織田信長は、本能寺の変で死んでいない?
そもそも明智光秀に本能寺の変を起こさせた黒幕は、いったい誰なのか?
本能寺の変で間違いなく亡くなった織田信長が、生存していると噂されたのは、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が噂を広めたから!
そして最新の定説では、明智光秀が本能寺の変を起こした理由は、四国・長宗我部氏を助けるためで、黒幕などいなかったとのこと。
この記事では本能寺の変の真実を、わかりやすく簡単に解説いたします。
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この記事を短く言うと
- 織田信長は本能寺の変で死んでいない・・という説が、当時からまことしやかに流れていたが、間違いなく亡くなっている
- 本能寺の変の黒幕については、足利義昭・朝廷・徳川家康・豊臣秀吉などなど、様々な憶測をされている
- 東大教授・本郷和人さんが言うには、明智光秀による四国・長宗我部氏の救済が本能寺の変を起こした動機
本能寺の変で、織田信長は死んでいなかったのか?
1582年6月2日早朝、織田信長は重臣の明智光秀の謀反を受けて、京都・本能寺で討死しました。
これからくわしく説明しますが、信長は間違いなく、本能寺で亡くなっています。
信長が発した最期の言葉は
「是非に及ばず」
(仕方のないことだ)
だったと伝えられています。
人間五十年というセリフで有名な【敦盛】という能を舞ったのち、自刃したといわれています。
そんな織田信長ですが、実は本能寺で死んでいないという噂が、当時から広まっていました。
そもそも、どうしてそんな噂が広まったのでしょうか?
実は本能寺の変が起きた直後に、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、「織田信長様は生きている」という噂を広めていたのです。
いわゆる中国大返しと呼ばれる軍団の高速移動に成功した羽柴秀吉は、近畿地方にいた細川幽斎や高山右近・中川清秀などの有力大名に対して
「織田信長様は生きている。京都に潜伏している」
と記された書状を乱発しているのです。
本能寺を襲撃した明智光秀は、必死で織田信長のご遺体を捜索していました。
それにも関わらず、ご遺体は全く見つからなかったのです。
ここでご遺体を発見し、世間にさらさないことには、光秀は窮地に追い込まれます。
理由は簡単です。
織田信長の部下たちを味方に引き入れようと考えていた光秀が、もし【織田信長の死】を証明できないとなると、旧織田家の家臣たちは、光秀へ味方することをためらってしまうからです。
もし万が一、織田信長が生きていたら、光秀に味方した者たちは、ことごとく滅ぼされてしまうことでしょう。
本当に織田信長は亡くなったのか?
その情報の真偽が、明智光秀にとっては今後の運命を左右しかねない死活問題だったのです。
しかし、実際には織田信長は本能寺の変で確実に死んでいました。間違いありません。
その理由も簡単です。
もしも本当に信長が生きていたのなら、のちに姿を現すはずだからです。
しかし、明智光秀が山崎の戦いで秀吉に敗北して亡くなっても、織田信長は姿を表しませんでした。
豊臣秀吉が信長の後をあっさり引き継いでいます。
秀吉は、信長の死から8年後の【1590年】には、信長すら成し遂げられなかった天下統一に成功しています。
もしも信長が生きていたら、そもそも秀吉が天下統一なんてできるわけがないのです。
ただし、もしも秀吉が、潜伏していた織田信長を暗殺でもしていたら、話は別ですが。そんな陰謀説は、現実味が薄い気がします。
織田信長の遺体は、どこにあるの?
