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織田信長と石山本願寺は、なぜ戦ったのか?本願寺が降伏した理由とは

この記事では「織田信長と石山本願寺」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「なぜ織田信長は、石山本願寺と戦ったのか」を、カンタンに理解できます。

 

「織田信長」は「石山本願寺などの宗教勢力による政治への口出し・介入を防ごうとした」のです。


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この記事を短く言うと

 

1,織田信長が「石山本願寺」と戦った理由とは?

信長は、「石山本願寺」の力を弱めて、政治への口出しを防ごうとした。そのために無理難題を石山本願寺へふっかけて、それにキレた本願寺が信長と戦いを始めた

 

2,「石山本願寺」とは何か?

「石山本願寺」とは、「親鸞(しんらん)上人」が開いた宗派「浄土真宗」の中の一勢力のこと

 

3,石山本願寺は、なぜ信長に降伏したのか?

信長との10年に及ぶ「石山戦争」で、石山本願寺は敗北を重ねて弱体化。もはや戦えなくなり、「正親町天皇」の命令という形をとって、「石山本願寺」から退去し、降伏した。

「織田信長」と「石山本願寺」が戦った理由とは何か?

「織田信長」と「石山本願寺」が戦った理由、それは信長が「石山本願寺の力を弱めようと、数々の無理難題をふっかけ続けたこと」が原因であるといえます。

 

当時、「石山本願寺」が、戦国時代で最大の宗教勢力であり武装勢力でした。

 

そのため、その力は絶大で、武士たちも「本願寺」とは同盟を締結したりして、敵に回さないように慎重な態度を取っていたのです。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

しかし、そんな武士の弱腰な態度が災いしたのか、石山本願寺はさらに力をつけ、挙句の果てには実力者「細川晴元」と武力衝突をするほどになります。

 

細川晴元は、本願寺の本拠地「石山」を攻撃したものの敗北。

 

その後、石山本願寺は、【1568年】に「足利義昭」とともに京都を支配した「織田信長」と、激しく対立することとなるのです。

 

信長は、絶大な力をもつ「石山本願寺」を警戒していました。

 

同時に、その圧倒的な力で政治にまで介入していた「石山本願寺」に、困っていたのです。



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信長は、その「石山本願寺」の力を削ぎ落とそうとします。

 

まず、信長は「石山本願寺」に現在の価値で「数億円」のお金を支払うようにと命令。

 

石山本願寺の「11代目のトップ」だった「本願寺顕如」は、これを承諾し、信長に支払っています。

 

さらに信長は、難攻不落で、しかも交通の要衝だった「石山」という場所から出ていけと、「石山本願寺」に命令します。

 

実はこの「石山」という本願寺の本拠地があった場所は、現在の「大阪城」が建っている場所です

 

秀吉は、「石山本願寺」の地に「大坂城」を建てたのでした。

 

「石山本願寺」は、「難攻不落の天然の要塞」であり、しかも「交通の要衝で人が集まりやすい重要な拠点」でもあったのです。

 

信長からの「退去命令」を、「本願寺顕如」は拒絶。

 

1570年】、「本願寺顕如」は「織田信長」と開戦します。

 

これが、「織田信長」最大のライバル「本願寺顕如」との10年にも及ぶ「石山戦争」が始まった原因です。

 

「大坂城」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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そもそも「石山本願寺」とは何か?

「石山本願寺」とは何かというと、「浄土真宗の派閥の1つ」です。

 

「石山本願寺=浄土真宗」ではありません。

 

「浄土真宗」すべてが織田信長と戦ったわけではなく、平和に仏教の活動をしていた人も数多くいたのです。

 

もともと「浄土真宗」は、「親鸞(しんらん)」という人が「13世紀頃(鎌倉時代)」に広めた宗派です。

 

浄土真宗は、当時「一向宗(いっこうしゅう)」などとも呼ばれていたようです。(厳密にいえば、「浄土真宗」と「一向宗」は全く別のものです

 

「一向」とは、「ただひたすらに」という意味で、「ひたすら念仏を唱える様子」をとらえたもののようです。

 

「親鸞」は、「浄土宗」という宗派の開祖「法然(ほうねん)上人」の弟子でした。

 

「浄土宗」では

「南無阿弥陀仏と、口で唱えるだけで、極楽へ行ける」

という考えの宗派でした。

 

当時は

「数多くのお金を寺に納めたお金持ちや、厳しい修行をした僧侶だけが、極楽へ行ける」

という考えが一般的でした。

 

しかし「法然上人」は、「南無阿弥陀仏と言うだけ」で極楽へ行けると教えたのです。



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「南無阿弥陀仏」とは、「南無」と「阿弥陀仏」という、2つの言葉です。

 

「南無」とは、「おまかせします」または「ゆだねます」という意味です。

 

「阿弥陀仏」とは、人間を極楽浄土へ導いてくれる仏様「阿弥陀如来」のこと。

 

つまり「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とは、「阿弥陀如来さまに全てを委ねます。おまかせします」という意味です。

 

人々を救ってくださる「阿弥陀如来」におまかせすると言えば、それだけで極楽浄土へ行ける、ということです。

 

この教えは「貧しい民衆」から、圧倒的な支持を受け、一気に広まっていきました。

 

そんな「法然上人」の弟子に、一人の若者がいました。

 

「親鸞」です。

 

親鸞は、法然上人の教えを、さらに発展させます。

 

親鸞上人は、弟子や民衆に、このように教えました。

「そもそも阿弥陀如来さまは、頼まれるまでもなく、人々を極楽浄土へ導こうとしておられる。

そのため、【南無阿弥陀仏】と口にするまでもない。

ただ、心のなかで、阿弥陀如来さまを信じる、または南無阿弥陀仏と心で念じるだけで、極楽浄土へ行ける」

この教えは、民衆から圧倒的に支持されることとなります。

 

そして、民衆からの「お布施」や「お賽銭」、「領地などの寄進(プレゼント)」などの収入は、莫大なものとなったのです。

 

そのため「本願寺」は、圧倒的な財力で、武士たちとの戦いにも介入するようになります。

 

本願寺9代目「実如(じつにょ)」の時代に、本願寺は自らの軍団を持つほどに、強力無比な集団となっていたのです。

 

先程も申しましたが、「一向宗」つまり「浄土真宗」すべてが、織田信長と戦ったわけではありません。

 

中には、ただただ念仏を唱え、浄土真宗の教えを広め、人々を救おうと力を尽くした僧侶がいたことも、間違いないのです。



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「石山本願寺」が「織田信長」に降伏した理由とは?

