【今川義元と桶狭間の戦い】その謎や疑問のすべてを短く簡単に解説

この記事では「今川義元」と「桶狭間の戦い」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「桶狭間の戦い」についての「謎」や「疑問」を、カンタンに理解できます。

 

「桶狭間の戦い」で「今川義元」が敗北した理由、それは「偶然」だったのです。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,桶狭間の戦い」とは、【永禄三年(1560年)5月19日】に、尾張国(現在の愛知県西部)にあった「桶狭間」という場所で起こった戦い。「織田信長」が10分の1以下の兵力で、「今川義元」の大軍団を撃破した戦い。

 

2,「今川義元」は、隣国「尾張」を支配して、「京都」への道を開こうとしていた。そのため、4万の大軍団をひきいて「織田信長」に戦いを挑んだ。しかし信長は、奇跡的に勝利をおさめ、今川義元は討ち死にした。

 

3,織田信長が「桶狭間の戦い」に勝利した理由については、3つの説がある。①「奇襲を仕掛けた」、②「義元は、信長の罠によって、桶狭間に誘い込まれて奇襲を受けた」、③「偶然」。最近では③「偶然」という説が有力らしい。

そもそも「桶狭間の戦い」とは何か?ザッと解説

永禄三年(1560年)5月19日】、現在の「愛知県西部」にある「桶狭間(おけはざま)」という場所で、その後何百年も語り継がれる、伝説的な戦いが勃発します。

 

「桶狭間の戦い」です。

 

「尾張国」を支配していた武将「織田信長」が、宿敵を倒した戦いでした。

 

倒された宿敵とは、「駿河・遠江・三河」を支配していた武将「今川義元」です。

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」


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今川義元は、東海道を制圧し、圧倒的な大軍団をひきいていました。

 

その軍団の数は「2~4万人」。

 

対して「織田信長」の軍団は、わずかに「2~3千」といわれています。

 

今川義元の軍を「2万」、織田信長の軍を「3千」と考えても、約7倍もの差があるのです。

 

単純に考えれば、「織田信長」に勝ち目などありません。

 

ところが、信長はこの戦いに勝利します。

 

まさに奇跡的な勝利をするのです。

 

この戦いで、名将「今川義元」は戦死します。

 

それまで日本でも最強最大の勢力を誇っていた「今川家」は、この「桶狭間の戦い」をきっかけとして、一気に衰退していきます。


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桶狭間の戦いを、「初めから終わりまで」カンタン解説

今川義元は、もともと「尾張国」を侵略しようとしていました。

 

なぜ「尾張国」を狙ったのかというと、理由は二つあります。

 

「尾張国」には、作物をたくさん生産できる「濃尾平野」と、豊かな「貿易港」があったから。

 

もう一つの理由が、「天下統一」するために支配しなくてはいけない日本の中心地「京都」への通り道が「尾張国」だったからです。

 

義元の「尾張国侵略」を邪魔していたのが、「織田信長」の父で尾張国の支配者であった「織田信秀」という猛将です。

 

ところが【1552年】、邪魔だった猛将「織田信秀」が病死。

 

あとを継いだのが、「うつけもの」

 

つまり「バカ殿さま」というあだ名がつけられていた信秀の息子「織田信長」でした。

 

今川義元は、この「織田信秀」の死をきっかけにして、「尾張国」への侵略を本格化していきます。

 

まず、「義元」はそれまでの宿敵であった「北条氏康」に「武田信玄」を加えて、【1554年】、「三国同盟」を締結。

 

「北条氏康」「武田信玄」を味方につけて、義元の本拠地「駿河国」の背後を攻撃される危険性を無くします。


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1560年】、万全の準備をした今川義元は、集められるだけの兵を集めて、全軍で「尾張国」へ出撃。

 

この戦いで、今川義元は圧倒的な強さを見せつけて、織田信長の本拠地「清洲城(きよすじょう・清須城)」へ迫ります。

 

ところが、「桶狭間」という地で休息していた今川義元の軍団を、突然「織田信長」のひきいる部隊が襲撃。

 

義元は突然襲われて、逃げることもできずに戦死してしまうのでした。

 

