明智秀満が南光坊天海になった説をカンタン解説!秀満の逸話がスゴイ

皆様は「明智秀満」と「南光坊天海」をご存知でしょうか?

実は「秀満と天海が同一人物である」という説があるのです。

筆者は「明智光秀と天海が同一人物」という説は知っていましたが、「秀満=天海」という説は、今回調査するまで全然知りませんでした。

この記事では「秀満=天海」説と、「明智秀満の逸話やエピソード」について、詳しく解説しております。

「明智秀満」について何もご存じない方も、大丈夫です。

これを読めば「秀満=天海」説と、「明智秀満のエピソード」について、誰かに解説することができるほど、詳しくなれます。

この記事によって、皆様の疑問がスッキリと解消されれば幸いです。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「明智秀満=南光坊天海」説とは、どういうものか?

「明智秀満」は【天正10年(1582年)6月14】に亡くなった名将。しかし実は生き延びて、「南光坊天海」と名乗り「徳川家康」に仕えたという説がある。【1615年】に「天海」は「大坂の陣」で豊臣家を滅ぼしている。

 

2,「明智秀満」とは何者なのか?

「明智秀満」とは「明智光秀」の重臣であり、別名「三宅弥平次」。「秀満」は「明智光秀」の長女の再婚相手で、「光秀」の女壻(むすめむこ)にあたる人物。数々の逸話・エピソードが残されている名将。

 

3,「明智秀満」と「南光坊天海」は、本当に同一人物なのだろうか?

「秀満」と「天海」が同一人物であるという説は、極めて可能性が低い。有名な「明智光秀と天海が同一人物」という説についても、最近おこなわれた筆跡鑑定では「別人である」との結論が出ている

目次

「明智秀満」が「南光坊天海」になった伝説をカンタンに解説

「戦国時代の名将『明智秀満』が『南光坊天海』と同一人物である」という説があります。

詳しくは後述しますが、「明智秀満」とは「明智光秀」の重臣だった武将です。

同時に「秀満」は、主君「光秀」の女壻(むすめむこ)でした。

そして「南光坊天海」とは、「徳川家康」に仕えた参謀です。

その伝説の概要は、以下のとおりです。

「明智秀満」は主君「光秀」とともに、【1582年】に「本能寺の変」を起こして「織田信長」を討ち取っています。

「光秀」は「本能寺の変」の11日後に戦死。「羽柴秀吉」に「山崎の戦い」で敗北して死亡しています。

主君の死を知った「明智秀満」は、居城の坂本城で自害。光秀の家族と一緒に亡くなったといわれています。

しかし、実は「秀満は逃げて生き延びた」という伝説があるのです。

逃げ延びた秀満は、「南光坊天海」と名を変えて「徳川家康」につかえたのだとか。

秀満の主君である《「明智光秀」が「南光坊天海」となった》という説のほうが、たしかに有名です。

ところが光秀ではなく《秀満が南光坊天海になった》という説も存在しているのです。

「南光坊天海」は「徳川家康」に参謀として仕えて、光秀が亡くなった【33年後】の【1615年】に、「大坂の陣」を引き起こしています。

この「大坂の陣」で、「家康」は「豊臣秀吉」の息子「秀頼」を討ち果たし、豊臣家を滅亡させています。


「豊臣秀頼」について詳しくは、以下のリンク記事で解説しております。

「豊臣秀頼の最後と発見された遺体!『生存説』と『天草四郎の父親説』」の記事はこちら


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「天海」と「秀満」が同一人物と噂されている『3つの理由』とは?

「天海」と「秀満」が同一人物ではないか?といわれている理由は3つあります。

  1. 「秀満」と「南光坊天海」の年齢が、ほぼ同じ
  2. 「秀満」は「明智光秀」の死後、僧侶に変装して逃げ延びたという伝説と、「馬の鞍(くら)」が残されている
  3. 「秀満」と「南光坊天海」は、ともに「三宅輪宝」という家紋を使っていた

「天海=秀満」の理由その①「生まれた年」

「南光坊天海」と「明智秀満」は、生まれた年がほとんど同じなのです。

「天海」は【1536年

「秀満」は【1535年】または【1537年

有名な「明智光秀と天海が同一人物」という説で考えてみると、年齢に無理が生まれてくるのです。

明智光秀は、「本能寺の変」が起こった【1582年】の時点で【55歳】または【67歳】です。

「南光坊天海」は【1643年】に亡くなっているので、「光秀=天海」ならば、実際の年齢は【116歳】または【128歳】で、現実離れしています。(とはいえ「秀満=天海」と考えても、100歳以上まで生きたことになる)

その「現実離れした状況」を無理やり説明するために「天海は、明智光秀とその息子・光慶が、親子二代で演じていた」という説もありますが、真実味に乏(とぼ)しいです。

「光秀=天海」に比べると「秀満=天海」と考えたほうが、説得力があるわけです。

それだけではありません。

秀満には不思議な「伝説」が残されているのです。


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「天海=秀満」の理由その②「秀満・生存伝説」

その伝説とは「秀満は逃げて生き延びていた」というものです。

秀満の主君である「光秀」は「本能寺の変」から11日後に「羽柴秀吉」に敗北し死亡。

秀満はその後、居城「坂本城」で「光秀」の家族を自害させて、ともに亡くなっています。

ところが「秀満は逃げのびた」という伝説が言い伝えられています。

「秀満」は炎上する坂本城を脱出し、光秀の妻「熙子(ひろこ)」が埋葬されている「西教寺」へ逃亡。

そこで僧侶の衣装に着替えて、「羽柴秀吉」の追跡から逃げきったというのです。

「西教寺」には、そのとき「秀満」が残していった「馬の鞍」が残されています。

果たして本当に、「明智秀満」は「南光坊天海」と同一人物なのでしょうか?

