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斎藤道三の全てを徹底解説!年表やエピソードから子孫まで完全網羅

皆さんは「斎藤道三(さいとう どうさん)」を、ご存知でしょうか?

 

実は筆者も、今回くわしく調査をするまで、「斎藤道三」について全然知りませんでした。

 

この記事では「斎藤道三」を、わかりやすく、くわしく解説いたしました。

 

今は「斎藤道三」について、漠然としか知らなかったとして、心配いりません。

 

これを読めば、誰かに説明できるほど、「斎藤道三」について詳しくなれます。

 

この記事を読んで、「斎藤道三」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「斎藤道三」は、戦国時代に活躍した武将。「織田信長」の妻の父であり、「うつけ(バカ者)」と呼ばれていた信長の才能を一瞬で見抜いた名将

 

2,道三には、数多くの子供がいたが、嫡子「斎藤義龍」に裏切られて亡くなった。「明智光秀」は、道三の義理の甥にあたる

 

3,現在の「天皇陛下」は、「斎藤道三」の血を引く末裔


斎藤道三の「生涯年表」

名将「斎藤道三」の生涯年表は、以下のとおりです。

《斎藤道三》
「引用元ウィキペディアより」

 

1494年】(1歳)

のちの「斎藤道三」

「山城国・乙訓郡・西岡」で誕生。

幼名は「峰丸」。

 

1521年~】(28歳~)

「長井長弘」に士官

 

1527年】(34歳)

美濃国の守護「土岐頼武」を美濃国から追放

 

1530年】(37歳)

主君「長井長弘」を殺害。

 

1538年】(45歳)

美濃国の守護代「斎藤利良」が病死。

「斎藤家」の名跡を継いで

「斎藤利政(のちの道三)」

と改名



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1539年】(46歳)

居城「稲葉山城」を、改築し、難攻不落の名城へ造りかえる

 

1541年】(48歳)

「道三」が「土岐頼芸」の弟「土岐頼満」を毒殺

 

1547年】(54歳)

加納口の戦い

 

1548年】(55歳)
娘「帰蝶」を「織田信長」に嫁がせる

 

1552年】(59歳)

美濃を統一

 

1554年】(61歳)

鷺山城で隠居

出家して「斎藤道三」と名乗る

 

1555年】(62歳)

「斎藤義龍」が父「道三」にたいして挙兵。

 

1556年4月】(63歳)

「長良川の戦い」

「斎藤義龍」と「斎藤道三」が開戦。

「斎藤道三」戦死。(享年63歳)

 

1567年】(織田信長34歳)
織田信長が「稲葉山城」を攻略

「岐阜城」と改名し、本拠地とする

 

以下のリンク記事で、「斎藤道三」の「さらにくわしい年表」をご紹介しております。



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斎藤道三の「娘・息子・家族」

「斎藤道三」の妻と子供たち

正室・側室

  1. 小見の方(正室)
  2. 深芳野(側室)

(その他にも側室がいた可能性が高い)

 

息子

  1. 斎藤義龍
  2. 斎藤孫四郎
  3. 斎藤喜平次
  4. 日饒
  5. 日覚
  6. 斎藤利堯(さいとう としたか)
  7. 斎藤利治(さいとう としはる)
  8. 長井道利(ながい みちとし)
  9. 松波政綱(まつなみ まさつな)
  10. 養子:斎藤正義

 

  1. 姉小路頼綱・正室
  2. 土岐頼香・室
  3. 帰蝶(織田信長の正室)
  4. 土岐頼純・室
  5. 斎藤利三・正室
  6. 伊勢貞良・正室
  7. 稲葉貞通・正室

 

斎藤道三には、数多くの子供たちがいます。

 

そんな道三の子供たちの中で、とくに有名な人物は、二人。

 

ひとりは、「織田信長」の妻である「濃姫」こと「帰蝶」。

 

もうひとりが、「斎藤道三」を倒した息子「斎藤義龍」。

 

義龍のほかにも、道三には「孫四郎」「喜平次」という二人の息子がいたと言われています。

 

