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織田信長の尾張統一はいつ?統一まで14年を年表でわかりやすく簡単に解説

この記事では「織田信長による尾張統一までの道のり」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「尾張統一への道のり」を、カンタンに理解できます。

 

「織田信長」は「織田大和守家」、「弟・信勝」、「織田伊勢守家」、なのです。


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この記事を短く言うと

 

1,織田信長が「織田家の家督を継承」する以前の、勢力関係は、どうなっていたのか?

信長は家督継承したとき、けっして尾張国のすべてを支配していたわけではなく、内憂外患の状態で、敵だらけだった。

 

2,信長の尾張統一に立ちはだかった「6つの敵勢力」とは

信長は、尾張国内に「織田大和守家」、「弟・織田信勝」、「織田伊勢守家」という敵勢力をかかえ、国外には「今川義元」や「斎藤義龍」の敵を抱えていた。

 

3,「尾張統一」までの道のりは、どのようなものだったのか?

1552年】に家督継承した織田信長は、「織田大和守家」、「織田信勝」、「織田伊勢守家」と、順番に敵勢力を撃破。外国勢力の「今川義元」を「桶狭間の戦い」で撃破して、【1565年】に「織田信清」の「犬山城」を陥落させて、「尾張統一」を成功させた。

織田信長の「家督継承」以前の勢力関係をカンタン解説

1552年】、「織田信秀」が病死したため、息子の「織田信長」は19歳で織田家の家督を継承。

 

このとき、「信長」の周辺は「敵だらけ」でした。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

当時、織田信長が領地を持っていた「尾張国(愛知県西部)」は、いくつもの勢力により分裂していました。

 

信長は、家督継承をしたとき、「尾張国」を統一していたわけではなく、「尾張国の一部」を支配していたにすぎないのです。

 

しかも信長の弟「織田信勝」は、兄「信長」に対して敵対心をあらわにしていました。

 

さらに信長は、当時日本でも有数の巨大勢力「今川義元」と敵対していました。

 

それだけではありません。

 

友好的だった妻「帰蝶」の父「斎藤道三」が、信長が家督を継承した4年後の【1556年】に、息子「斎藤義龍(高政)」に殺害されてしまうのです。

 

その「斎藤義龍」は、織田信長と敵対することになります。

  • 「尾張国内」の敵対勢力
  • 「今川義元」
  • 「斎藤義龍」

信長が家督を継承したとき、周辺はまさに敵だらけだったのです。

 

「今川義元」と「斎藤義龍(高政)」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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信長の「尾張統一」に立ちはだかった「6つの敵勢力」

織田信長は、敵だらけの状況から、着々と「尾張統一」を実現させていきます。

 

その「尾張統一」への道に立ちはだかったのが、「6つの敵勢力」です。

 

それをまとめてご紹介いたしますと、以下のとおりです。

  1. 織田大和守家(織田彦五郎信友)
  2. 弟「織田信勝」
  3. 織田伊勢守家(織田信賢)
  4. 今川義元
  5. 斎藤義龍・斎藤龍興
  6. 織田信清(犬山城主)

 

織田信長は、【1552年】に家督を継承し、【1565年】に尾張国統一を実現します。

 

14年にもおよぶ戦いの中で織田信長は、これら「6つの敵勢力」を、見事に撃破していくのです。

 

ちなみに、当時の尾張国は、全部で8つの郡に分割されていましたが、この8つの郡をそれぞれ4つずつに分けて

尾張国・上四郡を「織田伊勢守家」が支配。

尾張国・下四郡を「織田大和守家」が支配していたのです。

 

信長はもともと「織田大和守家」の部下の家柄でしたが、信長が家督を継承したときには、信長と「織田大和守家」は、敵対関係にあったのでした。

 

また、信長の行く手をさえぎった「織田伊勢守家」の「織田信賢」と、犬山城主「織田信清」は、信長の「いとこ」にあたります。

《織田家・家系図》
「家系図の引用等は、何卒ご遠慮くださいませ」



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「尾張統一」の道のりを「年表」で解説!

