織田信長の築城の歴史!信長が【建てた城・作った城】とその目的とは

この記事では「織田信長が築城したお城」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「信長が作った城」を、カンタンに理解できます。
「織田信長」は「小牧山城」「二条城」「安土城」などの城を建てているのです。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」が作った城とは?
信長は「小牧山城」「二条城」「安土城」などの城を建てている
2,信長が「小牧山城」「二条城」「安土城」を作った目的とは何か?
「小牧山城」は「美濃攻略のための最前線基地」として築城。「二条城」は「足利義昭」を守るために建築。「安土城」は「上杉謙信」を迎撃するために作ったと考えられる
3,「大阪城」と「織田信長」の関係とは?
信長は「大阪城」が建てられている「石山」という地を重要視しており、「石山」を占領していた「本願寺顕如」を追い出して、その場所に「大阪城」をつくろうとしていた
目次
「織田信長」が作った城を一覧でまとめて解説
「織田信長」がその生涯に建てた城は、無数にあります。
しかし、それらの代表的なお城は、主に「3つ」に絞れると思います。
その「信長が建てた代表的な3つの城」とは、以下の3つです。
- 「小牧山城」
- 「二条城」
- 「安土城」

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」
詳しくは後述致しますが、それぞれの城がつくられた「目的」をカンタンに解説いたします。
「小牧山城」は、織田信長が「美濃・攻略」のために建てた前線基地
「二条城」は、信長が征夷大将軍「足利義昭」を守るために作った京都の将軍の住まい
「安土城」は、信長が最期につくった拠点であり、完成からわずか数年で焼失した幻の城
ちなみに、信長は生涯において「6つ」の城を「居城」として使っていました。
その「6つの居城」とは
- 生誕の地「勝幡城(しょばたじょう)」
- 現在の名古屋城の前身「那古野城」
- 信長の死後に清須会議が開かれた「清州城」
- 美濃国攻略のためにつくられた「小牧山城」
- 信長の義父・斎藤道三の居城だった「岐阜城」
- 琵琶湖畔に建てられていた幻の居城「安土城」
信長はこれら6つの城を居城として利用していました。
その内「勝幡城」「那古野城」「清州城」「岐阜城」は、信長が建てたものではありません。
余談ですが、信長が元服(成人式)した「古渡城」は、信長の父「織田信秀」の居城として有名です。
「名古屋城」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ
信長が最初に作った城「小牧山城」
【1563年】、「織田信長」は、それまでの居城「清洲城」から「小牧山城」へと拠点を移しています。
このとき信長は、隣りの「美濃国」を攻めていました。
「小牧山城」は、清洲城よりも「美濃国」へ近かったため、「美濃攻略」の最前線基地として利用されたのです。
実はこの「小牧山城」こそが、織田信長が本格的に作った最初のお城です。
小牧山城は、当時最先端の技術を駆使した石垣が築かれており、防御施設として優れていました。
さらに、近年では「小牧山城」という城は、「上洛」すなわち「京都へ進軍」するための基地としてつくったという説があります。
信長は「兵農分離」、つまりそれまでの常識であった「半兵半農」の軍をつかわず、「戦い専門の傭兵集団」を組織した人として有名です。
「小牧山城」の城下町には、その「戦い専門の武士」たちを住まわせていたことがわかっています。
信長はこの「小牧山城」から「京都」を目指したと考えられます。
しかし【1567年】、織田信長は長年の宿敵「斎藤龍興」を倒して、「稲葉山城」を奪い、「岐阜城」と改名してそこへ拠点を移しています。
「小牧山城」はわずか4年で、「岐阜城」へとその役割を奪われ、廃れていったのです。
「岐阜城」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ
「足利義昭」のために建てた城「二条城」
【1569年】、「織田信長」は征夷大将軍「足利義昭」を守るため、京都に「二条城」建設しています。
「二条城」は、信長自身が住むためにつくった城ではなく、「足利義昭」を住まわせるための城だったのです。
実は「足利義昭」、【1568年】に「京都」を占領して以来、「本圀寺(ほんこくじ)」というお寺を拠点としていました。
その「本圀寺」というお寺が、「三好三人衆」や「斎藤龍興」に襲われ、危うく命を落としそうになる事件が起こったのです。(本圀寺の変)
そのため信長は、「足利義昭」を守るための防御施設を必要としたのです。
それが「二条城」です。
この信長が建てた「二条城」は、【1573年】に足利義昭が織田信長に追放されると、取り壊されて「安土城」築城のための材料となったと言われています。
現在の「二条城」は、「徳川家康」が作ったものであり、織田信長がつくった「二条城」とは無関係なのです。