「天下を取るのは今川義元」

 

当時の人達は、その圧倒的な強さから、だれもがそう思っていたはずです。

 

ところが、そんな最強「今川義元」が、バカ殿(うつけもの)と呼ばれていた「織田信長」に討ち果たされたのです。


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その後、織田信長は「尾張国」の西に位置している「今川義元」の支配地域「駿河・遠江・三河」の三カ国を侵略するだろう、と考えられていました。

 

しかし信長は、そんな予想を裏切ります。

 

「駿河・遠江・三河」を侵略するのではなく、北の「美濃国」を攻撃し始めたのです。

 

信長は、「三河国」に勢力を持っていた武将「徳川家康」と「清洲同盟」という軍事同盟を締結し、「駿河・遠江・三河」の侵略をまかせてしまいます。

 

今川義元を失った今川家は、息子の「今川氏真」が継承します。

 

しかし、弱体化した「今川家」を救うことはできず、「桶狭間の戦い」から9年後の【1569年】、「武田信玄」と「徳川家康」の連合軍によって、今川家は滅亡するのです。


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なぜ「今川義元」は、圧倒的に有利なのに敗けたのか?なぜ織田信長は勝てたのか?

今川義元は、圧倒的な戦力を誇っていたのになぜ敗北したのでしょうか?

 

いくつもの説がありますが、主に「3つの説」があると言えます。

 

  1. 「桶狭間で休憩していたところ、信長に居場所を知られて、一気に突撃をかけられた」
  2. 「信長の策略によって、桶狭間へとおびき出され、そこへ奇襲をかけられた」
  3. 「偶然」

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①の説

1,「今川義元が桶狭間で休憩していたところ、織田信長が義元の居場所を知り、他の場所には目もくれずに、今川義元の首だけを目指して突撃してきた」

 

織田信長は、本拠地「清洲城」を出撃して、最前線の「中島砦」へ入ります。

 

そこへ、信長の部下「梁田政綱(やなだ まさつな)」が、今川義元の居場所を報告。

「今川義元は桶狭間で休憩しています」

それを聞いた信長は、「桶狭間」へ。

 

激しい雨が降り始めたおかげで、猛スピードで進軍する織田軍の動きは、今川義元に知られませんでした。

 

谷間の狭い場所だった「桶狭間」で、織田信長軍「2千」は、今川義元の本隊へ突撃。

 

突然の襲撃に混乱した今川軍は敗走。

 

義元も命を落としたのでした。

 

これは、ドラマや映画でもっとも良く使われる説ですね。

 

「桶狭間へいたった方法」については、「迂回して桶狭間へ向かった」という説と、「まっすぐ桶狭間へ向かい、正面から攻撃を仕掛けた」という説があります。


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②の説

2,「信長の策略により、義元は桶狭間へおびき出され、奇襲をくらって戦死した」

 

桶狭間は、狭い谷間、山間の地です。

 

突然攻撃されると、道が狭いため、大軍団だと逃げようとしても渋滞を起こして逃げられないのです。

 

信長はこの「桶狭間」を決戦の地に選び、あらかじめ策略を巡らせて、この桶狭間へ今川義元をおびき出したというのです。

 

そして、今川義元が桶狭間に着陣すると、そこへ向かって一気に突撃。

 

見事に今川義元を討ち果たしたのでした。

 

明智光秀の子孫「明智憲三郎」さんが、この説を著書「織田信長 435年目の真実」で、詳しく解説していました。

 

「何もかも、天才信長の罠だった」という説です。


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③の説

3,「偶然」

 

これが筆者の最もおすすめしたい説です。

「信長は元々今川義元の本隊を急襲しようとは考えていなかった」

「敗北寸前だったので、なんとかしなくては、と思い、突撃したら偶然今川義元の首が取れた」

という説です。

 

もともと「桶狭間の戦い」は「奇襲」、つまり「織田軍」が突然「今川軍」に襲いかかった「サプライズアタック」だと言われてきました。

 

しかし織田信長に仕えた武将であり秘書(右筆)でもあった「太田牛一」の書いた「信長公記」によれば、「桶狭間の戦い」はこの「偶然による勝利」だったようなのです。

  • 「織田信長の運がよかった」
  • 「今川義元の運が悪かった」

ということでしょう。

 

