この記事では「織田信長」VS「武田信玄」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「織田信長」と「武田信玄」が戦ったら、「どちらが勝つのか」を、カンタンに理解できます。
実は「織田信長」、「戦争がそれほど強くなかった」のです。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」と「武田信玄」が直接戦ったら、どちらが勝利する?
ほぼ間違いなく「武田信玄」が勝利する。「戦争の上手さ」でいえば、「織田信長」よりも「武田信玄」のほうが圧倒的に上だった
2,「織田信長」が「武田信玄」との直接対決をさけた理由とは?
「織田信長」は「武田信玄」を恐れていた。「自分は武田信玄には勝てない」ということを、織田信長は誰よりもよくわかっていたため、戦いを避け続けた。
3,「武田信玄」よりも弱い「織田信長」が、信玄でもできなかった「天下取り」に成功した理由とは?
「織田信長」は「武田信玄」とは違い、「鉄砲」などの最新兵器を次々と導入して軍団を強化した。そのため信長は、自分がひきいて采配をふるっていない「部下の軍団」でさえも勝利に導くことが出来た。そのため、「羽柴秀吉」や「明智光秀」など、各地で無数の勝利を重ねることに成功し、「天下取り」に最も近づくことができた。
「織田信長」VS「武田信玄」では、どちらが勝つ?「信玄」のほうが、圧倒的に戦争は上手だった
戦国の覇者「織田信長」と、猛将「武田信玄」が直接戦っていたら、間違いなく「武田信玄」が勝利していたでしょう。
なぜなら、「武田信玄」は生涯に「3度」しか敗北していない猛将であるのに対し、織田信長は「20度」も敗北を重ねた武将だからです。
「武田信玄」は、とてつもない強さを誇る「軍人」なのです。
対して「織田信長」は、「軍事」についての知識はあるものの、どちらかといえば「武将・軍人」というよりも「経営者」と言ったほうがいいでしょう。
信長に、「武田信玄」ほどの強さはありませんでした。
【1572年】、武田信玄は「西上作戦」と呼ばれる作戦を開始。
「京都」を支配していた「織田信長」に対して、戦いを挑みます。
このとき信長は、「浅井長政」や「朝倉義景」と戦っていました。
そのため「武田信玄」の相手は、信長の同盟者である三河国の「徳川家康」が担当したのです。
「織田信長」は、織田家の家臣である「佐久間信盛(さくま のぶもり)」や「平手汎秀(ひらて ひろひで)」を、「徳川家康」の援軍につかわします。
しかし、「徳川家康」は「三方ヶ原の戦い」で「武田信玄」に大敗。
同盟者「徳川家康」が大敗したにも関わらず、「織田信長」は「信玄」を迎撃することなく、相変わらず動きません。
つまり、「織田信長」は「信玄」との戦いから、「逃げた」わけです。
信長が信玄から逃げている最中の【1573年】、猛将「武田信玄」は、信濃国・駒場で病死します。
織田信長は「武田信玄」という、最大の脅威から、奇跡的に開放されたのです。
「織田信長・武田信玄・上杉謙信」の「生涯戦績」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「織田信長」が「武田信玄」との直接対決から逃げ続けた理由とは?
「織田信長」は、「武田信玄」との直接対決から、徹底的に逃げ続けています。
なぜ逃げ続けたのか、理由は簡単です。
「戦っても勝てない」からです。
信長は、「信玄」をひたすらに「恐れていた」のです。
実は「織田信長」、戦争はそれほど上手ではありません。
「桶狭間の戦い」で、武田信玄の義兄「今川義元」を奇跡的に倒しているので、強いと思われがちですが、そうではありません。
その証拠に、「桶狭間の戦い」の直後に開始した「美濃攻め」で、愚将と呼ばれる「斎藤龍興」を相手に、敗北を繰り返しているのです。
信長は、「自分が戦争に強くない」ということを、誰よりもよく知っていました。
そして「自分では武田信玄にはとても勝てない」ことも知っていたのです。
信長は、武田信玄に対して、ゴマをすり続けています。
まず、信長は自分の姪を養女として、「武田信玄」の四男「武田勝頼」に嫁がせて婚姻関係を結び、同盟を締結しています。
その養女が信玄の孫「武田信勝」を産んだ直後に亡くなると、今度は「松姫」という武田信玄の娘を、信長の長男「織田信忠」の妻にもらう交渉をしています。(この「信忠」と「松姫」の婚姻は、織田と武田の関係悪化により実現しなかった)
つまり信長は、「婚姻政策」によって、武田との同盟を徹底的に強化し、「信玄との直接対決」を避け続けているのです。
「武田信玄」については、以下のリンク記事をどうぞ。
信玄より弱い「織田信長」が「天下」を取れた理由
「武田信玄」よりも弱い「織田信長」ですが、なぜ「信玄」にも出来なかった「天下取り」が出来たのでしょうか?