しかし、斎藤義龍が謀反を起こした際に、この二人の息子たちは殺害されています。

 

道三の妻といえば、「明智光秀」の叔母にあたると言われている「小見の方」が有名です。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

「光秀」の父の妹「小見の方」は、「帰蝶」の母親です。

 

つまり、「光秀」と「帰蝶」は「いとこ」同士。

 

この縁があって、「光秀」はのちに「帰蝶」の口添えで、「織田信長」に仕えることとなった、と考えられています。

 

余談ですが、「明智光秀」に仕え、「山崎の戦い」の直後に処刑された猛将「斎藤利三」の妻は、「斎藤道三」の娘です。

 

斎藤利三の娘「春日局」は、三代将軍「徳川家光」の乳母でした。

 

この「春日局」の母は「安」という「稲葉一鉄」の娘です。

《春日局》
「引用元ウィキペディアより」

道三と春日局に血縁はありません。



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「道三」と「義龍」の関係!二人は親子ではなかった?

親子であるはずの「斎藤道三」と「斎藤義龍」。

 

この二人、実は「親子ではない」という説があります。

 

「斎藤義龍」の母「深芳野(みよしの)」は、もともと美濃国守護「土岐頼芸(とき よしのり)」の愛妾でした。

 

その「深芳野」が、家来であった「斎藤道三」へと下されたのです。

 

道三へ「深芳野」が下された翌年、「深芳野」は、息子「斎藤義龍」を産みます。

《斎藤義龍》
「引用元ウィキペディアより」

つまり、「斎藤道三」に下される前から、「深芳野」は「斎藤義龍」を身ごもっていたのではないか、と言われているわけです。

 

「斎藤道三」を討ち果たした「斎藤義龍」・・・。

 

結論から言えば、「道三」と「義龍」が親子でない可能性は、低いと思います。

「実は親子ではなかった」

という話は、かなり昔からよくある話です。

 

こういった話は「血筋の正当性をおとしめるための、一種のプロパガンダ(政治宣伝)」に使われていたのです。

 

「土岐頼芸」という人は、「斎藤道三」によって美濃国から追放された人物です。

 

もし「斎藤義龍」が「土岐頼芸」の息子なら、「斎藤道三」を討ち果たしたことで、父の仕返しをしたことになります。

 

しかし、実際のところ斎藤義龍は

「土岐頼芸の息子だから、斎藤道三を討ち果たした」

わけではなく

「仲が悪かった父親の『斎藤道三』を倒すため、『土岐頼芸』の息子だと名乗ったほうが、『道三』を討つ大義名分が出来るから、都合が良かった」

のだと思います。

 

道三と義龍は、実の親子でしょう。

 

ちなみに義龍は、道三を討ち取ったあと、「斎藤」という苗字から母方の「一色」という姓を名乗っています。

 

「道三と義龍」は、実の親子だろう、と申しました。

 

一方で、道三は「義龍」について

「自分の子ではなく、土岐頼芸の子である」

ということを、自らほのめかしてもいました。

 

道三が義龍に家督をゆずって、引退する際、家来たちに

「自分は引退するが、義龍が美濃支配の正当な血筋の者だと、わかっているだろうな・・・。」

ということを言っているのです。

 

もしも「義龍」が「土岐頼芸」の息子なら、「美濃国守護」の正当な後継者ですから、道三から美濃国主の地位をゆずりうける権利があります。

 

また、美濃国の豪族たちに、命令をする権威と権限を持つことになります。

 

道三は「義龍は土岐頼芸の息子かもしれない」という噂を利用して、自分たち「斎藤家」による美濃支配に、正当性をもたせようとしたのでしょう。

 

おそらく道三は、「義龍が自分の子」だということを確信していた上で、「義龍は実子ではない」という噂を最大限利用したのだと思います。

 

「斎藤道三の子供達や家族」について、以下のリンク記事で、「さらにくわしく解説」しております。よろしければお役立てくださいませ。

 

「斎藤義龍(高政)」と「帰蝶」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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斎藤道三の「家系図」

