織田信長と伊達政宗の関係をカンタン解説!2人に接点はあったのか?

この記事では「織田信長」と「伊達政宗」の「関係」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「信長と政宗の関係」を、カンタンに理解できます。

 

実は「織田信長」と「伊達政宗」の間に、「接点はない」のです。


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この記事を短く言うと

 

1,「織田信長」と「伊達政宗」の関係とは?

「信長」と「政宗」の間に接点はない。ただ、「政宗」の父「伊達輝宗」は、「織田信長」に恭順・屈服しようとしていた。

 

2,「伊達政宗」が生まれたとき、「織田信長」は何をしていたのか?

1567年】に「伊達政宗」が生まれた頃、「織田信長」は宿敵であった「斎藤龍興」を追い出して、「美濃国」を平定することに成功。斎藤家の居城だった「稲葉山城」に本拠地を移動し、「岐阜城」と改名していた

 

3,「織田信長」が亡くなった頃、「伊達政宗」は何をしていたのか?

1582年】、「織田信長」が「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれた頃、【16歳】だった政宗は「初陣」を済ませたばかりだった。

「織田信長」と「伊達政宗」の関係とは?父「輝宗」は「信長」に臣従していた

「織田信長」と「伊達政宗」の間に、これといった接点はありません。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

 

《伊達政宗》
「引用元ウィキペディアより」

2人は会ったことも無ければ、手紙などをやり取りしたこともないはずです。

そもそも「信長」と「伊達政宗」の間には、【33歳】もの年齢差がありました。

信長は【1534年】生まれ。

政宗は【1567年】生まれ。

全く会ったことのない2人ですが、「伊達政宗」は、天下人「織田信長」のことを、間違いなく知っていたはずです。

天下人「信長」の名前が、日本中に轟いていたから「政宗」が知らないはずがないのですが、「政宗」の父「伊達輝宗」は、「織田信長」に臣従していたのです。

1572年】または【1575年】、「輝宗」は「信長」に対して、「鷹」を献上しています。

どうやら「信長」は、この鷹を、とても気に入っていたらしいです。

1582年】、「織田信長」が「甲州征伐」で「武田勝頼」を滅ぼすと、「輝宗」は「織田信長に臣従する」という姿勢を明らかにしています。

「輝宗」は、「織田信長」に屈服するつもりだったのです。

1582年6月】、「織田信長」は「本能寺の変」によって、「明智光秀」に討たれ、「伊達輝宗」が正式に織田家へ臣従する計画は、白紙となっています。


「本能寺の変」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『【本能寺の変】の謎や真相をすべて解説!黒幕や動機について完全網羅』の記事はコチラ


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「政宗」が産まれたとき、「信長」は何をしていたのか?

伊達政宗が生まれた【1567年】、「織田信長」は宿敵であった「斎藤龍興」に勝利して「美濃国」を平定することに成功しています。

「斎藤家」の居城だった「稲葉山城」に拠点を移し、「岐阜城」と改名。

その翌年の【1568年】、「織田信長」は「足利義昭」を連れて京都とその周辺を制圧することに成功します。

京都を制圧することで「織田信長」は、その圧倒的な力と存在感を、日本中に示していたのです。

1582年】、「織田信長」が「本能寺の変」で亡くなった時、「伊達政宗」は若干【16歳】でした。

そのときの伊達家は、まだ政宗の父「伊達輝宗」が当主として君臨しており、政宗は前年の【1581年】に初陣をかざったばかり。

信長は、「伊達政宗」という戦国末期の猛将の名前すら知らずに、この世を去ったと考えられます。


「織田信長の生涯年表」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『織田信長がしたことを年表にまとめて簡単解説!『天下の取り方』教えます』の記事はコチラ


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「織田信長」が亡くなった後の「伊達政宗」の動向!

