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織田信長の呼び名や幼名について簡単解説!別名【三郎】に隠された真実

この記事では「織田信長」の「呼び名」や「幼名」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「織田信長が、なんと呼ばれていたのか」を、カンタンに理解できます。

 

「織田信長」は「吉法師」や「三郎」、または「上総介」や「右府」「右大将」などと呼ばれていたのです。


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この記事を短く言うと

 

1,「織田信長」の呼び名は何?

信長の呼び名は「三郎」や「上総介」など、生涯に複数あった。当時は「信長」という諱(いみな)で呼ぶことが「失礼なこと」とされていたので、「信長」と呼ばれることは、ほとんどなかった。

 

2,「信長」の呼び名は、どのように変化していったのか?

幼名「吉法師」から、通称「三郎」、そして官位官職の名前で呼ばれていたので、官位が上昇するたびに、呼び名が変わっていた。

 

3,「信長」の通称「三郎」とは、何を意味しているのか?

「三郎」とは「三男坊」を意味している。つまり信長は「織田信秀」の三男であり、兄が二人いた。信長の兄「織田信広」と「織田信時」は、ともに弟「信長」に仕えて、信長より先に戦死している。

「織田信長」の呼び名とは?「信長」と呼ぶことは失礼なことだった!

「織田信長」の呼び名は、いくつもあります。

  • 「三郎」
  • 「上総介」
  • 「尾張守」
  • 「弾正忠」

などなど。

 

「織田信長」が生きていた当時、「信長」と呼ばれることは、ほとんどなかったはずです。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

当時の風習として、人を「諱(いみな)」で呼ぶことは、とても失礼なことだったのです。

 

諱(いみな)とは、「織田信長」でいえば「信長」の部分です。

 

  • 「豊臣秀吉」の「秀吉」
  • 「明智光秀」の「光秀」

などが「諱」です。

 

戦国時代に、この「いみな」を呼んでしまうと、大変なことになるのです。

 

たとえば「徳川家康」が、「家康」という名前を呼ばれることは、失礼極まることでした。(両親または天皇・主君に諱を呼ばれることは、許されていた)

 

「諱(いみな)」を、「家」と「康」の2つに分断して、京都・方広寺の鐘(かね)に記した「方広寺鐘銘事件」が、その良い例でしょう。

 

「諱」を呼ぶばかりか、2つに分断した「方広寺鐘銘事件」がきっかけで、「大坂冬の陣」という戦争が起こったほどです。

 

それほど「諱」を呼ぶことは、失礼なことだったのです。

 

「方広寺鐘銘事件」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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信長の「呼び名」一覧!

「織田信長」の呼び名ですが、実は「時間とともに変化」しています。

 

どういうことでしょうか?

 

信長だけに限ったことではありませんが、当時の武将たちは、産まれるとまず「幼名」をつけられます。

 

そして「元服(成人)」するまでの間、その「幼名」で呼ばれることとなります。

 

元服(成人)すると、「通称」をつけられます。(通称とは、いわば「仮の名前」、つまりは「呼び名」のこと)

 

その後、出世して「官位・官職」を得ると、「通称」とあわせて、その「官位・官職名」で呼ばれるようになるのです。

 

信長の「呼び名(通称と官位官職)」を、以下に一覧でご紹介いたします。

 

  • 吉法師
  • 三郎
  • 上総守
  • 上総介
  • 尾張守
  • 弾正少忠
  • 弾正大弼
  • 参議
  • 権大納言・右近衛大将
  • 内大臣・右近衛大将
  • 右大臣・右近衛大将
  • 前右大臣


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信長は産まれてから元服するまでは、「吉法師(きちほうし)」という幼名で呼ばれていました。

 

元服したあとは、「三郎」という通称で呼ばれることになります。

 

つぎに「上総守(かずさのかみ)」殿と呼ばれ、その次は「上総介(かずさのすけ)」殿へ変わっていきます。

 

1560年】の「桶狭間の戦い」のあたりまで、信長は「上総介どの」と呼ばれていたのです。

 

その次は、「尾張守」殿や「弾正少忠(だんじょうしょうちゅう)」殿、または「弾正大弼(だんじょうのたいひつ)」殿へと、官位が変化するとともに、呼び名も変わっていくこととなるのです。

 

次に「参議(さんぎ)」殿や「大納言(だいなごん)」殿。

 

「内大臣」や「右大臣」のような高い位となってからは、それらの略称である「内府(ないふ)」殿、「右府(うふ)」殿と呼ばれていました。

 

「右近衛大将(うこのえのたいしょう)」という役職を略して、「右大将」殿と呼ばれることもあったはずです。

 

「右大臣・右近衛大将」を辞めたあとは「前右府(ぜんうふ・さきのうふ)」殿と呼ばれたと考えられます。

 

「信長の官位の移り変わり」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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織田信長の幼名「吉法師」に込められた願いとは?