信長は、「信玄」よりも遥かに巨大な領地を支配しており、最盛期には日本全国の4割以上(約28カ国)を支配していました。
対して「武田信玄」の支配領域は、最盛期でも「4~6カ国」程度でした。
信長が勢力拡大できた理由は、「軍の装備」を重視したからです。
武田軍の装備は古く、「鉄砲」という最新兵器が導入された「戦国時代後半」になっても、「騎馬軍団」や「歩兵」を主力とする軍団でした。
しかし「織田軍」は違います。
織田軍は「鉄砲」や「大砲」などの最新兵器を無数に装備していました。
「軍団の強さ」
「織田軍」と「武田軍」では、この「軍団の強さ」が、圧倒的に違ったのです。
織田信長は、日本最大の貿易都市「堺」を直接支配し、海外貿易をほぼ独占。
「鉄砲」を次々と輸入し、さらにはその鉄砲を国産化することに成功しています。
当時「鉄砲」を撃つために必要だった「火薬」は、海外からの輸入に頼りきりだったため、海外との窓口となっていた「貿易港」を持たない「武田信玄」には、「鉄砲」という最新兵器がつかえなかったのです。
武田信玄は、たしかに強かったのですが、それはあくまでも「一人の武将としての力量」でしかありません。
それに対して織田信長は、「軍団の強化」に全力を傾けたため、とてつもない強さの軍団をつくりあげることに成功します。
この「織田軍団と武田軍団の力の差」は、信玄が亡くなった2年後、【1575年】の「長篠の戦い」で明らかになります。
「鉄砲」という最新兵器を駆使した織田軍団は、それまで「戦国最強」と呼ばれた「武田騎馬軍団」を、一方的に粉砕してみせたのです。
この「長篠の戦い」における敗北は、「武田勝頼が愚将だったから」とよく言われていますが、もしも「武田信玄」が総大将であったとしても、真正面からぶつかったら、「武田軍団」に勝ち目はなかったと思います。(そもそも信玄なら、真正面からぶつかるような無謀な作戦は採用しないだろうが・・。)
この「長篠の戦い」で、「最強軍団」という地位は、「武田軍」から「織田軍」へと移ったのです。
織田信長は「武田信玄」に比べたら、たしかに「戦争が下手」です。
しかし、信長は「一度の戦いに勝利する」ための「戦術」よりも、「広く支配地域を拡大する」ための「戦略」を重視していたのです。
織田信長は「軍団を最新兵器でかためる」という戦略を取り、最強と呼ばれた「武田騎馬軍団」を撃破。
元最強軍団であった「武田騎馬軍団」を圧倒する、新たなる「戦国最強」の軍団をつくりあげたのでした。
武田信玄は「1戦」だけの局地戦には、無類の強さを誇っています。
対して「織田信長」は、「戦争」には弱いですが、「最新兵器を装備した軍団」をつくりあげたり、「経済」を活性化させて豊富な資金を獲得したりする、いわゆる「経営(戦略)」がとても上手だったのです。
「一つの戦場で一つの勝利」をあげることが、信玄の限界でした。
しかし織田信長は、「豊富な資金」と「強力な兵器」で、《明智光秀》や《羽柴秀吉》や《柴田勝家》など、信長が自らひきいて采配をふるっていない「部下の軍団」をも、次々と勝利に導くことが出来ました。
つまり信長は、「自分が采配を振るうことのない、部下がひきいる軍団をたくさん作り上げれば、その軍の数だけ勝利を重ねることができた」ということです。(信長は「方面軍」といって、戦争開始をそれぞれの方面軍の司令官にまかせ、自由に戦いをおこってよいとした)
これが「信玄」と「信長」の違いであり、「信玄よりも弱い信長が天下を取れた理由」であると考えられます。
「武田信玄」と「織田信長」が直接戦ったら、勝利するのは「武田信玄」でしょう。
しかし「天下取りレース」をやらせたら、「武田信玄」では「織田信長」には勝てません。
「織田信長」は、「一戦一戦」の細かい「戦術での勝利」は捨てても構わないから、「大局における戦略での勝利」を重視したのです。
「戦術」で敗北しても「戦略」で逆転できますが、「戦略」で敗北したら「戦術」では逆転できません。
「戦術の武田信玄」と「戦略の織田信長」。
織田信長が「天下取り」で「信玄」よりも上回れた理由は、この「戦術と戦略の差」にあるのだと思います。
そんな「織田信長」も、「天下統一」を目前にした【1582年】に「本能寺の変」で、方面軍司令官のひとり「明智光秀」に討たれるのです。
「軍団を任せて、戦争開始の決断すらも、方面軍司令官にまかせてしまった」ことが、裏目にでたのです。
「織田信長」と「長篠の戦い」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「【織田信長と長篠の戦いまとめ】鉄砲の嘘と戦法の真実を簡単に解説!」の記事はコチラ
「織田信長の政策」については、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」と「武田信玄」が直接戦ったら、まちがいなく「武田信玄」が勝利する。「戦争の上手さ」でいえば、「織田信長」よりも「武田信玄」のほうが圧倒的に上だった
2,「織田信長」が「武田信玄」との直接対決をさけた理由は、「織田信長」が「武田信玄」を恐れていたから。「自分は武田信玄には勝てない」ということを、織田信長は誰よりもよくわかっていたため、戦いを裂け続けた。
3,「織田信長」は「武田信玄」とは違い、「鉄砲」などの最新兵器を次々と導入して軍団を強化したため、信長が自分でひきいていない「部下の軍団」をも勝利に導くことが出来た。そのため、「羽柴秀吉」や「明智光秀」など、各地で無数の勝利を重ねることに成功し、「天下取り」に成功した。
以上となります。
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ありがとうございました。
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