この記事では「織田信長と石山本願寺」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「なぜ織田信長は、石山本願寺と戦ったのか」を、カンタンに理解できます。
「織田信長」は「石山本願寺などの宗教勢力による政治への口出し・介入を防ごうとした」のです。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,織田信長が「石山本願寺」と戦った理由とは?
信長は、「石山本願寺」の力を弱めて、政治への口出しを防ごうとした。そのために無理難題を石山本願寺へふっかけて、それにキレた本願寺が信長と戦いを始めた
2,「石山本願寺」とは何か?
「石山本願寺」とは、「親鸞(しんらん)上人」が開いた宗派「浄土真宗」の中の一勢力のこと
3,石山本願寺は、なぜ信長に降伏したのか?
信長との10年に及ぶ「石山戦争」で、石山本願寺は敗北を重ねて弱体化。もはや戦えなくなり、「正親町天皇」の命令という形をとって、「石山本願寺」から退去し、降伏した。
「織田信長」と「石山本願寺」が戦った理由とは何か?
「織田信長」と「石山本願寺」が戦った理由、それは信長が「石山本願寺の力を弱めようと、数々の無理難題をふっかけ続けたこと」が原因であるといえます。
当時、「石山本願寺」が、戦国時代で最大の宗教勢力であり武装勢力でした。
そのため、その力は絶大で、武士たちも「本願寺」とは同盟を締結したりして、敵に回さないように慎重な態度を取っていたのです。
しかし、そんな武士の弱腰な態度が災いしたのか、石山本願寺はさらに力をつけ、挙句の果てには実力者「細川晴元」と武力衝突をするほどになります。
細川晴元は、本願寺の本拠地「石山」を攻撃したものの敗北。
その後、石山本願寺は、【1568年】に「足利義昭」とともに京都を支配した「織田信長」と、激しく対立することとなるのです。
信長は、絶大な力をもつ「石山本願寺」を警戒していました。
同時に、その圧倒的な力で政治にまで介入していた「石山本願寺」に、困っていたのです。
信長は、その「石山本願寺」の力を削ぎ落とそうとします。
まず、信長は「石山本願寺」に現在の価値で「数億円」のお金を支払うようにと命令。
石山本願寺の「11代目のトップ」だった「本願寺顕如」は、これを承諾し、信長に支払っています。
さらに信長は、難攻不落で、しかも交通の要衝だった「石山」という場所から出ていけと、「石山本願寺」に命令します。
実はこの「石山」という、本願寺の本拠地があった場所は、現在の「大阪城」が建っている場所です。
秀吉は、「石山本願寺」の地に「大坂城」を建てたのでした。
「石山本願寺」は、「難攻不落の天然の要塞」であり、しかも「交通の要衝で人が集まりやすい重要な拠点」でもあったのです。
信長からの「退去命令」を、「本願寺顕如」は拒絶。
【1570年】、「本願寺顕如」は「織田信長」と開戦します。
これが、「織田信長」最大のライバル「本願寺顕如」との10年にも及ぶ「石山戦争」が始まった原因です。
「大坂城」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
そもそも「石山本願寺」とは何か?