道三の子孫・末裔は、江戸時代にも活躍し、現代にも繋がっています。

 

まず、道三の息子「松波政綱(まつなみ まさつな)」の子孫である「松波正春」。

 

「松波正春」は、江戸時代中期(18世紀)に、八代将軍「徳川吉宗」の家来として活躍しました。

 

「徳川吉宗」の腹心であった「大岡越前守忠相」の後任者として、「江戸南町奉行」という役職についたのです。。

《斎藤道三の息子達・家系図》
「家系図の引用等は、何卒ご遠慮くださいませ」

現代にも、「斎藤道三」の子孫は繋がっています。

 

実は、現在の「天皇陛下」は、斎藤道三の末裔なのです。

 

「斎藤道三の家系図」や「天皇陛下とのつながりについては、以下のリンク記事で、さらに詳細に解説しております。



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斎藤道三と「織田信長」は、どういう関係なのか?

「斎藤道三」と「織田信長」は、姑と娘婿の関係です。

 

道三の娘「帰蝶(濃姫)」が、「織田信長」に嫁いでいるのです。

 

ただ、信長と帰蝶のあいだに子供はいなかったらしく、信長の末裔に「帰蝶」の血はつながっていません。

 

信長の右筆(秘書のようなもの)であった「太田牛一」が記した「信長公記」という記録には、信長と斎藤道三の逸話が記されています。

 

帰蝶が信長に嫁いだのち、道三と信長は「正徳寺」で会見しています。

 

そのとき、道三は「うつけ者(バカ)」と噂された信長の才能を見抜き

「我が子たちは、いずれ信長の家来となり下がるだろう」

と予言しました。

 

この予言は的中し、道三の子供である「斎藤利堯(としたか)」「斎藤利治(としはる)」は、信長に家来として仕えています。

 

孫であり「義龍」の息子でもある「斎藤龍興」は、信長によって美濃国を追放され、最期は信長との戦いで戦死しています。

 

「斎藤道三」と「織田信長」が、「どういう関係なのか」については、以下のリンク記事で、さらに詳しくご説明しております。



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斎藤道三の「死因」と「最期の様子」!お墓はどこにあるのか?

斎藤道三の「死因」と「最期」

斎藤道三は「戦死」しています。

 

詳細な死因は不明ですが、首を討たれています。

 

1556年】、「長良川の戦い」で息子「斎藤義龍」を相手にして敗死しているのです。

 

娘婿「織田信長」は、道三を救出するために援軍を派遣しました。

 

しかし、「斎藤義龍」の軍17500名を倒せずに、信長は道三の救出に失敗しています。

 

「斎藤道三」の「死因」と「最期の様子」について、くわしくは、以下のリンク記事で解説しております。



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道三の「お墓」はどこにある?

道三のお墓は、2ヶ所が今に伝えられています。

 

1つは「岐阜県岐阜市」にある「斎藤家」の菩提寺「常在寺」。

 

もう1つが「岐阜県岐阜市道三町」にある「道三塚」です

 

実際に「斎藤道三」のご遺体が埋葬されたのは、「常在寺」から「長良川」を挟んで北西へ数百メートルに位置している「岐阜県メモリアルセンター」のあたり。

 

1837年】、この「岐阜県メモリアルホール」にあったお墓を、現在の「常在寺」へと移動したのです。

 

「斎藤道三の死因や最期・お墓の場所」については、以下のリンク記事で、さらに詳細に解説しております。よろしければ、以下の記事もお役立てくださいませ。



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斎藤道三が使用していた「家紋」は何?

斎藤道三の家紋は、もともと「撫子(なでしこ)紋」というものでした。

《撫子紋・なでしこもん》
「引用元ウィキペディアより」

 

しかし、道三は美濃国守護代であった「斎藤家」の苗字を継承すると、自分がデザインした家紋「二頭波紋」を家紋として使うようになったのです。

【二頭波紋】
「引用元ウィキペディアより」

この家紋は、いくつかの意味を持つと言われています。

  • 水は常に形をかえるため、「兵は詭道(きどう)なり(戦いとは、だまし合いである)」という兵法にも通じる
  • 波は押し寄せ、または引き、包み込みながら岩をも砕く
  • 右側の3つの点と、左側の2つの点は、「世の中には割りきれる物と、割りきれないものがある」ということを意味している

「二頭波紋」は、兵法の達人であった「斎藤道三」の生き方を象徴するような家紋なのです。

 

「斎藤道三の家紋」について、以下のリンク記事で、さらに詳しくご説明しております。



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斎藤道三と「美濃」「岐阜」との関係とは?