「南光坊天海」となった「秀満」は、「豊臣秀吉」とその子「秀頼」に復讐するために、無理やり「大坂の陣」を引き起こして、「豊臣家」を滅亡させた・・・とも考えられるわけですが・・・。

「天海=秀満」の理由その③「家紋・三宅輪宝」

最後に「秀満」と「天海」が使った「家紋」が同じ、という説があります。

「三宅輪宝」という家紋をご存知でしょうか?

適切な画像が見つかりませんでしたので、恐れ入りますが、以下に家紋が記された「広告」を貼らせていただきました。

この「三宅輪宝」という家紋を「南光坊天海」も、「秀満」が生まれた「三宅」家も使用していたのです。

 

どうやら天海は秀満の実家である「三宅氏」と同じ家紋、「三宅輪宝」を使用していたようです。

ちなみに

「明智光秀が使っていた桔梗紋が、徳川家康のお墓である日光東照宮に刻まれている」

という話しは有名ですが、どうやら「日光東照宮」に刻まれている家紋は、「桔梗紋」によく似た「木瓜紋(もっこうもん)」と「唐花紋」というもので、「桔梗紋」ではないようです。


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「秀満=天海」説が本当かどうか検証

「明智秀満」が生き延びて、「南光坊天海」になったという説は、本当なのでしょうか?

「光秀」が生きていて「天海」になったという説は有名ですが・・・

結論からいいますと、「明智秀満」が「南光坊天海」となったという説は、可能性が低いと思います。

あくまでも筆者の個人的な意見ですが、筆者は「秀満」と「天海」は、《まったくの別人》であると考えています。

理由は簡単です。

「本能寺の変」の直後に、「光秀」の家族がほとんど亡くなっているにもかかわらず、「明智秀満」だけが生き延びたとは、とても思えないからです。

それに加えて、こういった「生存説」が本当であったことなど、一度もありません。

源義経」も「真田幸村」も「豊臣秀頼」にも、そして「光秀」にも、悲劇的な最期を遂げた武将には、必ずと言っていいほど「生存説」が存在しています。

ところが、彼らが本当に生き延びたという証拠は、まったく残されていないのです。

「坂本城」で光秀の家族や自らの家族を自害させている「秀満」が、自分ひとりだけ逃亡などするでしょうか?

「秀満」と「天海」が同一人物という説は、可能性が低いでしょう。

天正10年(1582年)6月14日】に、「明智秀満」は間違いなく、亡くなっています。

ただし、秀満の息子は生き延びて、子孫を残したという説があります(くわしいことは後述いたします)


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「明智秀満」とは何者なのか?

「明智秀満」は、今から【約450年前】の戦国時代に活躍した武将です。

主君「明智光秀」の長女が、「秀満」に嫁いでいるのです。

つまり「秀満」は、主君「光秀」の女壻(むすめむこ)なのです。

《明智秀満》
「引用元ウィキペディアより」

秀満は「明智光秀」に仕えて、数々の功績を残した名将です。

  1. 斎藤利三
  2. 「明智光忠」
  3. 藤田伝五
  4. 「溝尾庄兵衛」

この4名と並び「明智五宿老」と呼ばれた「明智秀満」は、光秀の重臣であり、明智軍の実力者なのです。

実は「明智秀満」、とても謎の多い人物として有名です。

「明智光秀」の長女は、猛将「荒木村重」の息子「村次」に嫁いでいましたが、のちに離婚。

実家へ戻った「光秀の長女」その再婚相手が「秀満」です。

この「明智秀満」という人物、どういう素性の者なのか、ハッキリした資料がないため、わかりません。

名前は「秀満」ですが、一説によると最初は「三宅弥平次(みやけ やへいじ)」と名乗っていたとのこと。

その後「明智弥平次」と名乗りを変えています。

秀満は「明智左馬助(あけち さまのすけ)」という名前でも知られています。

くわしくは後述しますが「明智左馬助の湖水渡り」という伝説が、今も琵琶湖に残されています。

伝説によると「秀満」の幼名は「岩千代」。

その他にも

  • 「光俊(みつとし)」
  • 「光春」
  • 「光遠(みつとお)」

などと名乗ったともいわれています。


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秀満の出自は諸説あり、ハッキリとはしていません。

もっとも有名な説によると、「秀満」は「明智光秀」の「いとこ」であるといわれています。

「秀満」は光秀の叔父「明智光安」の息子というわけです。(「光安」は「明智光秀」の父「光綱」の弟といわれている)

2020年】の大河ドラマ「麒麟がくる」でも、「明智左馬助」は光秀の「いとこ」という設定になっています。

一説によると、美濃国から逃亡し越前国で生活していた「明智光秀」は、【1562年】に「明智秀満」とともに「一向一揆」と戦ったとされていますが、信憑性に乏しいともいわれています。(秀満が光秀に仕え始めたのは、もっと後のことと考えられている)

また別の説によると「明智秀満」は、「明智光秀」の家臣であった「三宅氏」の一族といわれています。

「三宅出雲守」という人物の息子であり、当初「三宅弥平次」と名乗っていたが、光秀の長女と結婚。そのとき「明智秀満」と改名したというのです。

または「美濃国の漆塗師の息子」という説もあるようです。

面白い説としては、「後醍醐天皇」に仕えて「足利尊氏」と戦った鎌倉時代の武将「児島高徳」の子孫が「明智秀満」であるというものがあります。

この「児島高徳の子孫という説」によると、「明智秀満」の父は「三宅徳置」という人物だそうです。

「児島高徳」とは、「鎌倉幕府」に敗北して、隠岐の島へ流罪になる「後醍醐天皇」に対し

「天(てん)勾践(こうせん)を空(むな)しうすること莫れ、時に范蠡(はんれい)の無きにしも非ず」

(天は、のちに覇者となった名君「越(えつ)の国王・句践」を見捨てずに、名宰相「范蠡」を与えました。
後醍醐天皇にも、必ずや「范蠡」のような忠臣が現れますので、どうか希望を捨てないで下さい)

という有名な漢詩をおくって励ました人物です。または歴史書「太平記」の作者ともいわれている人物です。

2020年】の大河ドラマ「麒麟がくる」の歴史考証を担当している歴史家「小和田哲男」先生は、「明智秀満」について

「光秀の『いとこ』ではなく、三宅氏の血を引く『三宅弥平次』だった」

という説が有力であると考えておられるようです。


「明智秀満」について詳しくは、以下のリンク記事で解説しております。

「明智秀満のすべてを徹底解説!子孫・家系図や甲冑の行方まで完全網羅」の記事はこちら


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「南光坊天海」とは何者なのか?

