この記事では「織田信長による尾張統一までの道のり」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「尾張統一への道のり」を、カンタンに理解できます。
「織田信長」は「織田大和守家」、「弟・信勝」、「織田伊勢守家」、なのです。
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この記事を短く言うと
1,織田信長が「織田家の家督を継承」する以前の、勢力関係は、どうなっていたのか?
信長は家督継承したとき、けっして尾張国のすべてを支配していたわけではなく、内憂外患の状態で、敵だらけだった。
2,信長の尾張統一に立ちはだかった「6つの敵勢力」とは
信長は、尾張国内に「織田大和守家」、「弟・織田信勝」、「織田伊勢守家」という敵勢力をかかえ、国外には「今川義元」や「斎藤義龍」の敵を抱えていた。
3,「尾張統一」までの道のりは、どのようなものだったのか?
【1552年】に家督継承した織田信長は、「織田大和守家」、「織田信勝」、「織田伊勢守家」と、順番に敵勢力を撃破。外国勢力の「今川義元」を「桶狭間の戦い」で撃破して、【1565年】に「織田信清」の「犬山城」を陥落させて、「尾張統一」を成功させた。
織田信長の「家督継承」以前の勢力関係をカンタン解説
【1552年】、「織田信秀」が病死したため、息子の「織田信長」は19歳で織田家の家督を継承。
このとき、「信長」の周辺は「敵だらけ」でした。
当時、織田信長が領地を持っていた「尾張国(愛知県西部)」は、いくつもの勢力により分裂していました。
信長は、家督継承をしたとき、「尾張国」を統一していたわけではなく、「尾張国の一部」を支配していたにすぎないのです。
しかも信長の弟「織田信勝」は、兄「信長」に対して敵対心をあらわにしていました。
さらに信長は、当時日本でも有数の巨大勢力「今川義元」と敵対していました。
それだけではありません。
友好的だった妻「帰蝶」の父「斎藤道三」が、信長が家督を継承した4年後の【1556年】に、息子「斎藤義龍(高政)」に殺害されてしまうのです。
その「斎藤義龍」は、織田信長と敵対することになります。
- 「尾張国内」の敵対勢力
- 「今川義元」
- 「斎藤義龍」
信長が家督を継承したとき、周辺はまさに敵だらけだったのです。
「今川義元」と「斎藤義龍(高政)」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
信長の「尾張統一」に立ちはだかった「6つの敵勢力」
織田信長は、敵だらけの状況から、着々と「尾張統一」を実現させていきます。
その「尾張統一」への道に立ちはだかったのが、「6つの敵勢力」です。
それをまとめてご紹介いたしますと、以下のとおりです。
- 織田大和守家(織田彦五郎信友)
- 弟「織田信勝」
- 織田伊勢守家(織田信賢)
- 今川義元
- 斎藤義龍・斎藤龍興
- 織田信清(犬山城主)
織田信長は、【1552年】に家督を継承し、【1565年】に尾張国統一を実現します。
14年にもおよぶ戦いの中で織田信長は、これら「6つの敵勢力」を、見事に撃破していくのです。
ちなみに、当時の尾張国は、全部で8つの郡に分割されていましたが、この8つの郡をそれぞれ4つずつに分けて
尾張国・上四郡を「織田伊勢守家」が支配。
尾張国・下四郡を「織田大和守家」が支配していたのです。
信長はもともと「織田大和守家」の部下の家柄でしたが、信長が家督を継承したときには、信長と「織田大和守家」は、敵対関係にあったのでした。
また、信長の行く手をさえぎった「織田伊勢守家」の「織田信賢」と、犬山城主「織田信清」は、信長の「いとこ」にあたります。
「尾張統一」の道のりを「年表」で解説!
