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織田信忠が生きていたら歴史は変わっていた?秀吉の織田家乗っ取りはなかった

この記事では「織田信長」の長男「織田信忠」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

これを読めば「織田信忠の最期」と「もしも生きていたら歴史はどのように変化したのか」を、カンタンに理解できます。

「織田信忠」が生きていたら、おそらく「豊臣秀吉の天下」はなかったと考えられるのです。


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この記事を短く言うと

 

1,「織田信忠」とは、何者なのか?

「織田信忠」は、「織田信長」と側室「生駒吉乃(類)」の間に生まれた信長の長男。のちに正室「帰蝶」の養子となって、織田家の家督を継承した。

 

2,「織田信忠」の最期と、「本能寺の変」から逃亡しなかった理由とは?

1582年6月】、「織田信忠」は「本能寺の変」で、父「織田信長」とともに戦死した。信忠は「明智光秀の包囲網は完璧だから、逃亡など不可能」だと思い込み、逃亡を断念した

 

3,「信忠」が生きていたら、歴史はどう変わったのか?

「織田信忠」が生き延びていたら、その後の「豊臣秀吉」による天下はなかっただろう。「織田信忠」が父「信長」の天下統一事業を引き継ぎ、天下統一に成功していただろう


目次

織田信忠が生きていたら、歴史は変わっていたのか?

もしも「織田信忠」が生きていたら、たとえ「信長」が亡くなったとしても、「豊臣秀吉」による天下はなかったと思います。

秀吉は、「織田家」で勃発した「家督争い」に介入し、織田家を2つに割る「内輪もめ」を起こしたのです。

そして、自分とは反対の勢力である「柴田勝家・織田信孝」を滅ぼし、織田家を支配しました。

ということは、「織田家の内輪もめ」が起こらなければ、「秀吉」は「織田家を乗っ取ることが出来なかった」というわけです。

もしも「信忠」が生きていたら、織田家で家督争いなど起こりません。

なぜなら「信長」は生前に、「信忠」に対して、織田家の家督をすでに譲っていたからです。

すると、「秀吉」が「織田家を乗っ取る」ためのスキがなくなることになります。

信忠が生きていたら、おそらく織田家はそのまま「天下統一」を実現していたことでしょう。

明智光秀も、信忠がひきいる「柴田勝家」や「羽柴秀吉」の軍団に滅ぼされていたはず。

信忠が生きていたら、「豊臣秀吉の天下」という歴史は、訪れなかったのです。

ちなみに、秀吉がおこなった「織田家乗っ取り」の方法ですが、「徳川家康」がまったく同じ方法で、「豊臣家」を乗っ取ることに成功しています。

1598年】、「豊臣秀吉」が亡くなると、徳川家康はわざと傍若無人な振る舞いをして、自分の対抗勢力である「石田三成」を怒らせます。

すると「石田三成」は、「家康」を倒そうと、豊臣家の「反家康派」の武将たちを集めて「関ヶ原の戦い」を起こすのです。

これにより、「豊臣家」という巨大勢力は、「石田派」と「徳川派」の真っ二つに分裂して、争うことになります。

「家康」は、「石田三成の一派(西軍)」を滅ぼして、豊臣家の力を半減させてしまうのです。

1615年】、「関ヶ原の戦い」から15年後、弱体化した「豊臣家」は、「家康」の手でついに滅亡。

家康は、「秀吉が織田家を乗っ取った方法」と全く同じ方法、つまり「主の家を2つに分断して、反対勢力を滅ぼす」というやり方で、「豊臣家」を乗っ取り、滅ぼしたのでした。

ところが、「信忠が生きていたとしても、秀吉を止めることはできなかった」と、歴史学者の本郷和人先生がおっしゃっておられました。

当時の織田家は、のちの徳川将軍家のように、後継者が自動的に天下人になるシステムが確立されていなかったのです。

だから、どこかのタイミングで、織田信忠も羽柴秀吉(豊臣秀吉)に屈服まさせられていたのではないかというのです。

本郷先生のお言葉にも、頷けるところがあると思います。


「徳川家康」については、以下のリンク記事をどうぞ。

「徳川家康についてわかりやすく簡単に解説!そもそも何をした人なの?」の記事はコチラ



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織田信長の長男・織田信忠とは何者なのか?

織田信忠は、「織田信長」の長男であり、後継者であった人物です

《織田信忠》
「引用元ウィキペディアより」

母親は、信長の側室である「生駒吉乃」。またの名を「類」とも呼ばれている女性です。

彼女は、信忠の弟「信雄」と妹「徳姫」を産んで病死しています。(「徳姫」は、徳川家康の長男「松平信康」の正室となっている)

