖父にあたられる13代目の名前は明かされていません。
なぜ13代目を明かさないのかというと、【親戚に迷惑がかかるから】だそうです。
確かに曽祖父の名前が判明してしまったら、子孫の家に次々と取材が殺到するでしょう。
明かさないと言うのは賢明かもしれません。
以下、14代目以降をご紹介いたします。
- 14代目、織田重治さん(1917年生まれ)
- 15代目、織田信義さん
- 16代目、織田信成さん
織田信成さんは、信長の七男・織田信高の16代目の子孫ということですね。
どうやら10~12代目の合計3名が不明となっており、しかも13代目が明かされていないことで、その信憑性を疑う意見もあるようです。
織田信成さんは、代々織田信長の子孫であることを受け継いできたわけではないみたいです。
実は織田信成さんの家は、信成さんのおじいさん【重治】さんの代まで【信長の子孫である】という事実を知らなかったようなのです。
その証拠に織田信成さんの父・信義さんから、織田家の通字である【信】の字が使われています。(信成さんのおじいさんは重治さんといって【信】の一文字が使われていない)
祖父・織田重治さんは、自分たちが信長の子孫であると知り、家系図を作成したといいます。
織田有楽斎の子孫であり、現在は有楽流茶道の家元である織田宗裕さんの場合、代々先祖から織田家の子孫であると受け継がれて来ました。
【代々先祖から受け継がれてきた】という伝統的なものがないため、もしかすると織田家の子孫じゃないのではないかと、心配の声もあるようです。
織田信成さんの家では、桔梗の花を飾ってはいけない
織田信成さんの家では、明智光秀の家紋である桔梗を飾ってはならないとされていたみたいです。
しかし、他の織田家の子孫のあいだでは、桔梗は禁止されていないのだとか。
そのため、桔梗にこだわっているのは織田信成さんの家だけといわれているようです。
ですが、茶道の有楽流家元である織田宗裕さんの名古屋市の実家でも、桔梗の華は【敵の華だから】という理由で、飾られないこととなっているようです。
信成さんは織田信長の血を引く本物の子孫で、間違いないのではないでしょうか?
子孫であるという確たる証拠はないですが、詐称する理由が、あまりない気がします。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 織田信長の先祖は、平清盛と言われている
- 織田信長の正妻・帰蝶には子供がいなかったため、側室の子である織田信忠を養子として育てていた
- 織田信成さんは、おそらく織田信長の子孫で間違いないだろう
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
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コメント
コメント一覧 (2件)
個人的には、織田信成さんが信高系織田家(高家・2000石)の子孫であってほしいと願ってはいます。いろいろ調べると13代目(信成さんの曽祖父)は豊春さんという名前が出ていますね。父親に尋ねたら口頭でそう答えられたとか。
信成さんが子孫と言うのには、信雄の子孫で丹波柏原藩主織田家の現当主・織田信孝さんが「彼はいったい誰なんでしょう」と批判的なコメントされてたり、明治維新時の当主、9代信真は明治になり写真師となって生計を立てたが、その後の消息が不明であることや、9代から氏名不明の10代~13代までが約75年くらいしかなく、15歳くらいで子供が出来なければつじつま合わない等批判がありますが、相続については必ずしも長子相続が行われるとは限らないので(早逝により弟が相続したり養子が入って相続する場合もある)、この批判は当たらないと思います。
わからないのは曾祖父の名前を明かすことは親戚に迷惑がかかるというのは何か不都合な真実があるのかなと思ってしまいます。
明治以降は、除籍簿等を取り寄せれば名前はたどれると思うので、疑念払拭のためにぜひやってもらいたいですね。
祖父の代まで信長の子孫であることを知らなかったとありますが、特に明治になり没落した旗本家では、我が家は旗本であったと伝えなかったために子孫が最近まで知らなかったというのは意外と聞く話です。
ちなみにこの織田家、信成さんは次男なので分家になります。
系譜的には、⑭重治ー⑮信義ー⑯信治(弟 信成)ー⑰長男となります。
お世話になっております。
とても素晴らしい情報をくださいましてありがとうございます!
本当に心より感謝申し上げます。