織田信長と同盟を結んだ武将たち!ただ一人生き残った徳川家康の奇跡

この記事では「織田信長が《同盟》を結んだ武将たち」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「織田信長の同盟者」を、カンタンに理解できます。

 

「織田信長」は、数々の武将と同盟を結んでいたが、最後まで同盟を破らなかったのは「徳川家康」だけなのです。


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この記事を短く言うと

 

1,「織田信長」が同盟を締結した武将たちとは?

斎藤道三」、「徳川家康」、「浅井長政」、「姉小路頼綱」、「武田信玄」、「上杉謙信」、「長宗我部元親」など

 

2,「浅井長政」との同盟の結末とは?

「浅井長政」は【1570年】に同盟者で義兄にあたる「織田信長」を裏切り、同盟破棄。【1573年】、「浅井長政」は「小谷城の戦い」で「織田信長」に攻められ亡くなった

 

3,「武田信玄」「上杉謙信」との同盟の結末とは?

「武田信玄」は「織田信長」の「比叡山焼き討ち」に激怒して同盟破棄。しかし【1573年】に病死。「上杉謙信」は【1572年】に同盟締結するが【1576年】に破棄。上杉謙信は【1578年】病死。

「織田信長」が同盟を結んだ武将たち一覧

「織田信長」は、その生涯において、数々の武将と同盟を締結しました。

 

その「信長と同盟を結んだ武将たち」の名前を、一覧で紹介します。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

 

  • 「斎藤道三」
  • 「徳川家康」
  • 「浅井長政」
  • 「姉小路頼綱」
  • 「武田信玄」
  • 「上杉謙信」
  • 「長宗我部元親」

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斎藤道三」は、信長の父「織田信秀」と同盟締結したが、【1556年】に死去。息子「斎藤義龍(高政)」は、信長と敵対したため、「織田・斎藤の同盟」は、道三の死によって失われました。

 

徳川家康」は、【1562年】に「清洲同盟」を締結。この同盟は信長が亡くなる【1582年】まで続き、「武田信玄」の猛攻から、織田家を守り通すこととなりました。

 

浅井長政」は、信長の妹「お市の方」の夫にあたる武将です。信長による「美濃国攻略」と「上洛」のために同盟締結しましたが、【1570年】に破棄されています。詳しくは後述します。

 

姉小路頼綱」は、飛騨国(岐阜県・北東部)の大名です。信長の妻「帰蝶」の妹(または姉)の夫にあたり、織田家とは親密な同盟関係を続けましたが、信長の死後に「羽柴秀吉」によって攻められ、戦国大名としての「姉小路家」は滅亡することとなるのです。

 

武田信玄」は、信長が「美濃国攻略」に成功すると、国境を接することとなりました。信長は「武田信玄」を極端に恐れ、戦いを避けるために同盟締結したが、【1571年】の「比叡山焼き討ち」で関係が険悪になり、同盟破棄。【1573年】に「武田信玄」死去

 

上杉謙信」も「織田信長」と同盟を結んでいました。「武田信玄」が「西上作戦」を開始した【1572年】、信長は「上杉謙信」と同盟締結して「信玄」を牽制。しかし「信玄」が亡くなり、その後【1576年】に「濃越同盟」は破棄。翌年、上杉謙信は「手取川の戦い」で織田家の「柴田勝家」を撃破。謙信は【1578年】に病死し、織田家の上杉家に対する圧力も増すこととなるのです。

 

長宗我部元親」、明智光秀の重臣「斎藤利三」の異母妹が「長宗我部元親」の妻であったため、その関係から、「長宗我部元親」が織田信長に臣従するような形で同盟締結。ところが信長は、徐々に「長宗我部元親」の宿敵「三好康長」を重く用いるようになり、「長宗我部元親」との同盟を破棄。これが「本能寺の変」の動機となったとも言われています。

 

「本能寺の変の動機」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『【本能寺の変】最新説【四国説】を考察!目的は長宗我部救済だった?』の記事はコチラ

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義弟「浅井長政」に裏切られた「織田信長」

1564年】または【1567年】、織田信長の妹「お市の方」は、南近江・小谷城城主「浅井長政」の元へ嫁ぎます。

 

これにより、「浅井家」と「織田家」の同盟が完成。

 

この同盟は、「京都」を目指す織田信長の「岐阜~京都ルート」の安全を確保するために、とても重要なものだった。

 

しかし信長は、対等な同盟者である「浅井長政」を、次第に「家来」として扱うようになる。

 

これに怒った「浅井長政」は、【1570年】、「織田信長」が「浅井長政」の長年の同盟者「朝倉義景」を攻撃したことを口実に、信長を裏切り、その背後を急襲。


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のちに「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる、この修羅場を経験した「織田信長」は、絶対絶命の危機に陥ったといわれています。

 

この「金ヶ崎の退き口」で、「羽柴秀吉」と「明智光秀」、そして「徳川家康」が殿(しんがり)、つまり最後方の部隊を指揮して、襲いかかってくる「浅井・朝倉軍」に必死の撤退戦をしてみせたといわれています。

 

1570年】、「姉川の戦い」で、「織田・徳川連合軍」が「浅井・朝倉連合軍」を撃破。

 

1573年】、「一乗谷の戦い」で「朝倉義景」を自害させ、同年「小谷城の戦い」で「浅井長政」も自害させています。

 

「浅井長政」と「朝倉義景」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『浅井長政のすべてを徹底解説!小谷城や[お市の方]との仲など完全網羅』の記事はコチラ
『朝倉義景のすべてを徹底解説!子孫や家紋・明智光秀との関係をご紹介』の記事はコチラ

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信長が恐れた「武田信玄」と「上杉謙信」との同盟の結末

織田信長が、生涯にもっとも恐れた戦国最強の武将たち「武田信玄」と「上杉謙信」。

 

