織田信長の家系図と子孫を解説!「きちょう」こと濃姫との子供とは?

織田信長のご先祖様は、一体誰なのか?子孫とされている「織田信成」さんとの関係とは?
そして正室「濃姫」こと「帰蝶」との間の子供はいるのでしょうか?
実は信長、平清盛の末裔を自称していたみたいですね。濃姫・帰蝶との間に子供はいないようです。
この記事では「織田信長」の家系図について簡単に解説いたします。
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目次
織田信長の家系図!先祖・兄妹・子孫
信長の先祖
信長の先祖は、「平清盛」と言われています。

《平清盛》
「引用元ウィキペディアより」
「平清盛」といえば、「平安時代末期」の武将。信長が生きた時代よりも約400年ほど前を生きていた人物です。
信長は、その平清盛の嫡男である内大臣「重盛」の次男「資盛(すけもり)」の末裔であると言われているのです。

「家系図の引用などはご遠慮くださいませ」
清盛の嫡男「重盛」、重盛の次男「資盛」の妾が「近江国津田郷」にて産んだ子が「織田親真」
その「親真」が後に越前国で神職につき、代々子孫へ伝えていったのです。
足利幕府の時代、越前国で「守護」を務めていた「斯波」氏に織田家は仕え、「尾張国」の守護も兼ねた斯波氏は、越前から尾張へ転居。
この時、織田家が後に滅ぼすこととなる越前守護代「朝倉」氏から、「木瓜紋」という織田家の家紋を譲られたとも言われています。

《木瓜紋》
「引用元ウィキペディアより」
「越前国・尾張国」の守護を務めた「斯波」氏に仕えた尾張守護代「織田家」。
後に守護代「織田家」から、「織田・弾正忠家」という分家が出て、その「弾正忠家」から「織田信長」が産まれる事となったのです。
ちなみに、「織田信長」の簡単な家系図は、以下のとおりです。

