この記事では豊臣秀吉が大阪城(大坂城)を建てた理由について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば秀吉が、なぜ大阪城をつくったのかを、カンタンに理解できます。
秀吉は西日本侵略のために、そして息子・秀頼を守るために、大阪城をつくったのです。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,豊臣秀吉が大阪城(大坂城)を築城した理由とは?
一つが織田信長の構想をマネして、西日本侵略の拠点とするため。もう一つが息子・豊臣秀頼を徳川家康から守るため
2,織田信長は大阪城を作る予定だったのか?
信長は、大阪という地をとても評価しており、この地に拠点を置いていた石山本願寺を10年かけて追い出し、城を作るつもりだった
3,大阪城は徳川家康と戦うためのものだったのか?
秀吉は、自らの死後、息子・豊臣秀頼をライバル徳川家康から守るために、拡大工事を続け、大阪城を難攻不落の要塞につくりあげた
豊臣秀吉が大阪城(大坂城)を築城した2つの理由
豊臣秀吉が大阪城(大坂城)を作った理由は、2つあると考えられます。
- 西日本へ攻め込んで制圧するために、大阪という場所は、とても便利だったため。
- 秀吉の息子・豊臣秀頼を、徳川家康から守るため
秀吉は、主君・織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれた翌年の【1583年】に大阪城を築城しはじめます。
そして【1585年】に一応、竣工(完成)します。
秀吉は、この大阪城を西日本への侵略の拠点として使用し始めます。
【1585年】、秀吉は四国征伐を開始し、四国を統一していた大名・長宗我部元親を降伏させます。
【1587年】、今度は九州征伐を開始し、島津義久を降伏させて九州をも征服しています。
四国と九州を制圧したことで、秀吉の西日本の攻略は終わりました。
大阪城は、これら四国と九州を平定するための、重要な軍事基地だったのです。
大阪城はその後も、【1598年】に秀吉が亡くなるまで、工事をし続けて拡大を続けたのでした。
なぜ、西日本を平定した後も、工事が続けられたのか?
その理由は、秀吉の息子・豊臣秀頼を、部下でありライバルでもあった実力者・徳川家康から守るためであったと考えられます。
→→→→→【大阪城をつくった人と歴代城主】についてくわしくはこちら
織田信長も大阪城(大坂城)を築城する予定だった
滋賀県の安土城を本拠地としていたことで有名な織田信長ですが、実は信長も大阪城をつくろうとしていたのです。
豊臣秀吉が大阪城を作った理由は、織田信長が持っていた大阪城の築城構想を、そのままマネしたからでもあるのです。
大阪城が建てられている場所には、そのむかし石山本願寺というお寺がありました。そこは一向宗と呼ばれる宗教勢力の拠点だったのです。
信長は石山本願寺(大阪城)という場所が、瀬戸内海につながる巨大な港に接していたことに目をつけます。
当時の日本には、当然ながら鉄道も無ければ飛行機もありません。
自動で動いてくれる輸送用の乗り物といえば、船しかなかったのです。
石山本願寺(大阪)は、西日本と、日本の中心である京都を結ぶ瀬戸内海に面していたため、大阪城を拠点とすれば、瀬戸内海に船を出して、大量の兵士と食料や武器などの物資を送り込むことができたのです。
つまり大阪城は、西日本を攻撃するために、もっとも便利な軍事拠点だったということです。
さらに大阪は、船で淀川をつかえば琵琶湖や京都へ楽に移動できます。
それだけでなく、大阪の南には堺という日本最大の商業都市があったため、とても便利でした。
織田信長は、石山本願寺のボスだった本願寺顕如に、石山本願寺から出ていくように要求します。
これを拒否した本願寺顕如と、織田信長は10年にも及ぶ石山戦争を開始。
【1580年】、本願寺顕如が敗北し、石山本願寺から出ていきます。
信長は、10年の戦争を続けてでも、石山本願寺(大坂)がほしかったわけです。
それはもちろん中国・四国・九州などの、西日本を侵略するための重要拠点だったからです。
この石山本願寺には、信長によって千貫矢倉と呼ばれる巨大な矢倉がつくられ、信長の甥で明智光秀の娘婿でもある津田信澄が守備を担当することとなります。
大阪城(大坂城)は、徳川家康と戦うためにつくられていた
【1590年】、豊臣秀吉により天下統一が達成されました。
もはや西日本への軍事拠点としての大阪城は、役目を終えたわけですが、それでも秀吉は、【1598年】に亡くなるまで、大阪城の工事を続けます。
その理由は、自分の息子・豊臣秀頼を、徳川家康から守るためです。
余談かもしれませんが、秀吉は天下統一のあと、朝鮮出兵をしています。
大阪城は、この朝鮮出兵のための兵士を瀬戸内海を通って九州から朝鮮半島へ送るための軍事拠点としても、効果を発揮したと考えられます。
とはいえ、朝鮮出兵のための拠点としてだけならば、拡大工事は不要なはず。
それでも大阪城をさらに大きくする工事を続けた理由は、やはり、秀吉自身が亡くなった後、自分の息子・豊臣秀頼を、ライバルである徳川家康から守るためだったのでしょう。
秀吉が【1598年】に亡くなる際、息子・豊臣秀頼は、わずか6歳だったのですから。
しかしこの秀吉の、息子を守るという願いは、かないませんでした。
秀吉が亡くなった17年後の【1615年】、方広寺鐘銘事件をきっかけに大坂の陣が勃発します。
この戦いで、大阪城は徳川家康の攻撃により落城してしまうのです。
そして豊臣秀頼と、その母・淀殿(別名・茶々)は、自害して亡くなります。
大坂城は真田信繁(真田幸村)たちの活躍もあって、徳川家康を大いに苦しめたものの、最期には堀を埋め立てられて無力化し、あっけなく落城してしまうのでした。
→→→→→【豊臣秀頼の最期と遺体のゆくえ】についてくわしくはこちら
現在の大阪城は、豊臣秀吉が作ったものではなかった
現在、大阪府大阪市に建てられている大阪城は、豊臣秀吉が築城したものではありません。
秀吉が命令して、軍師・黒田官兵衛孝高に築城させた大坂城は、【1615年】の大坂夏の陣で落城し、炎上しています。
その後、徳川幕府の二代将軍・徳川秀忠が、大阪に新たなる大阪城を築城します。
このとき、炎上してしまった豊臣秀吉の大坂城は土で埋め立てられてしまったため、現在も秀吉の大坂城は、地中に埋まっている状態なのです。
その後、徳川・大阪城は大阪の拠点として使用され、徳川幕府が支配する西日本の守りの要なったのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,豊臣秀吉が大阪城(大坂城)を築城した理由は2つ。1つが織田信長の構想をマネして、西日本侵略の拠点とするため。もう1つが息子・豊臣秀頼を徳川家康から守るため
2,織田信長は、大阪という地をとても評価しており、この地に拠点を置いていた石山本願寺を10年かけて追い出し、城を作るつもりだった
3,秀吉は、自らの死後、息子・豊臣秀頼をライバル徳川家康から守るために、拡大工事を続け、大阪城を難攻不落の要塞につくりあげた
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
コメント