伊達政宗の生涯年表を簡単に解説!最後まで天下を狙った野心家だった

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伊達政宗像:モリハルさんによる写真ACからの写真

『伊達政宗』がどんな武将で、どんな人生を歩んだのか、詳しく説明できる人は意外に少ないかもしれません。

私も『大河ドラマ』で見たイメージくらいしか持っていませんでした。

伊達政宗はスペインと手を結び、討幕を計画していたのではないか、と指摘されています。

この記事では、伊達政宗にあまり詳しくない方に向けて、その生涯をわかりやすく解説していきます。

これを読んで『伊達政宗ってそういう人だったのか』と、スッキリしてくださいね。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 伊達政宗、1567年生誕。「奥州の覇権争い」や「関ヶ原の戦い」、「大坂の陣」を経たのち、1636年没。享年70歳。
  2. 政宗には、「支倉常長」たち「欧州使節団」をバチカンへ派遣し、「スペインと軍事同盟を締結して徳川幕府を倒す」という計画をすすめていた説がある
  3. 政宗が晩年に作った「酔余口号」という漢詩には、「天下が取れなかった無念」が隠されているが、同時に平和を楽しんだとも解釈できる

伊達政宗の生涯年表を、簡単に一覧にして解説

「伊達政宗」は、奥州の名門「伊達」氏の第17代当主として「1567年」に生まれました。

余談ですが、「真田幸村」「立花宗茂」も同じ年に生まれ、「武田信玄」の嫡男「武田義信」が同年亡くなっています。

伊達政宗の生涯』を簡単に年表にまとめると、以下のようになります。

 

1567年】(伊達政宗の年齢・1歳)

米沢城で父『伊達輝宗』、母・最上氏出身の『義姫』の間に嫡男として生まれる。

幼名は『梵天丸(ぼんてんまる)』。

乳母には「片倉小十郎景綱」と「鬼庭(茂庭)綱元」の姉「片倉喜多」がつく。

 

1571年】(5歳)

天然痘を患い、生死をさまよう。からくも治癒するが右目を失明。

 

1572年】(6歳)

父・輝宗、梵天丸のために美濃から名僧「虎哉(こさい)禅師」を呼び寄せ師匠とする。

虎哉禅師は政宗にとって終生の師匠となる。

 

1575年】(9歳)

片倉喜多の異父弟『片倉小十郎』、梵天丸付きの家臣となる。

 

1577年】(11歳)

元服(成人)して『伊達藤次郎政宗』と名乗る。

 

1579年】(13歳)

三春城主「田村正顕」の娘、愛姫(めごひめ)を正妻に迎える。(田村家は「坂上田村麻呂」の末裔と伝えられている)

 

1581年】(15歳)

相馬氏との合戦で初陣。

 

1582年】(16歳)

織田信長」が重臣「明智光秀」に、「本能寺」で討たれ戦死。(本能寺の変

 

1584年】(18歳)

父・輝宗の隠居に伴い、18歳で伊達家の家督を相続し第17代当主となる。

 

1585年】(19歳)

5月、蘆名氏の領土に侵攻

8月、大内領の小手松城に侵攻、近隣への見せしめとして城内の者を皆殺しにする。(小手森城の撫で斬り)

「大内定綱」の没落を見た「畠山義継」、和議を申し出て輝宗の取りなしで和睦。

義継、和睦の取りなし依頼の礼で来城、隙を狙い輝宗を拉致。

鷹狩に出ていた政宗、急を聞いて後を追い、「鉄砲で儂(わし)もろとも撃て」との輝宗の命令を聞き入れ、輝宗もろとも義継を射殺。

11月、輝宗の弔い合戦で畠山氏の居城「二本松城」を包囲していた政宗率いる伊達軍、佐竹軍に苦戦

 

1587年】(21歳)

