織田信長の長男『織田信忠』が生きていたら、歴史は変わっていたのか?

この記事では「織田信長」の長男「織田信忠」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「織田信忠の最期」と「もしも生きていたら歴史はどのように変化したのか」を、カンタンに理解できます。

 

「織田信忠」が生きていたら、おそらく「豊臣秀吉の天下」はなかったと考えられるのです。


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この記事を短く言うと

 

1,「織田信忠」とは、何者なのか?

「織田信忠」は、「織田信長」と側室「生駒吉乃(類)」の間に生まれた信長の長男。のちに正室「帰蝶」の養子となって、織田家の家督を継承した。

 

2,「織田信忠」の最期と、「本能寺の変」から逃亡しなかった理由とは?

1582年6月】、「織田信忠」は「本能寺の変」で、父「織田信長」とともに戦死した。信忠は「明智光秀の包囲網は完璧だから、逃亡など不可能」だと思い込み、逃亡を断念した

 

3,「信忠」が生きていたら、歴史はどう変わったのか?

「織田信忠」が生き延びていたら、その後の「豊臣秀吉」による天下はなかっただろう。「織田信忠」が父「信長」の天下統一事業を引き継ぎ、天下統一に成功していただろう

織田信長の長男「織田信忠」とは何者なのか?

織田信忠は、「織田信長」の長男であり、後継者であった人物です

《織田信忠》
「引用元ウィキペディアより」

母親は、信長の側室である「生駒吉乃」。またの名を「類」とも呼ばれている女性です。

彼女は、信忠の弟「信雄」と妹「徳姫」を産んで病死しています。(「徳姫」は、徳川家康の長男「松平信康」の正室となっている)

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

「信忠」は、信長の正室「帰蝶」こと「濃姫」の養子となっています。


信忠は、【1576年】に「織田家」の家督を父「信長」から譲られて、「尾張・美濃」2カ国を支配しています。

織田家の正当な後継者として育てられた「織田信忠」。

彼はその後、織田家の軍事についても、父「信長」の代理を務めるまでに成長します。

1582年】、「織田信長」は宿敵「武田勝頼」を倒すため、「甲州征伐」を開始。

しかしその軍団をひきいていたのは、「織田信長」ではなく息子「信忠」でした。

信忠は、その優れた能力を発揮して、宿敵「武田家」を滅亡させています。

しかしその3ヶ月後、「本能寺の変」が発生。

このとき信忠は、「本能寺」のすぐ近くにあった「妙覚寺」に宿泊していました。

「信忠」は、「妙覚寺」から「二条御所」へ移動して籠城。

「明智光秀」を相手に激戦を演じるものの敗北し、切腹しています。

享年26歳


「本能寺の変」については、以下のリンク記事をどうぞ。

「【本能寺の変】の謎や真相をすべて解説!黒幕や動機について完全網羅」の記事はコチラ


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「織田信忠」の最期!なぜ「信忠」は逃げなかったのか?

1582年6月】、「本能寺の変」で「信長」とともに命を落とした「織田信忠」ですが、なぜ逃げなかったのでしょうか?

その理由は、「明智光秀は緻密な武将なので、京都の包囲は完璧だ。逃げ道など残っているはずがない」と、「信忠」が思い込んでいたためです。


しかし実は、「本能寺の変」が起きたその日、「京都」から脱出することは、それほど難しいことではありませんでした。

信忠の息子「三法師(織田秀信)」は、のちの「豊臣五奉行」の筆頭「前田玄以」に連れられて、無事に京都から脱出しています。

また、「織田信長」の弟「織田有楽斎(織田長益)」も、京都から脱出することに成功しているのです。

実は、信忠は「2つ」のことを恐れていました。

1つ目が、「逃亡に失敗して、落ち武者狩りなどに無様に討たれること」

もう1つが、「父・織田信長を残して一人だけ逃亡することで、もし万が一、信長が生き延びたとしたら、信忠は罰せられること」

この2つです。

このとき、信忠の叔父「織田有楽斎」は、「無様に逃げるよりも切腹すべき」と主張して、信忠はその言葉にしたがっています。

明智軍と散々に戦った「織田信忠」は、最期には切腹。

自分の遺体は、床下に埋めるように、と遺言していました。

そのため「信忠」のご遺体が、「明智光秀」の手に渡ることはありませんでした。

ちなみに、甥「信忠」に切腹をすすめておきながら、自分だけは生き残った「織田有楽斎」・・・。

彼はのちに「有楽斎は人ではない」と、人々から散々バカにされた、とのことです。


「織田有楽斎たち、信長の弟」については、以下のリンク記事をどうぞ。

「織田信長の弟たちを一覧で紹介!弟・信勝(信行)を暗殺した理由が悲惨」の記事はコチラ


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信忠の死後に起こったこと!「羽柴秀吉」が天下を盗み取った!

