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織田信長は天皇家を乗っ取ろうとしたの?信長は天皇家の保護者だった

この記事では「織田信長が天皇家を乗っ取ろうとしていたのか否か」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「織田信長と天皇の関係」を、カンタンに理解できます。

 

「織田信長」は「天皇を保護しようとした」のです。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「織田信長」と「正親町天皇」は、どういう関係だったのか?

「織田信長」は「正親町天皇」を脅して圧迫していたという説があるが、実際のところ織田信長は正親町天皇を保護していた

 

2,「正親町天皇」は「織田信長」をどう思っていたのか?

「正親町天皇」も「織田信長」を信頼していたと思われる。「比叡山焼き討ち」では正式な抗議をせず、「蘭奢待」の切り取りも認めているのだから

 

3,「織田信長」は「京都馬揃え」で「正親町天皇」に軍事的圧力をかけたのか?

「京都馬揃え」は圧力ではなく、「正親町天皇」からの命令によりおこなわれた。このことで、「織田信長」に命令を下した「正親町天皇」の権威はさらに高まったはず。

織田信長と「正親町天皇」!信長は正親町天皇を保護していた

「天皇の権威を超えようとした」または「天皇家・天皇の位を乗っ取ろうとした」といわれている「織田信長」。

 

近年の研究では、当時の「正親町天皇」を織田信長は保護していた、と考えられています。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

天皇を武力で圧迫し、天皇の権威を傷つけた「悪人」。

 

天皇を意のままに操り、自分の利益を満たそうとした織田信長。

 

現代では、織田信長のことを、そんなふうに思っている人が多いと思います。

 

しかし、一説によると「織田信長」は、「天皇家を苦しめた悪人どころか、天皇を保護した忠実な臣下だった」ともいわれているのです。

 

これまでの通説である「信長は天皇の位を犯そうとした大悪人」というものも、見方を変えると「信長が忠臣であった」とみることができます。

 

最近では、「織田信長は、とてもマジメな性格だった」ともいわれていますので、「天皇」に対しても、誠心誠意つくしていたと考えられます。

 

「織田信長の性格」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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「正親町天皇」は「信長」を信頼していた!「比叡山焼き討ち」と「蘭奢待」の逸話

「正親町天皇」は、織田信長をかなり信頼していたという見方ができます。

 

なぜなら「正親町天皇」は、織田信長に窮地を救われているのです。

 

実は、当時の天皇家はとても困窮していました。

 

お金に困っていたのです。

 

古くからの「しきたり」や「慣習」である「儀式」などを、「お金がない」という理由で、中止していたほどです。

 

正親町天皇は、「天皇」に即位したにもかかわらず、その「即位の儀式」を「お金がない」という問題で行えなかったほどに、困窮しておられたのです。(このときは、毛利家の支援で、儀式をとりおこなった)

 

そんなときです。【1568年】、織田信長が「足利義昭」を連れて上洛(京都へやってきた)のです。

 

信長は、困窮していた「天皇家」と「朝廷」へ、多額のお金を献上します。

 

これ以降、信長は経済的に困っていた天皇家を、その圧倒的な財力で支えたと考えられています。

 

さらに、信長のことを「正親町天皇」が信頼していた逸話として、「比叡山焼き討ち」と「蘭奢待(らんじゃたい)」のエピソードがあります。



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「比叡山焼き討ち」

1571年】、「織田信長」は「比叡山焼き討ち」を強行していますが、正親町天皇はこれに対して正式な抗議をしていません。

 

「比叡山延暦寺」といえば、「鎮護国家の霊場」、つまり「日本という国を守るための神聖な聖地」なのです。

 

「延暦寺」は、京都の北東に位置しており、これは「鬼門」という不吉な方角から「天皇・京都・朝廷」を守るという意味があったのです。

 

そんな「比叡山延暦寺」を焼き討ちにして虐殺を行なったのですから、正親町天皇の信長への怒りは相当なものとなるはずです。

 

しかし「正親町天皇」は、信長に対して、それほど怒りを表明していません。

 

実は、「比叡山延暦寺」は戦国時代より昔、「平安時代」から、朝廷や天皇を苦しめた勢力になりさがっていたのです。



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「強訴(ごうそ)」をご存知でしょうか?

 

「延暦寺の僧兵」たちが、「神」が乗るという神聖な神輿(みこし)を担いで、「神輿の前に立つと、天罰がくだるぞ」と朝廷や天皇を脅し、自分たちに都合の良い政治を行わせようとした「実力行使」のことです。

 

当時は「神罰」や「仏罰」、「祟り」などが信じられていたので、この【強訴】を天皇や朝廷は、本気で恐れていたのです。

 

戦国時代の「比叡山延暦寺」は、さらに悪質になっていました。

 

広大な領土からの収入を利用した高利貸しをして、金儲けを繰り返し、仏道修行をおこたって、「比叡山延暦寺」という看板を利用してやりたい放題。

 

これに怒った織田信長が「延暦寺」を焼き討ちにしたのでした。

 

正親町天皇も、胸がスッとしたのかもしれません。

 