『豊臣秀吉』が惣無事令(そうぶじれい・大名の私闘禁止)を発布するが、政宗はこれを無視。

奥州の諸大名との戦争を継続。


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1588年】(22歳)

2月、大崎氏の内紛に介入し侵攻。政宗に反感を強めていた母方の伯父『最上義光』が大崎氏に付いたため、所領の一部を攻め落とされる。

9月、政宗、豊臣秀吉に恭順、秀吉から上洛を命じられる。

 

1589年】(23歳)

2月、落馬して左足を骨折、療養生活を送る。

11月、豊臣秀吉が後北条氏を攻めることを決める。伊達家は先代「輝宗」の時代から後北条氏と同盟関係だったため、後北条を攻めるか、または秀吉と戦うか悩む。

 

1590年】(24歳)

5月、豊臣家家臣の浅野長政から参戦を促され、小田原討伐に加わる。

この際、母『義姫』が、伊達家の家督を政宗の弟『小次郎政道』に継がせるため、政宗に毒を盛り殺そうとするが失敗。

怒った政宗は、母の代わりに弟『小次郎』を切り捨てる。

「北条氏政」が秀吉に降伏。「奥州仕置」により豊臣秀吉の全国統一が完了。

 

1591年】(25歳)

名将「蒲生氏郷」とともに「葛西大崎一揆」を平定するが、政宗が書いたとされる「一揆を扇動する書状」を氏郷が入手。

政宗、秀吉に疑われるが偽書であると弁明、許されるが居城の「米沢城」を取り上げられて「減転封処分」になる。

 

1593年】(27歳)

秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に参加。

道中の家臣団の派手な衣装から「伊達者」という言葉が生まれる。

 

1595年】(29歳)

豊臣秀吉の甥である関白『豊臣秀次』切腹。

秀次の側室として上洛していた政宗の母方の従姉妹『駒姫』が、秀次の妻子とともに処刑される。秀次と親しかった政宗も秀吉から疑いをかけられ、謀反の兆しが見られた場合、隠居して、家督を長男の兵五郎(秀宗)に譲ることを約束させられる。

 

1598年】(32歳)

豊臣秀吉、死去。

 

1599年】(33歳)

五大老「前田利家」死去。

徳川家康と伊達政宗、豊臣秀吉の遺言を無視し、家康の6男『松平忠輝』と政宗の娘「五郎八(いろは)姫」を婚約させる。

 

1600年】(34歳)

政宗、家康の『会津侵攻』に従軍。家康の畿内不在を狙って『石田三成』が家康討伐のため挙兵。

9月、『関ヶ原の戦い』勃発。

戦いは家康や政宗が属する「東軍」が勝利し、西軍『石田三成』『小西行長』『安国寺恵瓊』ら処刑。

 

1601年】(35歳)

政宗、家康の許可を得て「仙台」に居城を移す。「仙台藩」の始まり。


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1603年】(37歳)

家康、「征夷大将軍」に就任し、江戸幕府を開く。

 

1613年】(47歳)

スペイン王『フェリペ3世』の使者『セバスティアン・ビスカイノ』の協力を得てガレオン船『サン・フアン・バウティスタ号』を建造。

政宗、家康の許可を得て『支倉常長』らを『遣欧使節』として『ローマ』へ派遣。

 

1614年】(48歳)

『大坂冬の陣』に参戦。

和議成立後、大坂城の堀を埋め立てる工事を伊達藩が請け負う

 

1615年】(49歳)

『大坂夏の陣』に参戦。

「真田幸村(真田信繁)」戦死。

『豊臣秀頼』自刃。

秀頼の介錯を『毛利勝永』がつとめる。

豊臣家滅亡。

 

1616年】(50歳)

徳川家康、死去

 

1632年】(66歳)

徳川秀忠、死去。

三代将軍「徳川家光」の時代が始まる。

 

1634年】(68歳)

政宗、体調不良をうったえ始める。

 

1635年】(69歳)

