この記事では「織田信長のプロフィール・経歴」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「織田信長のプロフィールと経歴」を、カンタンに理解できます。
「織田信長」は「尾張国出身の戦国武将」であり「戦国時代にもっとも活躍した名将」といってよい英雄なのです。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,「織田信長」のプロフィールとは?
「織田信長」【1534~1582年】
父「織田信秀」
出身地「尾張国(愛知県西部)」
「本能寺の変」によって、「明智光秀」に討たれ死去
2,「織田信長」の略歴とは?
【1546年】に「元服(成人)」
【1548年】「帰蝶」と結婚
【1560年】「今川義元」を討伐
【1568年】「上洛」
【1575年】「長篠の戦い」
【1582年】「本能寺の変」
3,「信長」の最期とは?
【1582年】、重臣「明智光秀」に裏切られて京都「本能寺」において自害して亡くなった。(本能寺の変)
「織田信長」のプロフィール
「織田信長」【1534~1582年】
「織田信長」とは、戦国時代において天下統一目前にまで勢力を拡大した武将です。
「織田信長」のプロフィールを、まとめて簡単に解説いたしますと、以下のとおりです。
- 【誕生日】、「天文3年(1534年)5月12日」
- 【幼名】、吉法師
- 【出身地】、愛知県名古屋市(那古野城または勝幡城)
- 【趣味】、相撲観戦と茶道(茶碗や茶入、茶釜あつめ)
- 【特技】、水泳・乗馬・弓術
- 【あだ名】、うつけもの(ばかもの)、第六天魔王
- 【口癖】、「であるか」
- 【最期の言葉】、「是非に及ばず」「余はみずから死を招いた」
- 【妻】、「帰蝶(濃姫)」、側室「生駒氏」「お鍋の方」
- 【子供】、「信忠」「信雄」「信孝」その他男女あわせて20名以上
- 【父】、「織田信秀」
- 【母】、「土田御前」
- 【愛刀】、「義元左文字」、「へし切長谷部(へしきりはせべ)」
- 【墓】、「京都・阿弥陀寺」
- 【兄妹】、同母弟「織田信勝」「織田信包」、異母弟「織田有楽斎」、同母妹「お市の方」、異母兄「織田信広」、義弟「浅井長政」
- 【親戚】、義父「斎藤道三」、祖父「織田信定」、叔父「織田信光」「織田信次」
- 【死没】、「天正10年(1582年)6月2日」、明智光秀によって、京都「本能寺」で死亡
- 【享年】、数え49歳
「織田信長の最期の言葉」については、以下のリンク記事をどうぞ。
織田信長の先祖は「平清盛」の孫「平資盛」であるといわれています。
「織田大和守家」と呼ばれる室町幕府の家来「尾張国守護代」、その部下「三奉行」の1つ「織田弾正忠家(おだだんじょうのちゅうけ)」という家が、「織田信長」の家柄です
当時の「尾張国」は、「斯波家」という「守護」が支配していた国でした。
この「尾張国」を、上と下の2つに分けて、それぞれを「織田大和守家」と「織田伊勢守家」という、2つの「守護代」が支配していたのです。
織田信長は、この「織田大和守家」の家来だった「三奉行」と呼ばれる家の1つ「織田弾正忠家」の武将「織田信秀」の嫡子です。
つまり「信長」は、「尾張国」の国主「斯波家」の部下である「織田大和守家」の、そのまた部下という、それほど偉くない家柄出身だったのです。
身分は高くありませんでしたが、信長の「織田弾正忠家」は、父「織田信秀」が「経済」を重視して、莫大な資産を保有していたことにより、実質的に「尾張国」の支配者となっていました。
信長も、この圧倒的な「経済力」を利用して、勢力を拡大していったのです。
「織田信長の先祖と子孫の家系図」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「織田信長」の経歴・略歴
織田信長の経歴、略歴を、簡単な「年表」でご紹介します。
1534年(信長の年齢、数え1歳)「織田信長」が、「織田信秀」の嫡男として誕生、幼名「吉法師(きちほうし)」。
1546年(13歳)元服、「織田三郎信長」と名乗る。
1547年(14歳)「今川義元」の支配下にあった「大浜城」攻略戦で初陣
1548年(15歳)道三の娘「帰蝶(濃姫)」と結婚。
1552年(19歳)父「織田信秀」死去、信長が家督を継ぎ、「織田上総介信長」と名乗る。
1553年(20歳)正徳寺(聖徳寺)で舅「斎藤道三」と初対面。
1556年(23歳)道三、息子の「斎藤義龍」に殺される。
1558年(25歳)弟「信勝」を暗殺。
1560年(27歳)「桶狭間の戦い」で「今川義元」を撃破。
1565年(32歳)信長、犬山城主「織田信清」に勝利し、尾張統一
1567年(34歳)「稲葉山城」陥落。「稲葉山城」を拠点とし、その名を「岐阜城」と改名。
1568年(35歳)「足利義昭」とともに上洛を開始。義昭、室町幕府第15代将軍に就任。
1570年(37歳)「金ヶ崎の退き口」「姉川の戦い」
1571年(38歳)「比叡山焼き討ち」
1573年(40歳)「武田信玄」死去。足利義昭を追放。「室町幕府」滅亡。
1575年(42歳)「長篠の戦い」
1577年(44歳)「松永久秀」自害。
1578年(45歳)「上杉謙信」急死。
1580年(47歳)石山本願寺との「石山戦争」終結(信長の勝利)。
1582年(49歳)「甲州討伐」、武田家滅亡。
【天正10年(1582年)6月2日】未明、「明智光秀」が本能寺を急襲。(本能寺の変)「信長」自害。【享年49歳】
「織田信長のさらに詳しい年表」は、以下のリンク記事をどうぞ。
「信長」の生涯と最期を短く解説!
