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浅井長政のすべてを徹底解説!小谷城や[お市の方]との仲など完全網羅

皆さんは「浅井長政(あざい ながまさ)」を、ご存知でしょうか?

 

実は「浅井長政」について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

 

この記事では「浅井長政と、居城【小谷城】や【お市の方】との夫婦仲など」をそれぞれ、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

 

今は「浅井長政」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

 

これを読めば、誰かに説明できるほど、「浅井長政」に詳しくなれます。

 

この記事を読んで、「浅井長政」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「浅井長政(あざい ながまさ)」とは、今から約【450年】前に活躍した、「織田信長」の妹「お市の方」の夫だった戦国武将。しかし「織田信長」を裏切り、最期まで義兄「信長」と戦い続けた

 

2,浅井長政は、現在の「滋賀県長浜市」にあった「小谷城(おだにじょう)」という山城を居城としていた。「小谷城」は、【1516年】に築城されたお城。

 

3,浅井長政の妻は「お市の方」という女性。夫婦仲は極めて良かったと言われている。「お市の方」は、戦国時代の覇王「織田信長」の妹であり、「戦国一の美女」と呼ばれた人。長政とお市の間には、「三人の娘」が誕生している

【浅井長政】とは何者なのか?何をした人かを解説

今から約【450年】前の戦国時代。

 

「浅井長政(あざい ながまさ)」という武将がいました。

《浅井長政》
「引用元ウィキペディアより」

この人物は、現在の「滋賀県」にあった「近江」という国の北半分を支配していた戦国大名だったのです。

 

浅井長政は、戦国時代の当時、最強のチカラを持っていた武将「織田信長」の妹「お市の方」を妻としていました。

 

長政は、「織田信長」の義弟であり、信長と同盟を締結していたにもかかわらず、信長を裏切り、敵対することとなります。

 

「浅井長政」と「織田信長」は、【1570年】から【1573年】まで激戦を繰り返しました。

 

結果、浅井長政は【1573年】に、父「浅井久政」とともに織田信長に攻め滅ぼされてしまうのです。



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浅井長政の居城【小谷城】

浅井長政は、「小谷城(おだにじょう)」という山城を居城としていました。

 

「小谷城」とは、【1516年】に築城されたお城です。

 

この「小谷城」をつくったのは、「浅井長政」の祖父「浅井亮政(すけまさ)」です。

 

「小谷城」は、現在の「滋賀県長浜市」に存在していたお城です。

 

「浅井長政」が滅ぼされたあと、「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」が城主として「小谷城」に住んでいました。

 

しかし、「秀吉」は「長浜城」という新しいお城を築城して引っ越したため、「小谷城」は【1575年】に廃城となります。

 

なぜ廃城になったのかというと、小谷城が「小谷山」という、険しい山の山頂に位置していたためです。

 

小谷城は、その位置に問題があり、交通の便が非常に悪かったのです。

 

そのため秀吉は、「琵琶湖」の水運を最大限に利用できる「長浜城」へと拠点を移したのでした。

 

その結果、「小谷城」は廃城となり、長浜城は「琵琶湖の水運」と「北国街道」が交わる交通の重要拠点として発展していく事になるのです。



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浅井長政と【お市の方】

「浅井長政」と「お市の方」が結婚した理由

浅井長政の妻は「お市の方」という女性です。

 

戦国時代の覇王「織田信長」の妹であり、「戦国一の美女」と呼ばれた人です。

 

1567年】または【1568年】に、「織田信長」と「浅井長政」の間で、同盟が締結されました。

 

その同盟をさらに強固なものとするため、同盟締結と同時に、「織田信長」の妹「お市の方」が、「浅井長政」のもとへ嫁いだのです。

 

こうして、現在の「愛知県西部」と「岐阜県南部」にあった「尾張」「美濃」の国を支配する「織田信長」と、「滋賀県」にあった「近江」の北半分を支配していた「浅井長政」の同盟が成立しました。

 

なぜ「信長」と「長政」が同盟を結んだのでしょうか?