徳川家光が『参勤交代』を始める。

政宗「命令に逆らう者があれば、儂に討伐を命じてください」と家光に進言し、他の大名も従わざるを得ない状況を作る。

 

1636年】(70歳)

4月、母『保春院(義姫)』を供養する保春院の落慶式。

その2日後、仙台から参勤交代で江戸に出立。

4月28日、江戸到着。病をおして江戸城に参内、将軍「徳川家光」に謁見。

5月21日、家光、仙台藩江戸屋敷に政宗を見舞う。支えがなければ歩けないほど衰弱した政宗だが、沐浴し家光の見舞いに応える。

5月24日、「伊達政宗」死去。享年70歳。

 

将軍家は、江戸で7日間、京都で3日間喪に服するように命令を出しました。

江戸で亡くなった政宗の遺体は、衣冠束帯姿で木棺に収められ、防腐処置を施された上、生きているときと同じように大名行列で仙台に戻ったのです。

これは、いち大名家にたいしては異例のことだったのです。


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伊達政宗は日本最初の売国奴?スペインと同盟して徳川家康を倒そうとした

「青森中央学院大学」に「大泉光一」氏という教授がいます。

大泉光一氏の専門は「危機管理」や「国際テロ」ですが、長年「支倉常長」を研究してきました。

そして『暴かれた伊達政宗「幕府転倒計画」』という書籍を出版。

この書籍の中で、「東北大学名誉教授」の「田中英道(美術史学者)」氏が出版した『支倉常長』を捏造だと批判し、田中氏と激しい論争を巻き起こしたのです。

大泉光一は『暴かれた伊達政宗「幕府転倒計画」』で

『支倉常長は幕府転倒を企てた伊達政宗が、ローマに送った使節だった』

と主張しました。


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大泉光一は、慶長遣欧使節についてメキシコやスペイン、ヴァチカンに残る史料にあたって、その研究をしたのです。

ヴァチカンには伊達政宗が当時のローマ教皇『パウロ5世』にあてた和文とラテン語の親書が、現在も保管されています。

この親書はTBSのテレビ番組「日立 世界ふしぎ発見!」で「2018年6月9日」にオンエア公開されました。

この時のミステリーハンターを務めたのは俳優の『前川泰之』さん。

ローマ市内のロケでは「支倉常長」に扮し、遣欧使節一行の道中を再現。馬車に乗ってローマ市内を走ったのです。

余談ですが、当時のヨーロッパの人たちは鼻紙で鼻をかむという習慣がなかったので、支倉常長たちのその仕草が物珍しく、鼻をかんで捨てた紙を競って拾い集めていたそうですよ。

「大泉光一」はヴァチカンやメキシコ、スペインに残る史料に丹念に調査。伊達政宗がローマ教皇・パウロ5世にあてた親書には、「6つの請願」が書かれていました。

ところが、ヴァチカンからの回答は8つあったと言うのです。


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通常、1つの請願に対し1つの回答が与えられるはずであるから、文書には書かれなかった『7つ目』と『8つ目』の請願を支倉常長が口頭で伝え、それにたいしてヴァチカンが回答したのだ、と大泉光一は考えました。

そのヴァチカンからの『7つ目』『8つ目』の回答は以下のようなものです。

『7つ目の請願』
日本の王(伊達政宗)に対する叙任について、日本の王はキリスト教徒ではないので少しも検討できないが、政宗がキリスト教徒になれば、キリスト教徒の王に与えられる満足とローマ教皇の保護が与えられる。

『8つ目の請願』
司教の任命権、騎士団の創設は、政宗がキリスト教徒になり、教会へ寄贈したら、その功績に対して協議される。

この2つの回答に対する請願は親書上にないので『政宗は文章にはせず、支倉常長に口頭で請願させたのだ』と大泉光一は推測したのです。


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私も「大泉光一」氏のこの推測は、非常に興味深い指摘だと思います。