「南光坊天海」とは

  1. 初代将軍「徳川家康」
  2. 二代将軍「秀忠
  3. 三代将軍「家光

この徳川三代に仕えた参謀です。

いつ生まれたのかは諸説あり、ハッキリしていません。【1536年】に生まれたという説がもっとも有力です。

天海は【1643年】に亡くなっています。このとき、数え歳で【108歳】だったといわれています。

《南光坊天海》
「引用元ウィキペディアより」

南光坊天海は【1600年】の「関ヶ原の戦い」のあと、「徳川家康」に仕えています。

実はこの「南光坊天海」という人物、「秀満」と同じく、謎がとても多い人物なのです。

天海がいつ頃から「家康」の参謀となったのかは、ハッキリしていません。

それどころか「天海」がいつ、どこで生まれたのもわかっていません。

「陸奥国の会津」出身という説もありますが、前半生は全くと言ってよいほど不明。

埼玉県にある「喜多院」で住職を務めていた「天海」は、「家康」に招かれて参謀として活躍。

その頭脳を駆使して「徳川家」を支え、三代将軍「徳川家光」から絶大な信頼を得ていた人物です。

  1. 「陰陽道や風水を駆使して、江戸の都市計画をすすめた」
  2. 「徳川家康の死後、『東照大権現』という神号を提案した」
  3. 「上野・寛永寺を創建」

などなど、数々の功績を残しています。

ちなみに【2000年】の大河ドラマ「葵~徳川三代~」の「第27話・悲憤の開戦」では、この南光坊天海が「方広寺鐘銘事件」を引き起こし、「豊臣家」を滅亡に追い込むきっかけを作った、という設定になっています。


「方広寺鐘銘事件」について詳しくは、以下のリンク記事で解説しております。

「方広寺鐘銘事件をわかりやすく解説!家康の言いがかりの理由と読み方」の記事はコチラ


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明智秀満の「逸話・エピソード」一覧

ここでは「明智秀満」に残された「逸話・エピソード」をご紹介いたします。

障子の向こうで拝礼する律義者

歴史書「名将言行録」と「武辺咄聞書」のなかに、「明智秀満」の律儀さをあらわす逸話が記されています。

ある日、「明智光秀」のもとを、一人の若武者が訪れます。


「光秀」の三女「玉(のちの細川ガラシャ)」の夫である「細川忠興」です。(忠興は、光秀の盟友「細川藤孝」の息子)

忠興が光秀と部屋の中で会話していると、障子の向こうで何者かが床に手をついて、丁寧に拝礼して去っていきました。

「おそらく光秀の小姓(こしょう)だろう」

そう思いながらも、その丁寧な作法に感心した忠興は、光秀に向かって言います。

「お義父上の小姓は、とても律儀な者ですね。

部屋の前を通り過ぎるだけであるのに、まるで謁見するかのように拝礼していきました。」

すると、光秀はそれに応えます。

「あれは三宅弥平次(のちの明智秀満)です」

その者の顔すらも見ていない光秀は、至極当然であるかのように、拝礼した者の名前を言い当てたのでした。

光秀が、部屋の前を通り過ぎた者を呼びつけ、忠興がその名を尋ねると、光秀の言ったとおり「三宅弥平次」と名乗ったのでした。

忠興は「三宅弥平次の律儀さ」と「弥平次の律儀さを信頼しきっている光秀」、その両者に感心し、尊敬を深めたといわれています。

このエピソードは、光秀と秀満の人柄を物語るものとして、有名です。

ただし、「三宅弥平次」は「玉」が「細川忠興」に嫁ぐ際に、その護衛責任者を務めたともいわれています。

護衛責任者が、のちに小姓という身分へ降格したとすると、おかしな話になります。

この話しは創作か、または「玉」が「細川忠興」に嫁ぐ以前の話であると考えられます。


「細川藤孝」について詳しくは、以下のリンク記事で解説しております。

「細川藤孝のすべてを徹底解説!子孫・家系図や明智光秀との関係も紹介」の記事はコチラ


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「羽柴秀吉」との面会を拒絶した忠臣

織田信長から「丹波国」の攻略を命じられた明智光秀は、難攻不落の要塞地域「丹波国」攻略に見事成功。

光秀は「丹波・亀山城」に本拠地を置いていました。

するとそこへ、光秀の生涯において「最大のライバル」が尋ねてきたのです。


「羽柴秀吉」です。

秀吉を歓迎した光秀は、自らの家来たちを秀吉に紹介していきます。

「明智秀満」こと「三宅弥平次」は、病気を理由にして、この席に現れませんでした。

中国地方攻略の司令官に任命されていた「秀吉」は、長居することもなく光秀のもとを去ることとなります。

秀吉を城外まで見送った光秀が城へ戻ると、馬場で馬術の訓練をしている三宅弥平次を目撃します。(三宅弥平次《秀満》は馬術の達人だった)