織田信長のご遺体は、一説によると清玉上人という僧侶が持ち去ったといわれています。
明智光秀は織田信長の遺体を、本能寺から発見できませんでした。
織田信長は死ぬ直前に、このように考えたでしょう。
「自分の遺体が光秀に発見されれば、光秀は遺体をさらしものとして、自分の死の証拠とされてしまう。
そうなったら、近畿地方にいる織田軍団は、明智光秀に味方するかも知れない。
そんなことになったら、天下を明智光秀に取られてしまう。
そうならないためには、自分の遺体を光秀に渡してはならない。」
本能寺に火をつけたのは、織田信長自身だといわれています。
しかし木造建築の焼失温度では、遺体を跡形もなく灰にすることは出来ません。
そのため、誰かが信長の遺体を持ち去った可能性が高いのです。
京都・阿弥陀寺の住職・清玉上人が信長の遺体を持ち去った
本能寺の変が起きた時、織田信長のご遺体を清玉上人という人が持ち出したという記録が残っています。
本能寺の近く阿弥陀寺の住職・清玉上人が、信長公阿弥陀寺由緒之記録という文書で、織田信長の遺体について記録しています。
本能寺の変が発生した時、清玉上人は僧20名ほどを連れて、本能寺へ向かいました。
そして本能寺の裏手にある墓地で、武士の一団を発見します。
その武士達は、織田信長の部下たちでした。
彼らは織田信長の命令で、明智光秀にご遺体を奪われないように、信長のご遺体を焼いていたのです。
清玉上人は彼らに頼んで、織田信長の遺骨の一部を分けてもらったといいます。
そして、本能寺の僧侶のふりをして、明智軍団に包囲された本能寺から脱出。
阿弥陀寺へもどった清玉上人は、織田信長の遺骨を供養し、埋葬したといわれています。
とはいえこれは、本能寺の変から【136年後】の【1718年】に記された記録であり、一次資料ではありません。
そのためこの【清玉上人が織田信長のご遺体を持ち去った】という説は、信ぴょう性に乏しいといわれているのです。
作家・加藤廣さんは、ご自身の著作【信長の棺】にて
「織田信長は本能寺から南蛮寺への地下通路で脱出しようとした。
しかし、その脱出のための通路は、信長を殺害しようとした羽柴秀吉によって埋められており、信長はやむなく地下道の途中で切腹した。
その遺体を、信長の異母弟である清玉上人が回収し、埋葬した」
という説を唱えておられます。
ご遺体がどこへ行ったのかは、いまだに不明ですが、おそらく本能寺にいた信長の部下が持ち去ったのでしょう。
その信長の部下とは、信長がかわいがった黒人武将・弥助という人物だったともいわれています。
弥助は本能寺の変を生き延びています。
ちなみに、光秀の娘婿である明智左馬助秀満が、信長の遺体を密かに葬った、という逸話があります。
光秀に信長の首を渡せば、足蹴にするなどして、天下人としてあるまじき醜態をさらす可能性がある、と危惧してのことでした。
羽柴秀吉は、この明智秀満の忠義を耳にして
「光秀に、秀満ほどの忠義の心があったなら・・・。
信長様に、光秀ほどの家来を想う心があったなら・・・。」
と言って嘆いたといわれています。
本能寺の変の黒幕は、いったい誰なの?
本能寺の変の黒幕は、いったい誰なのでしょうか?
