この記事では「織田信長と徳川家康の関係」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「信長と家康の関係」を、カンタンに理解できます。
「信長と家康」は「幼馴染」であり、「同盟を結んだ盟友」という関係なのです。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」と「徳川家康」の関係とは?
「織田信長」と「徳川家康」は、「清洲同盟」という軍事同盟を締結した「盟友」であり、「幼馴染」だった
2,信長と家康の間で結ばれた「清洲同盟」とは?
【1561年】、「桶狭間の戦い」の翌年、「織田信長」と「徳川家康(松平元康)」は、「清洲同盟」と呼ばれる軍事同盟を締結した
3,「信長」の最期と「家康暗殺計画」とは?
「本能寺の変」が起こったとき、信長は、家康を本能寺へ呼び寄せ、暗殺するつもりだった、という説があるが、真実かどうかハッキリしていない
「織田信長」と「徳川家康」の関係とは?
「織田信長」と「徳川家康」の関係は、
- 「幼馴染」
- 「同盟を締結した盟友」
- 「主君と部下」
- 「親戚関係」
というものでした。
「織田信長」は、【1534年】生まれ。
「徳川家康」は、【1543年】生まれ。
年齢は、「9歳」の差があります。
2人の関係は、とても複雑です。
まず、両者は「同盟関係」にありましたので、「盟友」といって良い間柄でした。
次に、「主従関係」。一気に勢力拡大を果たした「信長」は、徐々に「家康」を「盟友」ではなく、「部下」としてあつかうようになります。
そして、「親戚」でもありました。「織田信長」の娘「徳姫」が、「徳川家康」の長男「松平信康」に嫁いでいるのです。
2人は「幼馴染」でもありました。
「松平信康」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「清洲同盟」と「幼馴染」という関係について!
信長と家康は、「桶狭間の戦い」の翌年【1561年】に、「清洲同盟」と呼ばれる軍事同盟を締結しています。
この軍事同盟は、締結されてから信長が「本能寺の変」で亡くなるまで、実に『21年間』も続きました。
両者は、「幼馴染」という関係であり、その後「盟友」としてともに戦国時代を歩むことになったのです。
織田信長と徳川家康が出会ったのは、家康が織田家に預けられていた【1547~1549年】、この2年のあいだと考えられています。
家康は、人質として「織田家」に預けられていたのですが、その間に、織田家の若殿「織田信長」は、幼い家康をとてもかわいがったという逸話が残っています。
2人が出会ってから約10年後、今度は敵味方にわかれて、両者は争うこととなります。
「桶狭間の戦い」
【1560年】、「織田信長」が駿河の名将「今川義元」を討ち果たした有名な戦いです。
この戦いで、「徳川家康(松平元康)」は、「今川軍」の先方として織田軍と戦っていたのです。
「桶狭間の戦い」で、家康は主君「今川義元」を失い、これを良い機会として、今川家から独立を果たします。
そして翌年の【1561年】、「織田信長」と「徳川家康」は、「清洲同盟」を締結し、盟友となるのです。
ところが、当初「対等な関係」だった両者は、徐々に関係が変わってきます。
信長は、圧倒的な速度で勢力を拡大し、家康に比べると、10倍近い広大な領土を獲得するにいたるのです。
この力の差が原因で、両者は「盟友関係」から、「主君と家来の関係」へと変化していくこととなります。
「桶狭間の戦い」については、以下のリンク記事をどうぞ。
信長と家康の最期!「家康暗殺計画」と「本能寺の変」
「織田信長」は、「清洲同盟」を締結した21年後の【1582年】、重臣「明智光秀」に襲われて亡くなります。
「本能寺の変」です。
実はこの「本能寺の変」が起こったとき、信長は「徳川家康を暗殺しようとしていた」という説があります。
「茶会を開く」と言って「徳川家康」を「本能寺」へとおびき出し、「家康を暗殺しようとした」のだそうです。
この「家康暗殺計画」は、明智光秀の末裔を自称する作家「明智憲三郎」さんが
- 「本能寺の変~431年目の真実~」
- 「信長を殺した男」
という本のなかで唱えておられた説です。
「明智憲三郎」さんの説によると
家康暗殺計画を信長から知らされた「明智光秀」は、「徳川家康」を助けるために、家康と協力して「織田信長」を本能寺で暗殺した
とのこと。
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どちらもとても興味深く、面白い作品でした。
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「本能寺の変」によって、「織田信長」は「明智光秀」に討ち果たされてしまいます。
そしてその「明智光秀」も、「本能寺の変」から11日後に「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」によって敗死します。
信長の天下を引き継いだ「豊臣秀吉」でしたが、【1598年】に死去。
【1600年】、「関ヶ原の戦い」に勝利した「徳川家康」が天下を引き継ぐことになります。
【1615年】、「徳川家康」は「豊臣秀吉」の息子「豊臣秀頼」を殺害し、「豊臣家」は滅亡。
【1616年】、「徳川家康」は【75歳】で死去。
家康の死から、【1868年】の「明治維新」まで、日本は実に【252年】ものあいだ、長く平和な時代が続くこととなるのです。
「本能寺の変」については、以下のリンク記事をどうぞ。
信長と家康が出会う以前、「織田家」と「徳川」は敵同士だった!
「織田信長」と「徳川家康」が出会う前、両者の家は「宿敵関係」でした。
「織田信長」の父「織田信秀」は、「徳川家康」の祖父「松平清康」を死に追いやっているのです。
それだけではありません。
家康の母の兄、つまり家康の伯父にあたる「水野信元」は、信長につかえていたものの、裏切りを疑われて、信長の命令で切腹させられています。
また、一説によると、徳川家康の父「松平広忠」も、織田家の策略で亡くなったとのこと。(広忠の死因は、部下による暗殺説、病死説と、はっきりしていない)
つまり、「織田信長」と「徳川家康」が同盟を結ぶまで、「織田家」と「松平家(徳川)」は、宿敵関係にあったということ。
この「宿敵関係」が原因なのか、「徳川家康こそが本能寺の変の黒幕」という説が存在しています。
現在の研究では、「徳川家康黒幕説」は、可能性が低いと見なされています。
しかし真実が、はっきりわかっていないのも事実です。
もしかしすると、「織田信長」は「徳川家康」の策略により、討たれたのかもしれません。
表向きは「清洲同盟」で「盟友」として振る舞っていた「信長」と「家康」。
2人はとても仲が良く、宣教師「ルイス・フロイス」も
「2人はまるで本当の兄弟のように仲が良い」
という証言を残しているほどです。
しかし実際のところ、両者は互いの命を狙うほどに、険悪な仲だったのかもしれません。
表向きは「盟友」、裏では「宿敵」。
この大いなる矛盾が、「本能寺の変」の真相を突いているのかもしれません。
「本能寺の変」については、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」と「徳川家康」は、「清洲同盟」という軍事同盟を締結した「盟友」であり、「幼馴染」だった
2,信長と家康の間で結ばれた「清洲同盟」とは、【1561年】、すなわち「桶狭間の戦い」の翌年、「織田信長」と「徳川家康(松平元康)」が締結した軍事同盟
3,「本能寺の変」が起こったとき、信長は、家康を本能寺へ呼び寄せ、暗殺するつもりだった、という説があるが、真実かどうかハッキリしていない
以上となります。
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ありがとうございました。
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