「名古屋城」作った人は誰なのか?わかりやすく解説いたします。
「大阪城」「姫路城」とならぶ名城「名古屋城」。
現在、名古屋市にそびえ立つあの城は、徳川家康が命令して建てさせて、家康の息子が住んだお城です。
どうして、名古屋にお城をつくったのでしょうか?
実は「関ヶ原の戦い」で学んだ教訓から、名古屋にお城が必要となったのでした。
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この記事を短く言うと
1,名古屋城を作ったのは「徳川家康」。名古屋城の前身「那古屋城」は「今川義元の父」がつくった
2,「那古屋城」は「織田信秀」「織田信長」らが城主をつとめ、「名古屋城」は「尾張藩主」が代々城主をつとめた
3,名古屋城の石垣の石には、その石を運んできた大名の刻印が、それぞれに刻まれている
名古屋城を作った人は誰?「なごや城」はもう一つ存在していた
名古屋城
現在「名古屋市」にそびえ立つ「名古屋城」を作った人は、「徳川家康」です。
1610年、家康は
- 「加藤清正」
- 「福島正則」
- 「池田輝政」
- 「黒田長政」
など、全国の大名に「築城」を命令。この地に「名古屋城」を建てさせたのでした。
実は「1610年」に家康が築城を命令する前に、この地には「那古屋(なごや)城」という城が存在していました。
「那古屋城」は「織田信長」が誕生したと言われている城です。
この「那古屋城」、正確にいつ築城されたのかはっきりわかっていません。
「1521~1527年」に建てられたことだけは確かです。建てられた当初、この建物は「柳之丸」と呼ばれていたのです。
その「柳之丸」を、織田信長の父「信秀」が「那古屋城」と改名したのです。
ちなみに余談ですが、豊臣秀吉が「朝鮮出兵」するために九州に作ったお城も「名護屋(なごや)城」です。
「なごや城」歴代城主一覧!
「那古屋城」の歴代城主、または「城代」など「住んでいた人」をご紹介いたします。
今川氏豊(今川義元の一族)
織田信秀(信長の父)
織田信長
織田信光(信長の叔父)
林秀貞(那古屋城代)
この後、「那古屋城」は廃城となり、50年以上あとになって、徳川家康に再建されることとなります。
「名古屋城」・・・名古屋城は、徳川家康の九男「徳川義直」が「尾張藩主」として入城したお城です。
以下に、新しく建てられた「名古屋城」の歴代城主を「明治維新」までご紹介します
- 徳川義直(家康の九男)
- 徳川光友
- 徳川綱誠
- 徳川吉通
- 徳川五郎太丸(夭折)
- 徳川継友
- 徳川宗春
- 徳川宗勝
- 徳川宗睦
- 徳川斉朝
- 徳川斉温
- 徳川斉荘
- 徳川斉臧
- 徳川慶勝
- 徳川茂徳
- 徳川義宜
- 徳川慶勝(最期の尾張藩主)
「名古屋城」の歴史を簡単解説!
