「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」
桶狭間の戦いの前夜、そう舞い踊ったとされる戦国の覇者、織田信長。彼の人生は炎のように激しく、そして本能寺の変という衝撃的な結末で幕を閉じました。一般的には「信長の野望はそこで潰えた」と思われがちです。
しかし、歴史の教科書を閉じたその先には、驚くべき「血の物語」が続いていました。
「あの織田信成さんは、本当に信長の子孫なのか?」
「現代の天皇陛下にも、信長の血が流れているって本当?」
「教科書に載っている家系図には、実は嘘がある?」
これらの疑問は単なる都市伝説ではありません。最新の歴史研究と系譜学を紐解くと、信長が武力で成し遂げようとした「天下布武」とは異なる、「遺伝子による生存戦略」とも呼べる壮大なドラマが浮かび上がってくるのです。
この記事では、歴史ミステリーのプロが、織田信長の家系図に隠された真実と、現代まで続く命のリレーを徹底解説します。
- 【衝撃】織田信長の血は、女系を通じて現在の皇室や徳川将軍家に受け継がれている事実
- 【疑惑】フィギュアスケーター織田信成氏の家系図にある「空白の4代」と、歴史学的な信憑性
- 【新説】信長のルーツは平氏ではなく、古代の神官「忌部氏」だったという最新の研究成果
- 【悲哀】20人以上いた子供たちの、政略結婚と戦乱に翻弄された数奇な運命
それでは、400年の時を超えた家系図の旅へ、一緒に出かけましょう。
織田信長の家系図をわかりやすく解説!

引用元「Wikipediaコモンズ」より
まずは、織田信長という巨人がどこから現れたのか、そのルーツと家族関係を深掘りしていきましょう。ここには、学校では教えてくれない「意外な真実」が隠されています。
織田信長の先祖は誰?平清盛との関係とは
織田信長といえば、「源平交代思想(げんぺいこうたいしそう)」を利用して、自分は「平氏(平清盛の子孫)」であると名乗っていたことは有名です。「源氏の足利将軍家の次は、平氏である俺が天下を取る番だ」という、政治的なプロパガンダでした。
しかし、近年の綿密な調査により、この「自称・平氏」は創作である可能性が極めて高くなっています。では、本当のルーツはどこにあるのでしょうか?
現在、最も有力視されているのが、越前国(現在の福井県丹生郡越前町)にある「劔神社(つるぎじんじゃ)」の神官を務めていた「忌部(いんべ)氏」説です。
| 比較項目 | 通説(信長の自称) | 最新学説(有力説) |
|---|---|---|
| 氏族 | 平氏(桓武平氏) | 忌部氏(古代の祭祀氏族) |
| 具体的な祖先 | 平資盛(平清盛の孫)の落胤 | 劔神社の神官・忌部親真 |
| 由来 | 平家の生き残りが越前に逃れた | 越前の荘園管理者から武士へ転身 |
忌部氏は、古代から朝廷の祭祀(神様のお祭り)を司る格式高い一族でした。信長の先祖である「織田(おだ)氏」は、もともと「越前国織田荘」という場所の神官であり、荘園の管理人でした。
彼らは室町時代に、越前の守護大名であった斯波(しば)氏に見出され、その才能を買われて武士に取り立てられます。そして斯波氏が尾張国(愛知県)の守護を兼任することになった際、家臣として尾張へ移住したのです。
信長さん「第六天魔王」と恐れられた私、織田信長のルーツが、神様に仕える神官だったなんて!歴史って皮肉で面白いね。
余談ですが、織田信長は、平清盛の長男・平重盛の次男にあたる平資盛の子孫を自称していました。実は、平重盛の母親は、あの「源氏物語」の作者・紫式部の子孫なのです。つまり、平重盛の次男・平資盛の子孫だという話が事実なら、織田信長は、紫式部の子孫だということになります。信長が平資盛の子孫だという話は、信ぴょう性に乏しいので、信長が紫式部の子孫であることもないでしょう。平資盛は、摂政の前で馬を降りず、乱暴された人物です。それに激怒した祖父・平清盛(または父・重盛)は、摂政の髪を切り落としたといいます。
信長の父・織田信秀と母・土田御前について


