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織田信長の誕生日が3つある真相|旧暦とユリウス暦とグレゴリオ暦で違う生年月日を整理

※当サイトはアフィリエイトプログラムに参加しています。この記事は2026年4月時点の史料・学術情報をもとに作成しています。

本記事のポイントを整理すると以下の通りです。織田信長の誕生日が「3つ」あるのは、使う暦が異なるためです。旧暦(和暦)では天文3年5月12日、ユリウス暦では1534年6月23日、現在のグレゴリオ暦では1534年7月3日に相当します(出典:Wikipedia「織田信長」)。本記事では織田信長の誕生日 3つの違いと命日、干支の逸話まで、編集部がやさしく整理いたします。


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目次

織田信長の誕生日が 3つある理由|結論と暦の違い

「織田信長の誕生日」を調べると、ネット上では複数の日付がヒットして混乱しがちです。これは間違いではなく、暦が変わるたびに同じ日が別の日付として表現されるためです。

織田信長(三宝寺蔵)
引用元「Wikipediaコモンズ」より

信長が生きた時代の日本は旧暦(和暦)を使っていました。一方、当時の西洋はユリウス暦を使用しており、その後ローマ教皇グレゴリウス13世による暦法改革でグレゴリオ暦へ切り替わったのは1582年10月のことで、これは奇しくも信長が亡くなった同じ年です。

そのため、信長の誕生日は次の3つの暦で表記され、いずれも同じ「天文3年5月12日」を指しています。

織田信長の誕生日備考
旧暦(和暦)天文3年5月12日当時の日本で使われた暦
ユリウス暦1534年6月23日当時の西洋で使われた暦
先発グレゴリオ暦1534年7月3日現在のグレゴリオ暦に換算した日付

つまり、織田信長の誕生日 3つはすべて同じ瞬間を指しているだけで、別々の日に生まれたわけではありません。次に、読者の皆様からよく寄せられる質問に簡潔にお答えします。


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Q1〜Q4|よくある質問にやさしくお答えします

検索でよく寄せられる4つの質問に、まず40〜60字で端的にお答えし、その後で詳しい根拠を補足いたします。

Q1.5月12日生まれの戦国武将は誰ですか?

旧暦の天文3年5月12日生まれの代表は、織田信長です。当時は旧暦表記が標準だったため、信長の誕生日は「5月12日」と記録されました。

ただし、この「5月12日」は旧暦のため、現代の感覚で5月12日とは違う点に注意が必要です。グレゴリオ暦に換算すると7月3日にあたります。

Q2.1534年5月12日は何の日ですか?

「西暦1534年5月12日」は、特段の出来事は一般に知られていません。信長の誕生日は旧暦5月12日であり、西暦1534年5月12日(ユリウス暦/グレゴリオ暦)と同じ日付ではありません。

「1534年5月12日」と検索される方の多くは、信長の旧暦の誕生日と西暦の月日を混同されているケースが多いと考えられます。正しくはユリウス暦1534年6月23日、グレゴリオ暦1534年7月3日となります。

Q3.「信長3日天下」とはどういう意味ですか?

一般には「明智光秀の三日天下」が有名で、「信長3日天下」という表現は通説的にはあまり使われません。本能寺の変で信長を討った光秀が、わずか11日で羽柴秀吉に山崎の戦いで討たれたことを「三日天下」と呼ぶのが通例です。

もし「信長3日天下」と表記される場合は、信長の天下統一が達成直前で本能寺の変によって絶たれた状況を比喩的に語る、ごく一部の表現と考えられます。検索意図としては「光秀の三日天下」を意味することが多いと推測されます。

Q4.本能寺の変は6月2日と6月21日のどちらですか?