噂される数多の黒幕達を挙げて、考察してみたいと思います。
足利義昭・黒幕説
織田信長に滅ぼされた室町幕府最後の将軍・足利義昭が、織田信長を死に追いやった黒幕なのでしょうか。
じつは、その可能性は低いといわれています。
室町幕府を織田信長に滅ぼされ、足利義昭は京都から追放されています。
京都から追い出された足利義昭は、中国地方の覇者・毛利家に身をよせて、織田信長に対抗していました。
もともと足利義昭は、明智光秀の主君でした。
その関係を活かして、足利義昭は明智光秀を動かして、織田信長を殺害させたといわれています。
もしも足利義昭が、本能寺の変の黒幕であるならば
明智光秀が本能寺の変を起こすことを、足利義昭は本能寺の変が起こる前から知っていたのかどうか
が重要になります。
知っていたなら黒幕です。
しかし、もしも事前に知らなかったならば、それは黒幕ではありません。
ただの便乗でしかないのです。
本能寺の変が起こったとき、足利義昭が身をよせていた毛利家は、それまで戦っていた羽柴秀吉と講和して停戦しています。
毛利家が羽柴秀吉と停戦してくれたおかげで、秀吉は明智光秀を討伐することに成功したのです。
もしも足利義昭が黒幕なら、身をよせていた毛利家に対して、義昭は本能寺の変が起こって織田信長が亡くなったことを真っ先に知らせたはずです。
そうすることによって義昭は、羽柴秀吉の背後を攻撃させ、明智光秀を援護していたはずなのです。
しかし足利義昭は、本能寺の変が起こったことを毛利家に知らせることなく、結果として羽柴秀吉と毛利家は停戦。
羽柴秀吉の軍団は、明智光秀に襲いかかり、光秀は討ち果たされてしまいます。
このように考えると、足利義昭は黒幕である可能性は低いのではないでしょうか。
朝廷・黒幕説
織田信長を死に追いやった黒幕は、天皇を頂点とする朝廷であるという説があります。
どうやらこれも可能性は低そうです。
信長は、安土城の天守閣に【天主閣】という漢字をつかって、自分こそが日本の主であるとアピールしていたそうです。
朝廷と天皇を廃して、自分が日本国の主となる。
織田信長には、そんな野望があったともいわれています。
しかし実際に信長が、天皇の地位を脅かしたという記録はありません。
むしろ信長は、積極的に朝廷と天皇を保護して大切にしていたといわれています。
ですので、朝廷からしても、信長を討つ理由がありません。
徳川家康・黒幕説
織田信長の盟友で、のちに天下を統一する徳川家康が、本能寺の変の黒幕だという説があります。
これは家康が信長を恨んでいたことを根拠として唱えられている説です。
しかしこれも可能性が低いといわれています。
長男・松平信康と妻・築山殿を織田信長に殺害されたいわれている徳川家康は、信長のことをかなり恨んでいたとされています。(築山殿事件)
1996年の大河ドラマ【秀吉】では、この【徳川家康・黒幕説】が採用されています。
つまりドラマでは、妻と息子を織田信長に殺された家康が、その報復として本能寺の変を引き起こしたという展開になっていたのです。
ところが最近の研究では、家康は信長の命令で、息子と妻を殺害したわけではないと考えられているのです。
実は、家康が息子の信康と築山殿を殺害した理由は、信康と築山殿が謀反を起こそうとしたからだ、という説が近年有力となっています。
織田信長は家康に妻と子供を処刑せよと命令したのではなく、娘の徳姫の婿・信康を殺害する許可を家康から求められ
「好きにすれば良い」
と解答しただけだというのです。
つまり信長は、家康に【妻と息子を処刑せよ】などという命令はしていないのです。
ということは、家康には織田信長を殺す動機がないということです。
家康黒幕説は、可能性が乏しいと思います。
イエズス会・黒幕説
当時日本で信者を爆発的に増やしていたキリスト教イエズス会が、明智光秀を操って織田信長を殺害したという説です。
しかしこの説には、重大な欠点があります。
それは織田信長が、イエズス会の最大の庇護者であったという点です。
日本は当時、刀剣で鍛えられた製鉄技術に支えられた軍事大国でした。
この製鉄技術を使って、日本は当時最先端の兵器であった鉄砲を量産することができたのです。
それだけではありません。
日本は大量の金銀を産出する資源大国でもあったのです。
当時、世界はスペインとポルトガルという2大国によって支配されている状態でした。
日本もまた、イエズス会を送り込むことで信者を増やし、その後スペインとポルトガルの軍団によって侵略されるはずだった、といわれています。
ところが、スペインとポルトガルには、日本を侵略する力などありませんでした。
なぜなら世界中の鉄砲の8割が日本にあり、スペインやポルトガルにも負けない軍事力が日本にはあったからです。
遠い海の向こうにいるスペインとポルトガルに、日本を侵略するなど到底不可能だったのです。
鉄砲を使う際に必要不可欠なのが火薬です。
その火薬の原料が、硝石です。
日本で産出できない硝石は、当時輸入に頼りきりでした。
硝石を輸入するためにも、織田信長はイエズス会と良好な関係を維持していたはずなのです。
そんなイエズス会に、織田信長を殺害する動機はありません。
ちなみに、本能寺の変で織田信長が亡くなった後、豊臣秀吉は【バテレン追放令】を出して、キリスト教を国外に追放しています。
これにより、信者を増やして日本を侵略してしまおうというイエズス会の作戦は、失敗に終わったのです。
羽柴秀吉・黒幕説
羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、織田信長がいなくなって、一番得をした人物です。
しかし、この秀吉黒幕説も可能性が低そうです。
そういえば、明智光秀の子孫である明智憲三郎さんが、この秀吉黒幕説を唱えておられました。
どうやら漫画にもなっているみたいです。
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しかし、もし羽柴秀吉が黒幕なのだとしたら、光秀が秀吉にとって都合よく、泥をかぶったまま死んでくれるなんてことが起こるのでしょうか?