形式的な抗議や非難はしたでしょうが、裏では信長に「よくやった」と言っていたはずです。

 

「比叡山焼き討ち」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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「蘭奢待」切取り事件

「蘭奢待(らんじゃたい)」とは、「東大寺」が所持している香木、つまり「お香」の木のことです。

 

「蘭奢待」という文字の中には、それぞれ「東・大・寺」という漢字が隠れています。

 

とても高価なもので、「聖武天皇」の時代に大陸から日本へ渡ってきたといわれています。

 

ところが実際には「10世紀」に渡来したというのが、真実なようです。

 

歴史ではこれまで

  • 室町幕府の将軍「足利義満・義教・義政」
  • 美濃国守護「土岐頼武」
  • 「織田信長」
  • 「明治天皇」

 

これらの方々が、巨大な「蘭奢待」の香木から、一部を切り取ったとされています。

 

1574年】、織田信長は、この「蘭奢待」を切り取らせてほしいと、天皇や朝廷に頼んでいるのです。

 

「正親町天皇」はこれに怒り、当初は反対したものの、結局は許可するしかなかった、といわれています。

 

しかし、この「蘭奢待」の切取り許可は、信長にとって、「天皇から信頼されている」という証拠になります。



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信長はこの時、「石山本願寺」や「武田勝頼」「足利義昭」などの強敵に包囲され、苦戦していました。

 

そんな中で、「蘭奢待を切り取っても良い」と「正親町天皇」から許可されたということは、「正親町天皇」は「石山本願寺」や「武田勝頼」よりも、「織田信長」に味方していると、アピールすることが出来ます。

 

そうすれば、信長に敵対する勢力は、信長と戦うことをためらうでしょう

 

なぜなら「信長を敵にすることは、天皇・朝廷を敵にすることだから」です。

 

後世の「鳥羽・伏見の戦い」で、圧倒的に有利だった「旧幕府軍」が、「錦の御旗」を掲げた「薩長軍」にボロ負けしたように、「蘭奢待」切り取りを許された「織田信長の軍」は、「錦の御旗」を手に入れたようなものなのです。

 

信長からすれば、「蘭奢待」と「正親町天皇の許可」を手に入れることは、生き残るための重要な戦略だったのでしょう。

 

確かに、正親町天皇は「蘭奢待切り取り」に反対なさったことでしょう。

 

長く続く「切り取りは、よほどのことがない限りできない」という「しきたり」があったでしょうから、当然です。

 

しかし信長は、この頃も「正親町天皇」へ何度も何度も「お金」を献上して、朝廷・天皇を保護しているのです。

 

正親町天皇が、世話になっている信長に、協力することは、ある意味で「持ちつ持たれつ」を保つために仕方ない判断だったのかもしれません。

 

この「蘭奢待切り取り」を結局はお認めになられたということは、「正親町天皇」は「織田信長」に「かなり世話になっていた証拠」、とみるのが妥当ではないかと思います。

 

このことだけをもって、正親町天皇が信長と敵対していたわけではないと思います。

 

「聖武天皇」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

「錦の御旗」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。


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「京都馬揃え」は信長の天皇家への圧力?正親町天皇の命令で、信長は馬揃えをやった

1581年】、「織田信長」は「明智光秀」に命令して、京都で「馬揃え(軍事パレード)」を盛大におこなっています。

 

この「馬揃え(うまぞろえ)」は、「織田信長が正親町天皇を武力で脅すためにおこなった」といわれています。

 

しかし、実際には「正親町天皇」が、安土城でおこなわれた「軍事パレード」を耳にされ、「面白そうだから京都でもやってほしい」と、信長に命じたのが「京都・馬揃え」がおこなわれた理由なのです。

 

「信長は、天皇からの命令で行なった」という説について、異なる説を唱える声も聞こえてきます。

「信長が京都で馬揃えをやりたいと言い出したが、それでは天皇を【ないがしろ】にしているように見える。

そのため、天皇から【馬揃えをやれ】という命令を無理矢理に出させて、それを理由として馬揃えを行なったのだ」

しかし、天皇からの命令で「京都馬揃え」を信長が行うことは、天皇にとっても悪い話ではありません。

 

なぜなら「天皇の権威がさらに高まるから」です。



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表向きだけのことかもしれませんが、「天皇の命令で、織田信長は壮大な馬揃え(軍事パレード)をおこなった」のです。

 

当時「天下に最も近い男」だった「織田信長」に、それほど盛大な祭りをおこなわせたとなると、「正親町天皇はすごいお方だ」と、国民は思ったはずです。

 

そして信長からすれば、「天皇家はすごいのだ」と全国の戦国武将たちに思わせることに、利益がありました。

 

信長は「天皇からの命令」を引き出して、強敵たちに「信長と戦ってはいけない」という「和睦」の命令を何度も出させていました。

 

この命令に従わない敵将は、「朝敵」となって、信長の部下ではない全国の戦国武将からまで、一気に攻め滅ぼされかねない危機に陥ることとなるのです。

 

天皇家の権威が高まれば、信長にとって都合の良いこの「停戦命令」に、さらに迫力がつきます。

 

「天皇からの命令で馬揃えがおこなわれる」ということは、「天皇家」にとっても「信長」にとっても都合の良い話だったはずなのです。

 

信長に「馬揃え」を命じることが出来た「正親町天皇」と、その命令に忠実に従った「織田信長」。

 

両者には「信頼関係」があったのではないでしょうか。



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「正親町天皇」の退位に反対した「織田信長」の真意

「織田信長」は「正親町天皇」に譲位、つまり「位を皇太子にゆずれ」と迫ったといわれています。

 

しかし別の説によると、これとは正反対で、「皇太子に天皇の位をゆずりたい」と言っている「正親町天皇」に対して、織田信長は「まってほしい」と、その「譲位」をとめたというのです。

 

どちらが本当なのでしょうか?