これは織田信長が「それほどの天才ではなかった」という説でもあります。


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「桶狭間の戦い」についての本・書籍

「桶狭間の戦い」を取り扱った書籍は複数あります。

 

「明智光秀」の末裔を自称している作家「明智憲三郎」さんの書籍「本能寺の変~431年目の真実~」を漫画にした作品「信長を殺した男」。

 

このマンガの「第三巻」で、「桶狭間の戦い」についての詳しい解説がされています。

 

マンガなので、とても読みやすく面白い作品です。

 

また、同じく「明智憲三郎」さんの書籍「織田信長~435年目の真実~」でも、同じく「桶狭間の戦い」について取り上げられています。

 

 

ほかにも、「現代の軍事理論」で「桶狭間の戦い」を読み解こうという、おもしろい書籍がありました。

 

 

筆者が勧めた「偶然」という説は、「信長公記」という書籍を素直にそのまま読んだことによる説です。

最近では、「信長公記」の現代語訳も出版されています。


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「桶狭間の戦い」のその後!今川義元が死んだから、徳川家康は天下を取れた

「桶狭間の戦い」で「今川義元」が死ななかったら、歴史は間違いなく変わっていました。

 

最後に天下をとった「徳川家康」は、この「桶狭間の戦い」のおかげで、飛躍することができたのです。

 

「徳川家康」は「桶狭間の戦い」の前まで、「松平元康」という名前で、「今川義元」の部下となっていました。

 

この「桶狭間の戦い」でも、「徳川家康」は先陣となって、織田軍と戦っていたのです。

 

ところが、「今川義元」が「桶狭間の戦い」で敗死。

 

すると徳川家康は、生まれ故郷で本拠地でもあった「岡崎城」へ、どさくさ紛れに逃げ帰ってしまうのです。


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「家康」は、それまで「今川義元」の手元で育てられていました。

 

義元の命令で、故郷へ戻ることができなかったのです。

 

ところが、その義元が死んだことで、家康は本拠地「岡崎城」へ戻ることができたのです。

 

これ以降、徳川家康は「今川義元」の部下という立場から、独立することになります。

「織田軍の攻撃に備えて、三河国を守るために、岡崎城へとどまっている」

 

家康は、主君に当たる「今川氏真」にそう言って、岡崎城への駐屯を続けます。

 

ところが家康は、「織田信長」と軍事同盟を締結し、今川氏真の領地へ攻撃を仕掛けてきたのです。

 

こうして「今川家」は徳川家康に滅ぼされてしまいます。


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今川家を滅ぼした家康は、一気に勢力を拡大。

 

1582年】、「本能寺の変」で「織田信長」が亡くなると、「甲斐・信濃」の両国も手に入れて、一大勢力へと成長します。

 

一時的に「豊臣秀吉」に屈服したものの、「秀吉」が亡くなると、スキを突いて天下を豊臣家から奪い取ることに成功。

 

「江戸幕府265年」の平和な時代をつくり上げることに成功したのです。

 

もしも「今川義元」が「桶狭間の戦い」で死ななかったら、徳川家康は死ぬまで今川義元の部下として生きていたはずです。

 

つまり「桶狭間の戦い」で「織田信長」が「今川義元」を討ってくれたから、「徳川家康」は天下が取れた、とも言えるのです。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,桶狭間の戦い」とは、【永禄三年(1560年)5月19日】に、尾張国の「桶狭間」という場所で起こった戦い。「織田信長」が少数の軍で、「今川義元」の大軍団を撃破した戦い。

 

2,「今川義元」は、隣国「尾張」を支配し、ゆくゆくは「京都」を支配しようとしていた。そのため、4万の大軍団をひきいて尾張国の「織田信長」に戦いを挑んだ。しかし信長は、奇跡的に今川義元を討ち取った。

 

3,織田信長が「桶狭間の戦い」に勝利した理由は、3つの説がある。①「迂回または正面からの奇襲」、②「義元は桶狭間に誘い込まれた」、③「偶然」。筆者としては③の「偶然」という説を推薦したい

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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