秀吉が黒幕ならば、その手先となった明智光秀は、山崎の戦い前に【本能寺の変の黒幕は羽柴秀吉だ】と大声で騒ぐのではないでしょうか。
たしかに秀吉が裏で暗躍し、光秀を操っていた可能性もあるとは思います。
しかし、そんなに都合よく、明智光秀が羽柴秀吉の操り人形を演じてくれるのか?という点が、大いに疑問です。
本能寺の変の真相とは?黒幕は誰なのか?
本能寺の変の真相と黒幕について、解説していこうと思います。
その前にまず、明智光秀が読んだといわれている俳句について解説していこうと思います。
とても有名な俳句ですが、実はこれ、後世の創作である可能性が高いのだそうです。
時は今 雨がしたしる 五月かな
「時は今 雨がしたしる 五月かな」
この俳句を読んで、明智光秀は謀反を起こしたといわれています。
どういう意味なのかというと
【時】という文字が意味するのは、明智光秀の一族である土岐氏のこと。
【雨がしたしる】というのは、【天が下知る】と書き換えることができます。
つまりこれは【天下に下知する】という意味に取れるのです。
【下知する】とは、【上のものから下のものへ指図・命令をする】という意味です。
つまりこれは、【土岐氏が今こそ天下のものたちへ指図・命令をする立場へとのぼりつめる時である】という意味になります。
つまり【天が下知る】とは、【天下を支配する】ということを意味するのです。
まとめて訳しますとこの俳句は
土岐氏は今こそ、天下を支配するべきだ
という意味になります。
とはいえ本当はこの俳句
時は今 雨がしたなる 五月かな
と読まれていたものだそうです。
この俳句に込められた意味は
「私たち土岐一族は今、雨にさらされる五月のような辛い状況だが、頑張ろう」
という意味になります。
この【したしる】という一説は、後世の創作と考えられているのです。
明智光秀が本能寺の変を起こした真の動機は何だったの?