信長は、この「信玄」と「謙信」とも、同盟を締結しています。

 

1567年】、美濃国を攻略した織田信長は、「武田信玄」と領地を接することとなった

 

しかし信長は、武田信玄を極端に恐れており、同盟を締結して、戦うことを徹底的に避け続けた

 

ところが【1571年】、信長は敵対していた「比叡山延暦寺」を攻撃。「比叡山焼き討ち」を行なってしまう

 

僧侶であり、熱心な仏教徒でもあった「武田信玄」は、この「比叡山焼き討ち」に激怒。

 

織田信長との同盟を破棄して「西上作戦」と呼ばれる「織田信長との決戦」に出陣。


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1573年】、「武田信玄」は、「三方ヶ原の戦い」で「徳川家康」の徳川軍と織田軍の援軍を撃破。

 

しかし直後に「信濃国・駒場」で、武田信玄は病死してしまうのでした。

 

「上杉謙信」はというと、「武田信玄」が「西上作戦」を行なった【1572年】に、「織田信長」と「濃越同盟」と呼ばれる軍事同盟を締結。

 

武田信玄が亡くなると、信長はもう一人の名将「上杉謙信」を極端に恐れるようになり、あの手この手でご機嫌取りをするようになるのです。

 

1576年】、上杉謙信は織田信長との同盟を破棄して、いわゆる「第二次信長包囲網」の一角として信長と敵対するようになります。

 

1577年】、上杉謙信は織田家の猛将「柴田勝家」がひきいた軍団を「手取川の戦い」で撃破。

 

1578年】、謙信は居城「春日山城」のトイレで倒れ、そのまま病死してしまうのでした。

 

「武田信玄」と「上杉謙信」という、信長がもっとも恐れた名将2人が亡くなり、信長の天下統一は、さらに加速していくこととなるのです。

 

「武田信玄」と「上杉謙信」について、以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

『武田信玄・最強説を考察!ライバル・上杉謙信とどっちが強い?』の記事はコチラ
『【上杉謙信】強さの秘密を逸話・エピソードで解説!世界史上最強か?』の記事はコチラ

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20年続いた奇跡の「清洲同盟」と「徳川家康」の功績

織田信長が、生涯にわたって守り続けたのが「徳川家康」との「清洲同盟」。

 

織田信長が【1560年】、「桶狭間の戦い」で「今川義元」を倒した2年後に、「松平元康(のちの徳川家康)」と、信長の居城「清州城」で締結したのが、この「清洲同盟」です。

 

信長は、「今川義元」を討ち果たしたあと、居城「清州城」の北「美濃国・斎藤家」との戦いに集中します。

 

そのため信長は、東に位置していた宿敵「今川家」への防御のため、今川家と織田家の間にあった「三河国」を支配していた「徳川家康」と同盟を結んだのです。

 

「今川義元」が亡くなった後、「今川家」は【1569年】に、「徳川家康」と「武田信玄」によって滅亡に追い込まれます。

 

その後も「清洲同盟」は、「武田信玄を封じ込める」という、重大な効果を発揮し続けました。

 

 

信玄を恐れた信長は、家康を盾にして、西へ領地を急拡大させます。


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家康も、強敵「信玄」の猛攻を、織田信長からの援軍と援助によって耐え抜き、徐々に領地を増やしていくのです。

 

「武田信玄」が亡くなると、その息子「武田勝頼」の攻撃にも、「清洲同盟」は効果を発揮。

 

1582年】、ついに「織田信長」と「徳川家康」は、長年の宿敵「武田」を滅ぼすという戦果をあげたのでした。

 

この頃、信長は「畿内」を中心にして、巨大な勢力を確保していました。

 

それに対して「徳川家康」は、信長に比べたら領地は小さく、わずかに東海道を支配するのみ。

 

「武田勝頼」を滅ぼしたときも、領地「駿河国」を、家康は信長から「与えられている」のです。

 

対等な同盟者であったはずの「徳川家康」が、この頃には、「領地を与えられる」という、まさに家来として信長からあつかわれる状態になってしまったのでした。

 

ところが、この「清洲同盟」も、【1582年】に「織田信長」が「本能寺の変」で亡くなると、その効果を失っていったと考えられます。

 

「清洲同盟」は、「織田信長」を「武田信玄」から守り、「徳川家康」も「織田信長」の巨大な援助によって、名将「武田信玄」に滅ぼされることなく対抗できたわけです。

 

家康のこの名将「武田信玄」を封じ込めた功績と、20年も律儀に同盟関係を続けた人柄は、周囲から凄まじい「信用」を得て、人々からたたえられることとなります。

 

最終的に徳川家康は「征夷大将軍」という、「武士のトップ」の称号を与えられるほどになります。

 

それは家康が、「清洲同盟」を基礎として、名声を高めたためであったとも、考えることができるのです。

 

「徳川家康」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『徳川家康についてわかりやすく簡単に解説!そもそも何をした人なの?』の記事はコチラ

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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「織田信長」が同盟を締結した武将たちは、斎藤道三」、「徳川家康」、「浅井長政」、「姉小路頼綱」、「武田信玄」、「上杉謙信」、「長宗我部元親」など

 

2,「浅井長政は【1570年】に同盟者で義兄にあたる「織田信長」を裏切り、同盟破棄。【1573年】、「浅井長政」は「小谷城の戦い」で「織田信長」に攻められ亡くなった

 

3,「武田信玄」は、【1571年】におこなわれた「織田信長」の「比叡山焼き討ち」に激怒して同盟破棄。しかし【1573年】に病死。「上杉謙信」は【1572年】に同盟締結するが【1576年】に破棄。上杉謙信は【1578年】病死。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

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ありがとうございました。


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