 

その理由は、「織田信長」が、「尾張・美濃から、西へ進軍して、京都を支配するため」です。

 

信長は、「浅井長政」が支配する「北近江」を味方にして、「京都への進軍」に協力してもらおうと考えたのです。

 

この同盟は、【1568~1570年】の約2年間つづきます。

 

その結果「織田信長」は、【1568年】に、「京都の支配(上洛)」に成功。

 

ところが、この同盟は【1570年】に、「浅井長政」の突然の裏切りによって、破棄されることとなるのです。

「浅井長政」と「お市の方」の夫婦仲

「浅井長政」と「お市の方」の夫婦仲は、極めて良かったと考えられています。

 

理由は簡単で、「二人の間には、3人も子供が生まれている」からです。

 

二人の結婚生活は、【1568~1573年】の約5年間。

 

その間に、「3人の娘」をもうけているのですから、仲は良かったはずです。

 

それに対して、「織田信長」と妻「帰蝶(濃姫)」の間には、一人も子供が生まれていません。

 

「織田信長」と「帰蝶」は仲睦まじかった・・・・とは、お世辞にも言えないと考えられます。

 

『お市の方』について、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。

 

「帰蝶(濃姫)」については、以下のリンク記事で、さらに詳しく解説しております。


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浅井長政が使用していた【家紋】

「浅井長政」が使った家紋は【三つ盛木瓜に花菱(みつもりもっこうにはなびし)】というものです。

 

この「三つ盛木瓜に花菱」は、代々「浅井家」が使用していた家紋です。

 

《浅井氏家紋》
【三つ盛木瓜に花菱】
「引用元ウィキペディアより」

 

この家紋を、「浅井長政」たち「浅井一族」は、初代「浅井重政」から六代目「長政」まで使用していました。



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浅井長政の【子孫と家系図】

浅井長政の子孫は、「三人の娘」を通じて、現代まで伝わっています。

 

「《お市の方・浅井長政の家系図》
家系図の引用などはご遠慮くださいませ」

 

1568年】頃に結婚した「浅井長政」と「お市の方」には、その後「三人の娘が」誕生しました。

  • 長女「茶々」
  • 次女「初」
  • 三女「江」

この三人の娘たちは、「浅井三姉妹」と呼ばれ、長政の居城「小谷城」で両親とともに、穏やかに生活していました。

 

ところが【1570年】に、「浅井長政」が義兄「織田信長」を裏切ったため、三姉妹の運命は狂いはじめます。

 

三姉妹の伯父にあたる「織田信長」が、彼女たちの住む「小谷城」へ猛攻をかけてきたのです。

 

長政の裏切りに激怒していた「信長」の攻撃は、凄まじいものでした。

 

信長の攻撃は「3年」も続き、【1573年】、ついに小谷城は落城します。

 

「浅井長政」は、妻「お市の方」と「三人の娘」を逃し、「織田信長」に託します。

 

その結果、「浅井長政」は戦死。

 

「お市の方」と「浅井三姉妹」は、「織田信長」によって保護されて生活することとなるのです。

 

 

「浅井長政」と「お市の方」の子孫が、現代にも続いています。

 

「浅井長政の子孫」といえば、三女「江」の末裔にあたられる「天皇陛下」が、もっとも有名です。

 

『浅井長政とお市の方の子孫』について、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。



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浅井長政の【父母と姉】

浅井長政の父は、戦国大名「浅井久政(あざい ひさまさ)」です。母親は「井口経元の娘」と伝わっています。

 

父「久政」は【1573年】、「織田信長」に小谷城を攻め落とされた際に戦死。

 

同時に「長政の母」も「信長」に捕らえられ、数日かけておこなわれた拷問の末に、亡くなっています。

 

浅井長政の姉の名前は「京極マリア」。キリスト教徒です。

 

「マリア」は、室町幕府に仕えた名門「京極家」の「京極高吉」に嫁いでいます。

 

「京極高吉」の先祖は、鎌倉時代末期から室町時代初期【14世紀・1300年代中頃】に活躍した「足利尊氏」の親友「佐々木道誉(佐々木判官または京極高氏)」という武将です。

 

「マリア」は、夫「京極高吉」とのあいだに、

  • 「松の丸殿」
  • 「京極高次」
  • 「京極高知」

という2男1女を産んでいます。

 

「松の丸殿」は、「いとこ」にあたる浅井長政の長女「茶々」とともに「豊臣秀吉」の側室となっています。

 

長男「京極高次」はというと、こちらも「いとこ」にあたる浅井長政の次女「初」を妻としています。

 

「京極高知」は「関ヶ原の戦い」で活躍した武将です。



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浅井長政の【三人の娘たち】

浅井長政の「三人の娘」たちは、あまりにも有名です。

 

  1. 「豊臣秀吉」の側室であり、「豊臣秀頼」の母である長女「茶々(淀殿)」
  2. 名門「京極家」へ嫁ぎ、「大坂・冬の陣」を和睦へと導いた次女「初」
  3. 二代将軍「徳川秀忠」の妻であり、三代将軍「徳川家光」そして「後水尾天皇」の后であり「明正天皇」を産んだ「和子」の母でもある三女「江」

