この記事では「本能寺の変における、両軍の人数・兵力差」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「本能寺の変の兵力差」を、カンタンに理解できます。
「織田信長」が少人数で本能寺に滞在していた理由は、「家康を暗殺するため」や「光秀を信頼しきっていた」などが考えられています。
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この記事を短く言うと
1,「本能寺の変」で「明智光秀」は『1万3千』、「織田信長」は『100』と、両軍の軍勢には圧倒的な戦力差があった
2,信長が「本能寺」に少数の部隊のみで宿泊していた理由は諸説ある。「油断していた」「光秀を信頼しきっていた」「家康暗殺のため」など。
3,当時の「明智光秀」は、「近畿管領」と呼ばれるほどの権限を持っていたため、その動員兵力は「約2万人」。「与力大名」を合わせれば「10万」近かっただろう。
『本能寺の変』での明智光秀・織田信長「両軍の人数」
「本能寺の変」で、「明智光秀」の軍は「1万3千」。それに対して「織田信長」の軍は「100名」ほどでした。
【天正10年(1582年)6月2日早朝】
「明智光秀」が、京都「本能寺」で、主君「織田信長」を襲撃しました。
「本能寺の変」です。
光秀は「怨恨」または「黒幕による指示」によって、信長を襲ったと言われています。
明智光秀と織田信長
両者は、どれほどの軍勢をひきいていたのでしょうか?
諸説あるものの、両者の軍勢には圧倒的な差がありました。
- 明智光秀軍「1万3千~3万」(「祖父物語」などの資料では「3000」となっている)
- 織田信長軍「20~160」
信長の嫡男「織田信忠」が、本能寺から1.2kmほど離れた「妙覚寺」にいました。
信忠は「500」の兵をひきいていました。
その直後、京都周辺にいた「約1000」の信長直属の馬廻衆(親衛隊)が続々と「妙覚寺」へ駆けつけたため、「1500」になったと考えられています。
双方の戦力を、諸説ある中で「最低の数」を用いて比較してみると
- 明智軍「3000」
- 織田軍「20」
圧倒的な戦力差です。
「本能寺の変」は、本能寺が炎上し、派手な乱戦が行われたように、ドラマや映画で描かれています。
しかし実際には、静かにあっという間に終わったようです。
明智軍の武将が「本能寺」へ討ち入ると、すでに静かになっていた・・という証言もあるほど。
ただ、妙覚寺にいた織田信忠の軍団は、流石に信長の精鋭部隊を率いていただけあって奮戦。
妙覚寺から「二条御新造」という城郭へ移動して、3度にわたって明智軍を押し戻したといいます。
結果として、「本能寺の変」は、「午前4時頃」に本能寺の包囲を完了し、日が昇るのを待って戦闘開始。
「午前8時」には、すべての戦いが終了。
- 諸説あるものの、本能寺で信長軍は「57名」が討ち死(「信長公記」より)
- 対して明智軍の損害は「168名」(「惟任退治記)より)
「織田信忠」の軍は「63~430名」が亡くなったと考えられています
織田信長はなぜ、少人数で本能寺にいたのか?
信長が少人数だった理由については、「油断」「光秀への信頼」「家康を暗殺するため」などの説が唱えられています。
一説によると、織田信長は「本能寺の変」が起きたとき、小姓36名、中間24名、その他50名、合計「110名」しかいなかったといわれています。(中間とは、いわゆる契約社員のような下級武士のこと)
なぜ信長は、これほどまでの少人数で、京都本能寺に滞在していたのでしょうか?