信長の破天荒な性格と合理的な思考は、突然変異で生まれたものではありません。偉大な父の影響を強く受けています。
父・織田信秀(のぶひで)は、「尾張の虎」とも呼ばれた猛将であり、同時にずば抜けた経済感覚を持った政治家でした。彼は、尾張の守護代(守護の下の役職)に仕える「三奉行」の一人という低い身分からスタートしましたが、商業都市である「津島(つしま)」や「熱田(あつた)」を支配下に置くことで、莫大な富を築きました。
「金があれば、兵も鉄砲も雇える。朝廷や幕府にも献金して味方にできる」
この「経済力で武力を養う」というスタイルは、そのまま息子・信長に受け継がれ、後の「楽市楽座」などの政策へと繋がっていきます。
一方で、母である土田御前(どたごぜん)との関係は、少々複雑でした。彼女は、奇行の目立つ信長(当時は「うつけ者」と呼ばれていました)よりも、礼儀正しく行儀の良い弟・信勝(信行)を溺愛していたと伝えられています。
有名なエピソードがあります。父・信秀の葬儀の際、信長は祭壇に抹香(お香)を投げつけるという暴挙に出ました。これは父への愛憎入り混じるパフォーマンスとも言われていますが、これを見た母や家臣たちは激怒し、「やはり跡継ぎは弟の信勝様しかいない」と確信したといいます。
この「母に愛されなかった欠落感」が、後の骨肉の争い(弟殺し)や、既存の権威を破壊する信長の情熱に繋がったと分析する心理学者も少なくありません。
信長の兄弟は何人?お市の方との年齢差13歳の真実
織田信秀は非常に精力的で子沢山な人物でした。信長には、確認されているだけでも兄弟が12人、姉妹が十数人いたと言われています。まさに大家族です。
中でも歴史ファンに人気が高いのは、絶世の美女と謳われた妹・お市の方(おいちのかた)でしょう。