「石山本願寺」とは何かというと、「浄土真宗の派閥の1つ」です。
「石山本願寺=浄土真宗」ではありません。
「浄土真宗」すべてが織田信長と戦ったわけではなく、平和に仏教の活動をしていた人も数多くいたのです。
もともと「浄土真宗」は、「親鸞(しんらん)」という人が「13世紀頃(鎌倉時代)」に広めた宗派です。
浄土真宗は、当時「一向宗(いっこうしゅう)」などとも呼ばれていたようです。(厳密にいえば、「浄土真宗」と「一向宗」は全く別のものです)
「一向」とは、「ただひたすらに」という意味で、「ひたすら念仏を唱える様子」をとらえたもののようです。
「親鸞」は、「浄土宗」という宗派の開祖「法然(ほうねん)上人」の弟子でした。
「浄土宗」では
「南無阿弥陀仏と、口で唱えるだけで、極楽へ行ける」
という考えの宗派でした。
当時は
「数多くのお金を寺に納めたお金持ちや、厳しい修行をした僧侶だけが、極楽へ行ける」
という考えが一般的でした。
しかし「法然上人」は、「南無阿弥陀仏と言うだけ」で極楽へ行けると教えたのです。
「南無阿弥陀仏」とは、「南無」と「阿弥陀仏」という、2つの言葉です。
「南無」とは、「おまかせします」または「ゆだねます」という意味です。
「阿弥陀仏」とは、人間を極楽浄土へ導いてくれる仏様「阿弥陀如来」のこと。
つまり「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とは、「阿弥陀如来さまに全てを委ねます。おまかせします」という意味です。
人々を救ってくださる「阿弥陀如来」におまかせすると言えば、それだけで極楽浄土へ行ける、ということです。
この教えは「貧しい民衆」から、圧倒的な支持を受け、一気に広まっていきました。
そんな「法然上人」の弟子に、一人の若者がいました。
「親鸞」です。
親鸞は、法然上人の教えを、さらに発展させます。
親鸞上人は、弟子や民衆に、このように教えました。
「そもそも阿弥陀如来さまは、頼まれるまでもなく、人々を極楽浄土へ導こうとしておられる。
そのため、【南無阿弥陀仏】と口にするまでもない。
ただ、心のなかで、阿弥陀如来さまを信じる、または南無阿弥陀仏と心で念じるだけで、極楽浄土へ行ける」
この教えは、民衆から圧倒的に支持されることとなります。
そして、民衆からの「お布施」や「お賽銭」、「領地などの寄進(プレゼント)」などの収入は、莫大なものとなったのです。
そのため「本願寺」は、圧倒的な財力で、武士たちとの戦いにも介入するようになります。
本願寺9代目「実如(じつにょ)」の時代に、本願寺は自らの軍団を持つほどに、強力無比な集団となっていたのです。
先程も申しましたが、「一向宗」つまり「浄土真宗」すべてが、織田信長と戦ったわけではありません。
中には、ただただ念仏を唱え、浄土真宗の教えを広め、人々を救おうと力を尽くした僧侶がいたことも、間違いないのです。
「石山本願寺」が「織田信長」に降伏した理由とは?
【1580年】、「石山本願寺」のトップ「本願寺顕如」は、織田信長と講和(引き分け・話し合いで戦争をやめること)します。
講和といっても、石山本願寺を退去する約束で和睦しているので、実質的な「本願寺の降伏」でした。
表向きは「正親町天皇からの命令」で、戦いをやめなくてはならなくなった、という形になっていました。
なぜ、圧倒的な力を持っていた「本願寺」が、降伏したのでしょうか?
理由は簡単です。各地で戦っていた「本願寺」の勢力が、ことごとく織田信長の軍団に敗北したからです。
織田信長は、各地の商業を発展させることで、莫大な資金を手に入れていました。
その莫大な資金で、強力な軍団を組織し、「長篠の戦い」で「武田勝頼」を倒し、「木津川口の戦い」で「毛利輝元」を撃破。
つまり「本願寺」の味方だった勢力を、次々と撃破していったのです。
本願寺は、難攻不落の要塞「石山本願寺(現在の大坂城がある場所)」へ立てこもり、長期間の籠城戦を戦い抜きました。
同盟軍の「毛利軍」や「村上水軍」から、食料などの物資を補給していたものの、「第二次木津川口の戦い」で、織田信長や九鬼嘉隆の「鉄甲船」に、村上水軍が敗北。
これにより、海路での食料補給を遮断された石山本願寺は、ついに信長に降伏したのでした。
籠城戦に耐えられなくなったため、石山本願寺を退去して、降伏するしかなかった。
これが「石山本願寺」が降伏した理由です。
「長篠の戦い」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
織田信長が「石山本願寺」を退治したかった理由!なぜ退去を迫ったの?