 

「浅井三姉妹」と呼ばれたこの三人は、戦国時代末期において、重要な役割を果たす事となるのです。



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浅井長政の息子【万福丸】

浅井長政には、悲しい最期をとげた「万福丸(まんぷくまる)」という息子がいました。

 

「万福丸」は、織田信長によって浅井長政が滅ぼされたときに、「羽柴秀吉」に捕まります。

 

そして「万福丸」は、「関ヶ原」で無残にも処刑されるのです。

 

享年10歳。

 

この子は、「お市の方」の子ではありません。

 

「浅井長政」の前妻、または側室の子と考えられています。



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浅井長政は【イケメン】だったのか?

浅井長政は「イケメン」だったという噂がありますが、本当でしょうか?

 

結論からいえば、「イケメン」だった可能性は低いと思います。

 

肖像画を観ていただけると、太った感じに見えるはずです。

《浅井長政》
「引用元ウィキペディアより」

 

長政が治めていた「近江国」は、琵琶湖という水源があったため、豊富な作物に恵まれた土地でした。

 

そのため長政は、食べすぎて「太っちょ」になっていたと考えられます。

 

お市の方は、「戦国一の美女」と呼ばれ、実際に美しかった可能性が高いですし、当時からそのことが評判となっていました。

 

しかし「浅井長政」については、「イケメン」という評判が、当時からありません。

 

余談ですが、長女「茶々(淀殿)」は、お市の方ではなく、父「浅井長政」に似たため、美女ではなかった・・・と言う歴史家もいるようです。

 

身長は高かったのかもしれません。

 

浅井長政の孫「豊臣秀頼」は、190cmを超える大男だったと言われています。

 

もしかすると、浅井長政も「豊臣秀頼」と同じく、高身長だったかもしれません。



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浅井長政の【愛刀と鎧兜】

浅井長政の刀といえば、「お市の方」の輿入れの際に交換された

  • 「浅井一文字」
  • 「備前・石割兼光」

という日本の刀が有名です。

 

この「浅井一文字」は、「茶々」から「徳川義直」へ、義直から「徳川秀忠」へ、そして秀忠から「前田利常」「柳沢吉保」「山県有朋」へと渡っています。

 

そして【1923年】、関東大震災で焼失し、今になっても行方不明です。

 

「浅井長政」の鎧兜・甲冑については「黒漆塗紺糸縅胴丸(くろうるしぬりこにとおどしどうまる)」が有名です

 

この鎧は、現在「滋賀県長浜市立博物館・科学館浅井歴史民俗資料館」にて展示されています。

 

浅井歴史民俗資料館のホームページはこちら

 



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浅井長政の逸話【頭蓋骨と髑髏の盃】

浅井長政の逸話としては、「義兄の織田信長によって、頭蓋骨を盃にされた」というものが残っています。

 

しかし「盃にされた」というのは、完全な創作であることがわかっています。

 

ただ、その頭蓋骨に金箔を貼られて、正月の席で織田家臣団に披露されたというのは、どうやら事実です。

 

ところがこれは「敵に対する敬意であり、金箔を貼って供養とした」という説もあります。

 

ただ、織田信長はのちに敵将「武田勝頼」の首を蹴りつけたと言われています。

 

信長は、敵に対する敬意など、持っていなかったのではないでしょうか。

 

もしかすると、「武田勝頼」の首を蹴りつけたというのも、後世の創作なのかもしれません。



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浅井長政の【人間関係】

織田信長

浅井長政と織田信長は、「お市の方」を通じた義兄弟です。

 

しかし同時に、二人は宿敵同士でもあるのです。

 

信長は最初、義弟にあたる「浅井長政」をとても信頼していました。

 

1570】、織田信長が、浅井家の長年の盟友「朝倉義景」を攻撃。

 

このとき浅井家は、「織田信長」に味方すべきと主張する一派と、「朝倉義景」に味方すべきと主張する一派に分かれます。

 

結果、浅井家は「朝倉義景」に味方し、信長の軍を背後から襲撃。

 

「金ヶ崎の退き口」と呼ばれた窮地を脱した「織田信長」は激怒。

 

同年、「姉川の戦い」で、「浅井長政」は「織田信長」に大敗することとなります。

浅野長政

「浅井長政」と「浅野長政」は、名前はそっくりですが、まったく無関係です。

 

「浅野長政」は、「豊臣秀吉」の重臣であり、秀吉の妻「北政所」の弟にあたります。

 