仮病をつかった三宅弥平次に対して、光秀は激怒。

「織田家でも屈指の実力者である羽柴秀吉殿にお前を紹介し、お前の名前を広めようと思っていたのに、仮病をつかうとは言語道断である」

これに対して「三宅弥平次」は、毅然とした態度で反論します。

「他の武将や大名に名を知られることを喜ぶ武将は、主家が傾いたときのための士官先を確保したいという下心があるのです。

私は明智の家以外に仕えるつもりはありません。

そのため、羽柴様との面談をお断りしたのです。」

これに対して光秀はまったく反論できず、かえって三宅弥平次の忠誠心を知ることとなります。

また、この言葉を耳にした明智家の家来たちは、自らの下心を恥じて、さらなる忠誠心を抱くこととなります。

その後、三宅弥平次は光秀の長女を妻に迎えて「明智」の姓を与えられ、「明智秀満」と名乗ることとなるのです。

余談ですが、「武田信玄」に仕えた「武田四名臣」の一人「内藤昌秀(昌豊)」にも似たような逸話があります。

信玄は、副将格である「内藤昌秀」に対して、決して感状を与えようとしませんでした。(感状とは、功績を証明する賞状のようなもの)

信玄は感状を出さない理由について「昌秀ほどの者なら、手柄をたてて当然だから」と言っていました。

「昌秀」も「感状は他家へ仕える際に、その功績を証明するためにしか役に立たない」と言って、感状をもらえないことを気にしていなかったといいます。


「武田信玄の家臣団」について詳しくは、以下のリンク記事で解説しております。

「武田信玄の家臣団一覧!名臣・四天王の最期と最強の武将が誰か考察!」の記事はコチラ

「光秀の長女」を看護した逸話

明智光秀の長女(名前不明)は、光秀の同僚にあたる武将「荒木村重」の長男「村次」に嫁いでいました。

1578年】、その「荒木村重」が突然裏切り、「織田信長」に戦いを挑んだのです。

《荒木村重》
「引用元ウィキペディアより」

「明智光秀」は「荒木村重」を説得し、思いとどまらせようとしますが失敗。(このとき光秀は、「荒木村重」とともに信長を裏切っていた「中川清秀」や「高山右近」の説得に成功している)

「荒木村次」に嫁いでいた「光秀の長女」は、離縁されて実家に戻ることとなりました。

これが「光秀の長女」の悲劇の始まりでした。


彼女はその後、病で体調を崩し、寝込んでしまうことになります。

光秀は大切な長女を、もっとも信頼していた武将「三宅弥平次」に託し、病気療養をさせることとしました。

「三宅弥平次」は光秀の長女を手厚く看護し、彼女の体調も徐々に回復していきます。

娘が回復したことを喜んだ光秀は、「弥平次」を称賛。

その後「弥平次」は、この「光秀の長女」を妻として明智姓を与えられ「明智秀満」と名乗ることになります。

歴史家「小和田哲男」さんは、著書において「三宅弥平次」が「明智秀満」と改名したのは【1580~81年】頃と主張しておられました。

1578年】に離縁した「光秀の長女」が、体調を回復して再婚するまで【2~3年】の時間を要したことになります。

「光秀の長女」は【1582年】、「明智秀満」とともに坂本城で自害する運命をたどるのです。


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「信長の殺害」を光秀から相談される

1580年】、「織田信長」にとって最大のライバルだった「石山本願寺」がついに降伏。

このとき、織田家最大の軍団を率いていた実力者「佐久間信盛」が、職務怠慢を理由に信長によって追放されます。

《佐久間信盛》
「引用元ウィキペディアより」

「明智光秀」は「佐久間信盛」のあとを継いで、機内の織田軍団を率いることとなります。

これが「光秀」の絶頂であり、転落の始まりでした。


光秀の支配領域は、与力大名(応援部隊)の領地を合わせれば「240万石」。(ライバル「羽柴秀吉」の支配領域は「120万石」)

光秀は、名実ともに「織田家ナンバー1」の実力者となっていたのです。

ところが「光秀」は、人使いの荒い「織田信長」に対して怒りを募らせ、徐々に裏切りを考えるようになります。

信長は、自分が幼い頃から仕えてくれていた重臣「佐久間信盛」を、極めて冷酷に追放しています。

新参者の「光秀」も、いつかは身体一つで投げ出されかねないと恐れたのです。

その前に、信長を討ち、自ら天下を取ってしまおうというわけです。

1582年】、「光秀」は安土城を訪問した「徳川家康」の接待役に任命されます。

ところが、突如この接待役を解任され、中国地方司令官の「羽柴秀吉」に援軍に行けと命じられるのです。

この「羽柴秀吉の援軍に行け」という命令は、「秀吉の部下になれ」という、事実上の左遷命令でした。

激怒した光秀は、【天正10年(1582年)5月29日】に丹波亀山城において「明智秀満」に対して、《謀反》つまり「信長を裏切ること」について相談します。

秀満はこれに対して、全力で反対します。

ところが「光秀」はこのことを、秀満以外の「五宿老」にも相談してしまうのです。


「明智光秀の石高」について詳しくは、以下のリンク記事で解説しております。

「明智光秀の領地と石高をカンタン解説!動員兵力は2万人で重税だった」の記事はコチラ

「本能寺の変」で光秀の背中を押す「秀満」

「秀満」から謀反を相談された「明智五宿老」の残り4名は、以下の人物です。

  • 「斎藤利三」
  • 「明智光忠」
  • 「溝尾茂朝(庄兵衛)」
  • 「藤田伝五」

光秀から「織田信長討伐」の決意を聞かされた宿老たちは、光秀を説得して思いとどまらせようとします。

ところがその場にいた「秀満」は、驚くべきことを言い出します。


「秀満」は以前と主張を真逆に変えて、「断固として信長を討つべき」と主張したのです。

家臣たちの説得により、謀反を思いとどまろうとする光秀の背中を、以前とは違い、強く押したのでした。

秀満の説得により、「織田信長への謀反」を決定した明智軍団は、【天正10年(1582年)6月1日】、1万3千の軍を率いて丹波亀山城から「京都・本能寺」に向けて出発。