織田信長は、「強力な軍団」と「莫大な資金」を有する軍事集団「石山本願寺」を弱体化させ、宗教勢力の政治への介入・口出しを封じたかったのです。
当時の宗教勢力は、政治に数々の口出しをし、それが実現しないと、武力で戦争を仕掛けてくるほど、危険な一面を持っていました。
特に「石山本願寺」は、民衆からの圧倒的な支持を背景にして、とてつもない武力を有する集団だったのです。
石山本願寺が、政治に口出ししてくると、信長は「天下を平和におさめる」という目的を達成できなくなる可能性あります。
そのため「信長」は、「石山本願寺」を力づくででも屈服させて、政治への口出しをさせないようにしたかったのです。
そのためには、「石山本願寺」の強力な「力」、つまり「武力」と「財力」を封じる必要があります。
武力を封じるために、信長は「難攻不落の要塞」である「石山本願寺」を明け渡すように要求しています。
財力を封じるために、信長は「数億円の資金を出せ」と「石山本願寺」に命じているのです。
当時の宗教勢力は、その圧倒的な財力と武力で、自分たちに都合の良い政治を、朝廷や幕府に行わせていました。
その「宗教勢力の政治への口出し」は、民衆を苦しめるものとなっていたのです。
信長はその「宗教勢力の政治への口出し」を封じ、民衆を開放しようとしたのです。
言い換えれば「信長は、石山本願寺の既得権益を破壊しようとした」のです。
「既得権益」を持つものは、「既得権益の破壊」に対して、とてつもない力で頑強に抵抗します。(抵抗しなかった人など、日本では「徳川慶喜」くらい)
その「既得権益を破壊されないように抵抗した戦い」が、10年にも及ぶ「石山戦争」だった、というわけです。
とくに「石山本願寺」があった場所は、「交通の要衝」であり、「難攻不落の天然の要塞」でした。
西国の「毛利輝元」たちと戦うための最前線基地として、これほど適した場所はありません。
そのため信長は、どうしても「石山本願寺」という地がほしかったのです。
実際、信長は「石山本願寺」が退去したあと、この「石山本願寺」という場所に、巨大な城をつくろうとしていたのです。
その「巨大な城」の構想は、信長の後継者である「豊臣秀吉」に引き継がれ、「石山本願寺の跡地」には、「大坂城」が誕生します。
【1615年】の「大坂夏の陣」で、「大坂城」は「豊臣秀頼」とともに炎上。
江戸幕府は、「秀吉の大坂城」を埋め立て、現在の「大阪城」をつくっています。
「豊臣秀頼」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,織田信長は、「石山本願寺」の力を弱めて、政治への口出しを防ごうとした。そのために無理難題を石山本願寺へふっかけ続けた。それにキレた本願寺が信長と戦いを始めた
2,「石山本願寺」とは、「親鸞(しんらん)上人」が開いた宗派「浄土真宗」の中の一勢力のこと
3,信長との10年に及ぶ「石山戦争」で、石山本願寺は敗北を重ねて弱体化。もはや戦えなくなり、「正親町天皇」の命令という形をとって、「石山本願寺」から退去し、降伏した。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
『織田信長』関連記事
よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
「織田信長の遺体の行方を調査!実は謎でも行方不明でもなかった」の記事はコチラ「【織田信長】最後の言葉と辞世の歌は?亡くなる時の詳細な様子を紹介」の記事はコチラ
「織田信長の嫁の名前一覧表!正妻は「帰蝶」ではなく生駒吉乃?」の記事はコチラ
「【織田信長】家紋の意味や花の由来!読み方を画像付きで簡単解説!」の記事はコチラ
「織田信長の名言集と意味解説!ホトトギスや人生50年に潜む秘密とは」の記事はコチラ
「織田信長の居城と場所を紹介!安土・岐阜の名前の由来や城下町の政策」の記事はコチラ
「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の関係や人柄・性格をエピソードで簡単解説」の記事はコチラ
「織田信長と池田恒興(つねおき)の関係と最期を解説!子・輝政の逸話」の記事はコチラ
「織田信長の生い立ちから最期まで!3分でわかりやすく簡単に解説!」の記事はコチラ
「[織田信長]本能寺の変で死んでない?真実と黒幕を分かりやすく簡単に解説」の記事はコチラ
「織田信長の家系図と子孫を解説!「きちょう」こと濃姫との子供とは?」の記事はコチラ
「織田信長がしたことを年表にまとめて簡単解説!『天下の取り方』教えます」の記事はコチラ
「織田信長はどんな人物だったの?意外にも優しいエピソードが多かった」の記事はコチラ
「明智光秀と織田信長・豊臣秀吉の関係を解説!実は互いを憎んでいた?」の記事はコチラ
「織田信長家臣・弥助(やすけ)の生涯!彼が持つ信長デスマスクは本物?」の記事はコチラ
『【本能寺の変】の謎や真相をすべて解説!黒幕や動機について完全網羅』の記事はコチラ
コメント