「美濃」、現在の「岐阜県」南部は、斎藤道三の本拠地でした。

 

現在の岐阜市にある「岐阜城(稲葉山城)」は、【1201年】に稲葉山の山頂につくられた砦がはじまりです。

 

道三の父「松波庄五郎(または庄九郎)」は、この稲葉山城を敵から奪い取って居城としたのです。

 

父から「稲葉山城」をゆずりうけた道三は、この「稲葉山城」を居城として、隠居すると同時に息子「斎藤義龍」に城をゆずります。

 

その後、義龍の息子「斎藤龍興」が稲葉山城を居城としたものの、織田信長に敗れて逃亡。

 

織田信長は、それまでの居城「小牧山城」から移動して「稲葉山城」を居城とし、増築して「岐阜城」と改名。

 

「岐阜」という名前の由来は2つあります。

  1. 古代中国の名君「武王」が、天下統一した際の本拠地「岐山(きざん)」
  2. 「武王」の弟である大政治家「周公旦(しゅうこうたん)」が治めた地であり、儒教の「孔子」の故郷「曲阜(きょくふ)」

 

この「岐山」と「曲阜」から1文字ずつとって「岐阜」と命名したのです。

 

現在の「岐阜市」は、斎藤道三がつくった街「井ノ口」が基礎となっています。



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斎藤道三の「城」

斎藤道三の城といえば、やはり現在の「岐阜城」こと「稲葉山城」。

《岐阜城》
『引用元:松波庄九郎さんによる写真ACからの写真』

「尾張の虎」と呼ばれた猛将「織田信秀」が、何度攻撃しても、びくともしなかった堅城です。

 

この城は、織田信長をも苦しめ、【1556年】に道三が亡くなってから、信長によって落城する【1567年】まで、実に11年間も斎藤家を守り続けました。

 

その後、岐阜城は以下の武将たちが居城として治め続けました。

  • 信長の嫡子「織田信忠」
  • 信長の三男「織田信孝」
  • 信長の乳兄弟「池田恒興」の次男「池田輝政」
  • 豊臣秀吉」の甥で「豊臣秀次」の弟「羽柴秀勝」
  • 信長の孫で信忠の嫡子「織田秀信(三法師)」

 

岐阜城には弱点もあったらしく、落城するときはあっけなく落ちていますね。

 

1564年】、のちに「羽柴秀吉」に仕えることとなる天才軍師「竹中半兵衛重治」によって、「稲葉山城」はわずか「数十名」に攻め落とされます。

《竹中半兵衛重治》
「引用元ウィキペディアより」

 

1600年】、「関ヶ原の戦い」の前哨戦で、「織田秀信」が守る「岐阜城」は、「池田輝政」「福島正則」らの猛攻をうけて、わずか一日で陥落。東軍の拠点とされています。

 

その後、【1601年】に「徳川家康」によって「岐阜城」は廃城。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

1910年】に再建されてるも焼失。

 

1956年】にコンクリートで再建され、現在に至っています。

 

「斎藤道三と城」については、以下のリンク記事で、さらに詳しく解説しております。よろしければ、お役立てくださいませ。



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道三がつかっていた「刀」や「鎧兜」は、今どこにあるのか?