余談ですが、信長が「二条城」を自ら建築していた【1569年】、宣教師「ルイス・フロイス」がこの「二条城の建築現場」へ信長を尋ねているのです。
そのとき「ルイス・フロイス」は、恐ろしいものを目撃したと言われています。
一般人の女性にいたずらを繰り返した織田軍兵士を、「織田信長」が惨殺した瞬間を目撃したのだとか。
「ルイス・フロイス」は、この光景に衝撃を受けたらしく、記録を残しています。
「足利義昭」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ
最期に築城した幻の名城「安土城」!実は「軍神」と戦うための城だった
【1576年】、「織田信長」は、琵琶湖畔の「安土山」という山に「安土城」という城を建築し始めます。
この「安土城」こそ、信長がつくった最期の居城です。
「安土城」は、東海道・北陸道・京都・堺・敦賀・岐阜などの大きな街道や拠点に近く、琵琶湖の水運を利用できたため、まさに人が集まる重要な地点だったのです。
実はこの「安土城」は、信長がもっとも恐れた軍神「上杉謙信」を迎撃するための基地だったと考えられています。
越後(新潟県)の「上杉謙信」が、もしも京都を目指して進軍してきたら、この「安土」を通るはずでした。
上杉謙信が京都を目指す場合、考えられるルートは2つありました。
琵琶湖の西を通る「湖西ルート」と、東を通る「湖東ルート」です。
「湖西ルート」は整備がされておらず、大軍団は通れなかったので、信長からすれば守りやすかったはずです。
しかし「湖東ルート」は「羽柴秀吉」が守る「長浜城」があるだけで、防御が手薄だったのです。
そこで信長は「安土城」を作って、城攻めが苦手な「上杉謙信」を相手に、籠城して持久戦ができるようにしたのです。
謙信の拠点である「越後・春日山城」は、雪が降ると帰れなくなる豪雪地帯にあったため、信長が冬まで籠城すれば、謙信軍は帰郷する可能性が高かったわけです(謙信は「北条氏康・氏政との戦い」では、越冬して関東へ進軍していた。ところが謙信にそれ以上の長期遠征は難しかったため、やはり安土城攻略は難しかったと考えられる)
「安土城」は、その壮大さから「信長が天皇を超えるために作った城」と言われていますが、信長に天皇を超えようとした事実はなく、あくまでも「安土城」は「上杉謙信」迎撃用の城であると、筆者は考えています。
「上杉謙信」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ
信長が建てるはずだった城「大坂城」と「千貫矢倉」
織田信長は、「大坂」に「城」を作るつもりだったといわれています。
つまり「信長流の大坂城」です。
【1570年】、織田信長は摂津国「石山」という場所に本拠地を構えていた「一向宗」のトップ「本願寺顕如」に対して、「石山本願寺から退去せよ」と通告しています。
これが「10年」におよぶ「石山戦争」の始まり。
なぜ信長は、強敵「一向宗」に対して、「石山から出ていけ」などと言ったのでしょうか?
全面戦争となるリスクを背負ってまで、「一向宗」にケンカをふっかけた理由は、何だったのでしょうか?
実は「信長」は、「石山」という地を、とても重要視していたのです。
この「石山」という場所には、のちに「豊臣秀吉」が「大坂城」を作っています。
つまり現在の「大阪城」がある場所が、「石山本願寺」だったのです。
この「石山」という場所は、「瀬戸内海」という巨大な海路で西日本とつながっており、「淀川」の水運も利用できるうえに、「京都」や「堺」という大都市と近かったのです。
つまり「大坂」は、当時の日本において、中心地にふさわしい場所だったというわけです。
信長はこの「石山(大坂)」をとても高く評価しており、のちに城を作る予定だったといわれています。
しかしその前に、織田信長は「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれてしまったため、「信長の大坂城」は幻に終わりました。
ただ、信長は「石山(大坂)」の地に「千貫矢倉」という巨大な「物見やぐら」をつくっていたらしく、弟「織田信勝」の息子「津田信澄」に守らせていました。
もしも「本能寺の変」が起こらなかったら、信長は「大坂城」をつくって、「安土城」から拠点を移動していたかもしれません。
「大阪城」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」は「小牧山城」「二条城」「安土城」などの城を建てている
2,「小牧山城」は「美濃攻略のための最前線基地」として築城。「二条城」は「足利義昭」を守るために建築。「安土城」は「上杉謙信」を迎撃するために作ったと考えられる
3,信長は「大阪城」が建てられている「石山」という地を重要視しており、「石山」を占領していた「本願寺顕如」を追い出して、その場所に「大阪城」をつくろうとしていた
以上となります。
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ありがとうございました。
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