明智光秀が本能寺の変を起こした真の動機は、織田信長が起こそうとしていた四国・長曾我部元親の討伐軍の出撃を阻止するためだったと考えられています。
本能寺の変が起こったのは【1582年6月2日】です。
この日付がもっとも重要だと、東京大学教授の本郷和人先生がおっしゃっていました。
本郷和人先生がおっしゃるには、【本能寺の変は明智光秀の単独犯行であり、黒幕などいない】とのことです。
明智光秀が、なぜ本能寺の変を起こしたかというと、四国征伐軍を止めるためでした。
1582年6月2日は、織田信長の三男・織田信孝が、織田家の重臣・丹羽長秀とともに、大軍団をひきいて四国の支配者・長曾我部元親を討伐するために出撃する日でした。
光秀は四国の大名・長宗我部元親と、長年友好的な関係を維持していました。
長曾我部元親は、織田信長への臣従を約束していたといわれています。
そんななかで織田信長は、長宗我部元親にたいして
支配している四国の領地をよこせ
とむちゃくちゃな要求をし始めます。
それまで長曾我部元親は、四国のほとんどを征服していました。
そして、四国のうち2カ国を織田家に割譲することで同意したのでした。
この困難な交渉をまとめたのが、明智光秀でした。
しかし織田信長は交渉がまとまった直後に、いきなり方針転換を転換して、長曾我部元親を滅ぼすことを決意したのでした。
これにより、明智光秀の面目は丸つぶれとなりました。
なぜなら明智光秀を信じてその身を委ねていた長曾我部元親が、滅亡寸前の状態に追い込まれたのですから。
光秀は日本全国に、【明智光秀は信用できない人間だ】という悪い評判を広めてしまったといっても言い過ぎではありません。
明智光秀の部下・斎藤利三は、長宗我部元親の親戚でした。
ですので、織田信長の長曾我部元親を滅ぼせという命令は、斎藤利三を絶望の淵に叩き落したはずです。
光秀も愕然としたでしょう。
本郷和人先生がいうには、朝令暮改を繰り返す織田信長に対して、まっとうな人間だった明智光秀がキレてしまった、というのが本能寺の変の真相だとお考えのようでした。
もうこれ以上、織田信長にはついていけないと判断した明智光秀が、本能寺で織田信長を襲撃したのだ、という説を唱えておられました。
実は織田信長は、明智光秀をとても高く評価していました。
近畿地方の織田軍団を全て、明智光秀に任せきりにしているほどです。
そのため、織田信長は明智光秀を信頼しきって、まったく警戒していませんでした。
近畿地方は、明智光秀が大軍団をひきいて支配しているのです。信長からすれば安心しきっていたはずです。
だから織田信長は、本能寺へわずか100名ほどで宿泊したのです。
話は変わりますが、明智光秀は織田信長からけ、っこうヒドイ目にあわされていました。
- 苦労して準備した徳川家康の接待役を途中でクビになった
- 飲めない酒を信長に無理矢理飲まされた
- 敵大名・波多野秀治へ人質に出した母を見殺しにされた(後世の創作であるという説あり)
光秀は、人使いの荒い信長にかなりイライラしていたみたいです。
さらに話は変わりますが、漫画家の黒鉄ヒロシさんが、こんなことを言っていました。
「本能寺の変のとき、明智光秀の目の前には、天下が転がっていた。
ストライクコースに来たボールに、野球選手が思わず手を出してしまうように、目の前に天下が転がっていたら、思わず手を出してしまうのが戦国武将だ。」
つまり明智光秀は、いま織田信長を殺害すれば、天下は自分のものだ、と甘い考えにさらされていたということです。
本郷和人さんも、黒鉄ヒロシさんも、明智光秀は衝動的に謀反を起こしたと考えているのです。
もしかしたら、周囲が勝手にミステリー化しているだけで、真相は意外とこんなふうに単純なのものなのかもしれません。
つまり本能寺の変の真相は、明智光秀による単独犯行であり、衝動的な事件だったということなのではないでしょうか。
一説によれば、明智光秀が本能寺の変を起こした理由は、織田信長によって理不尽に領地をとりあげられ、激怒したためだといわれています。
坂本と丹波の領地を召し上げられ、代わりにまだに毛利家の領地であった出雲・岩見の二カ国を与えるといわれ、実質的な領地没収をくらった光秀がキレたという説です。
しかし、当時このような形の領地替えは頻繁にあったため、これが謀反の原因である可能性が極めて低いのだそうです。
むしろ世界有数の銀山である石見銀山がある石見国をもらえて、栄転といっていいほどだという意見もあるほどです。
例えば、1615年の大坂の陣に参戦した真田幸村は、50万石の領地をもらうことを条件に豊臣家に味方したといわれています。