織田信長と「信忠」親子が戦死してから「11日後」、「明智光秀」は「羽柴秀吉」との「山崎の戦い」で大敗し、戦死します。

そして「羽柴秀吉」は、「織田家の乗っ取り」を画策して、一気に天下を盗み取っていくこととなるのです。


「織田信長」と「織田信忠」が亡くなった織田家では、次男「信雄」と三男「信孝」のあいだで、家督争いが勃発します。

三男「信孝」は、「柴田勝家」と協力して、織田家の家督を目指しました。

「羽柴秀吉」は「清須会議」とよばれる織田家の後継者を決める会議で、長男「織田信忠」の息子「三法師」を後継者に推薦します。

同時に秀吉は、信長の次男「信雄」を抱き込んで、「信孝・柴田勝家」に対抗しようとするのです。

これにより「織田家」は、「羽柴秀吉」と「柴田勝家」によって、真っ二つになって争うことになります。

1583年】、「賤ヶ岳の戦い」で、「柴田勝家」と「織田信孝」は、命を落とします。

この戦いで、「羽柴秀吉」は織田家をほぼ完全に奪い取ることに成功。

次男「信雄」は、「徳川家康」と協力して、「小牧・長久手の戦い」で「秀吉」に対抗するものの、結局は「秀吉」に屈してしまいます。

信雄は、その領地の大半を失い没落。

天下は「豊臣秀吉」によって、【1590年】に統一されることとなるのです。


「豊臣秀吉の天下統一」については、以下のリンク記事をどうぞ。

豊臣秀吉の天下統一までの道を解説!農民が偉業達成できた3つの理由2017」の記事はコチラ


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もしも「信忠」が生きていたら、「豊臣秀吉」の天下はなかった!

もしも「織田信忠」が生きていたら、たとえ「信長」が亡くなったとしても、「豊臣秀吉」による天下はなかったと思います。

秀吉は、「織田家」で勃発した「家督争い」に介入し、織田家を2つに割る「内輪もめ」を起こしたのです。


そして、自分とは反対の勢力である「柴田勝家・織田信孝」を滅ぼし、織田家を支配しました。

ということは、「織田家の内輪もめ」が起こらなければ、「秀吉」は「織田家を乗っ取ることが出来なかった」というわけです。

もしも「信忠」が生きていたら、織田家で家督争いなど起こりません。

なぜなら「信長」は生前に、「信忠」に対して、織田家の家督をすでに譲っていたからです。

すると、「秀吉」が「織田家を乗っ取る」ためのスキがなくなることになります。

信忠が生きていたら、おそらく織田家はそのまま「天下統一」を実現していたことでしょう。

明智光秀も、信忠がひきいる「柴田勝家」や「羽柴秀吉」の軍団に滅ぼされていたはず。

信忠が生きていたら、「豊臣秀吉の天下」という歴史は、訪れなかったのです。

ちなみに、秀吉がおこなった「織田家乗っ取り」の方法ですが、「徳川家康」がまったく同じ方法で、「豊臣家」を乗っ取ることに成功しています。

1598年】、「豊臣秀吉」が亡くなると、徳川家康はわざと傍若無人な振る舞いをして、自分の対抗勢力である「石田三成」を怒らせます。

すると「石田三成」は、「家康」を倒そうと、豊臣家の「反家康派」の武将たちを集めて「関ヶ原の戦い」を起こすのです。

これにより、「豊臣家」という巨大勢力は、「石田派」と「徳川派」の真っ二つに分裂して、争うことになります。

「家康」は、「石田三成の一派(西軍)」を滅ぼして、豊臣家の力を半減させてしまうのです。

1615年】、「関ヶ原の戦い」から15年後、弱体化した「豊臣家」は、「家康」の手でついに滅亡。

家康は、「秀吉が織田家を乗っ取った方法」と全く同じ方法、つまり「主の家を2つに分断して、反対勢力を滅ぼす」というやり方で、「豊臣家」を乗っ取り、滅ぼしたのでした。


「徳川家康」については、以下のリンク記事をどうぞ。

「徳川家康についてわかりやすく簡単に解説!そもそも何をした人なの?」の記事はコチラ


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「織田信忠」は、「織田信長」と側室「生駒吉乃(類)」の間に生まれた信長の長男。のちに正室「帰蝶」の養子となって、織田家の家督を継承した。

 

2,1582年6月】、「織田信忠」は「本能寺の変」で、父「織田信長」とともに戦死した。信忠は「明智光秀の包囲網は完璧だから、逃亡など不可能」だと思い込み、逃亡を断念した

 

3,「織田信忠」が生き延びていたら、その後の「豊臣秀吉」による天下はなかっただろう。「織田信忠」が父「信長」の天下統一事業を引き継ぎ、天下統一に成功していただろう

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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