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明智秀満が南光坊天海になった説をカンタン解説!秀満の逸話がスゴイ

皆様は明智秀満あけちひでみつ南光坊天海なんこうぼうてんかいをご存知でしょうか?

 

実は秀満と天海が同一人物であるという説があるのです。

 

筆者は明智光秀と天海が同一人物という説は知っていましたが、秀満=天海という説は、今回調査するまで全然知りませんでした。

 

この記事では秀満=天海説とについて、詳しく解説しております。

 

秀満=天海について何もご存じない方も、大丈夫です。

 

これを読めば秀満=天海説、誰かに解説することができるほど、詳しくなれます。

 

この記事によって、皆様の疑問がスッキリと解消されれば幸いです。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,明智秀満=南光坊天海説とは、どういうものか?

明智秀満は【天正10年(1582年)6月14】に亡くなった名将。しかし実は生き延びて、南光坊天海と名乗り徳川家康とくがわいえやすに部下としてつかえたという説がある。【1615年】に天海は大坂の陣で豊臣家を滅ぼしている。

 

 

2,明智秀満とは何者なのか?

明智秀満とは明智光秀の重臣であり、別名・三宅弥平次みやけやへいじ。秀満は明智光秀の長女の再婚相手で、光秀の女壻むすめむこにあたる人物。

 

 

3,明智秀満と南光坊天海は、本当に同一人物なのだろうか?

秀満と天海が同一人物であるという説は、極めて可能性が低い。有名な明智光秀と天海が同一人物という説についても、最近おこなわれた筆跡鑑定では別人であるとの結論が出ている

目次

明智秀満が南光坊天海になった伝説をカンタンに解説

戦国時代の名将・明智秀満が南光坊天海と同一人物であるという説があります。

 

明智秀満とは明智光秀あけちみつひでの重臣だった武将です。

《明智秀満》
「引用元ウィキペディアより」

秀満は、主君・光秀の女壻むすめむこでした。

 

もともと明智秀満は、三宅弥平次みやけやへいじと名乗っていたと考えられています。

 

そして南光坊天海とは、徳川家康に仕えた参謀です。

 

その伝説の概要は、以下のとおりです。

 

明智秀満は主君・光秀とともに、【1582年】に本能寺ほんのうじの変を起こして織田信長を討ち取っています。

 

光秀は本能寺の変の11日後に戦死。羽柴秀吉はしばひでよしに山崎の戦いで敗北して死亡しています。

京都市・明智光秀の首塚

主君の死を知った明智秀満は、居城の坂本城で自害。光秀の家族と一緒に亡くなったといわれています。

 

しかし、実は秀満は逃げて生き延びたという伝説があるのです。

 

逃げ延びた秀満は、南光坊天海と名を変えて徳川家康に部下としてつかえたのだとか。

 

秀満の主君である明智光秀が南光坊天海となったという説のほうが、たしかに有名です。

 

ところが光秀ではなく、秀満が南光坊天海になったという説も存在しているのです。

 

南光坊天海は徳川家康に参謀としてつかえて、光秀が亡くなった【33年後】の【1615年】に、大坂の陣を引き起こしています。

 

この大坂の陣で、家康は豊臣秀吉の息子・秀頼ひでよりを討ち果たし、豊臣家を滅亡させています。

 

→→→→→【豊臣秀頼の最期とご遺体のゆくえ】についてくわしくはこちら

 


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天海と秀満が同一人物と噂されている3つの理由とは?

天海と秀満が同一人物ではないか?といわれている理由は3つあります。

 

  1. 秀満と南光坊天海の年齢が、ほぼ同じ
  2. 秀満は明智光秀の死後、僧侶に変装して逃げ延びたという伝説と、馬のくらが残されている
  3. 秀満と南光坊天海は、ともに三宅輪宝という家紋を使っていた

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天海=秀満の理由その①生まれた年

南光坊天海と明智秀満は、生まれた年がほとんど同じなのです。

 

天海は【1536年】

 

秀満は【1535年】または【1537年】

 

有名な明智光秀と天海が同一人物という説で考えてみると、年齢に無理が生まれてくるのです。

 

明智光秀は、本能寺の変が起こった【1582年】の時点で【55歳】または【67歳】です。

 

南光坊天海は【1643年】に亡くなっているので、光秀=天海ならば、実際の年齢は【116歳】または【128歳】で、現実離れしています。(とはいえ秀満=天海と考えても、100歳以上まで生きたことになる)

 

その現実離れした状況を無理やり説明するために、天海は明智光秀とその息子・光慶が、親子二代で演じていた、という説もありますが、真実味にとぼしいです。

 

光秀=天海に比べると秀満=天海と考えたほうが、説得力があるわけです。

 

それだけではありません。

 