光秀は、突然意見を変えた「秀満」の変貌ぶりを怪しんで、なぜ意見を変えたかを尋ねます。

「私一人に秘密を打ち明けたのなら、私が黙っているだけで秘密は守られます。

しかし、他の宿老4名にまで話してしまった以上、いつの日にか必ず秘密が漏れて、信長公の耳に達することとなります

信長公に秘密が漏れたら、明智家はおしまいです。

宿老たちに話してしまった以上、もはや信長公を討つ以外に、明智家が生き延びる道はありません。」

秀満の言葉をもっともであると感じた光秀は、迷いを捨てて「信長討伐」の意志をかためます。

天正10年(1582年)6月2日早朝】、「本能寺の変」で「織田信長」は命を落とすこととなるのです。


「本能寺の変」について詳しくは、以下のリンク記事で解説しております。

「【本能寺の変】の謎や真相をすべて解説!黒幕や動機について完全網羅」の記事はコチラ

光秀のために「織田信長」の首を隠す

天正10年(1582年)6月2日】、「明智光秀」は「本能寺の変」を引き起こして、主君「織田信長」を討ち果たしてしまいます。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

明治時代に完成した「名将言行録」という書に、このときの「明智秀満」の行動が記されています。

明智秀満は、「本能寺の変」のとき、先陣を率いて本能寺へと攻撃を仕掛けました。

そのとき「並河金右衛門」という武将が、「織田信長の首と白い着物」を手に入れたといって、秀満のもとへ持ってきます。

しかし秀満は、この「信長の首」と「着物」を隠してしまうようにと、部下に指示したのです。

なぜそんなことをしたのかというと、そこには深い事情がありました。


「信長の首」と「着物」を手に入れた「並河金右衛門」は激怒します。

自らの手柄をなかったことにされかねないからです。

秀満は、並河金右衛門に対して、こう話しました。

「信長公が甲斐国の武田勝頼を討伐した際に、その首を足蹴にして罵倒し、人々からの憎しみを受けたことは知っているだろう。

もし今「光秀」様に、長年の恨みを抱く「信長」公の首を見せたら、必ず同じような醜態をさらすこととなるだろう。

そうなると後世の人々は、今回の信長討伐を『天下泰平のためではなく、己の恨みから信長を討った』と噂するだろう。

醜態をさらして、自らの大義を失ってからでは遅いので、今は首を隠すのだ」

秀満は「並河金右衛門」に対して、後日の恩賞を約束し、なんとか納得させることに成功したのでした。

余談ですが、信長が足蹴にした「武田勝頼」の首に対して、「徳川家康」は丁寧であわれみに満ちた態度を示しました。

そのため「武田勝頼」に仕えていた旧家臣団は、家康に深い恩を感じるようになります。

武田家臣団は後に「家康」に仕え、家康の天下取りに大きく貢献したのでした。


「織田信長の首」について詳しくは、以下のリンク記事で解説しております。

「織田信長の遺体の行方を調査!実は謎でも行方不明でもなかった」の記事はコチラ

「織田信長のお墓の場所を全部ご紹介!京都・高野山などに複数ある理由」の記事はコチラ


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「安土城」攻略のための水上戦

「本能寺の変」で「織田信長」を討伐した「明智光秀」は、「秀満」に安土城攻略を命じます。

秀満は京都「本能寺」から、近江国(滋賀県)にある「安土城」を目指して出陣します。

《安土城》
「引用元ウィキペディアより」

ところが、途中にあった「瀬田城」の城主「山岡景隆」が、妨害工作を開始します。

「山岡景隆」は、京都から安土城までの道のりにある「瀬田の唐橋」という唯一の橋を破壊。

秀満は「安土城」へ向かうことができなくなったのです。

2020年】、滋賀県大津市の「石山寺」から、一つの書状がみつかりました。


そこには「明智秀満」が「本能寺の変」の直後に、「山岡景隆」を相手に、琵琶湖で水上戦を戦ったと記されていました。

「秀満」は、瀬田の唐橋を破壊されてしまったため、陸路で京都から近江国へ行くことができなくなっていました。

そのため船をつかって琵琶湖を渡り、安土城を目指したのです。

すると「山岡景隆」が、同じく水軍を率いてこれを迎撃。

「秀満」は、なんとかこれを追い払い、安土城を占領することに成功したのです。

ところが、「本能寺の変」からわずか11日後に驚くべきことが起こります。

天正10年(1582年)6月13日】、「明智光秀」が「羽柴秀吉」との「山崎の戦い」に敗北して戦死したのです。

それを知った「秀満」は、翌日【6月14日】に、安土城を捨てて、光秀の本拠地「坂本城」へ退却。

さらにその翌日【6月15日】、安土城は「織田信長」の次男「織田信雄」に占拠され、失火が原因で全焼してしまうのでした。

伝説「左馬助の湖水渡り」

「明智秀満」には「湖水渡り」という有名な伝説が残っています。

安土城を捨てて坂本城へ向かった「秀満」でしたが、坂本城はすでに「羽柴秀吉」の軍に包囲されていました。

少数の部隊のみを率いていた秀満は、秀吉軍と戦い敗北。

《明智秀満》
「引用元ウィキペディアより」

敗北し、湖に追い込まれた「秀満」は、とんでもない行動に出たのです


なんと馬に乗ったまま、琵琶湖へ入っていったのです。

坂本城は琵琶湖に面した城だったので、湖から泳いで渡るしか城に入る方法がありませんでした。

堀秀政の軍は、明智秀満が湖を泳ぐ姿を見物し、「すぐに溺れ死ぬ」とたかをくくっていました。

しかし琵琶湖の浅瀬を知り尽くし、更には馬術の達人だった秀満は、無事に湖をわたることに成功。

「唐崎浜」という場所に無事たどり着いたのです。

その後、秀満は「十王堂」という寺に到着すると、乗っていた馬を降りて、なにやら札に書き記したのです。

「この馬、明智左馬助が湖水渡りの名馬なり」

その札をたてがみに縛り付けた後、秀満は愛馬と別れ、坂本城へ入城。

現在も「左馬助の湖水渡り」と記された碑が、琵琶湖のほとりに建てられています。

この「秀満の愛馬」は、後に「羽柴秀吉」の愛馬となって「あけぼの」と名付けられました。

翌年の【1583年】、秀吉はこの「あけぼの」に乗って「柴田勝家」との「賤ヶ岳の戦い」に挑みます。

秀吉は山岳地帯の「賤ヶ岳の戦い」へ向かう際、名馬「あけぼの」に乗って山の悪路を走る抜けることに成功。

見事に「柴田勝家」の軍団を撃破したのでした。

実はこの「湖水渡り」の逸話は、後世の創作です。

秀満は湖を渡ったわけではなく、大津の町と琵琶湖の間にあった裏道を、馬で駆け抜けただけと考えられています。

坂本城にあった秘密の裏道を、秀満は知り尽くしていたのでしょう。


「柴田勝家」について詳しくは、以下のリンク記事で解説しております。

「柴田勝家のすべてを徹底解説!家紋や[お市の方]との関係まで完全網羅」の記事はコチラ


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坂本城の宝物を「堀秀政」に託す

織田信長の部下だった「堀秀政」の軍団に攻められ、坂本城は落城寸前に追い込まれました。

死を前にした「秀満」は、「明智光秀」が秘蔵していた家宝「不動国行の太刀」「吉光の脇差」「虚堂の墨蹟」やその他の「茶道具」などを、目録をつけて「堀秀政」に引き渡したのでした。

