この記事では「織田信長の幼少期」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「織田信長が幼い頃に、なぜ《うつけ》と呼ばれていたのか」、「《うつけ》と呼ばれる行動とは、どんなものだったのか」を、カンタンに理解できます。
「織田信長」は「暗殺を未然に防ぐために」、そして「敵を油断させる」ために「うつけのふり」をしていたのです。
この「うつけのふり」に騙された教育係「平手政秀」は切腹。
「うつけのふり」を見抜いた「斎藤道三」は、信長に惚れ込み、「美濃国」を託すこととなるのです。
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この記事を短く言うと
1,織田信長が「うつけ(バカ)」と呼ばれた幼少期の逸話とは?
信長は若い頃「奇抜な服装・髪型」で町を練り歩き、父「織田信秀」の葬儀のとき、その位牌に抹香を投げつけた
2,信長は、実は「優等生」だった?
「うつけ」の演技を始める前の信長は、英才教育をほどこされた、文武両道・スポーツ万能の優等生だった
3,「うつけ」のふりをしていた目的とは?
信長は「うつけ」のふりをすることで、「暗殺」のリスクを未然に防ぎ、「敵の油断」を誘っていた
幼少期の逸話!「うつけ」と呼ばれた「バカな振る舞い」とは?
- だらしのない服装で身を包み
- 髪の毛は、派手な色のヒモで派手に結い上げる
- 腰には「火打ち石」やら「ひょうたん」やら「ふくろ」やらをたくさんぶら下げ
- 派手な朱色の刀を腰に刺し
- 栗・柿など食いつきながら
- 人にもたれ掛かって、だらしなく歩く
これが、若い頃に「うつけ(バカ)」と呼ばれた「織田信長」の様子です。
この「信長」の様子をみた人々は、「織田家は終わった」と思ったことでしょう。
挙句の果てに、信長は父「織田信秀」の葬式で、父の位牌に向かって「抹香」というお香を投げつけたといいます。
それをみた人々は、信長という人の将来に不安を覚えたといいます。
織田家の家老であり、信長の教育係だった「平手政秀」は、絶望して切腹。
しかし信長は、「真のうつけ(バカ)」ではなく、ただただ「バカなふり」をしていただけでした。
その演技は本当に見事なもので、長く一緒にいた家老「平手政秀」ですらも騙されたほどだったのです。
信長の父「織田信秀」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「うつけ」のふりをしていただけ?実は優等生だった!
信長が幼名「吉法師(きちぼうし)」と呼ばれていた頃のことですが、かなりの「優等生」だったのです。
「水泳」と「馬術」を得意とし、「孫呉の兵法」にも精通した文武両道の若武者。
今で言うなら「スポーツ万能」で「成績も優秀」なエリートといったところでしょう。
信長が「うつけ」と呼ばれる行動を開始したのは、「16~18歳」のころです。
それまでの信長は、朝から晩まで「水泳」やら「馬術」やら、「弓術」「鉄砲」「学問」のエリート教育をほどこされる秀才であり、優等生だったのです。
実際、信長は「水泳」と「馬術」がめちゃくちゃ得意だったことで有名です。
信長は「16歳」頃から、突如「うつけ」のふりをし始めたのです。
なぜなのか?
そこには「2つの狙い」があったと考えられます。
「うつけ」のふりをしていた「2つの狙い」!
- 「暗殺を未然に防ぐこと」
- 「敵の油断を誘うこと」
信長が「うつけ」のふりをしていた狙いは、この2つだったと考えられます。
実は「うつけ」を演じるという方法は、信長以外にも、歴史上で数多くの人がやっていた「古典的な手段」でした。
たとえば、古代中国の名君「楚国の荘王」は、王に即位してから3年もの間、バカのふりを続けて、自分を注意し続けた「真の忠臣」を品定めしました。(「3年鳴かず飛ばず」の故事は、ここから生まれた)
また、「三国志」で有名な英雄「劉備」は、ライバルの「曹操」から
「英雄と呼べるのは、私と君しかいない」
と言われたとき、突然鳴り響いた「雷の音」に驚いたふりをして、「臆病者」「バカ」を演じ、曹操の油断を誘いました。
信長が「うつけ」の演技を開始した頃、織田家の大黒柱だった父「織田信秀」は病死寸前。
周囲は「織田彦五郎」、「今川義元」などの強敵に囲まれ、織田家は追いつめられていました。
信長がもしも、「天才だ」と周囲から噂される人物だったとしたら、どうなるでしょうか。
周囲の敵国は「織田信長」を警戒し、必死になって暗殺しようとするでしょう。
「秦の始皇帝」が天才的な名君であることを確信した「燕国の太子・丹(たん)」が、暗殺者「荊軻(けいか)」をおくりこんだように。
信長は「バカなふり」をすることで、「信長は警戒するに値しない人物だ」と周囲に思わせたのです。
これは「暗殺を未然に防ぐ」とともに、「敵の油断を誘う」効果も期待できます。