秀満には不思議な伝説が残されているのです。


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天海=秀満の理由その②秀満・生存伝説

伝説とは、秀満は主君の明智光秀とともに死んではおらず、逃げて生き延びていたというものです。

 

秀満の主君である光秀は、本能寺の変から11日後に羽柴秀吉に敗北し死亡。

 

秀満はその後、光秀が住んでいた城・坂本城で、光秀の家族を自害させて、ともに亡くなっています。

 

ところが、秀満は逃げのびたという伝説が言い伝えられています。

 

秀満は炎上する坂本城を脱出し、光秀の妻・熙子ひろこが埋葬されている西教寺さいきょうじへ逃亡。

 

そこで僧侶の衣装に着替えて、羽柴秀吉の追跡から逃げきったというのです。

 

西教寺には、そのとき秀満が残していった馬の鞍が残されています。

 

果たして本当に、明智秀満は南光坊天海と同一人物なのでしょうか?

 

南光坊天海となった秀満は、豊臣秀吉とその子・秀頼に復讐するために、無理やり大坂の陣を引き起こして、豊臣家を滅亡させた・・・とも考えられるわけですが・・・。


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天海=秀満の理由その③家紋・三宅輪宝

最後に秀満と天海が使った家紋が同じ、という説があります。

 

三宅輪宝みやけりんぼうという家紋をご存知でしょうか?

 

適切な画像が見つかりませんでしたので、恐れ入りますが、以下に家紋が記された広告を貼らせていただきました。

 

この三宅輪宝という家紋を南光坊天海も、秀満が生まれた三宅家も使用していたのです

 

どうやら天海は秀満の実家である三宅みやけ氏と同じ家紋、三宅輪宝みやけりんぼうを使用していたようです。

 

ちなみに

 

「明智光秀が使っていた桔梗紋ききょうもんが、徳川家康のお墓である日光東照宮にっこうとうしょうぐうに刻まれている」

 

という話しは有名ですが、どうやら日光東照宮に刻まれている家紋は、桔梗紋によく似た木瓜紋もっこうもん唐花紋からはなもんというもので、桔梗紋ではないようです。


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秀満=天海説が本当かどうかを検証

明智秀満が生き延びて、南光坊天海になったという説は、本当なのでしょうか?

 

光秀が生きていて天海になったという説は有名ですが・・・。

 

結論からいいますと、明智秀満が南光坊天海となったという説は、可能性が低いと思います。

 

あくまでも筆者の個人的な意見ですが、筆者は秀満と天海は、まったくの別人であると考えています。

 

理由は簡単です。

 

本能寺の変の直後に、光秀の家族がほとんど亡くなっているにもかかわらず、明智秀満だけが生き延びたとは、とても思えないからです。

 

それに加えて、こういった生存説が本当であったことなど、一度もありません。

 

源義経も真田幸村も豊臣秀頼にも、そして光秀にも、悲劇的な最期を遂げた武将には、必ずと言っていいほど生存説が存在しています。

 

ところが、彼らが本当に生き延びたという証拠は、まったく残されていないのです。

 

坂本城で光秀の家族や自らの家族を自害させている秀満が、自分ひとりだけ逃亡などするでしょうか?

 

秀満と天海が同一人物という説は、可能性が低いでしょう。

 

【天正10年(1582年)6月14日】に、明智秀満は間違いなく、亡くなっています。

 

ただし、秀満の息子は生き延びて、子孫を残したという説があります(くわしいことは後述いたします)


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明智秀満とは何者なのか?

明智秀満は、今から【約450年前】の戦国時代に活躍した武将です。

 

主君・明智光秀の長女が、秀満に嫁いでいるのです。

 

つまり秀満は、主君光秀の女壻むすめむこなのです。

《明智秀満》
「引用元ウィキペディアより」

もともと明智秀満は、三宅弥平次みやけやへいじという名前だったと考えられています。

 

ところが、その武勇を明智光秀に見込まれて、自分の長女の再婚相手として指名されたのです。

 

もともと光秀の長女は、荒木村重あらきむらしげという武将の息子・村次むらつぐに嫁いでいました。

 

しかし荒木村重・村次の親子は、明智光秀と敵対したため、村次と光秀の長女は離婚したのです。

 

その再婚相手が「明智秀満」。

 

秀満は、数々の武勇伝を残した名将なのです。

 

→→→→→【明智秀満のすべて】についてくわしくはこちら

 


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南光坊天海とは何者なのか?

南光坊天海とは、徳川家康から家光まで、三代にわたって徳川家に参謀としてつかえた謎の僧侶です。

 

南光坊天海とは、いったい何者なのでしょうか?