「吉法師(きちほうし・きっぽうし)」とは、「織田信長」の幼名ですが、この名前には「魔除け」の意味があったと考えられます。

 

当時は、幼い子供には成人(元服)するまでの間、「幼名」をつける風習がありました。

 

この「幼名」には「丸」という文字をよく付けていたようです。

 

たとえば「伊達政宗」の幼名「梵天丸(ぼんてんまる)」、「徳川秀忠」の幼名「長(松)丸」など。

 

「丸」とは「お丸」、つまり「子供用のトイレ」という意味がありました。

 

昔は、乳幼児の死亡率がとても高く、その死因が「鬼」や「幽霊」など、目に見えない者の仕業であると考えられていました。

 

それら「鬼」や「悪鬼」など目に見えない「もののけ」と呼ばれる者たちは、「強烈な悪臭に弱い」と考えられていたのです。

 

そのため「お丸」の「丸」という字をつけて、悪鬼などの心霊的なものや、「ウイルス」などの当時は理解できないものを、追い払おうとしたのでしょう。



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「織田信長」の幼名には、「丸」がついていません。

 

その代わり「法師」という文字がつけられています。

 

織田信長の孫で、悲劇的な最期とむかえる武将「織田秀信」も、幼名は「三法師(さんほうし)」でした。

 

「法師」とは「僧侶」つまり「お坊さん」のことです。

 

お坊さんの呼び名である「法師」とつけて、魔除けとしたのでしょう。

 

信長の父「織田信秀」は、息子である「織田信長」が産まれたとき、健康に育ってくれるようにとの願いを込めて、「法師」の文字に「吉事がありますように」と、「吉法師」と名付けたのでしょう。

 

「織田信秀」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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「信長」の別名「三郎」に隠された意外な真実!信長は三男だった

織田信長の通称は「三郎」です。

 

れは「三男」につけられる名前なのです。

 

「織田信長」は、父「織田信秀」から家督を受け継いでいるので、「長男」だと思われがちですが、実際には兄が2人いました。

 

信長には「太郎」と「二郎」と名前がつけられた2人の兄がいたのです。

 

諸説あるものの、信長には「織田信広」と「織田信時」という、2人の兄がいました。

 

二人とも弟の「信長」の部下となって、「織田信広」は「長島一向一揆」で戦死し、「信時」も若くして戦死しています。

 

当時の「家督継承」には、「長男」かどうかよりも、「正室の子」か「側室の子」かが、とても大切な判断基準でした。

 

例えば「伊達政宗」は、長男「伊達秀宗」が側室の子であったため、家督を継承させませんでした。

 

次男で正室の子「忠宗」が、政宗のあとをついで、伊達家の当主となったのです。

 

鎌倉幕府の五代目執権「北条時頼」は、長男「北条時輔」に、三男につけられる通称「三郎」と名付けました。

 

そして次男で正室の子であった「北条時宗」に「太郎」と名付けて、後継者としたのです。(三男「北条宗政」が「二郎」)

 

当時は、母親が「正室」かどうかが、後継者となれるかどうかの、とても重要な判断基準だったのです。

 

ちなみに織田信長の後継者だった「織田信忠」は「側室の子」です。

 

「信忠」は、信長の正室「帰蝶(濃姫)」の子ではないにも関わらず、信長から家督をゆずられています。

 

なぜ「信忠」は、側室の子であるにもかかわらず、家督を継承できたのでしょうか?

 

その理由は簡単で、「信長の正室・帰蝶には子供がいなかったから」です。

 

ただ、織田信忠は「帰蝶」の養子となっています。

 

信長は、長男「信忠」を、正室「帰蝶」の養子とすることで、織田家の家督継承における「正当性」を高めたのだと考えられています。

 

「織田信長の子供たちや家系図」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「織田信長」の呼び名は、「三郎」や「上総介」など、生涯に複数あった。当時は「信長」という諱(いみな)で呼ぶことが「失礼なこと」とされていたので、「信長」と呼ばれることは、ほとんどなかった。

 

2,「信長」の呼び名は、幼名「吉法師」から、通称「三郎」、そして官位官職名で呼ばれていたので、官位が上昇するたびに、変わっていた。

 

3,「信長」の通称「三郎」とは「三男坊」を意味している。つまり信長は「織田信秀」の三男であり、兄が二人いた。信長の兄「織田信広」と「織田信時」は、ともに弟「信長」に仕えて、信長より先に戦死している。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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