どちらも正解です。旧暦では天正10年6月2日、ユリウス暦では1582年6月21日にあたり、現在のグレゴリオ暦では1582年7月1日です(出典:Wikipedia「本能寺の変」)。

日本史の文脈で語る場合は旧暦の「6月2日」、世界史の文脈や西暦表記で語る場合は「6月21日」が用いられます。本記事では誕生日と命日をすべての暦で整理する後半セクションで、改めて表でご確認いただけます。


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旧暦・ユリウス暦・グレゴリオ暦で異なる信長の生年月日

ここからは、織田信長の誕生日 3つを暦ごとに、もう少しだけくわしく解説いたします。

旧暦(和暦)|天文3年5月12日

旧暦(太陰太陽暦)は、月の満ち欠けを基準に閏月を加える暦で、信長が生きていた時代の日本で実際に使われていた表記です。「天文3年」は西暦1534年に相当します。

なお『信長公記』など一次史料では「天文3年5月12日」と記す一方、別の系統の史料では「天文3年5月28日」と記すものもあり、誕生日そのものに諸説があることはあまり知られていません(出典:Wikipedia「織田信長」)。

ユリウス暦|1534年6月23日

当時の西洋で使われていたユリウス暦に換算すると、信長の誕生日は1534年6月23日になります。海外の歴史書ではこの日付が用いられることが多く、Wikipediaなどネット辞書でも標準的に登場します。

先発グレゴリオ暦|1534年7月3日

現在私たちが使うグレゴリオ暦は、1582年10月にローマ教皇グレゴリウス13世が定めた暦です。1582年以前にさかのぼってグレゴリオ暦で表記したものを「先発グレゴリオ暦」と呼び、信長の誕生日は1534年7月3日となります。

信長が生まれた場所については、こちらも諸説があり、那古野城・勝幡城などが議論されています。
織田信長の出身地は名古屋城ではない?生まれた場所がどこなのか解説

暦が違えば日付が違う、という基本を押さえたところで、次は「現代の感覚で誕生日祝いをするならいつか」を考えてみます。


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信長の誕生日祝いをするなら何月何日が適切か

歴史ファンの間で「信長の誕生日祝いをやろう」となった場合、何月何日に行うのが適切でしょうか。結論からいえば、厳密には「いつでもよい」のですが、いくつかの考え方があります。

旧暦は1年が13か月になる年(閏月)もあり、同じ「5月12日」でも年によって季節がずれます。たとえば、ある年の旧暦4月には桜が満開でも、翌年の旧暦4月には桜がすでに散って新緑になっているといった現象が当たり前にありました。

そのため、現代のカレンダーで「いつ祝うか」を考えるうえで、選択肢は大きく次の3つになります。

  1. 旧暦の「5月12日」をそのまま現代の5月12日として祝う(記録の日付を尊重)
  2. ユリウス暦の「6月23日」で祝う(海外史書との整合)
  3. グレゴリオ暦の「7月3日」で祝う(現代の暦で正確)

編集部としては、現在の暦で「同じ季節の同じ日」を再現するならグレゴリオ暦の7月3日がもっと实態に近いと考えます。一方で、史料の「天文3年5月12日」を尊重して5月12日を選ぶ歴史ファンも多く、これも立派な選択肢です。

【筆者考察】編集者の視点で見ると、誕生日の正解探しは「どの暦の物語に乗るか」という選び方の問題に近いと感じます。教科書的な日本史を語るなら旧暦5月12日、グローバル史と並べて語るならグレゴリオ暦7月3日。お祝いをするなら、両方の日に違うイベントを当てるのも一案だと思います。


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信長の干支「午年」と明智光秀「ねずみ年」の夢の逸話

信長の生年「天文3年(1534年)」の干支は甲午(きのえうま)年で、信長の干支は午年でした。一方、信長最大の家臣であり、本能寺の変を起こした明智光秀は信長より年上で、子(ね)年だったと伝わります(光秀の生年は不明確で諸説あり)。

明智光秀(本徳寺所蔵)
Wikipediaコモンズ」より引用

この干支の組み合わせから、有名な「夢の逸話」が江戸期以降に語られるようになりました。信長は晩年、不思議な夢を見たといいます。

「馬がねずみに腹を食い破られて死ぬ」──ある資料では「ねずみが馬の尻尾に噛みつく」とも語られる夢です。このエピソードは江戸期の軍記・俗書に広く見える逸話で、一次史料で確認されたものではないため、編集部としては「諸説ある後世の伝承」として扱うのが妥当と考えます。

