武田信玄の死因は織田信長による暗殺?もし長篠の戦いで生きていたら

武田信玄の死因は病気?

それとも、織田信長による暗殺?

もしも信玄が生きていたら「長篠の戦い」は、どうなっていた?


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この記事を短く言うと

・武田信玄の死因は「胃がん」

・「ヒ素」「鉄砲」による暗殺説は、後世の創作

・信玄が生きていたら、そもそも「長篠の戦い」は起こっていなかった


武田信玄の死因

名将・武田信玄

1521年生誕・・・・1573年死去。

享年53歳

死因は「胃がん」・・・当時は「膈(かく)」と呼ばれていました

症状としては「吐血」など、出血を伴うということ。

織田信長が支配する京都を目標地点とし、進軍を続けていた矢先に亡くなった・・・と言われています。

亡くなった場所は「信州駒場」

この時、信玄が亡くなっていなかったら、「浅井長政」「朝倉義景」「本願寺」を同時に相手にしていた信長は、窮地に追いやられていたことでしょう。

織田信長による暗殺?

信玄が亡くなったタイミングは、織田信長にとってこの上なく都合の良いタイミングでした。

何と言っても「信長包囲網」で、最も危険だったのが「武田信玄」。

その信玄が亡くなったのですから!

一説よると信玄の死因は、信長による「ヒ素」を使った暗殺とも言われています。

又は「鉄砲」を利用した暗殺

「長篠の戦い」古戦場がある「愛知県新城市」の「法性寺」に、信玄狙撃地点なるものがあります。

犯人は、徳川家臣「菅沼定盈」の臣下「鳥居半四郎」

美しい笛の音で、信玄をおびき出し、鉄砲で狙撃した・・・と言われています。

「ヒ素」「鉄砲」による暗殺。

「三ツ者(みつのもの)」と呼ばれる忍び集団に守られ、厳重な警護のもとで生活していただろう信玄が、そう簡単に暗殺されるとは思えません。

暗殺は後世の創作でしょう。

やはり病死で間違いないのではないでしょうか。


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生きていたら「長篠の戦い」の勝敗が変わっていた?

もしも武田信玄が、1573年に亡くなること無く、「長篠の戦い」で采配を取っていたら、結果はどうなっていたでしょうか?

長篠の戦い・・・・1575年、信玄の息子「武田勝頼」が、織田徳川連合軍に大敗北を喫した戦い。

結論から言うと、「長篠の戦いは発生しなかった」でしょう。

なぜなら長篠の戦いで、「織田軍の迎撃準備が、あまりにも整いすぎていた」から。

長篠の戦いでは、「鉄砲三段撃ち」はなく、それどころか「騎馬隊」すら実在しなかったとも噂されています。

近年、織田信長は、長篠・設楽が原に堀や馬防柵で囲んだ「陣地」を構築して、武田軍を迎え撃ったと考えられています。

勝頼は、その鉄壁の「要塞」へ攻撃を繰り返し、徐々に兵力を消耗していったのです。

戦略家・戦術家として有名な武田信玄が、そんな「迎撃準備が整った状態の織田徳川連合軍」に、無謀な攻撃を仕掛けるとは思えません。

「三方ヶ原の戦い」でも、武田信玄は、要害「浜松城」への攻撃をせず、三方ヶ原の戦いに徳川家康を誘い込んで撃破しています。

信玄だったら、長篠・設楽が原で戦わず、信長・家康の意表を突く地点で決戦していたのではないでしょうか。

どんな方法であれ、「戦争の上手さ」では、武田信玄のほうが信長・家康より数段上ですので、信玄が勝利したと思います。


長篠の戦い」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。よろしければご利用下さいませ。

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長篠の戦いをわかりやすく解説」、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。よろしければご利用下さいませ。

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長篠の戦い・亡くなった武将」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。よろしければご利用下さいませ。

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まとめ

本日の記事をまとめますと

・信玄の死因は「胃がん」・・・当時の言葉で「膈(かく)」

・信長による暗殺説は、後世の創作

・「長篠の戦い」・・・信玄が生きていたら、そもそも発生していないだろう

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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