「織田信長」が亡くなった2年後の【1584年】、「伊達政宗」はわずか【18歳】で伊達家の家督を継承し、当主となります。

1589年】、政宗は宿敵「蘆名氏」を滅ぼすことに成功し、「会津」をはじめ、広大な領地を手に入れます。

しかし、政宗はこの「蘆名氏」から奪い取った「会津」の領地を、のちに「豊臣秀吉」に没収されています。

1590年】、「伊達政宗」は「豊臣秀吉」に屈服。

「秀吉」は「天下統一」に成功するのです。

「豊臣秀吉」は、「応仁の乱」から【123年】も続いた「戦国時代」を、ついに終わらせます。

実は【1587年】、豊臣秀吉は「惣無事令(そうぶじれい)」という命令を発していました。

「惣無事令」とは、簡単にいえば「大名同士の戦争を禁止とする命令」のことです。

政宗はこの命令を無視して「蘆名氏」を滅ぼしてしまいました。

そのため激怒した「豊臣秀吉」は、「伊達政宗」が「蘆名氏」から奪い取った領地を没収したのです。

その後、「伊達政宗」は「豊臣秀吉」の部下として、「朝鮮出兵」などに従軍します。

しかし、【1598年】に「豊臣秀吉」が亡くなると、「徳川家康」に接近し、その臣下となります。

1615年】、「大坂夏の陣」で「豊臣秀頼」を討って「豊臣家」を滅ぼすと、伊達政宗は本格的に「徳川家」に臣従することとなります。

二代将軍「徳川秀忠」、三代将軍「徳川家光」に仕えた「政宗」は、【1636年】に亡くなるのです。


【伊達政宗の生涯年表】について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『伊達政宗の生涯年表を簡単に解説!最後まで天下を狙った野心家だった』の記事はコチラ


【応仁の乱】について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

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「政宗」の力は「織田信長」より上だった?「信長」に憧れて、天下を狙い続けた「独眼竜」

実は「伊達政宗」、「織田信長」よりも優れた「軍事能力」の持ち主かもしれないのです。

1584年】、政宗は【数え18歳】で家督を継承します。

その後の「政宗」は、「織田信長」以上の、恐るべき速度で領土を拡大していくのです。

「織田信長」が、父「織田信秀」の死によって家督を継承したのが【1552年】。

そして「尾張国」を完全に統一したのが【1565年】です。(犬山城の「織田信清」を倒して尾張統一)

信長は尾張統一に【13年】もかかったわけですが、政宗はそれを上回る、さらなる速度で領土を拡大していきます。

1589年】、「蘆名氏」を滅ぼした「伊達政宗」の領地は、現在の「宮城県」と「福島県」のほとんどを支配。さらには「山形県」と「岩手県」の一部をも勢力下に置くことに成功しています。

「政宗」は「尾張国」の数倍の領地を制圧するのに、わずか【5年】しかかかっていないのです。

確かに政宗には、「今川義元」のような強敵がいなかったわけですし、信長よりも盤石な土台がありました。

それにしても【5年】とは驚異的な速度です。

政宗は、外交上手だった父「伊達輝宗」に比べると、力で無理やり敵を屈服させる、強引な手段を得意としていました。

「織田信長」が行なった「撫で斬り(なでぎり)」や「根切り(ねぎり)」と呼ばれる虐殺も、政宗はおこなっています。

おそらく「伊達政宗」は、「織田信長」をお手本としていたのでしょう。

天下への野心を強く持っていた「伊達政宗」は、一代で日本の半分近くを支配していた天下人「織田信長」に、憧れていたのだと考えられます。

しかし政宗は、運が悪かったのです。

驚異的な速度で領土拡大に成功したものの、圧倒的な力をもつ「豊臣秀吉」が、すでに天下の大半を支配していました。

もしも「秀吉」の天下統一事業が、もっと遅れていたら、政宗は「東北地方」の制圧くらいはできたかもしれません。


「織田信秀」や「今川義元」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『織田信秀のすべてを徹底解説!子孫や家系図・葬儀の逸話まで完全網羅』の記事はコチラ

『今川義元のすべてを徹底解説!家紋や首の行方・墓の場所など完全網羅』の記事はコチラ


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「織田信長」と「伊達政宗」の間に接点はない。「政宗」の父「伊達輝宗」は、「織田信長」に恭順・屈服しようとしていた。

 

2,【1567年】に「伊達政宗」が生まれた頃、「織田信長」は宿敵であった「斎藤龍興」を追い出して、「美濃国」を平定することに成功。斎藤家の居城だった「稲葉山城」に本拠地を移動し、「岐阜城」と改名していた

 

3,【1582年】、「織田信長」が「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれた頃、【16歳】だった政宗は「初陣」を済ませたばかりだった。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

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ありがとうございました。


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