落城の際に、通常は「家宝」を敵の手に渡さないよう、灰にしてしまうのが常套手段でした。

名将「松永久秀」は、「明智光秀」に追いつめられた際に、信長が欲しがっていた名茶器「平蜘蛛の茶釜」を粉々にして自害したといわれています。

《松永久秀》
「引用元ウィキペディアより」

秀満から家宝を受け取った「堀秀政」は、秀満の最期の武者振りに感銘をうけます。

ところが「堀秀政」は、目録を見て首をひねります。


その目録には、光秀が所有していたことで有名な「郷義弘の脇差」が記されていなかったのです。

不思議に思った「堀秀政」は、「郷義弘の脇差」について、「秀満」に尋ねます。

「この『郷義弘の脇差』は、主君『明智光秀』秘蔵の名刀。

そのため、死後の世界で刀を光秀に渡さなくてはならないので、秀満自らの腰に差していかなくてはならない」

と言い残したのでした。


「松永久秀」について詳しくは、以下のリンク記事で解説しております。

「松永久秀のすべてを徹底解説!子孫・家系図や家紋に茶器まで完全網羅」の記事はコチラ

最期!革袋の金三百両

これは「武家事紀」という書に記された逸話です。

坂本城攻略戦の際に、羽柴軍の中で坂本城一番乗りを果たそうとした武士がいました。

「入江長兵衛(いりえ ちょうべえ)」という武士です。

秀満はこの「入江長兵衛」と、以前からの知り合いでした。

乱戦の中で「入江」を見つけた「秀満」は、こんな言葉をかけています。


「あなたは入江殿ではありませんか。

こんなところでお目にかかるとは、何かのご縁があるのでしょう。

本日を最期に死ぬ私の言葉を、あなたに聞いていただきたい。」

長兵衛が「何の用だ」と尋ねると、秀満は応えます。

「今、私が持っているこの鉄砲で、あなたを射殺するのは簡単だ。

しかし、一番乗りを志して突き進むあなたの勇気に免じて、それはやめておこう。

私は若い頃から、敵を攻めれば一番乗り、退却の時は殿(しんがり)をすべきであることを心情として、自らの武名をあげることのみを励みとしてきた。

その理由は、我が身を危険にさらしてでも、私の子孫が栄達するようにと願っての事だった。

その結果はどうであろうか。

天は私を見放し、この命は風前の灯火だ。

生涯、数えきれないほどの危機と修羅場をくぐり抜け、困難に打ち勝っても、結局はこの通りなのだ」

と、秀満は静かに語ったのでした。

「入江殿、あなたも我が身をかえりみてみるがよい。

あなたも、いずれその勇気の甲斐もなく、私と同じように追いつめられる運命にある。

なぜなら、あなたが武士であるからだ。

命をかけて功名を求め、危機と戦乱を自ら求める武士という生き物だからだ。

武士を辞めて、平穏無事な一生を送られたほうが良いとは思わないか」

と述べたのでした。

秀満は「武士とはむなしい生き物だ」としみじみと語り、旧友の生命を惜しんだのです。

そして秀満は、最期の話を聞いてくれた友に対して「300両の黄金が入った革袋」を投げ与えたのです。

これは、最期の言葉に耳を傾けてくれた友への、最期の餞別・贈り物だったのでしょう。

天正10年(1582年)6月14日】、秀満は主君「光秀」の家族を刺し殺し、自らの妻である「光秀の長女」とともに自害。

秀満の死後、「入江長兵衛」は武士をやめて、旧友「秀満」からもらった黄金300両を元手にして商売を開始。

商人となった「入江長兵衛」は、成功して膨大な富を残したと伝えられています。


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「秀満」の死を惜しんだ羽柴秀吉

坂本城の落城と「秀満」の死を知った「羽柴秀吉」は、その死をとても悲しんだと言われています。

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」

「猛将・明智秀満のことだから、坂本城攻略戦は激戦になるだろうと思っていた。

ところが秀満は、明智家の宝物をいさぎよく明け渡し、犠牲も少数で済んだ。

秀満の手腕、見事と言わざるを得ないだろう」

そして、「秀満」が主君「光秀」の将来を心配し、討ち取った「信長」の首を隠してしまったことを耳にした「秀吉」は、その態度をさらに褒めたたえたのでした。

秀吉は、こう言っています。


「明智光秀が、大恩ある織田信長公を裏切り、討ち果たしてしまったことは、憎むべき大罪である。

しかし、もしも信長公に、光秀が秀満を思いやったような『家来を思いやる心』があったなら

もしも光秀に、秀満がもっていたような『主君を思いやる心』があったなら

この度のような謀反はおこらなかっただろう。

惜しんでも惜しむべき武士たちであった」

翌年【1583年】の「賤ヶ岳の戦い」に勝利した秀吉は、織田家を完全に乗っ取ることに成功。

1590年】、主君「織田信長」が果たせなかった天下統一を成し遂げます。

「応仁の乱」から【100年】も続いた「戦国時代」という内戦の時代は、こうして終わったのでした。


「豊臣秀吉」について詳しくは、以下のリンク記事で解説しております。

「豊臣秀吉の天下統一までの道を解説!農民が偉業達成できた3つの理由」の記事はコチラ


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「明智光秀」が「南光坊天海」となった説をカンタン解説

ここでは「明智光秀が南光坊天海となって生き延びた説」について、簡単に解説いたします。

「明智光秀」と「天海」の同一人物説とは?

「秀満が南光坊天海となって生き延びた説」については、先程解説いたしました。

しかし「秀満」ではなく、その義父である「光秀」のほうが「天海」となった説のほうが圧倒的に有名です。

