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【本能寺の変】この日に茶会が開かれる予定だった!織田信長の茶器一覧

この記事では「本能寺の変」と「茶会」そして「織田信長が所持していた茶器」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「本能寺の変と、茶会」、「信長所有の茶器」を、カンタンに理解できます。

 

「本能寺の変」のとき、「茶会」が行われる予定であり、そのため「天下の名物」が数多く失われたのです。


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この記事を短く言うと

 

1,【天正10年(1582年)6月2日】、「本能寺の変」で「織田信長」が「明智光秀」に討たれたが、このとき信長は「本能寺」で「茶会」を開く予定だった

 

2,信長が所持していた名物茶器のうち「三日月」や「松島」の茶壺が、「本能寺の変」で失われた

 

3,信長は「茶会」を開いて博多の商人「島井宗室」や「神屋宗湛」をもてなし、海外遠征に協力させるつもりだった、という説がある

【本能寺の変】がなければ、本能寺で茶会が開かれる予定だった

天正10年(1582年)6月2日

 

京都「本能寺」で、戦国の覇者「織田信長」が、重臣「明智光秀」に討たれました。

 

戦国時代で最大の事件「本能寺の変」です。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

この時、信長は「本能寺」で「茶会」、つまり「パーティ」を開く予定だったと言われています。

 

博多の商人「島井宗室(しまい そうしつ)」や「神屋宗湛(かみや そうたん)」が招かれていました。

 

この茶会で、信長は自らが所持する名物茶器「38点」を披露するつもりとのことです。

 

この「茶会が開かれる時期」が、一体いつだったのかは、諸説あります。

 

「本能寺の変」が起こる前にすでに茶会は開かれていたのか。

 

または、茶会が行われる前に、「本能寺の変」が起こってしまったのか。

 

いずれにせよ、信長は「本能寺」へ、お気に入りの茶器38点を持ち込んでいました。



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信長が所持していた「名物茶器」一覧

信長は「名物刈り」と呼ばれるほど、数々の名物茶器を集めていました。

 

「本能寺の変」直前まで、信長がどのような名物を持っていたか、正確にはわかりませんでした。

 

ただ、一時的にでも信長が保有していた茶器は、以下のとおりです。

  • 九十九髪茄子
  • 珠光文琳
  • 新田肩衝(天下三肩衝)
  • 初花肩衝(天下三肩衝)
  • 珠光小茄子
  • 本能寺文琳
  • 松本茄子
  • 三日月茶壺(天下三名壺)
  • 松島茶壺(天下三名壺)
  • 松花茶壺(天下三名壺)
  • 乙御前釜
  • 柴田井戸茶碗
  • 貨狄(かてき)花入

 

このうち「本能寺の変」で失われたものは、以下のとおりです

  • 三日月茶壺(天下三名壺)
  • 松島茶壺(天下三名壺)
  • 貨狄(かてき)花入

 

「貨狄花入」は、信長所有のものは失われましたが、「茜屋宗左」が所持していたものは、失われずに残りました。



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なぜ「茶会」が開かれる予定だったのか?

「本能寺」で茶会が開かれる予定だったといわれています。

 

信長は、なぜ茶会を開かなくてはいけなかったのでしょうか?

 

理由は数多くあると思いますが、主に2つの理由があると言われています。

 

このとき信長のもとを訪れていた同盟者「徳川家康」を接待するためだった、と言われています。

 

または「博多の三傑」と呼ばれた豪商「島井宗室」「神屋宗湛(かみや そうたん)」を接待するためだったとか。(三傑最後の一人は、「大賀宗九(おおが そうく)」)

 

なぜ博多の商人「島井宗室」を接待しなくてはいけなかったのでしょうか。

 

その理由は「海外遠征」にあるようです。

 

信長は「中国地方」で「毛利輝元」と戦っていた「羽柴秀吉」のもとへ、援軍として出陣する予定だったようです。

 

ルイス・フロイスによると、信長は「毛利輝元」を滅ぼしたら、そのまま「九州」から「朝鮮」「明国」へ侵攻する予定だったのだとか。

 

そのためには、「博多」の豪商である「島井宗室」の協力が不可欠だったのです。

 

島井宗室・神屋宗湛の協力で、「食料の確保」や「船による兵員・食料の輸送」を実現しようとしたのでしょう。

 

実際に、「島井宗室」は「豊臣秀吉」が行った「朝鮮出兵」に協力しています。

 

宗室と宗湛は、そのまま本能寺に宿泊し、本能寺の変に巻き込まれてしまいます。

 

ふたりとも命からがら脱出に成功しているのです。

 

実は島井宗室、「天下三肩付」とよばれる名物茶器の1つ「楢柴肩付」を所持していたのです。

 

織田信長は残る二つ「初花」「新田」を持っていました。

 

信長はこの「楢柴肩付」をとても欲しがっていたといいます。

 

「大友宗麟」から貿易特権を与えられていた「島井宗室」は、「島津義久・義弘」などの「島津家」に「大友家」が滅亡寸前に追い込まれていたことに、危機感を抱いていました。

 

「大友家」が滅びて「島津家」に特権を奪われると思ったのです。

 

そのため「島井宗室」は「信長」に接近したのです。

 

信長は、「本能寺」で茶会を開いた際に、島井宗室の「貿易特権」を保証する見返りに、「楢柴肩付」をよこせ、と要求していたと考えられています。



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もし「本能寺の変」がなかったら、茶器はどうなっていた?

「本能寺の変」によって、信長が所持していた「名物茶器」は、そのほとんどが失われたといいます。

 

では、もしも「本能寺の変」がなかったら、「信長の名物茶器」はどうなっていたでしょうか。

 

もちろん現代まで大切に保管されていたでしょうけれど、信長は家来たちに「褒美」としてそれらの茶器を与えていたと考えられます。

 

「茶の湯御政道(ちゃのゆごせいどう)」

 

この「茶の湯御政道」とは、信長が初めて、秀吉に受け継がれた「政治のやり方」のことです。

 

当時、武将たちに喜ばれる褒美として、「領地」と「金」がありました。

 

しかし、「領地」はもちろん、「金」にも限りがあります。

 

そこで信長は、「名物茶器」をまるで財宝のようにあつかうことで、「茶器」の価値を限りなく高騰させたのです。

 

領地や金と違って、「茶器」は土を焼いたり、竹を割ったり、極端にいえば「無限」に作り出せます。

 

その「無限」に作り出せる「茶器」を褒美とすることで、信長は「家来への褒美」に不足し、困ることをなくそうとしたのです。

 

「本能寺の変」がなかったら、信長秘蔵の名物茶器は、失われなかったはずです。

 

そして、各地の武将に褒美として与えられて、今に伝わっていたことでしょう。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,【1582年】、「本能寺の変」で「織田信長」が「明智光秀」に討たれた。このとき信長は「茶会」を開く予定だった

 

2,信長の名物茶器「三日月」や「松島」が「本能寺の変」で失われた

 

3,信長は「島井宗室」や「神屋宗湛」を茶会でもてなし、海外遠征に協力させるつもりだった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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