この記事では「織田信長の肖像画」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「信長にもっともよく似た肖像画が、どれなのか」を、ご理解いただけると思います。
生前の「織田信長」にもっともよく似た作品は、おそらく「長興寺の肖像画」でしょう。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」の肖像画で、もっとも有名なものは、どこにあるのか?
「織田信長」の肖像画といえば、「愛知県豊田市」にある「長興寺」の肖像画がもっとも有名。教科書にも掲載されている。
2,「長興寺」の「織田信長」肖像画の特徴とは?
長興寺の肖像画は、「織田信長」の特徴を正確にとらえている。「ルイス・フロイス」の記録によれば、「信長はヒゲがうすい人だった」とのこと。「長興寺の織田信長像」は、ヒゲがうすく描かれている。
3,「三宝寺」にある「織田信長の写実画」は、本物か?織田信長の姿を描いたものなのか?
作者と考えられている「ジョバンニ・ニコラオ」は、織田信長が亡くなった翌年【1583年】に来日したため、信長と会ったことがない。そのため、信長の姿を正確に生き写しに下ものであるとは、考えにくい。
「織田信長」の「肖像画・画像」をまとめて掲載
戦国時代の覇者「織田信長」の肖像画は、20近くも存在しています。
その中でも、特に有名な物を複数ご用意いたしました。
まずは「山形県天童市」にある織田家の菩提寺「三宝寺」が所蔵する「織田信長の肖像画」。
それを写真撮影したものです。
次に、「愛知県豊田市」の「長興寺」に所蔵されている、「織田信長の一周忌」に描かれた作品。
もっとも有名な肖像画ですね。
次の肖像画は、一見すると若々しく見えます。
ヒゲがまったくないところからすると、若い頃の信長を描いたものでしょう。
次は「神戸市立博物館」に所蔵されているもの。
今度は「滋賀県」の「浄厳院」に所蔵されている信長の姿。
これは「比叡山焼き討ち」の際の姿を描いたものと考えられます。
以下に、江戸時代に描かれた「織田信長」の「浮世絵」もご用意いたしました。
これは、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師「落合芳幾」が描いたものです。
こちらの浮世絵は、幕末の浮世絵師「歌川国芳」の作品です。
「長興寺」の肖像画は、教科書にも掲載されているものなので、誰でも知っているでしょう。
中でも気になるのが、「山形県天童市」の「三宝寺」に所蔵されている肖像画です。
この「肖像画」は本物なのでしょうか?
もっとも有名な信長の肖像画「長興寺」所蔵の「織田信長」肖像
織田信長の肖像画として最も有名なものは、こちらの作品でしょう。
「愛知県豊田市」にある「長興寺」が所蔵する肖像画です。
この肖像画は、「織田信長」が亡くなった一周忌、つまり「本能寺の変」の翌年【1583年】に描かれたものといわれています。
織田信長の特徴をよくとらえていると思います。
宣教師「ルイス・フロイス」の記録によれば、「織田信長」は「ヒゲの薄い人だった」とのことです。
この肖像画の織田信長も、たしかに「ヒゲ」が薄く描かれています。
そして髪の毛を剃り上げて、髷(まげ)を結い上げていますね。
両肩には征夷大将軍「足利義昭」からもらったという、「桐の家紋」が描かれています。
ちなみに織田家の本来の家紋は「桐」ではなく、「木瓜紋」です。
「織田信長の家紋」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「三宝寺」にある「織田信長の写実画」は本物なのか?
山形県天童市にある織田家の菩提寺「三宝寺」には、織田信長のものと言い伝えられている「写実画」が保管されています。
正確にいえば、「肖像画を撮影した写真」です。
この肖像画、本当に織田信長のものなのでしょうか?
