この記事では「織田信長」と「帰蝶」の「関係」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「信長と帰蝶が、いったいどういう関係だったのか」を、カンタンに理解できます。
「織田信長」はおそらく「帰蝶」のことを、かなり警戒していたと考えられます。
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この記事を短く言うと
「信長」と「帰蝶」は、もともと敵対関係にあった。そのためか、信長は帰蝶を警戒していたという逸話がある
2,「信長」と「帰蝶」は、仲が悪かったのか?
信長は、織田家の中でスパイ活動をしていた「帰蝶」に、ニセ情報をつかませて、斎藤家の重臣を死においやったという逸話がある。本当のことかどうかは不明だが、2人の間に子供がいないことを考えると、信長は帰蝶を警戒し、遠ざけていたと考えられる。
3,「帰蝶」は、信長に嫁ぐまで、何をしていたのか?
帰蝶は信長と結婚する3年前、「土岐頼純(とき よりずみ)」という武将に嫁いでいた。土岐頼純は、「斎藤道三」に毒殺されたといわれている。
織田信長と正室【帰蝶】の複雑な関係!普通の夫婦ではなかった!
織田信長と、その正妻「帰蝶(きちょう)」は、もともと「敵同士」だったのですが、「政略結婚」によって夫婦となった関係でした。
帰蝶の実家「斎藤家」と「織田信長」は、当初はげしく敵対していたのです。
信長は、帰蝶の父「斎藤道三」とはライバル関係にありました。
【1549年】、帰蝶は「織田信長」と結婚。
この結婚には、敵対関係にあった「斎藤家」と「織田家」が、過去の敵対関係を忘れて軍事同盟を締結する、という意味があったのです。
「帰蝶」が信長に嫁ぐとき、父「斎藤道三」に分かれを告げたエピソードが有名です。
智将「斎藤道三」は、娘の「帰蝶」が信長に嫁ぐにあたり、一本の短刀を渡したといいます。
「信長がもしも、噂通りのバカ殿だったら、その短刀で、信長の首を取ってこい」
これに対して「帰蝶」は、つぎのように切り替えします
「この短刀が、父上の喉へ向けられることもあるかもしれません」
つまり、
「信長がバカ殿でなかったら、私は信長とともに父の首をいただきに参ります」
帰蝶は、実の父であり百戦錬磨の名将「斎藤道三」に向かって、堂々と宣戦布告をしたというわけです。
こうして「帰蝶」は、織田信長と結婚。
しかし「帰蝶」と「信長」は、通常の夫婦関係を構築することができなかったと考えられます。
信長は帰蝶ではなく、「生駒吉乃(類)」という側室を寵愛し、「信忠」や「信雄」や「徳姫」といった子供をもうけています。
「帰蝶」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「信長」と「帰蝶」の仲は悪かったのか?結婚生活は上手くいってなかった
結婚当初、「信長」は「帰蝶」を警戒していたという逸話があります。
結婚1年が経過した頃、信長は一ヶ月ほど続けて朝帰りを繰り返しました。
信長には、愛人がいるのだろうか?
帰蝶に「愛人」の存在を問いただされると、信長はこう言いました。
「斎藤道三の家老が謀反(裏切り)を計画している。
私もそれに協力しているのだが、連絡が来なくて困っている」
それを聞いて帰蝶は、驚きます。
父「斎藤道三」が、信頼していた部下に裏切られ、殺されそうになっているのですから。
帰蝶は急いでこのことを、父「道三」へ連絡。
知らせを聞いた「道三」は驚いて、自らの家老を処刑してしまいました。
しかしこれは、「信長」の罠だったのです。
道三は、娘婿「織田信長」の罠にまんまとひっかかり、罪もない大切な部下を、処刑してしまったのです。
この逸話が本当に起こったことなのか、それとも後世の創作かは、ハッキリとはわかっていません。
しかし、ライバル「斎藤家」から嫁いだ「帰蝶」に対して、織田信長がかなり警戒していたことだけは確かです。
なぜなら「帰蝶」と信長の間には子供がいないからです。
おそらく信長は、帰蝶のことを警戒して、そばから遠ざけていたのでしょう。
「斎藤道三」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
帰蝶(濃姫)の前半生!結婚前は何をしていたの?