天正10年(1582年)6月13日】、「明智光秀」は「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」に敗北し、戦死しています。

しかし実は、「光秀」は死んでおらず、僧侶となって生き延びていたというのです。

詳しくは、以下のとおりです。


逃げ延びた光秀は「南光坊天海」と名を改めて「徳川家康」に仕えます。

そして自らの一族を死に追いやった「豊臣秀吉」に復讐を開始。

後世に「方広寺鐘銘事件」と呼ばれる言いがかりをつけて、【1615年】、「大坂夏の陣」を引き起こし、「豊臣秀頼」を討伐した・・・。

これが「明智光秀が南光坊天海になった説」の概要です。

次に「光秀=天海」という説が唱えられた根拠を解説いたします。

比叡山に寄進された石碑

比叡山には、以下のような記録が残っています。

俗名を『光秀』という僧侶がいた

その比叡山には「光秀」という人物が寄進した「石碑」があるのです。

しかも寄進されたのは、「明智光秀」が亡くなった【1582年】よりも後なのです。

これを「光秀は、山崎の戦いで死なずに、生き延びていた」ことの証拠と考える人もいるようです。


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「春日局」と「南光坊天海」の会話

「南光坊天海」は、家康の孫である三代将軍「徳川家光」から、絶大な信頼をよせられた人物です。

その「徳川家光」を育てたのが、家光の乳母(めのと・教育係)だった「春日局(かすがのつぼね)」こと「お福」です。

《春日局》
「引用元ウィキペディアより」

「春日局」と「南光坊天海」が初めて対面したときの会話が記録に残っています。

そのとき「春日局」は、不思議な言葉を口にしているのです。


「お久しぶりです」

「春日局」は初対面であったはずの「天海」に対して、丁寧にお辞儀しながら「お久しぶりです」と言ったのです。

実は「春日局」、「明智光秀」につかえた「明智五宿老」のひとり「斎藤利三」の娘なのです。

「斎藤利三」の娘ならば、「明智光秀」と面識があったはずです。

「天海」が「明智光秀」と同一人物ならば、「春日局」が「お久しぶりです」と口にしたのも、納得がいきます。

余談ですが、「徳川家光」の息子で四代将軍「家綱」の乳母は「三沢局」という女性です。

この「三沢局」の祖父が、「溝尾茂朝(溝尾庄兵衛)」であるといわれています。

「溝尾茂朝」は、「斎藤利三」や「明智秀満」と同じく、明智五宿老の一人だった人物です。

また「徳川家光」の「光」という一文字は、「明智光秀」の「光」の一字をもらったものだ、という説があります。

「光」の字は、「明智光秀」の先祖にあたる「源頼光」から受け継がれた文字であると考えられます。


「斎藤利三」について詳しくは、以下のリンク記事で解説しております。

「斎藤利三の全てを徹底解説!子孫・家系図や春日局との関係も完全網羅」の記事はコチラ

「日光東照宮の桔梗紋」と「明智平」

「徳川家康」のお墓「日光東照宮」周辺には、「明智光秀」を思わせるものがいくつも存在しております。

「日光東照宮」の門の一つ「陽明門」の脇を守る木像には、「明智光秀」がつかった家紋「桔梗紋」が刻まれているといわれています。

《桔梗紋》
「引用元ウィキペディアより」

それだけではありません。

もう一つ、「明智光秀」と「南光坊天海」をつなげる物があるのです。


「日光東照宮」の近くに「明智平」という場所があります。

この「明智平」は、「南光坊天海」が名付けた場所といわれています。

「明智の名を残すため」

という理由で、天海は「明智平」と名付けたといいます。

いきなりネタバレしてしまいますが、この「明智平の逸話」は、後世の創作です。

「明智平」と名付けられたのは、近年のことです。

「昔の地図に『明智平』と記されたものは一つもない」

と、「明智光秀」の子孫を自称する作家「明智憲三郎」さんがおっしゃっておられました。

つまり「明智平」と名付けたのは「天海」ではないということです。

そして、「日光東照宮・陽明門」の「桔梗紋」ですが、先程も申しましたが、刻まれているのは「桔梗紋」によく似た「木瓜紋」ですので、「桔梗紋」ではないのです。


「桔梗紋」について詳しくは、以下のリンク記事で解説しております。

「明智光秀の家紋・桔梗紋の意味と読み方とは?日光東照宮に刻まれた理由」の記事はコチラ


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光秀と天海の「筆跡鑑定」

「明智光秀」と「南光坊天海」が同一人物なのかどうかを調査するため、とあるテレビ番組で、二人の筆跡鑑定が行われたことがありました。

数年前の筆跡鑑定では「両者は同一人物、または近親者である可能性が高い」という結果がでていました。

しかし【2020年5月11日】に放送されたフジテレビ系「所japan」という番組では、まったく別の結果が出たのです。


この「所japan」という番組で、東京大学による「南光坊天海」と「明智光秀」の筆跡鑑定が行われました。すると

「天海と明智光秀は、まったくの別人である」

という結果が出たのです。

そもそも一度目の筆跡鑑定で出された「同一人物か近親者」という結果ですが、考えてみるとおかしな話です。

筆跡から「近親者」なんてことがわかるものなのかどうか・・・。

読み書きを教えられた師弟や親子ならば、筆跡が似ることもあるのでしょうけれども、やはりおかしいな結果だと思います。


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「明智光秀=南光坊天海」説が初めて唱えられたのは、いつ?