「《織田信秀・信長の家系図》
家系図の引用などはご遠慮くださいませ」

「《織田信長の家系図》
家系図の引用などはご遠慮くださいませ」
信長の祖父は「織田信定」
信定の息子で、信長の父が「織田信秀」
信定・信秀は、交通の要衝を抑え、貿易と水運を重視し、巨額の資金を巧みに使って権力を整えて「織田弾正忠家」の地盤を固めました。
その地盤を受け継いだ信長は、天下統一間近まで迫りながら、1582年「本能寺の変」、明智光秀による謀反を受けて亡くなりました。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」
ちなみに、信長が平清盛の子孫であるか否かについては諸説あります。
信長は当初「藤原氏」を自称していましたが、後に「平氏」を名乗るようになりました。
これは「当時から言われていた「源氏と平氏が交代で世を支配している」という説を信じ、足利幕府を倒す大義名分を欲しがったためで
は?と言われているようです。
当時の日本の権力者交代の順序を見てみると
「(平氏)平清盛 → (源氏)源頼朝 →(平氏)北条一門 → (源氏)足利幕府 → (平氏)織田信長 → (源氏)明智光秀 →(平氏)豊臣秀吉 →(源氏)徳川家康」
豊臣秀吉と徳川家康は、経歴詐称して「平氏」「源氏」を名乗ったと言われていますが・・・真実は不明です。
信長の兄弟
父・信秀が多数の側室を囲っていたため、信長には、多くの兄妹がいます。
ちなみに信長は長男ではなく、三男。
その為信長の通称は「三郎」でした。
- 1,信広(長島一向一揆で戦死)
- 2,不明??
- 3,信長(本能寺の変で戦死)
- 4,信行(信勝)→(信長の策略で暗殺)
- 5,信包(1614年、大阪城内で急死!片桐且元による毒殺説も!)
- 6,秀俊(1556年戦死)
- 7,信興(1570年、小木江城を死守して戦死)
- 8,秀孝(享年不明!叔父・織田信次により10代半ばで無礼討ちにされる)
- 9,秀成(1574年、伊勢長島攻めで戦死)
- 10,信照(甥・織田信雄に仕え、たが後の動向は不明)
- 11、長益(有楽斎)(茶道・有楽流を創設し、現代まで続く)
また、信長の妹たちも数多くいますが、浅井長政の妻「お市の方」以外は、それほど有名ではないみたいです。
「お市の方」について、よろしければ以下のリンク記事もご利用下さいませ。
信長の息子達
- 1,信忠(1582年、本能寺の変で戦死)
- 2,信雄(1630年死去。享年73歳)
- 3,信孝(1583年、秀吉に敗北し切腹)
- 4,信勝(秀吉の養子。1585年病死)
- 5,津田信房(本能寺の変で戦死)
- 6,織田信秀(1597年以降、病死)
- 7,信高(1603年死去)→フィギュアスケート「織田信成」の先祖
- 8,信吉(1615年死去)
- 9,信貞(1624年死去)
- 10、信好(1609年死去)
- 11,長次(関ヶ原の戦いで戦死)
- 庶長子・信正(1647年に94歳で死去)
信長の娘といえば、松平信康に嫁いだ「徳姫」、前田利家の息子「前田利長」に嫁いだ「永姫」
又は秀吉の側室となった「三の丸殿」などがいます。
次男・信雄の子孫が、明治時代まで存続しており、弟の「織田有楽斎」の子孫が、現在「名古屋市」で茶道「有楽流」の家元を続けているようです。
妻「きちょう」のその後と子供
信長の正室(正妻)といえば、美濃の国主「斎藤道三」の娘「帰蝶(きちょう)」こと「濃姫」
美濃国出身であったため「濃」と呼ばれたと言われています。
1548年に信長に嫁いできた「きちょう」
生前に何をしていたのか定かではなく、総見院という寺社に葬られた「養華院殿要津妙玄大姉」という法名が「きちょう」のものと言われていますが・・・。
もしもこの法名が「きちょう」のものなのだとしたら、78歳で亡くなったことになります。
信長亡き後も、かなり長生きしたということに・・・。
「きちょう」と信長の間に子供は無く、信長の嫡男「信忠」の母「生駒の方」が、早くに亡くなっているので「信忠」を養子としたとも言われています。
子供がいない正室が、側室が産んだ子を養子にして養育することは、よくあること。
明智光秀の従姉妹とも言われていますので、従兄弟・明智光秀が夫・信長を討ったということに・・・。
一説には「安土殿」と呼ばれていたとも言われていますが、「離縁された」説や「若くして亡くなった」などの説があり、詳細は不明です。
織田信成は、信長の子孫ではない?
織田信長の子孫といえば、フィギュアスケートの「織田信成」さんが有名。
しかし、一説には彼は「信長の子孫ではない」とも言われているようです。
彼の先祖をたどってみると、以下のようになります。
織田信成の先祖一覧
1、織田信高
戦国武将・織田信長の7男「織田信高」
この織田信高は1576年生まれで、母親は「お鍋の方」
- 2 、織田高重
- 3、 織田一之
- 4、 織田信門
- 5、 織田信倉
- 6、 織田信直
- 7、 織田長孺
- 8 、織田長裕
- 9 、織田信真
10~12代までが戦争で資料が消失し、不詳
13代は明かしていない。
明かさない理由は「親戚に迷惑がかかる」からだそうです。
確かに、曽祖父の名前が判明してしまったら、子孫の家に次々と取材が殺到するでしょう。明かさないと言うのは賢明かもしれません
- 14代が織田重治さん(1917年生まれ)
- 15代が織田信義さん
- 16代目が織田信成さん。
どうやら「10~12代」の三名が不明で、13代目が明かされていないことで、「実は捏造なのでは?」と言われているようです。
織田信成さんは、代々織田信長の子孫であることを受け継いできた・・・わけではないみたいです。
実は、織田信成さんの家は、信成さんのおじいさん「重治」さんの代まで「信長の子孫である」ということを知らなかったようなのです。
その証拠に「信成」さんの父「信義」さんから、織田家の通字「信」の字が使われています。
祖父「重治」さんは、自分たちが信長の子孫であると知り、家系図を作成。
「織田有楽斎」の子孫であり、現在「有楽流」の家元である「織田宗裕」さんの場合、代々先祖から織田家の子孫であると受け継がれて来ました。
「代々先祖から受け継がれてきた」
これがないため「織田家の子孫じゃない」のではないか?と疑われているようです。
桔梗の花は、飾ってはならない?
更に、信成さんの家では明智光秀の家紋「桔梗」は飾ってはならないものとされていたみたいです。
しかし、他の「織田家の子孫」の間では「桔梗」はご法度ではないのだとか・・・。
そのため「桔梗にこだわっている」のは信成の家だけ・・・と言われ、若干いかがわしさもあるとのこと・・・。
ですが、茶道の「有楽流家元」である「織田宗裕」さんの名古屋市の実家でも、「桔梗の華」は「敵の華だから」という理由で飾られないこととなっているようです。
信成さんが、信長の子孫ではないといわれている根拠ですが、「桔梗の華」だけでは、若干弱い気がします。
信成さんは本物の子孫で、間違いないのではないでしょうか?
子孫であるという確たる証拠はないですが、詐称する理由が、あまりないですからね。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・信長の先祖は、平清盛と言われている
・信長の正妻「きちょう」には、子供がなく、側室の子「信忠」を養子とした
・信成は、おそらく織田信長の子孫で間違いない
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
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コメント
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個人的には、織田信成さんが信高系織田家(高家・2000石)の子孫であってほしいと願ってはいます。いろいろ調べると13代目(信成さんの曽祖父)は豊春さんという名前が出ていますね。父親に尋ねたら口頭でそう答えられたとか。
信成さんが子孫と言うのには、信雄の子孫で丹波柏原藩主織田家の現当主・織田信孝さんが「彼はいったい誰なんでしょう」と批判的なコメントされてたり、明治維新時の当主、9代信真は明治になり写真師となって生計を立てたが、その後の消息が不明であることや、9代から氏名不明の10代~13代までが約75年くらいしかなく、15歳くらいで子供が出来なければつじつま合わない等批判がありますが、相続については必ずしも長子相続が行われるとは限らないので(早逝により弟が相続したり養子が入って相続する場合もある)、この批判は当たらないと思います。
わからないのは曾祖父の名前を明かすことは親戚に迷惑がかかるというのは何か不都合な真実があるのかなと思ってしまいます。
明治以降は、除籍簿等を取り寄せれば名前はたどれると思うので、疑念払拭のためにぜひやってもらいたいですね。
祖父の代まで信長の子孫であることを知らなかったとありますが、特に明治になり没落した旗本家では、我が家は旗本であったと伝えなかったために子孫が最近まで知らなかったというのは意外と聞く話です。
ちなみにこの織田家、信成さんは次男なので分家になります。
系譜的には、⑭重治ー⑮信義ー⑯信治(弟 信成)ー⑰長男となります。
お世話になっております。
とても素晴らしい情報をくださいましてありがとうございます!
本当に心より感謝申し上げます。