引用元「Wikipediaコモンズ」より
ドラマやゲームでは、信長とお市が兄妹仲良く会話しているシーンがよく描かれます。しかし、史実における二人の年齢差をご存知でしょうか?
実は、13歳も離れていたという説が有力です。
信長が13歳前後の時にお市が生まれた計算になります。当時の13歳といえば元服(成人)の年齢。つまり、信長にとってお市は「一緒に遊ぶ妹」というよりは、「自分の娘のように可愛い、守るべき幼児」という感覚に近かったはずです。
信長は後に、北近江の若き大名・浅井長政との同盟のためにお市を嫁がせます。これは単なる政略結婚の駒として扱ったのか、それとも「自分が認めた最高の男(長政)に、最愛の妹を託した」のか。後に浅井長政が裏切った時の信長の激怒ぶりを見ると、後者だったのではないかと想像したくなります。
織田信長の子供は何人いたのか?
戦国の世を駆け抜けた織田信長。彼自身の血を引く子供たちは、一体何人いたのでしょうか?そして、本能寺の変の後、彼らはどのような運命を辿ったのでしょうか。
正室・帰蝶(濃姫)には子供がいなかった理由
信長の正室といえば、美濃の蝮(マムシ)こと斎藤道三の娘、帰蝶(きちょう/通称・濃姫)です。政略結婚で結ばれた二人ですが、大河ドラマ『麒麟がくる』などで描かれたように、夫婦仲は決して悪くなかったとも言われています。
しかし、史実において彼女の存在は多くの謎に包まれています。最も大きな謎は、信長との間に実子がいたという記録が一切ないことです。
これにはいくつかの説があります。
- 不妊説:どちらかの体に原因があり、子供ができなかった。
- 早世説:子供は生まれたが、幼くして亡くなり記録に残らなかった。
- 養母説:側室が産んだ子供(奇妙丸=後の信忠など)を、正室として養子に迎え育てていた。
本能寺の変の際、濃姫がどうしていたのかも定かではありません。「薙刀を持って信長と共に戦った」というのは後世の創作ですが、彼女自身の血を引く子が歴史の表舞台に出ることはありませんでした。
最愛の側室・生駒吉乃が産んだ三人の子供
正室に子供がいなかった一方で、信長が心から愛し、織田家の後継者となる重要な子供たちを産んだ女性がいました。側室の生駒吉乃(いこまきつの)です。
彼女は尾張の土豪・生駒家の娘で、夫を戦争で亡くして実家に戻っていたところを、信長に見初められたと言われています。
吉乃は、信長の嫡男・信忠(のぶただ)、次男・信雄(のぶかつ)、そして長女・徳姫(とくひめ)という、織田家の屋台骨となる三人の子供を次々と産みました。信長は戦の合間を縫って、足繁く吉乃の住む生駒屋敷へ通ったという逸話が残っています。
気性が激しく、常に緊張を強いられていた信長にとって、年上で包容力のある吉乃と過ごす時間は、唯一「武将の仮面」を外せる安らぎのひとときだったのかもしれません。
しかし、幸せは長く続きませんでした。吉乃は産後の肥立ちが悪く、若くして病死してしまいます。その際、信長は人目も憚らず涙を流し、彼女の死を悼んだと伝えられています。「魔王」にも、愛する女性を失う悲しみはあったのです。
信長の息子・娘は合計20人以上!名前一覧
信長には、吉乃以外にも多くの側室がおり、確認されているだけでも息子が11〜12人、娘が10人以上、合計で20人以上の子供がいました。まさに「子沢山」です。
ここでは、歴史に名を残した主要な子供たちの運命を表にまとめてみましょう。
| 続柄 | 名前 | 母親 | その後の運命とエピソード |
|---|---|---|---|
| 長男 | 織田信忠 | 生駒吉乃 | 【悲劇の後継者】 信長から家督を譲られ、武田討伐などで優れた才覚を発揮。しかし本能寺の変の際、京都の二条御所におり、逃げることなく徹底抗戦の末に自害した。彼が生きていれば秀吉の天下はなかったと言われる。 |
| 次男 | 織田信雄 | 生駒吉乃 | 【生存の天才】 「暗愚」と評されることが多いが、秀吉、家康という天下人の間で巧みに立ち回り、改易の危機を乗り越え、江戸時代まで大名として家を残した。 |
| 三男 | 織田信孝 | 坂氏 | 【反骨の武将】 本能寺の変後、明智光秀を討つ名目上の総大将となる。しかし清洲会議で秀吉と対立。柴田勝家と組んで抵抗するも敗れ、最後は自害に追い込まれた。 |
| 四男 | 羽柴秀勝 | 養観院 | 【秀吉の養子】 「於次丸(おつぎまる)」と呼ばれ、子供のいなかった豊臣秀吉の養子となる。丹波亀山城主となるが、若くして病死した。 |
| 五男 | 織田勝長 | 不明 | 【父と共に】 本能寺の変の際、兄・信忠と共に二条御所で奮戦し、討ち死にした。 |
| 長女 | 徳姫 | 生駒吉乃 | 【家康の嫁】 徳川家康の長男・松平信康に嫁ぐ。「信康事件」の引き金となる手紙を書いたとされる。 |
彼らの多くは、本能寺の変とその後の「織田家の跡目争い」という激動の渦に巻き込まれ、非業の死を遂げました。しかし、次男の信雄のように、しぶとく生き残って家名を後世に伝えた人物もいたのです。
織田信長の子孫は現在どうなっている?
「本能寺の変で織田家の野望は終わった」
そう思われがちですが、実は信長の血脈は、驚くべきルートを通って、現代の日本の中心にまで流れています。
天皇陛下は信長の子孫!次男・信雄からつながる血筋
これは歴史ファンの間では有名な事実ですが、一般にはあまり知られていません。今上天皇(現在の天皇陛下)は、織田信長の直系の子孫にあたります。
「えっ?天皇陛下は万世一系で、武家の血とは関係ないのでは?」
そう思う方もいるかもしれません。もちろん男系の血統(Y染色体)は皇統として続いていますが、女系(母方の祖先)を辿っていくと、そこには織田信長の妹・お市の方がいるのです。
信長が焼き討ちにした比叡山や、権威を奪おうとした朝廷のトップに、数百年後、自身の血を引く子孫が座ることになる。これは歴史の壮大な皮肉であり、同時に「血の勝利」とも言えるでしょう。
お市の方の娘・江を通じて徳川家へ
では、具体的にどのようなルートで、戦国武将の血が皇室へと繋がったのでしょうか。キーパーソンとなるのは、お市の方の三女・江(ごう/崇源院)です。江は、徳川家康の三男・徳川秀忠に嫁ぎ、三代将軍・徳川家光を産んでいます。


引用元「Wikipediaコモンズ」より
この流れをわかりやすくステップで解説します。
- 【信長の妹】
織田信長の妹・お市の方が、浅井長政との間に三姉妹(茶々・初・江)を産む。 - 【豊臣家との婚姻】
三女・江は、最初の夫である豊臣秀勝(秀吉の甥)との間に、「完子(さだこ)」という娘を産む。 - 【公家社会へ】
江が徳川秀忠(2代将軍)に再嫁する際、連れ子である完子は姉の淀殿(茶々)に引き取られ、後に五摂家の筆頭・九条家に嫁ぐ。 - 【皇后の誕生】
完子の子孫は九条家で代々繁栄。幕末〜明治時代、その子孫である九条節子(さだこ)が、大正天皇の后(貞明皇后)となる。 - 【現代皇室へ】
貞明皇后は昭和天皇の母である。つまり、昭和天皇、上皇陛下、そして今上天皇には、確実にお市の方(信長)の血が流れている。
さらに、江は徳川秀忠との間にも娘・和子(まさこ)を産み、和子は後水尾天皇に入内しています。このように、織田家の血は豊臣、徳川、そして皇室という、日本の権力の中枢すべてに絡み合いながら生き続けてきたのです。


