この記事では「織田信長の最期の名言」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「信長が最期にどのような言葉を口にしたのか」を、カンタンに理解できます。
「織田信長」の最期の名言は「是非に及ばず(ぜひにおよばず)」というものでした。
この言葉には、信長の「あきらめ」と「後悔」の意味が込められていると、筆者は思います。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
「信長」は、死の間際に「是非に及ばず(ぜひにおよばず)」と口にしたという。
2,「信長」の最期の言葉の意味とは?
「是非に及ばず」とは、現代語に訳すと「仕方のないことだ」という意味になる。
3,「信長」の最期の言葉に隠された「覚悟」と「後悔」とは何か?
信長はおそらく、「明智光秀」に謀反を起こされる心当たりがあったのだろう。そのため「是非に及ばず」という言葉には、「死を覚悟する」とともに「光秀に謀反を起こされたのなら仕方ない」という「後悔」が感じられる。
織田信長が「本能寺の変」で最期に残した「名言」とは?
【1582年6月】、「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれた「織田信長」が、最期に残した言葉、それは
「是非に及ばず(ぜひにおよばず)」
であったと言われています。
この言葉は、「本能寺の変」から【400年】以上が経過した今も、「織田信長が残した名言」として、語り継がれています。
この言葉は、信長の「右筆(ゆうひつ・秘書)」であった「太田牛一」が記した信長の公式記録「信長公記(しんちょうこうき)」に記されています。
|
織田信長は小姓の「森蘭丸」から、「明智光秀が謀反を起こした」と耳にすると、静かに「是非に及ばず」と口にして、最期の戦いに挑んだのでした。
実は「信長公記」には、この「是非に及ばず」の後、信長が口にした言葉がもう一つ記録されています。
正確にいえば、それこそが「織田信長の最期の言葉」ということになるのかもしれません。
信長は「是非に及ばず」と口にすると、「弓」や「槍」をとって自ら戦ったと記されています。
そのとき信長の近くには、「女房衆」と呼ばれる女性たちが従っていました。
信長は彼女たちに、こう言ったと「信長公記」に記されています。
「女子たちはもういい。
急いで脱出せよ。」
つまり信長は、「もういいから、急いで逃げろ」と言ったのです。
明智軍1万人に囲まれていた「本能寺」でしたが、信長につかえた黒人の側近「弥助」や、信長が逃がした「女性たち」は、無事脱出に成功しています。
「弥助」は明智光秀につかまったものの、殺されず、命を救われています。
女性が見逃されたのは、当時の「しきたり」というか、当然の「ルール」だったのかもしれません。
【1996年】の大河ドラマ「秀吉」の第30回「信長、死す」において、俳優「渡哲也」さんが演じた「織田信長」が、側室「お鍋の方」に対して
「女たちは苦しゅうない。急ぎ退出せよ。
光秀は女を殺すような奴ではない」
というシーンがありました。
実際に、信長は光秀が「女性」を殺すような男ではないことを確信していたのかもしれません。
ちなみに史実では、信長の側室「お鍋の方」は、「本能寺」にいませんでした。
「本能寺の変」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「最期の言葉」の「意味」を解説
「是非に及ばず」とは、「やむを得ない」とか「仕方のないことだ」という意味で、「あきらめ」を意味する言葉です。
「本能寺」に宿泊していた信長は、外で大軍団の大声が聞こえてくると、部下たちに対して
「さては謀反か!
いったい誰が謀反を起こしたのだ?」
と尋ねたといいます。
諸説あるものの、信長はこのとき、「明智光秀」の謀反ではなく、自らの実子である「織田信忠」の謀反を疑ったとも言われています。
または「僧兵が攻め込んできた」とか、「町の市民が反乱を起こした」とか、そんなことを考え、口走ったという説もあります。
このとき信長は
「明智光秀が謀反を起こしたのではないか?」
ということを全く想像せず、口にもしていません。
息子「信忠」の謀反は疑っても、「光秀」の謀反は疑わない・・・。
それだけ信長は、「明智光秀」を信頼しきっていたのです。
ところが、その「明智光秀」が、謀反を起こした張本人だったわけです。
それを「森蘭丸」から聞かされた「織田信長」は、短くたった一言だけ
「是非に及ばず(ぜひにおよばず)」
と口にして、最期の戦場へと向かっていったのでした。
この「是非に及ばず」という言葉には、信長の「諦め」と「後悔」がにじみ出ていると、筆者には感じられるのです。
「明智光秀」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
信長が「最期の言葉」で示した「覚悟」と「後悔」
信長の「是非に及ばず」という言葉には、信長の「覚悟」と「後悔」が込められていると思います。
信長は「明智光秀が謀反を起こした」という言葉を耳にして、即座にあきらめ、死を覚悟したのでしょう。
「明智光秀」は、織田家でもトップの名将です。
「明智軍1万3千人」は当時、最先端の装備を整えた、戦国屈指の最強軍団でした。
その「明智光秀」が相手では勝ち目がない、と信長は即座に理解したのです。
だからこそ、無駄にあがいたり、叫んだりするようなことをしなかったのです。
ただ「是非に及ばず」と、ひとことだけ静かに口にしたのでしょう。
もう一つ、信長の「是非に及ばず」という言葉には、「後悔の念」もあったように感じられます。
「是非に及ばず」、つまり「仕方のないことだ」と口にした信長は、