江戸時代に詠まれたこんな川柳もあります。

「丹波の鼠 京へ出て 馬を食ひ」

「丹波の鼠」とは丹波国を本拠とした明智光秀のことで、「京の馬」とは午年の織田信長を指します。江戸の人々のあいだでも「光秀(鼠)が信長(馬)を討った」という干支のセットがイメージとして広がっていたわけです。

本能寺跡の碑(筆者撮影)

本能寺の変の直前、京都の上空に巨大な流星が降ったとも語られますが、これも一次史料での確認が難しい伝承です。同じく桶狭間の戦いの前に今川義元が予知夢を見たとされる逸話があり、不思議な暗示が後世の読者を惹きつけてきたことがわかります。
今川義元の逸話|桶狭間の予知夢と亡霊の正体をやさしく解説


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信長の命日と「誕生日の2日前に亡くなった」事実

誕生日が暦によって変わるのと同じく、織田信長の命日も暦によって日付が変わります。本能寺の変は天正10年6月2日に起きましたが、現代の暦に換算すると次のようになります。

織田信長の命日
旧暦天正10年6月2日
ユリウス暦1582年6月21日
先発グレゴリオ暦1582年7月1日

誕生日と命日を、グレゴリオ暦で並べてみます。

  • 誕生日(グレゴリオ暦):1534年7月3日
  • 命日(グレゴリオ暦):1582年7月1日

つまり織田信長は、現在の暦で49歳の誕生日を迎える2日前に亡くなったことになります。「人生五十年」と謡った信長らしい、ぎりぎりまで駆け抜けた生涯です。

本能寺の変の謎をもっと深掘りしたい方は、こちらが便利です。
本能寺の変の謎と真相をすべて解説|黒幕や動機を完全網羅


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大河ドラマで描かれた信長の誕生日と最期

織田信長は大河ドラマ常連の人物で、誕生日や命日のシーンも数多く描かれてきました。編集部が視聴した範囲で、近年の主な作品と描き方を整理いたします。

作品放送年信長役本能寺シーンの特徴
『どうする家康』2023年岡田准一さん家康への執着を強調する苛烈な信長像
『麒麟がくる』2020年染谷将太さん少年性と狂気が同居する独特の演出
『秀吉』1996年渡哲也さん威厳とカリスマの両立、最期の静けさが秀逸
『信長 KING OF ZIPANGU』1992年緒形直人さん誕生から本能寺までの生涯を丁寧に描写
『功名が辻』2006年舘ひろしさん家臣視点から見た信長の苛烈さを強調

誕生日そのものを劇中で大きく祝うシーンは少ない一方、本能寺での最期は各作品の見せ場として描かれてきました。とくに『秀吉』の渡哲也さん演じる信長は、編集部としても忘れがたい印象を残す名演です。

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大河ドラマで信長の人生を立体的に確認したあとは、編集部独自の視点で「信長の誕生日が示す自己神格化の可能性」を一緒に掘り下げていきましょう。

編集部の独自考察|信長の自己神格化と本能寺

ここまで整理した暦・誕生日・命日をもとに、筆者の独自考察を4点お伝えいたします。歴史家の論考ではなく、編集者としての仮説整理である点をご了承ください。

考察①フロイス『日本史』に記された誕生日祝賀の異様さ

イエズス会宣教師ルイス・フロイスが残した『日本史』には、1579年5月11日(または近い日付)に信長が安土城で自分の誕生日を「神聖な儀式」として祝ったとする記述が伝わります。同時代の史料解釈には慎重さが必要ですが、それでもこの逸話が示すイメージは強烈です。自分の誕生日を「神の儀式」として扱うという発想は、戦国大名としても突出した自己演出だと筆者は感じます。