「光秀=天海」という説が初めて唱えられたのは、今から【約100年前】のことです。

《明智光秀の肖像画》「本徳寺」所蔵
「引用元ウィキペディアより」

1916年(大正5年)】、新聞記者「須藤光暉」という人が「天海は蘆名盛高の一族出身」という内容の伝記を発表しています。

その伝記の中で、「須藤」氏は、こう言っています。


「明智光秀が南光坊天海となり、豊臣家を滅亡させて、一族を滅ぼされた恨みを晴らした」という説を唱えるものがいる

つまり「光秀=天海」という説が初めて世に広まったのは、【1916年(大正5年)】ということです。

この記述を読んでみると、「光秀=天海」説は【1916年(大正5年)】以前から、口コミで人々に長く噂されていたことのようです。

一説によると、「明智光秀」は「山崎の戦い」で敗北した後、「妙心寺」という寺へたどり着いたといわれています。

「妙心寺」の住職「玄琳」は、のちに「南国梵桂」と名乗って、大阪府岸和田市の「本徳寺」を開いたという逸話があります。

この「玄琳」こそ、「明智光秀」の長男「光慶」だといわれています。

「妙心寺」には蒸し風呂があるのですが、通称「明智風呂」と呼ばれています。

そして「南国梵桂」が開いた「本徳寺」には、教科書にも登場する有名な「明智光秀の肖像画」が所蔵されています。

この肖像画は「岸和田城・天守閣」でレプリカが一般公開されています。


「明智光秀と天海」について詳しくは、以下のリンク記事で解説しております。

「明智光秀と天海の同一人物説を検証!光秀は天海となり豊臣家へ復讐?」の記事はコチラ

「明智秀満」の息子・子孫のゆくえ!「坂本龍馬」は「秀満」の子孫?

「明智秀満」と「光秀の長女」の間には、男の子供がいたといわれています。

その名前は「三宅重利(みやけ しげとし)

この「三宅重利」は、子孫を残しているのです。

その一方で、壮絶な最期を遂げています。


「明智秀満」には、二人の子供がおり、密かに生き延びていたという伝承があります。

そのうちの一人が「三宅重利」です。

「三宅重利」は、母親の妹(叔母)で、「細川忠興」の妻「細川ガラシャ」の縁を頼って細川家に仕えたとのことです。

その後、「重利」は唐津藩主「寺沢広高」とその息子「寺沢堅高」に仕えています。

出世を果たした「三宅重利」は、【富岡城代1万500石】を領有する身分になっています。

ところが、ここから「三宅重利」の転落がはじまります。

「寺沢堅高」が支配した唐津藩には、キリシタン宗徒が多く、しかも税率が高かったため、【1637年】に「島原の乱」が勃発。

天草四郎時貞」を頭目とするキリシタン宗徒は、幕府軍の「板倉重昌」や「松平信綱」を相手に奮戦。(「天草四郎時貞」は、「豊臣秀頼」の息子を自称していた)

この戦いで「三宅重利」は反乱軍に敗北し戦死。首をさらされるという最期を遂げたのです。

三宅重利の妻は、「妻木範煕の娘」といわれています。

妻との間には4人の子があり

  1. 三宅重元(藤右衛門)
  2. 重信(吉田庄之助)
  3. 重豊(加右衛門)
  4. 重行(信兵衛)

この子供たちの子孫が今も続いているかもしれませんが、詳細は不明です。

もう一つ、秀満の子孫の伝承が残されています。

「明智秀満の息子が四国・長宗我部氏を頼って落ち延びた」

と言われているのです。

「長宗我部氏」は、光秀の家来「斎藤利三」の親類です。

秀満の子は、そこで光秀の本拠地「坂本城」の名前をとって「坂本」と名乗ったのだとか。

その「秀満」の子孫にあたるのが幕末の英雄「坂本龍馬」だというのです。

信憑性に乏しいとは想いますが、「坂本龍馬」は自分のことを「明智光秀の子孫である」と自称していたそうです。

龍馬が設立した日本最初の会社「亀山社中」も、光秀の本拠地「丹波亀山城」からその名前をとったといわれています。


「坂本龍馬」について詳しくは、以下のリンク記事で解説しております。

「坂本龍馬が明智光秀の子孫説を検証!2人は似たような業績を残してる」の記事はコチラ


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「明智秀満=南光坊天海」説とは、どういうものか?

「明智秀満」は【天正10年(1582年)6月14】に亡くなった名将。しかし実は生き延びて、「南光坊天海」と名乗り「徳川家康」に仕えたという説が残されている。【1615年】に「天海」は「大坂の陣」で豊臣家を滅ぼしている。

 

2,「明智秀満」とは何者なのか?

「明智秀満」は、別名「三宅弥平次」。「秀満」は「明智光秀」の長女の再婚相手であり、「光秀」の女壻(むすめむこ)にあたる人物。数々の逸話・エピソードが残されている名将。

 

3,「明智秀満」と「南光坊天海」は、本当に同一人物なのだろうか?

「秀満」と「天海」が同一人物である説は、極めて可能性が低い。有名な「明智光秀と天海が同一人物」という説についても、最近おこなわれた筆跡鑑定で「光秀と天海は別人」との結論が出ている

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

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