織田信長の「尾張統一」までの道のりを、「年表」でわかりやすく解説致します。
【1552年】(信長19歳)
父「織田信秀」が死去。織田家の家督を継承する
「萱津(かやづ)の戦い」、織田信長が「尾張大和守家」の「織田彦五郎信友」に攻められ、これを返り討ちにする。
【1553年】(20歳)
義父「斎藤道三」と「聖徳寺」で会見。
道三は「織田信長」の才能を見抜き、積極的に支援することを決意する
【1554年】(21歳)
「村木砦の戦い」、「斎藤道三」の支援を受けて、「今川義元」の軍を「鉄砲」を活用した戦術で撃破。
尾張国の守護「斯波義統(しば よしむね)」が、信長の敵対勢力「尾張大和守家」に殺害される。
「斯波義統」の息子「斯波義銀(しば よしかね)」が、「織田信長」を頼り、信長に保護される。
「安食の戦い」、信長は「斯波義統」の仇を討つという名目で、「尾張大和守家」と交戦し、長槍をつかって圧勝。
【1555年】(22歳)
「尾張大和守家」の当主「織田彦五郎信友」は、信長の叔父「織田信光」の策略によって討伐され、居城だった「清州城」を信長に奪われる。
【1556年】(23歳)
「長良川の戦い」、義父「斎藤道三」が息子「斎藤義龍(高政)」に討たれる。
「稲生の戦い」、信長の弟「織田信勝」が、「柴田勝家」や「林通勝」などの武将にかつぎあげられて、兄「信長」に戦いを挑んだ。
結果は「信長」の勝利。母「土田御前」の仲介により、信長は「信勝・勝家・通勝」の三名を許した。
【1558年】(25歳)
弟「織田信勝」が再び謀反を計画したので、信長は「信勝」を暗殺
「浮野の戦い」、信長は「いとこ」である犬山城主「織田信清」と協力して、「尾張伊勢守家」の当主「織田信賢」と激突し、勝利。
【1559年】(26歳)
「織田信賢」の居城「岩倉城」を陥落させる。「織田信賢」は尾張国より追放。
【1560年】(27歳)
「桶狭間の戦い」、「今川義元」を撃破。
【1561年】(28歳)
宿敵だった美濃国の「斎藤義龍」が病死。
息子の「斎藤龍興」が斎藤家の家督を継承。
【1562年】(29歳)
「今川義元」の息子「今川氏真」の勢力に対抗するため、「松平元康(徳川家康)」と「清洲同盟」という軍事同盟を締結。
この「清洲同盟」により、信長は「美濃国」攻略に集中することとなる。
【1563年】(30歳)
拠点を「清州城」から「小牧山城」に移動させ、本格的に「美濃国」の攻略を開始。
【1565年】(32歳)
敵対していた「いとこ」の「織田信清」と交戦。
「織田信清」の居城「犬山城」を陥落させ、信清が尾張国から逃亡。
これにより、織田信長の「尾張統一」が完了
【1567年】(34歳)
美濃国「稲葉山城」が陥落。
「斎藤龍興」が伊勢国へ逃亡。
「美濃国」の攻略完了。
【1568年】(35歳)
「足利義昭」を連れて上洛(京都へ進軍)。
「三好三人衆」や「三好義継」を撃破して、京都や畿内を制圧。
天下人へと駆け上がり始める。
「織田信長の詳しい年表」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「尾張統一」後から、「本能寺の変」での最期までを、簡単解説
信長は【1565年】に、尾張国統一を実現したわけですが、そこから一気に勢力を飛躍的に拡大していきます。
2年後の【1567年】に、広大な美濃国を攻め落とすことに成功。
そのさらに1年後【1568年】には、「足利義昭」を連れて京都を支配。
このとき、北伊勢・南近江・山城・大和など、の広い地域を制圧することに成功しています。
【1570年】から【1580年】まで、「石山本願寺」との「石山戦争」に苦しめられたものの、これに勝利。
- 「石山本願寺(本願寺顕如)」
- 「浅井長政」
- 「朝倉義景」
- 「比叡山延暦寺」
- 「武田信玄・勝頼」親子
- 「足利義昭」
などの勢力を次々と撃破して、信長は関東から中国地方までの広大な地域を支配する「大勢力」をつくりあげたのです。
しかし、天下統一目前に迫った【1582年】、「織田信長」は、もっとも信頼していた重臣「明智光秀」が起こした「本能寺の変」で亡くなります。
「尾張統一」を成し遂げた【17年後】に、信長は亡くなる事となるのです。
「本能寺の変」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,織田信長が家督継承したとき、けっして尾張国のすべてを支配していたわけではなく、内憂外患の状態で、敵だらけだった。
2,信長は、尾張国内に「織田大和守家」、「弟・織田信勝」、「織田伊勢守家」という敵勢力をかかえ、国外には「今川義元」や「斎藤義龍」の敵を抱えていた。
3,【1552年】に家督継承した織田信長は、「織田大和守家」、「織田信勝」、「織田伊勢守家」と、順番に敵勢力を撃破。国外の強敵「今川義元」を「桶狭間の戦い」で撃破して、【1565年】に「織田信清」の「犬山城」を陥落させて、「尾張統一」を成功させた。
以上となります。
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ありがとうございました。
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