結論から言ってしまうと、斎藤道三が愛用していた「刀」は、現存していません。

 

どこかにあるかもしれませんが、どこにあるかは不明です。

 

また、「道三が、どのような刀を愛用していたのか」についても、何も伝わっていません。

 

ただ、「道三」の息子、「義龍」が、弟「孫四郎」「喜平次」を討ち果たした「有動刀」(うどうとう)」という名刀は、名前のみ伝わっています。

 

この「有動刀」も行方不明です。

 

日根野弘就(ひねの ひろなり)という武将が、「孫四郎」「喜平次」を、一振りでまとめて斬り倒したという逸話があります。

 

ただ、斎藤道三が持っていたという兜と鎧「紅糸中白縅胴丸(べにいとなかしろおどしどうまる)」が、「岐阜県不破郡」にある「南宮大社」に納められています。

 

これは、のちに「羽柴秀吉」につかえることになる「竹中半兵衛重治」が、南宮大社に奉納した代物。

 

愛用していたかどうかは不明ですが、道三の兜・鎧としては、これのみ現存しています。

 

「南宮大社」には、他にも古くからの名刀や鎧などが、数多く納められているとのこと。

 

毎年11月3日の「文化の日」に、一般公開されているので、道三の「鎧兜」も、この日に一般公開されているようです。

 

岐阜県【南宮大社】のホームページはコチラ

 

槍術の名人だったという「斎藤道三」。

 

愛用の槍などが残っていれば、文化財になったのでしょうけれど、それらしいものは、未だに発見されていません。

 

「斎藤道三の愛刀や兜鎧」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。



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斎藤道三の「肖像画」とその「画像」

「斎藤道三」の肖像画は、現在「岐阜県岐阜市」にあるお寺「常在寺」に保管されています。

 

この常在寺は、さきほどご紹介いたしました「斎藤道三のお墓」があるお寺です。

 

常在寺には、「斎藤道三」の肖像画と、その子「斎藤義龍」の肖像画が保管されています。

《斎藤道三》
「引用元ウィキペディアより」

 

この「常在寺」は、道三の父「松波庄五郎」こと「長井新佐衛門尉」が拠点としたお寺です。

 

「斎藤義龍」の肖像画も、ここに保管されています。

《斎藤義龍》
「引用元ウィキペディアより」

 

拝観料は150円。

毎年4月第一土曜日に開かれている「道三まつり」のときには、無料で開放されています。



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道三の逸話・エピソード

斎藤道三が「蝮(マムシ)」と呼ばれた理由

斎藤道三は、主君である「土岐頼芸(とき よしのり)」を追放して、美濃国を奪い取った武将です。

「蝮(マムシ)は、親の腹を食い破って産まれ出る」

という迷信があります。

 

道三は、主君を「下剋上」によって追い落として、自らが美濃を支配した武将。

 

そのため「マムシの道三」と呼ばれるようになったのです。

 

しかし、道三はこの「マムシの呪い」から逃れることができませんでした。

 

我が子に腹を食い破られて、亡くなってしまう運命にあったのです。

 

「マムシの呪い」「マムシと呼ばれた理由」ついて、以下のリンク記事で、詳細に解説しております。

よろしければ、お役立てくださいませ。



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道三の「名言」

道三は、「正徳寺」で織田信長と会見したあと、家来の「猪子兵介」に、信長をどういう人物だと思うかを尋ねました。

 

すると兵介は

「信長は、たわけ者でございます」

と応えたのです。

 

道三はこれを否定して、次のように言ったといわれています。

「我が子たちは、あのうつけ者(織田信長)の門前に、馬をつなぐことになるであろう」

この予言通り、道三の息子「斎藤利治」と「斎藤利堯」は、信長の家来として活躍し、重く用いられています。

 

「猪子兵介」は、一説によると、その後【1556年】に、「斎藤道三」が「義龍」に殺害されると、信長のもとへ走り「美濃一国を譲る」と書かれた「国譲り状」を届けたとか。

 

主君の後を追って自害しようとしたところを、信長に説得されて臣従。

 

その後は信長の家来として活躍し、【1582年】、『本能寺の変』で、信長の息子「織田信忠」とともに、「二条城」で戦死しています。

 

道三の子「斎藤利治」もまた、「織田信忠」や「猪子兵介」とともに、二条城で戦死。

 

「斎藤利治」を攻めたのが、利治の義兄であり「斎藤道三」の娘婿であった、明智光秀の重臣「斎藤利三」でした。

 