二人は同じ「戦国時代」に活躍した武将ですが、名前が似ているだけで、接点はほとんどありません。

朝倉義景

「浅井長政」と「朝倉義景」は、長年つづいた「盟友関係」です。

 

「浅井長政」の祖父「浅井亮政」の代から、「浅井氏」は「朝倉氏」と仲がよく、同盟関係にあったといわれています。

 

そのため、「浅井長政」と「朝倉義景」の関係も深く、両者はともに「織田信長」と戦うこととなるのです。

黒田長政

「浅井長政」と「黒田長政」、名前は同じですが、繋がりはまったくありません。

 

「黒田長政」は、「豊臣秀吉」の軍師「黒田官兵衛」こと「黒田孝高」の長男です。

 

「浅井長政」が亡くなった【1573年】の時点で、「黒田長政」は、まだ幼い子どもでした。

 

二人の間に、接点は全くありません。



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浅井長政の【最期と墓】

天正元年9月1日(1573年9月26日)

 

「浅井長政」は亡くなりました。享年29歳。

 

長政は「小谷城」で、織田信長の猛攻に、最期の最期まで抵抗し、「小谷城」の落城と同時に亡くなっているのです。

 

死因は「切腹」だといわれています。

 

長政は死の間際に、妻「お市の方」と「三人の娘」を織田信長に託しています。

 

「お市の方」は三人の娘たちと共に、死ぬ覚悟をしていたと言いますが、長政は大切な妻子を死なせることに、耐えられなかったのです。

 

生き残った「浅井三姉妹」は、その後「戦国時代」を大きく動かすこととなります。

 

この三姉妹がいなかったら、日本の歴史は、現在のものとは、大きく異なるものになっていたでしょう。

 

浅井長政のお墓は、戦国大名「浅井家」の菩提寺である「滋賀県長浜市」の「徳勝寺」というところにあります。



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その他

浅井長政の「性格」

浅井長政の性格は、「誇り高く」また「心優しい」ものであったと考えられます。

 

「織田信長」から、まるで「部下」であるかのように扱われたことが、「突然の裏切り」の理由であると、現在では考えられています。

 

このことから、長政が誇り高い人物であることがわかります。

 

また、妻「お市の方」と「三人の娘たち」を、敵である織田信長に託して、生かしていることから、「心優しい夫であり父」であることもわかります。

 

実は信長、長政が亡くなる直前、何度も何度も降伏をすすめています。

 

誇り高く、心優しい浅井長政を、死なせたくなかったのでしょう。

浅井長政の「領地」と「ゆかりの地」

浅井長政の領地は、「北近江」でした。

 

「北近江」は、琵琶湖の豊かな水のおかげで、とても豊かな産物に恵まれていました。

 

浅井氏は、南近江を支配していた「六角氏」と、長く戦っていましたが、「織田信長」と同盟を結んだことで、「六角氏」は信長にあっという間に滅ぼされます。

 

長政ゆかりの地としては、

  • 長政の居城「小谷城」
  • 菩提寺「徳勝寺」
  • 織田信長と戦った「姉川の古戦場」

が有名です。



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浅井長政の「肖像画」と「銅像」

浅井長政の肖像画といえば、以下のものが有名です。

 

《浅井長政》
『引用元ウィキペディアより』

 

この肖像画は、「浅井長政」の長女「茶々」が、豊臣秀吉の息子「鶴松」を産んだときに、秀吉の許しを得て書かせたものです。

 

現在は妻「お市の方」の肖像画とともに、「高野山」に所蔵されています。

 

《お市の方》
『引用元ウィキペディアより』

 

また、浅井長政の銅像が、各地に建てられています。

 

長政の拠点であった「滋賀県長浜市」の「JR河毛駅」前に、「浅井長政」と妻「お市の方」の銅像があります。

 

また、「長浜市役所支所」にも「浅井長政」と「家族」の像があります。

 

そしてなぜか「愛知県春日井市」にも、浅井長政の銅像があります。

長政の「逸話・エピソード」と「名言」

浅井長政の人柄を物語る「逸話・エピソード」をご紹介いたします。

 

長政が残した「最期の手紙」についてのエピソードをご存知でしょうか?