「名古屋城」は、もともと「那古屋城」を起源としているといっていいでしょう。
今川義元の父「今川氏親」が、尾張国攻略のために、この地に「柳之丸」という城を作ったことが始まりです。
1532年
織田信長の父「織田信秀」が、「柳之丸」を計略により奪取。「那古屋城」と改名して、ここへ本拠を移します。
1534年
那古屋城で「織田信長」が誕生。その後、信秀は「那古屋城」を信長にゆずり、自分は「古渡城」へ拠点を移します。
1555年
信長は本拠地を「清洲城」へと移します。那古屋城には叔父「織田信光」や、家老「林秀貞」らが城代として入るものの、その後は「廃城」となるのです。
1609年
徳川家康は、交通の拠点であった「名古屋」に「巨大な城」を作ることを決断。
1612年
「名古屋城」完成。
西国から江戸へ攻めてくる敵を想定し、この「名古屋」という重要拠点に大きな城を作ったのだと考えられます。
石垣に刻まれた刻印!福島正則と加藤清正の苦労
名古屋城の石垣には、それぞれ様々な「刻印」が彫られています。
これは何を意味するものなのか?というと、これは「どこの大名が、この石をもってきたのか」を表すためであると考えられています。
名古屋城築城には
- 「加藤清正」
- 「福島正則」
- 「池田輝政」
- 「黒田長政」
- 「加藤嘉明」
- 「浅野幸長」
- 「田中吉政」
- 「細川忠興」
- 「前田利光」
などの、外様大名が数多く駆り出されました。
彼らは自らのノルマを達成すると同時に、自分のノルマ達成を、刻印を彫った石で証明したのです。
ちなみに・・・この「築城」は、西国大名からすると、相当な負担となっていたようです。
「福島正則」は、築城の負担が大きいと、盟友の「加藤清正」に愚痴をこぼします。
すると加藤清正は
「文句があるなら、国に帰って反乱の準備をしろ。
それが出来ないなら、黙って仕事しろ」
と福島正則を叱り飛ばします。
これを耳にした徳川家康は、激怒。
そうはいっても、福島正則ら「外様大名」は、名古屋城築城の前にも「江戸城」「駿府城」を作らされており、相当に疲弊していたはず。
家康は、西国大名の力を削ぎ落とす目的で、築城を命じたらしいです。石垣用の巨大な石は、遠隔地からもってこなければならず、その負担だけでもかなりのものでした。
この築城の4年後、1614年「大坂冬の陣」が起こっています。「徳川家康」と「豊臣秀頼」の戦争です。
「福島正則」も「加藤清正」も、もともとは「豊臣秀頼」の部下でした。
家康は「福島」「加藤」に築城を命じて力を失わせ、「大坂冬の陣」に参加できないようにしたのかもしれません。
『名古屋城』について「ひとこと」言いたい!
家康は、どうして『名古屋』に城を作ったのでしょうか?
1600年、「関ヶ原の戦い」で、家康は尾張国「清洲城」を重要拠点として重視し、守りを固めています。また、西軍の「石田三成」も、「清洲城」を重要拠点として狙っていました。
なぜ「清洲城」が重要かというと、清洲城が「東海道」の入り口であり、陸路・海路の両面で「江戸」を目指せる重要な地点だったからです。
家康は「清洲城」を攻め落とされると、江戸も危ないと考えていました。そのため、「清洲城」を四男「松平忠吉」に与えて守らせたのです。
ところが四男「松平忠吉」は、若くして病死。
その後、九男「義直」を、「忠吉」の代わりに尾張国主としたのでした。
ところが「清洲城」には「洪水が起こりやすい」という弱点があったのです。
そこで家康は「名古屋」に目をつけ、「清洲城」に代わってここに巨大な「名古屋城」をつくり、我が子である「尾張義直」を城主としておいたのです。
名古屋城は、西国から江戸へ攻めてくる敵軍を防いでくれるはずでした。
しかし幕末、1868年の「戊辰戦争」で、尾張藩主であった「徳川慶勝」は、あろうことか真っ先に新政府軍へ寝返り、大軍団をひきいて、自ら江戸城へと攻め込んできたのでした。
「尾張藩」は、長い間、本家である「徳川将軍家」と敵対しており、その恨みがあったため、明治維新で徳川家を裏切ったのです。
巨大な名古屋城が、全く役に立たないとは・・・皮肉を感じてしまいます。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,那古屋城は「今川義元の父」がつくり、今現在の「名古屋城」は「徳川家康」が作らせた
2,「那古屋城」は、「織田信秀」「織田信長」らが代々城主をつとめ、「名古屋城」は「尾張歴代藩主」が代々城主をつとめた
3,家康は、「西国から江戸へと攻めてくる敵」を防ぐために名古屋城を築城したが、最期の尾張藩主「徳川慶勝」は、真っ先に徳川将軍家を裏切って「新政府軍」へついた
以上となります。
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