しかし残念なことに、これ以外の史料が見つかっていないので、口頭で請願したのかどうかについては断定することはできません。

この「キリスト教徒の王」を「カトリック王」と大泉光一は名付け、論を進めるのです。

「カトリック王」という名称を見て人気漫画の『ワンピース』で「海賊王に俺はなる!」という主人公・ルフィのセリフを思い出してしまうのは私だけでしょうか・・・。

親書の中で伊達政宗は

「日本に布教に来た『ルイス・ソテロ』からキリスト教のことを聞き、自分もクリスチャンになりたいが、なかなか洗礼を受けることができません」

という趣旨のことを書いています。

明文化されていない請願に対する回答があることや、「クリスチャンになりたいが洗礼を受けることができない」とヴァチカンに訴えていることを、大泉光一は以下のように解釈しました。

伊達政宗には江戸幕府倒幕の意思があり、カトリックに入信することで『カトリック王』となり、ヴァチカンの協力を得て『スペイン』を味方につけて徳川幕府を倒そうと考えていたのではないか

と。

つまり、伊達政宗はヴァチカンに後ろ盾となってもらってスペインと手を結び、倒幕を企てていた・・・。そのような意見もあるのです。


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政宗は最後まで天下を狙っていた!晩年の歌(辞世の句)に隠された秘密

伊達政宗の晩年の漢詩に『酔余口号(すいよこうごう)』という作品があります。

『馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何』

 

(書き下し文)馬上少年過ぐ 世平らかにして白髪多し 残躯天の赦す所 楽しまずんば是いかん/楽しまずして是を如何にせん

最後の『不楽是如何』の部分が

「これを楽しまないでどうするの(もったいないでしょ)」

または

「楽しいと思えないのはどうして(天下取り失敗したし)」

という「2通りの解釈」が可能なことで、様々な議論をよんできました。

余生を楽しまなくてどうするの」と「余生を楽しめないのはなぜ?」では、全く意味が違ってしまいますよね。


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この漢詩の解釈は、後者の意味でとる人が多いのです。

つまり『余生を楽しめないのは天下取りに失敗したから』ということですね。

伊達政宗は『関ヶ原の戦い』を生き抜き、『徳川家康』『徳川秀忠』を見送り、3代将軍『徳川家光』の世まで生き延びた武将でした。

『関ヶ原の戦い』を経験した武将の中では、最も長生きした人なのです。

晩年、世の中が平和になり、自分も年をとり白髪も多くなった、敵、味方ともに戦った多くの武将も世を去っていった、儂は今余生を過ごしているがこれを楽しまないでどうする。

いや、心から楽しむことができない・・それは儂が天下取りに失敗したからだ・・・。

どちらの意味にも取れるように漢詩を作ったのではないか、とも言われていますが、なぜそんなややこしいことをしたのでしょう?

誰にでもわかるように残せば、徳川幕府から子孫がひどい目に合わないとも限りませんから、解釈が難しい書き方で、天下取りに失敗した未練を歌ったのかもしれませんね。

伊達政宗は老いてなお、天下取りの夢を捨てきれなかったのでしょう。


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『伊達政宗』について「ひとこと」言いたい!

「スペインとの軍事同盟説」について

「大泉光一」氏の学説は、学会では受け入れられていません。

ローマ教皇あての親書の返答が2つ多かったということなどから、政宗が倒幕を企てていたというのは、論理に飛躍があると評価されているのです。

そもそも、伊達政宗はキリシタン大名ではありません。

「黒田如水(黒田官兵衛)」「高山右近」「小西行長」のように、洗礼を受けた記録もないのです。

もっとも、伊達政宗の墓所の発掘時に、副葬品でロザリオ(カトリックのお祈りの道具)が出土していることから、まったく興味がなかった、ということはないと思いますが・・・。