 

長政は、織田信長の攻撃を受けて、落城する寸前に、紙切れに手紙を書き、家来に渡しています。

 

手紙を受け取ったのは「片桐直貞」という武将です。

 

この手紙には、「片桐直貞」への感謝の言葉が書かれていました。

「最期の最期まで忠義を尽くしてくれた、あなたに心から感謝しています」

 

これを受け取った片桐直貞は

「こんなところで死なずに、出来れば生きてほしい」

という、手紙に隠された長政の願いをくみ取り、降伏します。

 

その後「直貞」は、「北近江」を支配した「羽柴秀吉」に仕えることとなります。

 

このとき「直貞」とともに秀吉に仕えたのが、直貞の息子「片桐且元(かたぎり かつもと)」でした。

 

息子「片桐且元」は、秀吉のもとで働き、【1583年】に「柴田勝家」との間で起こった「賤ヶ岳の戦い」で大活躍。

 

「賤ヶ岳七本槍」という、7人の猛将の一人に数えられます。

 

この後、「片桐且元」は「浅井長政」の長女「茶々」と、その息子「豊臣秀頼」に仕えます。

 

ところが徳川家康の罠に引っかかってしまった「茶々(淀殿)」は、「片桐且元」を裏切り者とみなして攻撃。

 

逃亡した片桐且元は、家康の要請に従って、「大坂城攻撃」の部隊に加わります。

 

片桐且元は、「豊臣秀頼」と「淀殿」を救おうと考えていたようですが、「秀頼」と「茶々」は自害してなくなります。

 

その21日後、「秀頼」と「茶々」の「三七日忌」に、片桐且元は急死。

 

一説には、「秀頼と茶々の後を追い、殉死した」と言われています。

 

浅井長政から「生きてほしい」と言われた「片桐直貞」が受けた恩は、息子「片桐且元」に引き継がれ、且元は二人のあとを追って亡くなったのです。



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浅井長政の「年表」

浅井長政の生涯を、簡単な年表でご紹介いたします。

 

1545年】(浅井長政1歳)

「浅井長政」が、「浅井久政」の息子として誕生

幼名「猿夜叉丸(さるやしゃまる)」

 

1560年】(16歳)

「織田信長」が「桶狭間の戦い」で「今川義元」を討ち取る

 

1567年】(23歳)

「浅井長政」が「織田信長」と同盟を締結

信長の妹「お市の方」と結婚。

 

1568年】(24歳)

「織田信長」が「足利義昭」を連れて京都を支配(上洛)

 

1570年】(26歳)

「織田信長」が越前国の「朝倉義景」を攻撃。

「金ヶ崎の戦い」に勝利した信長を、浅井長政は突然背後から襲撃。

信長は京都へ撤退。

「金ヶ崎の退き口」という最大の危機を、「羽柴秀吉」「明智光秀」「徳川家康」らの奮戦により乗り切った

同年、「姉川の戦い」で「浅井朝倉連合軍」が「織田徳川連合軍」に敗北

 

1571年】(27歳)

「比叡山焼き討ち」

 

1572年】(28歳)

「三方ヶ原の戦い」で「武田信玄」が「徳川家康」を撃破。

 

1573年】(29歳)

「武田信玄」死去。

「朝倉義景」が「織田信長」「柴田勝家」の猛攻により自害。

「朝倉義景」の死から10日後、「浅井長政」死去。

 



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【浅井長政】が亡くなった【その後】に何が起こったか?

1573年】に「浅井長政」が亡くなったあと、「織田信長」はさらに領土を拡大し、チカラをつけていきます。

 

ところが長政の死から9年後の【1582年】、「織田信長」は京都「本能寺」で、もっとも信頼していた部下「明智光秀」によって討たれます。(本能寺の変

 

明智光秀は、一説によると、「織田信長の非道な行為」を止めるために、「本能寺の変」を起こしたと考えられているのだとか。(最新の定説では、「四国の大名・長宗我部元親を救済するために本能寺の変を起こした」と考えられている)

 

「織田信長」が亡くなると、「豊臣秀吉」がその後を継いで、天下統一を目指します。

 

1590年】、秀吉は天下統一に成功。

 

浅井長政の長女「茶々」は、秀吉の側室となって「豊臣秀頼」を産みます。

 

長女「茶々(淀殿)」と、その息子「豊臣秀頼」が、【1615年】の「大坂夏の陣」で戦死し、天下は平和になります。

 

「応仁の乱」以来「148年」も続いた戦乱の世は、浅井長政の娘「茶々」と孫「秀頼」の死によって、ようやく終わることとなるのです。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「浅井長政」とは、戦国時代に活躍した武将。「織田信長」の妹「お市の方」の夫だったが、「織田信長」を裏切り戦い続けた

 

2,浅井長政は、「滋賀県長浜市」にあった「小谷城)」を居城としていた。

 

3,浅井長政の妻「お市の方」は、「織田信長」の妹であり、「戦国一の美女」と呼ばれた人。長政とお市の間には、「茶々」「初」「江」という「三人の娘」が誕生している

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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