- 信長の狙い通り、「織田彦五郎」は信長を見下して油断。結果として「信長」に大敗して亡くなります。
- 弟「信勝」も、兄「信長」を見下して油断し、敗死。
- 「今川義元」は、油断こそしなかったかもしれませんが、信長が「真の天才」であることまでは見抜けずに大敗しています。
敵を油断させて、その警戒心をゆるめ、スキを突いて素早くその首を食いちぎる
それが、織田信長が若い頃に得意とした戦略・戦術だったのです。
「今川義元」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「うつけ」のふりを見抜けなかった「平手政秀」と、見抜いた「斎藤道三」
信長の「うつけ」ぶりに見事なまでに騙された人物がいました。
信長の教育係「平手政秀」です。
「平手政秀」は、信長の振る舞いを悲しみ、それを諌めるために切腹。
遺書には、「行いを改めて、立派な君主となってください」と記されていました。
通常「若殿の教育係」には、家中でもっとも優れた名将がつけられるものです。
「平手政秀」は間違いなく織田家の名将だったのでしょうから、その平手を騙した信長の「うつけぶり」は大したものだったのでしょう。
家老であり教育係だった「平手政秀」すらも見抜けなかった「織田信長の真の能力」に、父「信秀」を除いて、たった一人だけ気がついた人物がいます。
信長の妻「帰蝶(濃姫)」の父「斎藤道三」です。
【1553年】、「斎藤道三」は、「織田信長」と「聖徳寺(正徳寺)」で会見。
このとき道三は、織田信長という人物の素質を見極めようと、正徳寺へ向かう信長の様子をうかがうために、信長の行列を小屋から密かに、のぞき見ていたのです。
すると信長は、とてもだらしのない派手な服装で現れたのでした。
失望した道三は、「正徳寺」へ移動し、信長を待ち受けます。
そこに現れた信長は、「道三」がみた「だらしない服装の信長」ではなく、立派な衣装に身を包んだ若武者「信長」でした。
信長は、「道三」が途中の小屋から様子をうかがっていることを、事前に知っていたのです。
これは「道三の身辺に、信長のスパイが潜んでいる」ことを意味しているのでしょう。
さらに、信長は道三が引き連れてきた軍よりも、遥かに多くの軍団をひきいていました。
これは
「会見で何か不都合なことがあったら、俺はいつでもあなたの首が取るぞ」
という、信長からの脅し・牽制でもありました。
道三は、信長の恐ろしさを目の当たりにし、家来である「猪子兵介」に、このように漏らします。
「私の息子達は、いずれあの《うつけ》の門前に馬をつなぐことになるだろう」
この言葉は、「道三の息子達は、いずれ信長の前に屈服するだろう」という意味でした。
信長の能力に惚れ込んだ「道三」は、これ以降、信長に対して協力を惜しまなくなります。
信長の居城「那古野城」を守備するために援軍を派遣し、今川義元と戦う信長を後ろから助け続けるのです。
しかし、そんな信長ゆいいつの味方であった「斎藤道三」は、【1556年】、息子「斎藤義龍(高政)」に「長良川の戦い」で討ち取られてしまうのです。
道三を救出しようとした信長は、義龍の軍団に敗北。
敗走する途中、信長は道三からの遺言状「国譲り状」を、「猪子兵介」から受け取ります。
「美濃国を娘婿・信長にゆずる」
そう書かれた書状を手にした信長は、この日から11年の歳月をかけて、美濃国奪取に全力を傾けるのでした。
道三が「聖徳寺」の会見で残した予言は的中します。
「長良川の戦い」で敗北した道三の2人の息子「利治」と「利堯」は信長の忠臣となります。
そして「道三」が亡くなった11年後、信長は、道三の孫「龍興」を追い出して、美濃国を奪うことに成功します。
これ以降、信長は道三から受け継いだ名城「稲葉山城」を拠点として、一気に勢力を拡大していくのです。
余談ですが、「道三」と「信長」の両者につかえた「猪子兵介」と「斎藤利治(としはる)」は、最期まで信長に忠誠を尽くし、「本能寺の変」で戦死。
「斎藤利堯(としたか)」も、信長の三男「織田信孝」が切腹して亡くなると、だれにも仕えることなく、静かに亡くなっています。
「斎藤道三」については、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,織田信長は若い頃「奇抜な服装・髪型」で町を練り歩き、父「織田信秀」の葬儀のとき、その位牌に抹香を投げつけた
2,信長は、「うつけ」の演技を始める前、英才教育をほどこされた、文武両道・スポーツ万能の優等生だった
3,信長は「うつけ」のふりをすることで、「暗殺」を防ぎ、「敵の油断」を誘っていた
以上となります。
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ありがとうございました。
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