 

筆者は「位を皇太子に譲ろうとした正親町天皇を、織田信長が止めた」のだと思っています。

 

もしも織田信長が「正親町天皇」に「位を皇太子に譲れ」と言ったのなら、それはかなり失礼なことです。

 

織田信長は、親しかった「誠仁親王」を次の天皇としたほうが、操り人形にしやすかったといわれています。



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しかし、信長と「正親町天皇」は、このときすでに10年以上も連携を続けてきた関係です。

 

1581年】、京都馬揃えがおこなわれた3ヶ月後、「正親町天皇」の譲位が一度は決まったのですが、それが信長の横槍により中止になったという説があります。

 

信長からすれば、「天下統一」を目前にした【1581年】の時点で「正親町天皇」が天皇をやめてしまったら、下手したら「天下統一」が遅れるかもしれないのです。

 

このとき「正親町天皇」は【65歳】、当時としてはかなりの高齢です。

 

おそらく「正親町天皇」は、元気なうちに「誠仁親王」に譲位したかったのでしょう。

 

ところが、「譲位のための費用」を負担する立場にあった織田信長に反対されて、正親町天皇は譲位が出来なかったのです。

 

結局、「正親町天皇」は【1582年】に「織田信長」が「本能寺の変」で亡くなった4年後の【1586年】に譲位しておられます。

 

「本能寺の変」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

「朝廷」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。


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信長は「天皇を超えようとした」のではなく、天皇を保護しようとした

「織田信長」は、「天皇を超えようとした」または「天皇になろうとした」のではなく、「天皇を保護しようとした」のでしょう。

 

すこし天皇に対して失礼な言い方になりますが、信長にとって天皇は、とても便利な存在です。

 

天皇から、各地の戦国武将へ「信長にとって都合の良い命令」を出させれば、より早く「天下統一」が可能となります。

 

織田信長は、とても真面目な性格であったという説があります。

 

「天下統一」よりも「天下静謐(てんかせいひつ・平和のこと)」を実現しようとしたのだとか。

 

そのためにも、天皇には権威ある存在でいてもらったほうが、都合がよいはずなのです。

 

信長の居城「安土城」には、通常「天守閣」と呼ばれるものが「天主閣」と呼ばれていたのだとか。

 

これは信長を、「天の主」つまり「神」とする意味だったとされています。

 

信長は安土城内のお寺「総見寺」で、自らを神とし、人々に拝ませたと言います。

 

これは「正親町天皇」という天皇を超えて、日本の頂点に位置し、自らが支配者となって天皇をも屈服させようとした・・・と考えられています。



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しかし考えてみてほしいのですが、「自分を神として拝ませること」は、当時それほどめずらしいことでははずです。

 

「豊臣秀吉」は亡くなった後「豊国大明神」という神になってまつられました。

 

「徳川家康」も「東照大権現」と呼ばれて、「日光東照宮」で神様になっています。

 

信長がいくら「俺様は偉いのだ」と威張ったところで、「天皇」は別格です。

 

現代で例えるなら

「世界的な大金持ちが、いくら威張ったところで、天皇は次元が違う。

国民が天皇を慕う気持ちや、天皇家の権威は、歴史が違いすぎるので、一代かぎりの権力者では、比べようがない」

という感じではないでしょうか。

 

信長が「天皇」を超えたとしても、「信長が死んだ」あとは、だれも従わないでしょう。

 

「豊臣秀吉」が死んだ後、その家来たちが次々と豊臣家を裏切って、結局はそれら「豊臣家の家来だった者たち」によって「豊臣秀頼」が殺されたように。

 

「信長」に「天皇を超える」ことができたとは思えませんし、本人もそんなことを考えていたとは思えません。

 

「信長は、天下統一のため、平和のため、天皇と天皇家を保護しようとした」のだと、筆者は考えています。

 

「豊臣秀吉」「豊臣秀頼」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「織田信長は「正親町天皇」を脅して圧迫していたという説があるが、実際のところ織田信長は正親町天皇を保護していた

 

2,「正親町天皇」も「織田信長」を信頼していたと思われる。「比叡山焼き討ち」では正式な抗議をせず、「蘭奢待」の切り取りも認めているのだから

 

3,「京都馬揃え」は「織田信長」の圧力ではなく、「正親町天皇」からの命令によりおこなわれた。このことで天下人「織田信長」に命令を下した「正親町天皇」の権威はさらに高まったはず。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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