帰蝶は、「織田信長」と結婚する前、他の男性と結婚していたという説があります。
帰蝶の前夫が誰だったかを解説する前に、帰蝶と「明智光秀」の関係を、おさらいしておきましょう。
帰蝶の母は、「斎藤道三」の正室「小見(おみ)の方」です。
「小見の方」は、信長を殺害した武将「明智光秀」の父親の妹。
すなわち「明智光秀」の叔母にあたる女性です。
つまり、「明智光秀」と「帰蝶」は、いとこ同士というわけです。(光秀と帰蝶がいとこ同士かどうかは、諸説ありハッキリとはしていない)
ただ、「帰蝶」と「明智光秀」は、幼馴染であった可能性が指摘されています。
話を戻しましょう。
【1546年】、帰蝶は美濃国の守護「土岐頼純(とき よりずみ)」へ、わずか12歳で嫁いでいます。
「土岐頼純」とは、室町幕府から美濃国の支配者(守護)として認められた「土岐一族」のトップだった武将です。
その「土岐頼純」が、帰蝶の父「斎藤道三」と敵対してしまいます。
【1547年】、「土岐頼純」は、若くして急死してしまいます。
この「土岐頼純」の急死は、「斎藤道三」による「毒殺」であったとも言われているのです。
帰蝶は、わずか【13歳】で未亡人となってしまいました。
夫「土岐頼純」の死により、帰蝶は実家「斎藤家」へと戻されました。
しかし、夫「頼純」が亡くなったわずか2年後の【1549年】、帰蝶は「織田信長」へと再び嫁いでいるのです。
「明智光秀」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
帰蝶の最期!夫「織田信長」の死後、帰蝶はどうなったの?
【1582年】、「織田信長」は「明智光秀」によって「本能寺の変」で討たれて亡くなってしまいます。
「帰蝶」がその後どうなったのかについては、諸説あります。
- 「本能寺の変が起こる前にすでに病死していた」
- 「斎藤道三が亡くなった直後に信長から離婚を言い渡されて、実家の美濃国へ追い返された」
- 「本能寺の変で、信長とともに戦死した」
などなど。
諸説ありすぎて、「帰蝶」が「本能寺の変」のあと、どうなったのかについて、ハッキリしていないのです。
ただ、近年もっとも有力視されている説に、「【1612年】まで生きていた」、という説があります。
「安土殿(あづちどの)」
織田信長の死後、信長の次男「織田信雄」のもとに「安土殿」と呼ばれる女性が身を寄せていました。
この女性が「帰蝶のことだ」と言われているのです。
「安土」とは、織田信長の居城「安土城」のことです。
「安土」という、信長の居城の名前で呼ばれているならば、この女性は「かなり身分の高い女性」ということになります。
「安土殿」は「本能寺の変」から30年後の【1612年】に、亡くなっています。
この女性が「帰蝶」のことなら、帰蝶は【78歳】で亡くなったことになります。
帰蝶が亡くなったこのとき、日本は再び戦争が起こりかねない状態にありました。
「徳川家康」と「豊臣秀頼」の対立が激化していたのです。
そのときの日本は、「徳川家康」が実質的な天下人として支配しながらも、「大坂城」には「豊臣秀吉」の息子「秀頼」が君臨し、対立を深めていたのです。
そして【1614~1615年】の「大坂の陣」で「豊臣家」が滅亡。
天下は統一されて、250年にも及ぶ平和な時代が始まるのでした。
余談ですが、帰蝶は信長の嫡男「織田信忠」を養子としています。
そして「信忠」は、「美濃国」を父から継承しています。
信長はおそらく「信忠」を、美濃国の支配者「斎藤道三」の娘である「帰蝶」の養子とすることで、信忠に「美濃国支配の正当性」を植え付けたかったのでしょう。
ということは、帰蝶は「信長の後継者【信忠】の養母」として、強大な権力を持っていたことになります。
信長は、結婚当初は「濃姫」を警戒していたようですが、「斎藤家」が滅亡したあとは、ある程度の地位を与えて、大切にしたのでしょうね。
「徳川家康」「豊臣秀頼」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」と「帰蝶」は、、もともと敵対関係にあった。そのためか、信長は帰蝶を警戒していたという逸話がある
2,信長は、織田家の中でスパイ活動をしていた「帰蝶」に、ニセ情報をつかませて、斎藤家の重臣を死においやったという逸話がある。本当のことかどうかは不明だが、2人の間に子供がいないことを考えると、信長は帰蝶を警戒し、遠ざけていたと考えられる。
3,帰蝶は、信長と結婚する3年前、「土岐頼純(とき よりずみ)」という武将に嫁いでいた。土岐頼純は、「斎藤道三」に毒殺されたといわれている。
以上となります。
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コメント
コメント一覧 (2件)
レジェバトを観てきて、思ったのですが、信長と帰蝶は、同士だったんじゃないかと‥だから、お互いを、夫婦として、認めあったのは、ほんの短期間だったんじゃない? それは、それは、凝縮した年数だったんじゃない? (  ̄ー ̄)ノ(  ̄ー ̄)ノ
この度は当サイトへお越しくださいましてありがとうございます。
また、貴重なコメントを頂きましたことも感謝申し上げます。
おっしゃることごもっともです。
壮絶な生涯を生きた二人の時間は、それは濃密なものだったと思います。
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ありがとうございました。
失礼致します。