「明智光秀から謀反を起こされても仕方のない事情」
について、心当たりがあったのでしょう。
「仕方のないことだ」
というのは
「明智光秀が相手では、死ぬことも仕方のないことだ」
という意味の他にも
「明智光秀ならば、謀反を起こしたとしても、仕方のないことだ」
という意味が込められていたのでしょう。
「明智光秀」が「本能寺の変」を起こした動機には、諸説あります。
しかし最新の説によると「明智光秀の怨恨」が原因の一つであると言われています。
特に「四国説」と呼ばれる説が、近年注目を集めています。
明智光秀の長年の盟友である「長宗我部元親」を、「織田信長」が討伐しようとしたことが原因だというのです。
信長のその行動が「明智光秀」を激怒させ、「本能寺の変」を起こした、という説です。
そのほかにも、信長は「明智光秀」に裏切られる心当たりがあったのかもしれません。
実は「織田信長」の最期の言葉「是非に及ばず」を、全く違う意味で解釈した人がいます。
それは「明智光秀」の末裔で、作家の「明智憲三郎」さんです。
「四国説」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
明智光秀の子孫が解説した「信長」が残した「2つ」の「最期の言葉」
「明智光秀」の子孫を自称する作家「明智憲三郎」さんがおっしゃるには、信長の「最期の言葉」は「2つ」あったのだとか。
「是非に及ばず」
と
「余は自ら死を招いたな」
という2つです。
「明智憲三郎」さんがおっしゃるには、「是非に及ばず」とは、「明智光秀」が謀反を起こしたと聞いたときに、その言葉に対して
「是か非かを確認するにおよばず」
つまり
「明智光秀が本当に謀反を起こしたかどうかを、改めて確かめる必要などない」
(光秀が謀反を起こしたことについては、すでにわかっているし、疑いようなどない。間違いなどありえない。)
という意味で言ったのだ、というのです。
さらに
「余は自ら死を招いた」
というのは、「織田信長」が「明智光秀」に命じていた「徳川家康・暗殺計画」を、逆に利用されたことを示唆しているのだとか。
「明智憲三郎」さんによれば、「本能寺の変」は「徳川家康」と「明智光秀」が協力して、「織田信長」を討ち果たした事件なのだそうです。
「信長」は、将来強敵となりかねない「徳川家康」を暗殺しようと、「明智光秀」に軍勢を与えて襲撃させようとしたのです。
ところが光秀は、ターゲットのはずの「徳川家康」と協力して、逆に信長を襲撃したのです。
つまり信長は、「明智光秀が謀反を起こした」と耳にして「自分の策略が逆手に取られた」と悟ったのです。
「余は自ら死を招いた」
この言葉の意味は、そういう意味だと、「明智憲三郎」さんは主張しておられます。
ちなみにこの「余は自ら死を招いた」という言葉は、黒人武将「弥助」が証言したものと言われています。
くわしくは、「明智憲三郎」さんの作品「本能寺の変~431年目の真実~」を漫画化した「信長を殺した男」の「第一巻」に描かれています。
|
|
余談ですが、【2017年】の大河ドラマ「おんな城主 直虎」でも、「本能寺の変」は「徳川家康」と「明智光秀」が共謀して起こしたものとして描かれています。
「明智光秀の子孫」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」が「本能寺の変」で、最期に残した名言とは、「是非に及ばず(ぜひにおよばず)」だった
2,「是非に及ばず」とは、現代語に訳すと「仕方のないことだ」という意味になる。
3,「信長」は、「明智光秀」に謀反を起こされる心当たりがあったのだろう。そのため「是非に及ばず」という言葉には、「死を覚悟する」とともに「光秀に謀反を起こされたのなら仕方ない」という「後悔」が感じられる。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
『織田信長』関連記事
よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
「織田信長の遺体の行方を調査!実は謎でも行方不明でもなかった」の記事はコチラ
「【織田信長】最後の言葉と辞世の歌は?亡くなる時の詳細な様子を紹介」の記事はコチラ
「織田信長の嫁の名前一覧表!正妻は「帰蝶」ではなく生駒吉乃?」の記事はコチラ
「【織田信長】家紋の意味や花の由来!読み方を画像付きで簡単解説!」の記事はコチラ
「織田信長の名言集と意味解説!ホトトギスや人生50年に潜む秘密とは」の記事はコチラ
「織田信長の居城と場所を紹介!安土・岐阜の名前の由来や城下町の政策」の記事はコチラ
「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の関係や人柄・性格をエピソードで簡単解説」の記事はコチラ
「織田信長と池田恒興(つねおき)の関係と最期を解説!子・輝政の逸話」の記事はコチラ
「織田信長の生い立ちから最期まで!3分でわかりやすく簡単に解説!」の記事はコチラ
「[織田信長]本能寺の変で死んでない?真実と黒幕を分かりやすく簡単に解説」の記事はコチラ
「織田信長の家系図と子孫を解説!「きちょう」こと濃姫との子供とは?」の記事はコチラ
「織田信長がしたことを年表にまとめて簡単解説!『天下の取り方』教えます」の記事はコチラ
「織田信長はどんな人物だったの?意外にも優しいエピソードが多かった」の記事はコチラ
「明智光秀と織田信長・豊臣秀吉の関係を解説!実は互いを憎んでいた?」の記事はコチラ
「織田信長家臣・弥助(やすけ)の生涯!彼が持つ信長デスマスクは本物?」の記事はコチラ
『【本能寺の変】の謎や真相をすべて解説!黒幕や動機について完全網羅』の記事はコチラ
コメント