「斎藤道三が残した名言」について、くわしく解説しております。



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油売り(商人)であった「斎藤道三」が、美濃国主となれた理由

元々「油売り」の商人であった「斎藤道三」は、どうやって美濃国の国主になったのでしょう。

 

それは「下剋上」によってです。

 

道三は、主君であった「土岐家」を追い落とし、自分が美濃の支配者となったのです。

 

具体的には、「土岐家の家督争い」に介入し、スキを突いて、国を盗み取ったのでした。

 

美濃は「土岐頼芸」と、「土岐頼純」という、叔父と甥が、守護の座を争っていました。

 

道三は、この争いに介入し、二人を戦わせて、「土岐頼純」が病死。

 

残った「土岐頼芸」を追放。

 

「美濃国」を奪ったのです。

 

徳川家康も、「豊臣秀吉」の死後、豊臣家の内部で「石田三成」と対立し、豊臣家の内紛を利用してその力を削ぎ落としました。

《石田三成》
「引用元ウィキペディアより」

 

道三も、のちの徳川家康のように、内紛をあおって、土岐家の勢力を弱めて乗っ取ったのです。

 

ちなみに「豊臣秀吉」も、「織田信長」が亡くなったあとに勃発した「織田家の家督争い」を利用して、織田家を真っ二つに分断し、乗っ取ることに成功しています。

 

「斎藤道三」が「油売り」から「美濃国主」となれた理由や経緯を、以下のリンク記事で、よりくわしく解説いたしました。



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「戦国三大梟雄」とは何か?

斎藤道三は、「戦国三大梟雄(きょうゆう)」の一人に数えられています。

  1. 斎藤道三
  2. 松永久秀
  3. 宇喜多直家

 

「斎藤道三」は、「土岐家」から美濃国を奪いました。

 

「松永久秀」は、主家の「三好家」から実権を奪い、最期は「織田信長」を裏切って戦死した武将。

《松永久秀》
「引用元ウィキペディアより」

「宇喜多直家」は、主君「浦上家」を乗っ取って、備前国・美作国50万石を手に入れました。

 

「梟雄」とは、裏切りを重ねて、「下剋上」によって立身出世した者のこと。

 

「戦国三大梟雄」の中でも、「斎藤道三」は、最も古い人物。

 

その見事なやり方は、「小田原北条氏」の初代「北条早雲」と並んで、今でも評価されています。



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『斎藤道三』について「ひとこと」言いたい!

「斎藤道三」は、裏切りに裏切りを重ね、自らの主君であった「長井長弘」や「土岐一族」と敵対してきました。

 

道三が命を落とした「長良川の戦い」で、道三に味方する者は、ほとんどいなかったと言われています。

 

「呂布奉先(りょふ ほうせん)」

 

有名な歴史小説「三国志」に登場する最強の武将です。

 

この「呂布」という武将も、主君や仲間を何人も裏切り続けて、最期は味方に裏切られて亡くなった武将でした。

 

裏切り続ける者は、みずからも裏切られる運命にあるのかもしれません。

 

最期は「息子」に裏切られて亡くなった「斎藤道三」。

 

娘婿「織田信長」も、もっとも信頼した家来「明智光秀」に裏切られて殺害されましたが、「道三」と似たような最期をむかえたのは、なぜなのでしょうか。

 

斎藤道三の甥「明智光秀」・・・。

 

その光秀が、信長を殺害したというのも、なにやら数奇な運命を感じさせますね。

 

「明智光秀」や「本能寺の変」については、以下のリンク記事で、詳細に解説しております。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「斎藤道三」は、戦国時代の名将。「織田信長」の妻の父であり、「うつけ(バカ者)」と呼ばれていた信長の才能を一瞬で見抜いた人物

 

2,現在の「天皇陛下」は、「斎藤道三」の血を引く末裔

 

3,「斎藤道三」と息子「斎藤義龍」は、実は親子ではない、という説がある。「義龍」はそれを利用して、父「道三」を殺害し、美濃国を奪い取った

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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