織田信長の生涯と最期を、みじかくカンタンに解説いたします。
【1534年】、織田信長は、尾張国の戦国武将「織田信秀」の三男として誕生。
織田家は当時、「今川義元」や「斎藤道三」と激しく勢力争いをし、さらには尾張国内でも、同族同士での内乱を起こしていました。
信長は「桶狭間の戦い」や「稲葉山城攻略戦」で、これらの敵を順番に撃破。
【1568年】には、「足利義昭」を連れて京都へ進軍(上洛)し、一気に勢力を拡大することに成功。
次に信長は、強敵「武田信玄」「上杉謙信」などの強敵と敵対しないように、徹底的な外交戦を展開します。
なんとかこの両者との戦いを回避した信長は、各地に軍団を派遣し、勢力を拡大し続けます。
その支配地域は、「尾張国(愛知県西部)」のみだった頃に比べると、東は「下野国(群馬県)」から、西は「備中国(岡山県)」まで拡大。
【1582年】、天下統一目前のところまで勢力を拡大しながらも、重臣「明智光秀」に襲われ、京都「本能寺」で自害。
享年は、数えで「49歳」。
信長の天下は、重臣「羽柴秀吉」に引き継がれ、秀吉は【1590年】に「天下統一」を達成しています。
「豊臣秀吉(羽柴秀吉)の天下統一までの年表」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「信長」が亡くなったあと、何が起こったかを簡単解説
織田信長が亡くなった後、天下がどのようになったのかを、カンタンに解説いたします。
【天正10年(1582年)6月2日】、織田信長は、「明智光秀」に襲撃されて、「本能寺」で亡くなります。
この11日後、「明智光秀」は「羽柴秀吉」との「山崎の戦い」で敗北し、亡くなります。
【1583年】、「羽柴秀吉」は「柴田勝家」との織田家中の勢力争いで勝利し、織田家を乗っ取ることに成功。
【1590年】、「豊臣秀吉(羽柴秀吉)」が、「北条氏政」を倒して「天下統一」達成。
【1598年】、「豊臣秀吉」死去。
【1600年】、「関ヶ原の戦い」で「石田三成」に勝利した「徳川家康」が、「豊臣家」の天下を実質的に奪うことに成功。
【1603年】、「徳川家康」が「征夷大将軍」に就任し、「江戸」に幕府を開く。
【1605年】、「家康」が征夷大将軍の職を、三男「徳川秀忠」に継承させる。
【1615年】、「大坂の陣」で「豊臣秀頼」死去。豊臣家滅亡。
【1616年】、「徳川家康」死去。
家康が亡くなり、天下は平和な時代をむかえます。
この平和は【1868年】の「明治維新」まで続くこととなるのです。
「明治維新とは何か」については、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」のプロフィールを簡単に解説すると
「織田信長」【1534~1582年】
父「織田信秀」
出身地「尾張国(愛知県西部)」
「本能寺の変」によって、「明智光秀」に討たれ死去
2,「織田信長」の略歴
【1546年】に「元服(成人)」
【1548年】「帰蝶」と結婚
【1560年】「今川義元」を討伐
【1568年】「上洛」
【1575年】「長篠の戦い」
【1582年】「本能寺の変」
3,【1582年】、重臣「明智光秀」に裏切られて京都「本能寺」において自害して亡くなった。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
『織田信長』関連記事
よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
「織田信長の遺体の行方を調査!実は謎でも行方不明でもなかった」の記事はコチラ
「【織田信長】最後の言葉と辞世の歌は?亡くなる時の詳細な様子を紹介」の記事はコチラ
「織田信長の嫁の名前一覧表!正妻は「帰蝶」ではなく生駒吉乃?」の記事はコチラ
「【織田信長】家紋の意味や花の由来!読み方を画像付きで簡単解説!」の記事はコチラ
「織田信長の名言集と意味解説!ホトトギスや人生50年に潜む秘密とは」の記事はコチラ
「織田信長の居城と場所を紹介!安土・岐阜の名前の由来や城下町の政策」の記事はコチラ
「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の関係や人柄・性格をエピソードで簡単解説」の記事はコチラ
「織田信長と池田恒興(つねおき)の関係と最期を解説!子・輝政の逸話」の記事はコチラ
「織田信長の生い立ちから最期まで!3分でわかりやすく簡単に解説!」の記事はコチラ
「[織田信長]本能寺の変で死んでない?真実と黒幕を分かりやすく簡単に解説」の記事はコチラ
「織田信長の家系図と子孫を解説!「きちょう」こと濃姫との子供とは?」の記事はコチラ
「織田信長がしたことを年表にまとめて簡単解説!『天下の取り方』教えます」の記事はコチラ
「織田信長はどんな人物だったの?意外にも優しいエピソードが多かった」の記事はコチラ
「明智光秀と織田信長・豊臣秀吉の関係を解説!実は互いを憎んでいた?」の記事はコチラ
「織田信長家臣・弥助(やすけ)の生涯!彼が持つ信長デスマスクは本物?」の記事はコチラ
『【本能寺の変】の謎や真相をすべて解説!黒幕や動機について完全網羅』の記事はコチラ
コメント