考察②子どもへの冷淡さと自己誕生日への執着の落差

信長は長男・信忠に「奇妙丸」という幼名を与え、四男・秀勝を農民出身の家臣・羽柴秀吉に養子として差し出しました。子に対する関心はかなり淡白に見える一方で、自分自身の誕生日は神聖な日として演出した可能性がある──この落差を、筆者は「自分にだけ過剰な意味を与える」サイコパス的傾向の表れと読み解きたくなります。経営者の視点でも、自分のブランディングだけは過剰投資し、現場の人材育成は放置するリーダーは、しばしば破滅します。


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考察③安土城跡で感じた「天主」と石仏の階段

筆者は安土城跡(滋賀県近江八幡市)に足を運んだことがあります。天主閣へ向かう階段には、お地蔵様の石が踏み石として再利用されているのを実見しました。さらに信長は当時珍しく「天守」ではなく「天主」と表記したとも伝わり、そこに「天の主=神の住まう場所」という自己演出を読み取る研究者もいます。お地蔵さんを踏みつけさせる構造と、自らを天の主に位置付ける名称が重なると、信長の自己神格化はかなり露骨に映ってきます。

考察④本能寺で百人ほどしか連れていなかったという油断

本能寺の変のとき、信長は本能寺にわずか百人ほどの随行者しか置いていなかったとされます。あれほど多くの敵を作り、危うい立場にいながらの少人数随行は、「自分が今ここで死ぬはずがない」という強い自己確信があったと推測できます。2026年4月にはアメリカのトランプ大統領がご自身をイエス・キリストになぞらえるAI画像を投稿して批判を浴びましたが、信長の振る舞いにも、それに通じる過剰な自己演出と自己確信が感じられます。最大の強みであるカリスマ性が、同時に最大の弱点でもあった──筆者はそう考えます。


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まとめ|織田信長 誕生日 3つの要点を3行で振り返る

本記事のポイントを整理すると以下の通りです。

  1. 織田信長の誕生日 3つは、旧暦「天文3年5月12日」/ユリウス暦「1534年6月23日」/グレゴリオ暦「1534年7月3日」で、いずれも同じ瞬間を指しています
  2. 現代の暦で正確に祝うならグレゴリオ暦の7月3日が適切で、史料の日付を尊重するなら旧暦5月12日も選択肢になります
  3. 信長は午年、明智光秀は子年とされ、「鼠が馬を食う夢」の逸話が江戸期から本能寺の変の暗示として語り継がれてきました

本日は「レキシル」へお越しくださいまして、誠にありがとうございました。織田信長の誕生日 3つの謎を入口に、戦国時代の人間ドラマをより深く楽しんでいただけましたら、編集部としてこれ以上の喜びはございません。

参考資料

  • Wikipedia「織田信長」記事URL
  • Wikipedia「本能寺の変」記事URL
  • Wikipedia「ユリウス暦」「グレゴリオ暦」「明智光秀」「天文 (元号)」(補助参照)
  • ルイス・フロイス『日本史』(イエズス会本部宛報告書を含む邦訳版)
  • 太田牛一『信長公記』ほか軍記類(補助参照)
  • NHK大河ドラマ公式情報『どうする家康』『麒麟がくる』『秀吉』『信長 KING OF ZIPANGU』『功名が辻』

レキシル史郎|歴史専門の調査・編集ライター/大河ドラマ研究家/経営者視点の歴史分析
歴史学者ではありませんが、一次史料・学術書・自治体公開資料を徹底調査し、歴史をわかりやすく整理することを得意としています。大河ドラマほぼ全作品の視聴経験から史実と演出の違いを分析し、経営者経験を踏まえて歴史上の決断を現代ビジネスに接続して解説します。大阪城・名古屋城・岐阜城・犬山城・関ヶ原・比叡山延暦寺等に複数回訪問、京都市各所にも何度も足を運び、安土城跡(滋賀県近江八幡市)にも訪問経験があります(※これら個人の訪問経験に基づく視点と、史料に基づく客観的な解説は切り分けて構成しています)。

最終更新日:2026年4月30日

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