浅井長政の子孫は現在東京にいる!織田信長に戦いを挑んだ2つの理由

目次
浅井長政の子孫は現在東京の「皇居」におられる「天皇陛下」だった!
長政はなぜ織田信長を裏切ったのか?
その理由は「盟友・朝倉家を助けるため」と「信長に家来として扱われる」リスクがあったから。
浅井長政という武将の真実を解説いたします。
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この記事を短く言うと
・今の天皇陛下は、浅井長政の子孫
・後に豊臣秀吉の側室となる「茶々」こと「淀君」は、妻「お市の方」の連れ子で、「浅井長政」の娘ではない可能性がある
・浅井長政が織田信長を裏切ったのは、「浅井家の没落」を防ぐためだった
浅井長政の子孫は、あのお方?
浅井長政の子孫は、今現在、何処にいるのでしょうか?
実は、皇居にいます。
現在の皇室は、「浅井長政」の血を引いているのです。
浅井長政の三女「お江」は、徳川秀忠の正室。
そして二人の間に生まれた五女「和姫」は、後水尾天皇に入内。
和姫の娘は、「明正天皇」となりました。
この「明正天皇」に子供はいません。
しかし、和姫の兄「徳川家光」、姉「勝姫」、異父姉妹「完子」たちの子孫「九条節子」は、「大正天皇」との間に「昭和天皇」を儲けています。
ですので、今上天皇陛下が、「浅井長政の子孫」ということになります。
「茶々(淀)」は、浅井長政の娘ではない?
茶々姫・・・後の豊臣秀頼の母「淀殿」は、浅井長政の長女と言われてきました。
しかし、最近では別の説が浮上しているみたいです。
実は「茶々」は「お市」と前夫の子・・・という噂があるのです。
茶々が浅井長政に嫁いだのは「20代」になってから。
当時としては、かなり遅いです。
ということは、お市は浅井長政に嫁ぐ前に、どこかに嫁いでいた可能性があるのでは?と考えられているようです。
実際、相手の浅井長政も、お市と結婚する前に先妻と「離婚歴」があります。
年齢から計算するに、「茶々」は「お市と先夫の連れ子」という説もあるようです。
織田信長に戦いを挑んだ「2つの理由」
織田信長と同盟を結んでいた浅井長政。
信長との同盟を喜んだ長政は、それまでの「浅井賢政」という名前を改めて、信長の「長」という字をもらって「浅井長政」と名乗ったと言われています。
お市との仲もよく、子供を授かっています。
にもかかわらず、なぜ長政は信長に戦いを挑んだのか?
原因は2つあるようです。
1,「同盟者・朝倉義景に信長が攻撃を仕掛けた」
2,「朝倉が滅びれば、浅井は織田の家臣へと落ちぶれかねなかった」
1,「同盟者・朝倉家に信長が攻め込んだ」
「近江」浅井家は、隣国「越前」の朝倉家と同盟していました。
長年の同盟は、長政の先々代「亮政」の時代からであり、「亮政」は朝倉から、何度も援軍ををもらったと言われています。
織田信長と浅井家が同盟するにあたり、「朝倉家には攻め込まない」という約束もなされています。
しかし、朝倉家と犬猿の仲だった織田は、その約束を破って越前・朝倉に進軍。
約束違反を怒った長政の父・久政は、家来たちに担がれて「信長攻撃」を主張。
これに根負けした長政が、織田軍の背後を襲った・・・と言われています。
これが「金ヶ崎の退き口」・・・後の豊臣秀吉が、殿軍を務めて武功をあげた有名な戦いです。
とはいえ、信長が「朝倉攻撃に際して、浅井家に無言だったのは、信長なりの長政への配慮」だったとも言われています。
他国へ攻撃を仕掛ける際に、最前線に立たされるのは、敵の領地と境を接する領主・・・つまり「朝倉攻め」に際しては、浅井長政が最前線に立つはずなのです。
しかし信長は、浅井長政を動員せず、あえて無視して出撃。長政に「朝倉家を裏切った裏切り者」という汚名を着せないようにしたのでしょう。
その配慮が、信長の命を危機に陥れることとなったのです。
2,「朝倉が滅びれば、浅井は織田の家来に落ちぶれる」
浅井が織田を裏切る直前、既に織田家は尾張から機内を、ほぼ制圧していました。
対して浅井は「近江国」の北半分を治めるのみ。
かなりの戦力差があります。
しかも浅井の隣「朝倉」が織田のものとなれば、浅井はほぼ完璧に織田家に包囲される形となるところでした。
この時徳川家康は、浅井長政と同じく「織田の同盟者」でしたが、後に織田の家来として扱われる事となります。
もし浅井長政が、織田に従い続けていたら、いつの間にやら浅井家は「手柄に応じて織田家から領地を与えられる」という、織田家の家来に成り下がっていた可能性が高いです。
それがわかったからこそ、浅井長政は「越前・金ヶ崎」に進軍した織田軍の背後を突いて、信長を殺害しようとしたのでしょう。
実際、信長は長政に裏切られる前、長政のことを「家来」として扱っていた書状が残されているのだとか。
このことから、長政はいつ領地である「北近江」を取り上げられるかわからず、自領の秩序が崩壊してしまう可能性もあったため、信長を裏切ったのでしょう。
ここで信長を仕留められればよかったのですが、元々馬術が得意だった信長は、とてつもなく逃げ足が早かったのです。
「浅井長政の妻・お市の方」について、よろしければ以下のリンク記事をご利用下さいませ。
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まとめ
本日の記事をまとめますと
・浅井長政の子孫は「今上天皇陛下」
・茶々姫は、浅井長政の子ではないかもしれない
・浅井が信長を裏切ったのは、「約束違反」又は「家来に成り下がるリスク」があったため
以上となります。
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