一見すると、「写真ではないか?」と勘違いしてしまいそうなほど、よく出来た代物です。
実はこの作品、誰が描いたものなのか、誰が命令して描かせたものなのか、わかっていません。
この絵を描いた人は、予測でしかありませんが、イタリア人画家「ジョバンニ・ニコラオ」だと考えられています。
「ジョバンニ・ニコラオ」という人は、「織田信長」が【1582年】に亡くなったあとに来日した人です。
「ニコラオ」は、【1583~1614年】の間、日本で活動し、【1623年】にマカオで亡くなっています。
そしてこの「ニコラオ」に、「織田信長の肖像画」の作成を命じたのは、信長の次男「織田信雄」であると考えられています。
「信雄」が、父の死後に、その肖像画の作成を命じたということです。
信雄の末裔である「織田信美(のぶかず)」が、【1830年】に「天童織田藩」へ国替えをされた際に、この「織田信長の写実画」も持ち込んだのでしょう。
ただし、この「織田信長の写実画」には、一つだけ「織田信長の特徴と全くあわない点」があります。
それは「ヒゲ」です。
先程も述べましたが、宣教師「ルイス・フロイス」の記録によれば、「織田信長」は「ヒゲがうすい人」だったとのこと。
にもかかわらず、「三宝寺」の絵には、ヒゲがたっぷりと描かれています。
それを考えると、この絵が「織田信長」ではない可能性も、ありえるかもしれません。
しかし、おそらくは「織田信雄」が、父「織田信長」の姿に威厳を与えるために、「ヒゲ」を描き加えさせたのでしょう。
独眼竜と呼ばれた隻眼の猛将「伊達政宗」は、その肖像画のほとんどに「両眼」をしっかり描かせました。
信雄も父「信長」の、より凛々しい姿を、後世に残そうとしたのでしょう。
この写実画は、織田信長で間違いないと思いますが、本物の「織田信長」の姿を正確に描いたものか?というと、そうではない可能性があります。
画家「ニコラオ」が、織田信長と会ったことがないためです。
ニコラオが、正確に信長の姿を描けたとは思えません。
おそらく、信長に似てはいるでしょう。しかし「生き写し」かというと、そうではないと思います。
「織田信長の顔」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「織田信長の顔はイケメンだったのか?信長の肖像画で顔を検証してみた」の記事はコチラ
「伊達政宗」については、以下のリンク記事をどうぞ。
どの肖像画が「織田信長」に、もっともよく似ているのか?
生前の「織田信長」の姿に最もよく似ている肖像画は、「長興寺」が保管している、以下の肖像画であると思います。
その理由は簡単で、「織田信長の特徴をもっとも良くとらえている」からです。
織田信長の特徴で有名なものを、以下にまとめてみました。
- うすいヒゲ
- 鼻筋の通った美しい顔立ち
- 細いアゴ
- 切れ長の目
この特徴を、全て兼ね備えたのが「長興寺」の肖像画ではないでしょうか。
「三宝寺の写実画」は、とても美しく、ハッキリと描かれています。
しかし先程も申しましたとおり、作者の「ニコラオ」が、会ったこともない「織田信長」の肖像画を正確に描けたとは思えません。
この「長興寺の織田信長像」こそが、「織田信長」の姿を、もっとも正確に今に伝えている作品なのではないでしょうか。
「織田信長の生涯年表」については、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」の肖像画といえば、「愛知県豊田市」にある「長興寺」の肖像画がもっとも有名。教科書にも掲載されている。
2,長興寺の肖像画は、「織田信長」の特徴を正確にとらえている。「ルイス・フロイス」の記録によれば、「信長はヒゲがうすい人だった」とのこと。「長興寺の織田信長像」は、ヒゲがうすく描かれている。
3,「三宝寺」にある「織田信長の写実画」について。作者と考えられている「ジョバンニ・ニコラオ」が、織田信長が亡くなった翌年【1583年】に来日したため、信長と会ったことがない。そのため、信長の姿を正確に生き写しに下ものであるとは、考えにくい。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
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ありがとうございました。
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