しかしこれは当然ですが、勝利して敵の領地を奪い取れたらという条件付きでした。
おそらく明智光秀の場合も、これと同じように、勝利して敵の領地を奪えたら、という条件付きではあるものの、秋の年貢収穫時期までに毛利家を滅ぼせる目算がついていたこの時期ならば、それほど恐ろしいことでもなかったはずです。
明智光秀の性格について、脳機能学者の中野信子さんが、こんなことをいっていました。
「明智光秀は、武士に向かない人だった」
織田信長の仕打ちに耐えられないほど、明智光秀は真っ当な人だったのでしょうね。
2020年大河ドラマは、明智光秀を主人公とした作品【麒麟がくる】でした。
このドラマの中で明智光秀は、すべてを支配する万人の王になろうとする織田信長を止めるために、本能寺の変を起こしたということになっています。
→→→→→【織田信長と明智光秀・豊臣秀吉の関係】についてくわしくはこちら
織田信長の生涯を短く簡単なストーリーで解説
【1534年】、時は戦国時代、現在の愛知県西部・尾張国に、1人の武将が誕生します。
その名は、織田信長
100年近くも続く戦国の時代。信長が生まれたことで、時代は大きく動き始めます。
信長という天才が天下統一を目指したことにより、戦乱の時代は、一気に平和な時代へ向けて進み始めるのです。
【1560年】、織田信長が支配する国・尾張へ、長年の宿敵である東の大国・駿河の猛将・今川義元が、4万人の大軍団を率いて進撃してきます。
対する織田信長の軍は、わずか3千。
織田信長に、到底勝ち目などありませんでした。
しかし、幼い頃から兵法を学びつづけていた信長は、桶狭間と呼ばれる峡谷へ敵を誘い込み、一気に今川軍に突撃。
この織田信長の決死の作戦により、奇跡的に今川義元を討ち取ることに成功します。
この桶狭間の戦いから約20年、織田信長は
- 浅井長政
- 比叡山・延暦寺
- 足利義昭
- 石山本願寺
- 武田勝頼
などの強敵を次々と退けて、愛知県の西半分だけを支配する小さい領主から、ついに関東から中国地方までを制圧する大勢力へと成長を遂げたのでした。
織田信長をもっとも苦しめたのが、一向宗と呼ばれる石山本願寺という宗教勢力でした。
彼らは南無阿弥陀仏と唱えれば、それだけで極楽浄土へいけるという教えを信じ切っていました。
今でいう自爆テロのような戦いを繰り返した一向宗は、織田信長に対して決死の戦いを挑み続けたのです。
10年に及ぶ石山本願寺との戦いも、圧倒的な経済力と鉄砲という最新兵器の力により、最後は織田信長の勝利に終わります。
最大の強敵・石山本願寺を倒した織田信長。
夢にまでみた天下統一は、もはや目前でした。
しかし、そんな信長を悲劇が襲います。
【1582年6月2日】、本能寺の変が起こるのです。
織田信長は、自分がもっとも信頼していた部下である明智光秀の突然の裏切りにより、49年の生涯を閉じることとなるのです。
是非に及ばず
これは現代語に訳すと【仕方のないことだ】という意味になります。
信長が残したこの最期の言葉を聞くたびに、信長はどれほど無念だったか、その無念の気持ちがにじみ出ている気がするのです。
絶対的な統治者であった織田信長が亡くなったことで、世の中は一気に戦国乱世へと逆戻りします。
織田信長の後継者・豊臣秀吉が天下統一を成し遂げたのは、信長の死後8年が経過した【1590年】のことでした。
しかし天下統一はするものの、戦乱が終わることはありませんでした。
真に平和な時代を迎えるまでには、徳川家康が豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼を滅ぼした【1615年】まで待たなくてはなりません。
歴史に【もし】はありませんが、もし織田信長が本能寺の変で死なずに生きていたら、もっと早く平和な時代が訪れていたかもしれません。
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まとめ
本日の記事をまとめますと
- 信長は、本能寺の変を生き残ったはずはない。間違いなく本能寺の変で亡くなっている
- 本能寺の変に、黒幕はいない。明智光秀の単独犯行である可能性が極めて高い
- 東大教授・本郷和人さんがいうには、朝令暮改を繰り返す織田信長に、明智光秀がキレた。そして長宗我部元親を救うために光秀は信長を討ったとのこと
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
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