この記事では「織田信長の誕生日・生年月日」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「織田信長が、いつ、何日に生まれたのか」を、カンタンに理解できます。
「織田信長」は、現在の暦で「7月3日」に生まれているのです。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」の『生年月日』、「誕生日」は、いつなのか?
暦によって異なるが、信長は「1582年(天文3年)」の「5月12日」、「6月23日」、「7月3日」に生まれたと言われている。
2,「織田信長」の「誕生日」は、正確にいえば「いつ」なのか?
信長の誕生日は、現在のグレゴリオ暦でみると「7月3日」となる
3,「織田信長」の「干支」の逸話とは?
信長は亡くなる直前に「鼠(ねずみ)が馬の腹を食い破る夢をみた」という。これは「明智光秀」が「織田信長」を討つことを暗示したものだった
織田信長の「生年月日」は、いつなのか?誕生日が「3つ」もあった!
考え方にもよるのですが、「織田信長」には「生年月日」が「3つ」あります。
どういうことかというと
「暦によって、信長の生年月日・誕生日が違ってくるため、3つの生年月日や誕生日が存在している」
ということです。
信長が生きていた時代は「旧暦」を使っていました。
しかし、信長が亡くなった数カ月後、「旧暦」から「ユリウス暦」という暦に変更されています。
そして、現在では「グレゴリウス暦」という暦が使われています。
- 「旧暦」
- 「ユリウス暦」
- 「グレゴリオ暦」
この3つの暦によって、織田信長の「生年月日」または「誕生日」がそれぞれ異なるのです。
ウィキペディアやグーグルで、「織田信長 誕生日」や「織田信長 生年月日」と検索してみると
「1534年6月23日」
という「生年月日」がヒットすると思います。
これは、以前使用されていた「ユリウス暦」という暦で考えた場合の「織田信長」の生年月日です。
ところが、「織田信長」が生きていた時代に使われていた「旧暦」によれば、信長の生年月日は
「天文3年5月12日」
となるのです。
「天文3年」とは「1534年」に相当する年です。
しかし、現在我々が使っている暦「グレゴリオ暦」でみてみると、信長の生年月日はまたも変わってきます。
「グレゴリオ暦」によると、信長は
「1534年7月3日」
に誕生したこととなるのです。
つまり織田信長には
- 「旧暦」
- 「ユリウス暦」
- 「グレゴリオ暦」
という、3つの暦を使った「誕生日」・「生年月日」が、それぞれ存在するということです。
- 「旧暦」では・・・・・・「天文3年5月12日」
- 「ユリウス暦」では・・・「1534年6月23日」
- 「グレゴリオ暦」では・・「1534年7月3日」
とてもややこしいですが、信長の誕生日は、正確に言えば、いったい何月何日なのでしょうか?
「織田信長の生まれた場所」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
信長の「誕生日のお祝い」をするとしたら、いつ・何日にやればいいのか?
「織田信長の誕生日祝い」をするのだとしたら、一体いつが良いのでしょうか?
信長は、現在の暦で考えると、「何月何日」に生まれたと考えればいいのでしょうか?
諸説あるだろうとは思いますが、現在使われている「グレゴリオ暦」で考えるなら、「1534年7月3日」が、「織田信長の誕生日」とするのに最もふわさしいのではないでしょうか。
「旧暦」をつかっていた当時は、今とは違って1年が「13ヶ月」あり、たとえ「月」が同じでも「年」が異なると、季節が違うということもあったようです。
たとえば、「4月」には通常「桜の花」が咲いていたはずなのに、翌年「4月」なってみるとすでに「桜」が散る季節で新緑が芽吹いていた、なんてこともあったようなのです。
信長の誕生日の祝いを、いつ行うのか・・・。
- 「旧暦」の「5月12日」
- 「ユリウス暦」の「6月23日」
- 「グレゴリオ暦」の「7月3日」
ハッキリ言ってしまうと、「いつでもいい」ということになります。
しかし、可能な限り正確に行うのならば、「グレゴリオ暦」の「7月3日」が、最も良いのでないでしょうか。
織田信長の「生まれた年」と「干支」の逸話!「明智光秀」の呪われた夢
信長の「生まれ年」や「干支」にまつわる、有名なエピソードがあります。
「明智光秀」との因縁をえがいた逸話で、信長の死を暗示した「夢」のエピソードです。
織田信長の干支は「午(うま)年」でした。
そして、織田信長がもっとも信頼した重臣「明智光秀」は、信長よりも「6歳」または「18歳」年上だったので、「ねずみ年」だったのです。
ある日、信長は不思議な夢をみました。
「馬がネズミに腹を食い破られて亡くなる」
という夢です。(ネズミが馬の尻尾に噛み付いた、という夢だった説もある)
この夢の意味を、信長は瞬時に見破ることが出来ませんでした。
直後に「織田信長」は「本能寺」で「明智光秀」に討ち取られたのでした。
信長は「午(うま)年」、そして「明智光秀」は「ネズミ年」だったのです。
その夢は、つまり「明智光秀(ねずみ)が、織田信長(うま)を討つ」という暗示・予知夢だったのです。
信長は「明智光秀」に討たれることを、得体のしれない何かに知らされていたのでしょう。
江戸時代に読まれた、ある「川柳」に、こんなものがあります。
「丹波の鼠(ねずみ)、京へ出て馬を食ひ」
「丹波の鼠」とは、丹波国を本拠地とした「明智光秀」のこと。
「京の馬」とは、午年(うまどし)の「織田信長」のことです。
つまり当時から、「信長は午年」で、「明智光秀はねずみ年」ということが知られていたということでしょう。
「本能寺の変」が起こる直前、京都の上空で「巨大な流星」が降ったと言われています。
これは西洋の占いによると「大王が殺される前触れ」だったという説があります。
ちなみに、「織田信長」に「桶狭間の戦い」で討ち取られた「今川義元」も、亡くなる直前に「不思議な予知夢」をみたという逸話が残っています。
「今川義元の予知夢」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「織田信長の命日」は、いつ?
「誕生日」が「旧暦」や「新暦」で異なるということは、「織田信長の命日」も、暦によっては異なるということです。
織田信長の命日を、それぞれの暦で表すと、以下のとおりです。
- 「旧暦」では、「天正10年6月2日」
- 「ユリウス暦」では、「1582年6月21日」
- 「グレゴリオ暦」では、「1582年7月1日」
現在我々が使っている暦「グレゴリオ暦」で考えるならば、「織田信長の命日」は「7月1日」ということになります。
先程申し述べましたとおり、織田信長の誕生日は、現在の「グレゴリウス暦」でいうと「7月3日」です。
つまり「織田信長」は、誕生日の2日前に亡くなった、ということになるのです。
「本能寺の変」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」の『生年月日・誕生日』は、暦によって異なるが、「1582年(天文3年)」の「5月12日」、「6月23日」、「7月3日」に生まれたと言われている。
2,「織田信長」の「誕生日」は、現在の「グレゴリオ暦」でみると「7月3日」となる
3,「織田信長」は亡くなる直前に「鼠が馬の腹を食い破る夢をみた」という。これは「明智光秀」が「織田信長」を討つことを暗示したものだった
以上となります。
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ありがとうございました。
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コメント
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歴史は不確定なのが面白いのでやっぱり新しいことがわかるといいです!