この記事では「織田信長の初陣」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「信長の初陣が、いつ、どこで行われ、どのような結果に終わったのか」が、カンタンに理解できます。
実は「織田信長」は「初陣で大敗した」という逸話があるのです。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」の「初陣」は、いつどこで行われたのか?
「信長」の初陣は、【1547年】に、現在の「愛知県西尾市・碧南市」にあった「吉良」「大浜」という場所で行われた。兵力は「織田軍800」に対して「今川軍2000」で、織田信長の勝利だったといわれている
2,「信長」は「初陣」で大敗したという噂があるが、本当なのか?
「信長」は「長田重元」という武将に大敗し、「13」もの塚が必要になるほどの兵を死なせた、という逸話がある。この「大敗」という逸話こそが、おそらく真実なのだろう
3,「信長の初陣」は、「今川義元」を相手としたわけではなかったというのは、本当か?
当時「大浜」があった三河国は、まだ「今川義元」に支配されていたわけではないので、信長は「今川義元」の軍を相手に戦ったわけではない
織田信長の初陣「吉良大浜の戦い」は、いつ、どこでおこなわれたのか?
織田信長は、【1547年】に「数え14歳」で初陣を果たしています。
「吉良大浜の戦い」と呼ばれたこの戦いは、のちに「天下人」として歴史に名を刻みつける「織田信長」の伝説が始まった戦いです。
【1547年】、織田信長は現在の「愛知県西尾市・碧南市」にあった「吉良」と「大浜」という場所を攻撃し、初陣を飾ります。
相手は、駿河国の大勢力「今川義元」。
当時「吉良」と「大浜」という地は、織田信長の支配地域である「尾張国」のとなり「三河国」にありました。
初陣の様子は、信長の公式記録「信長公記」にも記されています。
どうやら若武者らしい「華々しい姿」だったようです。
1547年、織田信長は初陣を果たした。
家老の「平手政秀」が用意した装備を身に着けた「織田信長」の姿は
- 紅の横筋を織入れた頭巾
- 陣羽織
- 鎧を着せられた軍馬
というものだった。
駿河・今川軍が守備の兵を入れていた三河国「吉良」と「大浜」を攻撃した。
そこら中へ放火したあと、野営をした織田信長は、次の日に居城「那古野城」へ帰還を果たした
この「吉良大浜の戦い」は、諸説あるものの、織田軍のほうが、兵の数が少なかったようです。
織田軍800 VS 今川軍2000
この戦いを、信長は勝利で飾り、「平手政秀」や部下たちは大喜びした・・・ということになっています。
風の強い日であることを利用して、敵の領地に放火して、甚大な被害をあたえたのだとか・・・。
わずか2日間の小規模な戦闘だったといわれています。
しかし、覇王「織田信長」の初陣にしては、「吉良大浜の戦い」は、それほど有名ではないことが不思議です。
例えば「武田信玄」は、「海ノ口城の戦い」で初陣を飾り、見事に敵の城を少数の軍団で陥落させています。(もちろん「大勝した」とされている武田信玄の初陣も、後世の創作である可能性がある)
実は、「織田信長の大敗北だった」という噂があるのです。
「今川義元」については、以下のリンク記事をどうぞ。
信長「初陣」の結果とは?実は大敗北だった
信長の「初陣」は、「信長の伝説」の始まりに相応しい「大勝利」・・・ではなく「大敗北だった」という噂があります。
信長は「大浜城主」の「長田重元」の攻撃に惨敗したのだとか。
今川軍の武将「長田重元」が、敵兵である織田軍の死者を弔うために作った「塚(墓)」が、「13」も出来上がったとのことです。
現在の「愛知県碧南市向陽町」は、当時「十三塚」と呼ばれていました。
そして「十三塚」は、このときの「信長の大敗」の逸話を、今に伝えているのだとか。
このあと信長は、初陣で大敗したままでは格好がつかないので、今川領に放火したといわれています。
この「信長の大敗」は、歴史書「信長公記」には、まったく記されていません。
おそらく「織田信長」という猛将の「汚点」として、歴史から抹消されたのでしょう。
「信長公記」を記した「太田牛一」は、織田信長から大切にされた部下でした。
そのため太田牛一は、信長の汚点を歴史に残す気にならなかったのでしょう。
実は「織田信長」は、「戦争」に強かったわけではありません。
名将「武田信玄」から徹底的に逃げ回ったほどですので、「初陣」で敗北していたとしても、それほど不思議ではないのです。
「武田信玄」については、以下のリンク記事をどうぞ。
実は「今川義元」と戦ったわけではなかった?
「吉良大浜の戦い」は、「織田信長」が「今川義元」の軍を相手に戦ったものだと言われています。
しかし、そうではない可能性が高いです。
「大浜城」がある「三河国」は、当時「徳川家康」の父「松平広忠」が支配していた地域です。
このとき「松平広忠」は、駿河「今川義元」と尾張「織田信秀」の、どちらに味方すべきかを迷っている状態でした。
そのため「今川義元」の軍団が「三河国」に存在しているはずがありません。
織田信長もそれを知っていたと考えられます。
信長は、初陣で命を落とさないように、安全を重視した戦いをしたことが予想されています。
信長が「初陣」を果たした【1547年】、「松平広忠」は息子の「竹千代(徳川家康)」を、「今川義元」のもとへ送ろうとします。
しかし「竹千代」を護送していた部下が、突如裏切ってしまいます。
その裏切った部下は、「竹千代」を「今川義元」のところではなく、「織田信秀」のもとへ送ってしまうのです。
「竹千代」を人質にとった「織田信秀」は、「松平広忠」に対して、『降伏せよ』と迫ります。
しかし「松平広忠」は脅しには屈しませんでした。
「松平広忠」は、あくまでも「今川義元」に味方することを選び、本格的に「織田家」と断交します。
信長が攻撃した「三河国・大浜」は、初陣の当時「今川家」に属していたわけではありません。
ということは、織田信長は初陣で「今川義元」と戦ったわけではない、ということになります。
おそらく、強敵「今川義元」を相手に初陣を飾った、ということにしたのでしょう。
そうすることで、信長の功績を輝かしいものにしようと考えたのです。
これを考えたのは、守役だった「平手政秀」ではないでしょうか。もしくは父「織田信秀」か・・・。
信長の初陣は、「信長公記」やその他の歴史書にかかれているような、華々しいものではなかったと考えられます。
ただし、この「初陣」で、もしかすると「今川義元」は、大敗した「織田信長」を侮ったかもしれません。
そうだとすれば、その油断が、【13年後】の「桶狭間の戦い」で、「今川義元」の運命を左右したことになりますね。
「桶狭間の戦い」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「【桶狭間の戦いとは】簡単にわかりやすく解説!隠されていた真実に驚愕」の記事はコチラ
「【今川義元】なぜ織田信長との「桶狭間の戦い」で敗北した?原因は油断」の記事はコチラ
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」の初陣は、【1547年】に、現在の「愛知県西尾市・碧南市」にあった「吉良」「大浜」という場所で行われた。兵力は「織田軍800」に対して「今川軍2000」で、織田信長の勝利だったといわれている
2,実は「信長」、初陣で「長田重元」という武将に大敗し、「13」もの塚が必要になるほどの兵を死なせた、という逸話がある。この「大敗」という逸話こそが、おそらく真実だろう
3,当時「大浜」があった三河国は、まだ「今川義元」に支配されていたわけではないので、信長は「今川義元」の軍を相手に戦ったわけではない
以上となります。
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ありがとうございました。
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