 

  1. 初代将軍・徳川家康
  2. 二代将軍・秀忠
  3. 三代将軍・家光

 

この徳川三代に部下として仕えた参謀です。

 

いつ生まれたのかは諸説あり、ハッキリしていません。【1536年】に生まれたという説がもっとも有力です。

 

天海は【1643年】に亡くなっています。このとき、数え歳で【108歳】だったといわれています。

《南光坊天海》
「引用元ウィキペディアより」

南光坊天海は【1600年】の関ヶ原の戦いのあと、徳川家康に部下として仕えはじめています。

 

実はこの南光坊天海という人物、秀満と同じく、謎がとても多い人物なのです。


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天海がいつ頃から家康の参謀となったのかは、ハッキリしていません。

 

それどころか天海がいつ、どこで生まれたのもわかっていません。

 

陸奥むつ国の会津あいづ出身という説もありますが、前半生は全くと言ってよいほど不明。

 

埼玉県川越市にある喜多院きたいんで住職を務めていた天海は、家康に招かれて参謀として活躍。

 

その頭脳を駆使して徳川家を支え、三代将軍・徳川家光から絶大な信頼を得ていた人物です。

 

  1. 陰陽道や風水を駆使して、江戸の都市計画をすすめた
  2. 徳川家康の死後、東照大権現とうしょうだいごんげんという神号を提案した
  3. 上野・寛永寺かんえいじを創建

 

などなど、数々の功績を残しています。

 

ちなみに【2000年】の大河ドラマ【葵~徳川三代~】の第27話では、この南光坊天海が方広寺鐘銘事件ほうこうじしょうめいじけんを引き起こし、豊臣家を滅亡に追い込むきっかけを作った、という設定になっています。

 

→→→→→【方広寺鐘銘事件とは何か】についてくわしくはこちら

 


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明智光秀=南光坊天海説が初めて唱えられたのは、いつ?

光秀=天海という説が初めて唱えられたのは、今から【約100年前】のことです。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

【1916年(大正5年)】、新聞記者・須藤光暉という人が、天海は蘆名盛高あしなもりたかの一族出身という内容の伝記を発表しています。

 

その伝記の中で、須藤氏は、こう言っています。

 

明智光秀が南光坊天海となり、豊臣家を滅亡させて、一族を滅ぼされた恨みを晴らしたという説を唱えるものがいる

 

つまり光秀=天海という説が初めて世に広まったのは、【1916年(大正5年)】ということです。

 

この記述を読んでみると、光秀=天海説は【1916年(大正5年)】以前から、口コミで人々に長く噂されていたことのようです。

 

一説によると、明智光秀は山崎の戦いで敗北した後、妙心寺という寺へたどり着いたといわれています。


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妙心寺の住職・玄琳げんりんは、のちに南国梵桂なんごくぼんけいと名乗って、大阪府岸和田市の本徳寺を開いたという逸話があります。

 

この玄琳こそ、明智光秀の長男・光慶みつよしだといわれています。

 

妙心寺には蒸し風呂があるのですが、通称・明智風呂と呼ばれています。

 

そして南国梵桂が開いた本徳寺には、教科書にも登場する有名な明智光秀の肖像画が所蔵されています。

 

この肖像画は、岸和田城・天守閣でレプリカが一般公開されています。

 

→→→→→【明智光秀と南光坊天海の同一人物説】についてくわしくはこちら

 


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まとめ

本日の記事をまとめます

1,明智秀満=南光坊天海説とは、どういうものか?

明智秀満は【天正10年(1582年)6月14】に亡くなった名将。しかし実は生き延びて、南光坊天海と名乗り徳川家康に仕えたという説が残されている。【1615年】に天海は大坂の陣で豊臣家を滅ぼしている。

 

2,明智秀満とは何者なのか?

明智秀満は、別名・三宅弥平次。秀満は明智光秀の長女の再婚相手であり、光秀の女壻むすめむこにあたる人物。数々の逸話・エピソードが残されている名将。

 

3,明智秀満と南光坊天海は、本当に同一人物なのだろうか?

秀満と天海が同一人物である説は、極めて可能性が低い。有名な明智光秀と天海が同一人物という説についても、最近おこなわれた筆跡鑑定で光秀と天海は別人との結論が出ている

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • 秀頼は真田信繁とともに薩摩に逃げたという説があり、鹿児島県には秀頼の墓もあります。また、その子(だったかな)が大分県の日出という所で於祢(おね)の甥(だったかな)から禄をもらって暮らしたらしいです。
    従って、生き延びた説が本当だったことはないとは言えないのではないでしょうか。
    また、生き延びた説が本当だったことはないから、秀満が生き延びた説も嘘だというのは理論にならないのではないでしょうか。

    • この度は当サイトをご覧いただき、誠にありがとうございます。
      また、貴重なお言葉をいただき、重ねてお礼を申し上げます。
      おっしゃることごもっともと存じます。
      もしもよろしければ、またぜひ当サイトをお役立てくださいませ。
      本当にありがとうございます。

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