織田信長の「尾張統一」までの道のりを、「年表」でわかりやすく解説致します。


1552年】(信長19歳)

父「織田信秀」が死去。織田家の家督を継承する

「萱津(かやづ)の戦い」、織田信長が「尾張大和守家」の「織田彦五郎信友」に攻められ、これを返り討ちにする。

 

 

1553年】(20歳)

義父「斎藤道三」と「聖徳寺」で会見。

道三は「織田信長」の才能を見抜き、積極的に支援することを決意する

 

 

1554年】(21歳)

村木砦の戦い」、「斎藤道三」の支援を受けて、「今川義元」の軍を「鉄砲」を活用した戦術で撃破。

尾張国の守護「斯波義統(しば よしむね)」が、信長の敵対勢力「尾張大和守家」に殺害される。

「斯波義統」の息子「斯波義銀(しば よしかね)」が、「織田信長」を頼り、信長に保護される。

安食の戦い」、信長は「斯波義統」の仇を討つという名目で、「尾張大和守家」と交戦し、長槍をつかって圧勝。

 

 

1555年】(22歳)

「尾張大和守家」の当主「織田彦五郎信友」は、信長の叔父「織田信光」の策略によって討伐され、居城だった「清州城」を信長に奪われる。



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1556年】(23歳)

「長良川の戦い」、義父「斎藤道三」が息子「斎藤義龍(高政)」に討たれる。

「稲生の戦い」、信長の弟「織田信勝」が、「柴田勝家」や「林通勝」などの武将にかつぎあげられて、兄「信長」に戦いを挑んだ。

結果は「信長」の勝利。母「土田御前」の仲介により、信長は「信勝・勝家・通勝」の三名を許した。

 

 

1558年】(25歳)

弟「織田信勝」が再び謀反を計画したので、信長は「信勝」を暗殺

「浮野の戦い」、信長は「いとこ」である犬山城主「織田信清」と協力して、「尾張伊勢守家」の当主「織田信賢」と激突し、勝利。

 

 

1559年】(26歳)

「織田信賢」の居城「岩倉城」を陥落させる。「織田信賢」は尾張国より追放。

 

 

1560年】(27歳)

「桶狭間の戦い」、「今川義元」を撃破。

 

 

1561年】(28歳)

宿敵だった美濃国の「斎藤義龍」が病死。

息子の「斎藤龍興」が斎藤家の家督を継承。

 

 

1562年】(29歳)

「今川義元」の息子「今川氏真」の勢力に対抗するため、「松平元康(徳川家康)」と「清洲同盟」という軍事同盟を締結。

この「清洲同盟」により、信長は「美濃国」攻略に集中することとなる。

 

 

1563年】(30歳)

拠点を「清州城」から「小牧山城」に移動させ、本格的に「美濃国」の攻略を開始。



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1565年】(32歳)

敵対していた「いとこ」の「織田信清」と交戦。

「織田信清」の居城「犬山城」を陥落させ、信清が尾張国から逃亡。

これにより、織田信長の「尾張統一」が完了

 

 

1567年】(34歳)

美濃国「稲葉山城」が陥落。

「斎藤龍興」が伊勢国へ逃亡。

「美濃国」の攻略完了。

 

 

1568年】(35歳)

「足利義昭」を連れて上洛(京都へ進軍)。

「三好三人衆」や「三好義継」を撃破して、京都や畿内を制圧。

天下人へと駆け上がり始める。

 

 

「織田信長の詳しい年表」については、以下のリンク記事をどうぞ。



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「尾張統一」後から、「本能寺の変」での最期までを、簡単解説

信長は【1565年】に、尾張国統一を実現したわけですが、そこから一気に勢力を飛躍的に拡大していきます。

 

2年後の【1567年】に、広大な美濃国を攻め落とすことに成功。

 

そのさらに1年後【1568年】には、「足利義昭」を連れて京都を支配。

 

このとき、北伊勢・南近江・山城・大和など、の広い地域を制圧することに成功しています。

 

1570年】から【1580年】まで、「石山本願寺」との「石山戦争」に苦しめられたものの、これに勝利。

  • 「石山本願寺(本願寺顕如)」
  • 「浅井長政」
  • 「朝倉義景」
  • 「比叡山延暦寺」
  • 「武田信玄・勝頼」親子
  • 「足利義昭」

などの勢力を次々と撃破して、信長は関東から中国地方までの広大な地域を支配する「大勢力」をつくりあげたのです。

 

しかし、天下統一目前に迫った【1582年】、「織田信長」は、もっとも信頼していた重臣「明智光秀」が起こした「本能寺の変」で亡くなります。

 

「尾張統一」を成し遂げた【17年後】に、信長は亡くなる事となるのです。

 

「本能寺の変」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,織田信長家督継承したとき、けっして尾張国のすべてを支配していたわけではなく、内憂外患の状態で、敵だらけだった。

 

2,信長は、尾張国内に「織田大和守家」、「弟・織田信勝」、「織田伊勢守家」という敵勢力をかかえ、国外には「今川義元」や「斎藤義龍」の敵を抱えていた。

 

3,1552年】に家督継承した織田信長は、「織田大和守家」、「織田信勝」、「織田伊勢守家」と、順番に敵勢力を撃破。国外の強敵「今川義元」を「桶狭間の戦い」で撃破して、【1565年】に「織田信清」の「犬山城」を陥落させて、「尾張統一」を成功させた。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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