1580年】、「石山本願寺」のトップ「本願寺顕如」は、織田信長と講和(引き分け・話し合いで戦争をやめること)します。

 

講和といっても、石山本願寺を退去する約束で和睦しているので、実質的な「本願寺の降伏」でした。

 

表向きは「正親町天皇からの命令」で、戦いをやめなくてはならなくなった、という形になっていました。

 

なぜ、圧倒的な力を持っていた「本願寺」が、降伏したのでしょうか?

 

理由は簡単です。各地で戦っていた「本願寺」の勢力が、ことごとく織田信長の軍団に敗北したからです。

 

織田信長は、各地の商業を発展させることで、莫大な資金を手に入れていました。

 

その莫大な資金で、強力な軍団を組織し、「長篠の戦い」で「武田勝頼」を倒し、「木津川口の戦い」で「毛利輝元」を撃破。

 

つまり「本願寺」の味方だった勢力を、次々と撃破していったのです。



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本願寺は、難攻不落の要塞「石山本願寺(現在の大坂城がある場所)」へ立てこもり、長期間の籠城戦を戦い抜きました。

 

同盟軍の「毛利軍」や「村上水軍」から、食料などの物資を補給していたものの、「第二次木津川口の戦い」で、織田信長や九鬼嘉隆の「鉄甲船」に、村上水軍が敗北。

 

これにより、海路での食料補給を遮断された石山本願寺は、ついに信長に降伏したのでした。

 

籠城戦に耐えられなくなったため、石山本願寺を退去して、降伏するしかなかった。

 

これが「石山本願寺」が降伏した理由です。

 

「長篠の戦い」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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織田信長が「石山本願寺」を退治したかった理由!なぜ退去を迫ったの?

織田信長は、「強力な軍団」と「莫大な資金」を有する軍事集団「石山本願寺」を弱体化させ、宗教勢力の政治への介入・口出しを封じたかったのです。

 

当時の宗教勢力は、政治に数々の口出しをし、それが実現しないと、武力で戦争を仕掛けてくるほど、危険な一面を持っていました。

 

特に「石山本願寺」は、民衆からの圧倒的な支持を背景にして、とてつもない武力を有する集団だったのです。

 

石山本願寺が、政治に口出ししてくると、信長は「天下を平和におさめる」という目的を達成できなくなる可能性あります。

 

そのため「信長」は、「石山本願寺」を力づくででも屈服させて、政治への口出しをさせないようにしたかったのです。

 

そのためには、「石山本願寺」の強力な「力」、つまり「武力」と「財力」を封じる必要があります。

 

武力を封じるために、信長は「難攻不落の要塞」である「石山本願寺」を明け渡すように要求しています。

 

財力を封じるために、信長は「数億円の資金を出せ」と「石山本願寺」に命じているのです。

 

当時の宗教勢力は、その圧倒的な財力と武力で、自分たちに都合の良い政治を、朝廷や幕府に行わせていました。

 

その「宗教勢力の政治への口出し」は、民衆を苦しめるものとなっていたのです。



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信長はその「宗教勢力の政治への口出し」を封じ、民衆を開放しようとしたのです。

 

言い換えれば「信長は、石山本願寺の既得権益を破壊しようとした」のです。

 

「既得権益」を持つものは、「既得権益の破壊」に対して、とてつもない力で頑強に抵抗します。(抵抗しなかった人など、日本では「徳川慶喜」くらい)

 

その「既得権益を破壊されないように抵抗した戦い」が、10年にも及ぶ「石山戦争」だった、というわけです。

 

とくに「石山本願寺」があった場所は、「交通の要衝」であり、「難攻不落の天然の要塞」でした。

 

西国の「毛利輝元」たちと戦うための最前線基地として、これほど適した場所はありません。

 

そのため信長は、どうしても「石山本願寺」という地がほしかったのです。

 

実際、信長は「石山本願寺」が退去したあと、この「石山本願寺」という場所に、巨大な城をつくろうとしていたのです。

 

その「巨大な城」の構想は、信長の後継者である「豊臣秀吉」に引き継がれ、「石山本願寺の跡地」には、「大坂城」が誕生します。

 

1615年】の「大坂夏の陣」で、「大坂城」は「豊臣秀頼」とともに炎上。

 

江戸幕府は、「秀吉の大坂城」を埋め立て、現在の「大阪城」をつくっています。

 

「豊臣秀頼」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,織田信長は、「石山本願寺」の力を弱めて、政治への口出しを防ごうとした。そのために無理難題を石山本願寺へふっかけ続けた。それにキレた本願寺が信長と戦いを始めた

 

2,「石山本願寺」とは、「親鸞(しんらん)上人」が開いた宗派「浄土真宗」の中の一勢力のこと

 

3,信長との10年に及ぶ「石山戦争」で、石山本願寺は敗北を重ねて弱体化。もはや戦えなくなり、「正親町天皇」の命令という形をとって、「石山本願寺」から退去し、降伏した。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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