理由は諸説あるものの、主に3つ考えられます。
- 「油断していた」
- 「明智光秀を信頼しきっていた」
- 「徳川家康を暗殺するために、少人数でいる必要があった」
油断していた
このとき、近畿地方周辺に、信長に敵対する勢力は皆無でした。
そのため、信長は完全に油断していた可能性があります。
信長は、明智光秀を信頼しきっていた
信長は「明智光秀」を信頼しきって、全く疑っていなかった可能性があります。
当時、信長の近くには「明智光秀」がひきいる「1万3千」の軍がいました。
これ以外にも軍団はいたわけですが、信長は「明智光秀」の軍が「裏切る」ということを、全く想定していませんでした。
そのため、「誰かが裏切っても、明智軍に始末させれば安全だ」と考えていたのでしょう。
光秀は、通称「近畿管領」と呼ばれるほどに、近畿地方を任せられて、信長から信頼されていました。
信長はむしろ「近畿地方には、明智光秀の軍しかいないから、安全だ」と考えていたのでしょう。
徳川家康を暗殺するために、少人数でいる必要があった
信長は「徳川家康」を暗殺するため、わざと少人数でいた可能性があります。
これは明智光秀の末裔と自称する作家「明智憲三郎」さんが唱えている説です。
織田信長は「徳川家康」の暗殺を目論んでいました。
しかし、無防備な家康をいきなり暗殺したら、信長の評判は一気に下がります。
そのため、「家康を暗殺する口実」が必要だったのです。
その口実として信長が考えたのが、「家康に襲撃されたため、返り討ちにした」というもの。
家康は、100名ほどの護衛を連れて、このとき「堺」を見物していました。
信長からすると「家康に襲撃された」と主張するためには、家康が連れていた護衛よりも、少ない人数をひきいていなくてはいけなかったのです。
「徳川家康を討つと思っていた」
この証言は、本能寺を襲撃した明智軍の武将のものです。
つまり、信長は明智光秀の軍「13000」を使って、家康に「信長襲撃」という冤罪を口実にして討ち果たそうとしたわけです。
家康を討てば、三河・遠江・駿河の東海道三カ国は、ほとんど抵抗せずに信長のものとなっていたでしょう。
このとき、信長にとって家康は、すでに邪魔者だった可能性があるのです。
この3つの説は、「信長が少人数で本能寺にいた理由」として、どれもそれなりに納得のいくものだと思います。
筆者個人の意見としては、「明智光秀を信頼しきっていた」という説が、もっともしっくり来る気がします。
明智光秀の最大動員兵力は?
明智光秀の最大動員兵力は、約「2万人」であったと考えられます。
光秀はこのとき、「近江国・坂本」と「丹波国」あわせて「34万石」の領地を保有していました。
そして光秀は、領内に「100石につき6名」の兵役を課していたと言われています。
ということは、「3400✕6=20400人」となります。
光秀の最大動員兵力は「約2万人」
ただ、光秀には当時、信長直属の武将たち、つまり「与力大名」という応援部隊が、つけられていました。
与力大名は、光秀の指揮命令に従う武将たち。
その「与力大名」の支配領域を含めると、光秀の支配地域の石高は「240万石」。
ちなみに「羽柴秀吉」は、「120万石」。
この「240万石」での最大動員兵力は、どれくらいなのでしょうか?
単純に計算すると「24000✕6=144000人」
「100石6名」は、当時の常識から考えても、かなりの重税です。
そのため、「240万石」すべてで「100石6名」を動員できたわけではないでしょう。
おそらく「10万弱」くらいだと思います。
光秀はこれほどの大軍団を任せられるほど、信長から信頼されていたのです。
ところが、「本能寺の変」のあと、「山崎の戦い」で光秀は、これら「与力大名」の全てから見捨てられます。
「山崎の戦い」で光秀は、「13000」前後の軍しか用意できず、3倍の羽柴秀吉軍に惨敗するのです。
もしも織田信長が、もう少し多くの軍をひきいていたら、歴史はどうなっていた?
信長がもう少し用心深く、せめて「5000」ほどの軍団を直接ひきいていたら、歴史はどうなっていたでしょうか?
結論から言えば、「5千人程度の軍団を連れていたら、信長は光秀による襲撃を、そもそも受けなかった」はずです。
明智光秀は緻密な武将ですので、「5000」もの軍団を率いている信長を、わずか「13000」の兵では、短時間で倒すことはできないと考えるでしょう。
確かに、数では光秀のほうが圧倒的に上です。
しかし、5000の兵では、信長を討ち果たすのに、かなりの時間がかかります。
その間に、京都周辺にいた織田家の武将たちが、援軍に駆けつけるでしょう。
そうなったら光秀には勝ち目など有りません。
光秀はそれくらいのことは計算できるはずです。
「信長が、せめてもう少し多くの軍を率いて本能寺に宿泊していたら、【本能寺の変】は起こらなかった」
そうなっていたら、信長は2~3年のうちに、天下統一を実現していたと思います。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「本能寺の変」での戦力差は、「明智光秀」は『13000』、「織田信長」は『100』
2,信長が「本能寺」に少人数で宿泊していた理由は「油断していた」「光秀を信頼しきっていた」「家康暗殺のため」など、諸説ある
3,「光秀」の最大動員兵力は「約2万人」。「与力大名」を合わせれば「10万」近かった
以上となります。
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