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キリシタンでもない極東の大名が、倒幕のためにスペインと手を結びたいからヴァチカンに仲介を頼んだというのは、おかしな話に思えます。

親書の中で、政宗は自分がキリシタンではない、と言っていますね。

ローマ教皇に「カトリックの信者ではないがこういうお願いがあるので聞いてほしい」と頼んだとしても「信者になってから聞き入れますよ」と返されてしまうことは明らかです。

請願に対する答えが2つ多かったのは、倒幕を狙っていたのではなく、そういう解釈も可能なのです。

スペインの協力を得て倒幕を計画していたと断定するには、史料が少なく、根拠が希薄だと言えるでしょう。


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「政宗の晩年」について

「豊臣秀吉」の死後、「徳川家康」と「伊達政宗」は、秀吉の遺言を無視し、自分たちの子供を婚約させました。

「石田三成」からしたら、太閤殿下の遺言を無視するとは何事か!と腹立たしい出来事だったでしょう。

翌年「関ヶ原の戦い」が起き、豊臣家は衰退。「大坂の陣」で徳川政権による平和の世が訪れました。

伊達政宗は家康亡き後も、秀忠・家光に仕え続けます。

家光は政宗を「伊達の親父殿」と呼んで大変慕い、政宗が亡くなったときは、実父「秀忠」が亡くなった時よりも激しく嘆き悲しみました。

政宗も家光に乞われて家康の思い出話をしたり、戦国時代の話をしたりしていたのです。


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倒幕を狙うのであれば、家康が亡くなった後が最大のチャンスだったと思えるのですが、政宗はそうしませんでした。

それどころか、家光が参勤交代を実施すると言ったときには、「逆らう者がいれば儂が討伐いたしますぞ」と援護もしています。

戦国時代を駆け抜け、スペインと交渉しようとした伊達政宗。

もしかしたら、徳川家康と直に付き合うことで、自分が天下取りの器ではないことを悟ったのではないでしょうか。

それならば、家康亡き後の息子・孫を、命が続く限り援護し、幕府の存続を助けよう・・・。

伊達政宗は、そんな気持ちを抱いて晩年を過ごしたのではないでしょうか。

天下取りをできなかった自分を後悔しつつも、平穏な余生を過ごせることを心の底で喜んでいたのかもしれませんね。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 伊達政宗、1567年生誕。「関ヶ原の戦い」「大坂の陣」を経て、1636年没。享年70歳。
  2. 政宗には、「支倉常長を使って、スペインと軍事同盟を締結し、徳川幕府を倒す」という野心があった、という説がある。
  3. 政宗が晩年に作った漢詩「酔余口号」には、「天下が取れなかった無念」が隠されている。

この記事を短くまとめると、以下の通りです。

伊達政宗は【1567年】に生まれ、【1636年】まで生きました。

天然痘で右目を失明、実母「義姫」に毒殺されかけ、と波乱万丈の人生でしたが、戦国の乱世を生き抜き、江戸幕府の3代将軍家光の時代まで生き抜いたのです。

伊達政宗は「関ヶ原の戦い」の後、徳川家康の許可を得て、支倉常長をローマに使節として派遣。

実は伊達政宗には「倒幕」の意志があり、スペインに協力を求めるための使者が「支倉常長」だった、という学説を唱える学者もいます。

しかし、その説は論理に飛躍があるという評価のため、学会では受け入れられていません。

3代将軍「徳川家光」に「仙台の親父殿」と慕われた政宗は、晩年、病身をおして参勤交代で江戸に行き、そこで亡くなりました。

病状の記録から、死因は『食道がん』だったと考えられています。

波乱万丈の人生を生きた独眼竜「伊達政宗」公は現在、仙台市の「瑞鳳殿」で永遠の眠りに付いています。

「仙台・瑞鳳殿」「引用元Wikipediaより」

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

「豊臣秀吉の天下統一までの道を解説!農民が偉業達成できた3つの理由」の記事はコチラ

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