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

「信忠」は、信長の正室「帰蝶」こと「濃姫」の養子となっています。

信忠は、【1576年】に「織田家」の家督を父「信長」から譲られて、「尾張・美濃」2カ国を支配しています。

織田家の正当な後継者として育てられた「織田信忠」。

彼はその後、織田家の軍事についても、父「信長」の代理を務めるまでに成長します。

1582年】、「織田信長」は宿敵「武田勝頼」を倒すため、「甲州征伐」を開始。

しかしその軍団をひきいていたのは、「織田信長」ではなく息子「信忠」でした。

信忠は、その優れた能力を発揮して、宿敵「武田家」を滅亡させています。

しかしその3ヶ月後、「本能寺の変」が発生。

このとき信忠は、「本能寺」のすぐ近くにあった「妙覚寺」に宿泊していました。

「信忠」は、「妙覚寺」から「二条御所」へ移動して籠城。

「明智光秀」を相手に激戦を演じるものの敗北し、切腹しています。

享年26歳


「本能寺の変」については、以下のリンク記事をどうぞ。

「【本能寺の変】の謎や真相をすべて解説!黒幕や動機について完全網羅」の記事はコチラ



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織田信忠の最期!なぜ信忠は逃げなかったのか?

1582年6月】、「本能寺の変」で「信長」とともに命を落とした「織田信忠」ですが、なぜ逃げなかったのでしょうか?

その理由は、「明智光秀は緻密な武将なので、京都の包囲は完璧だ。逃げ道など残っているはずがない」と、「信忠」が思い込んでいたためです。

しかし実は、「本能寺の変」が起きたその日、「京都」から脱出することは、それほど難しいことではありませんでした。

信忠の息子「三法師(織田秀信)」は、のちの「豊臣五奉行」の筆頭「前田玄以」に連れられて、無事に京都から脱出しています。

また、「織田信長」の弟「織田有楽斎(織田長益)」も、京都から脱出することに成功しているのです。

実は、信忠は「2つ」のことを恐れていました。

1つ目が、「逃亡に失敗して、落ち武者狩りなどに無様に討たれること」

もう1つが、「父・織田信長を残して一人だけ逃亡することで、もし万が一、信長が生き延びたとしたら、信忠は罰せられること」

この2つです。

このとき、信忠の叔父「織田有楽斎」は、「無様に逃げるよりも切腹すべき」と主張して、信忠はその言葉にしたがっています。

明智軍と散々に戦った「織田信忠」は、最期には切腹。

自分の遺体は、床下に埋めるように、と遺言していました。

そのため「信忠」のご遺体が、「明智光秀」の手に渡ることはありませんでした。

ちなみに、甥「信忠」に切腹をすすめておきながら、自分だけは生き残った「織田有楽斎」・・・。

彼はのちに「有楽斎は人ではない」と、人々から散々バカにされた、とのことです。


「織田有楽斎たち、信長の弟」については、以下のリンク記事をどうぞ。

「織田信長の弟たちを一覧で紹介!弟・信勝(信行)を暗殺した理由が悲惨」の記事はコチラ



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信忠の死後に起こったこと!「羽柴秀吉」が天下を盗み取った!

織田信長と「信忠」親子が戦死してから「11日後」、「明智光秀」は「羽柴秀吉」との「山崎の戦い」で大敗し、戦死します。

そして「羽柴秀吉」は、「織田家の乗っ取り」を画策して、一気に天下を盗み取っていくこととなるのです。

「織田信長」と「織田信忠」が亡くなった織田家では、次男「信雄」と三男「信孝」のあいだで、家督争いが勃発します。

三男「信孝」は、「柴田勝家」と協力して、織田家の家督を目指しました。

「羽柴秀吉」は「清須会議」とよばれる織田家の後継者を決める会議で、長男「織田信忠」の息子「三法師」を後継者に推薦します。

同時に秀吉は、信長の次男「信雄」を抱き込んで、「信孝・柴田勝家」に対抗しようとするのです。

これにより「織田家」は、「羽柴秀吉」と「柴田勝家」によって、真っ二つになって争うことになります。

1583年】、「賤ヶ岳の戦い」で、「柴田勝家」と「織田信孝」は、命を落とします。

この戦いで、「羽柴秀吉」は織田家をほぼ完全に奪い取ることに成功。

次男「信雄」は、「徳川家康」と協力して、「小牧・長久手の戦い」で「秀吉」に対抗するものの、結局は「秀吉」に屈してしまいます。

信雄は、その領地の大半を失い没落。

天下は「豊臣秀吉」によって、【1590年】に統一されることとなるのです。


「豊臣秀吉の天下統一」については、以下のリンク記事をどうぞ。

豊臣秀吉の天下統一までの道を解説!農民が偉業達成できた3つの理由2017」の記事はコチラ



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「織田信忠」は、「織田信長」と側室「生駒吉乃(類)」の間に生まれた信長の長男。のちに正室「帰蝶」の養子となって、織田家の家督を継承した。

 

2,1582年6月】、「織田信忠」は「本能寺の変」で、父「織田信長」とともに戦死した。信忠は「明智光秀の包囲網は完璧だから、逃亡など不可能」だと思い込み、逃亡を断念した

 

3,「織田信忠」が生き延びていたら、その後の「豊臣秀吉」による天下はなかっただろう。「織田信忠」が父「信長」の天下統一事業を引き継ぎ、天下統一に成功していただろう

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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