明治維新まで生き残った織田家の大名たち
皇室への女系だけでなく、男系の「織田家」もまた、江戸時代をしぶとく生き抜きました。
かつて「暗愚(バカ殿)」と呼ばれた次男・織田信雄ですが、彼は「生き残る」ということに関しては天才的でした。彼の系統は、江戸時代を通じて以下の2つの藩の大名として存続しました。
- 柏原藩(かいばらはん/兵庫県丹波市):2万石
- 天童藩(てんどうはん/山形県天童市):2万石
かつての天下人・織田家の石高としては2万石は少なく感じるかもしれません。しかし、徳川幕府が豊臣恩顧の大名たちを次々と改易(取り潰し)にする中で、外様大名として明治維新まで家名を保ち続けたことは、並大抵のことではありません。
特に天童藩は、将棋の駒の生産地として有名ですが、これは財政難に苦しんだ織田家の藩士たちが内職として将棋の駒作りを始めたことが起源だと言われています。「将棋の駒」と「織田信長」の意外な接点ですね。
織田信成は本当に信長の子孫なのか?
さて、現代において「織田信長の子孫」として最も有名な人物といえば、元フィギュアスケート選手でタレントの織田信成(おだのぶなり)さんでしょう。


引用元「Wikipediaコモンズ」より
バンクーバー五輪での活躍や、涙もろい愛すべきキャラクターでお茶の間の人気者ですが、一部の歴史ファンや週刊誌などからは、「本当に信長の直系子孫なのか?」という疑惑の声が上がったこともあります。
ここでは、その疑惑の核心である「家系図の空白」と、歴史学的な視点からの検証を行ってみましょう。
信成が公開した家系図の内容とは
信成さんは、「織田信長の17代目の末裔」を公称しています。彼がかつてテレビ番組などでフリップで示した家系図によると、そのルーツは信長の長男・信忠でも、次男・信雄でもなく、七男・織田信高(のぶたか)にあるとされています。
この「信高」という人物、歴史の授業ではまず登場しませんが、実在した人物です。彼は関ヶ原の戦いの頃に成人し、激動の時代を生きました。
七男・織田信高の系統を名乗る根拠
七男・信高は、関ヶ原の戦いなどで東軍(徳川家康方)につき、その功績によって江戸幕府では「高家(こうけ)」という特別な身分を与えられました。
高家とは、大名ではありませんが、幕府の儀式や典礼を司り、天皇からの使者(勅使)を接待するなどの重要な役割を担う、非常に格式の高い家柄です。石高は低くとも、官位は高く、大名並みの待遇を受けていました。
信成さんの主張する家系図では、この「高家織田家」の流れを汲んでいるとされています。具体的には、信成さんの家には代々、織田家の家系図や由緒書が伝わっていたといいます。
家系図に10代〜13代の「空白」がある謎
しかし、ここからが歴史ミステリーの核心部分です。実は、信成さんの家の系図には、江戸時代末期から明治にかけての数代分、公的な記録との照合が完全にはできない「空白期間」が存在すると指摘されているのです。
| 代数 | 人物名 | 記録の状況 |
|---|---|---|
| 〜9代 | 織田長裕 | 幕府の公式記録『寛政重修諸家譜』等で確認可能 |
| 10代 | 織田信真 | 幕末の当主。ここまで公的記録あり |
| 11〜13代 | (不明) | ここをつなぐ公的な戸籍等の資料が欠落 |
| 14代 | 織田重治 | 信成氏の曽祖父。ここから近代の戸籍で確認可能 |
具体的には、高家織田家の最後の当主クラスである織田信真(のぶざね)から、信成さんの曽祖父にあたる14代・織田重治までの繋がりを示す、確実な一次史料(戸籍や宗門人別改帳など)が見つかっていない、あるいは公開されていないと言われています。



じゃあ、嘘をついているってこと?
いいえ、そう断定するのは早計です。
明治維新という日本史上最大級の混乱期において、多くの士族・華族の家系記録が散逸したり、焼失したりしました。また、没落して地方に移り住む際に、記録が途絶えるケースも珍しくありません。「記録がない=嘘」ではなく、「証明する手立てが失われた」という可能性も十分に高いのです。
本家の織田家が関係を否定?真相はどうなのか
かつて週刊誌の報道で、織田家の本家筋(旧大名家の子孫など)にあたる方々から、「(信成さんの家系とは)親戚付き合いがなく、系図も繋がらないと聞いている」といった旨のコメントが出たことがありました。
これは、厳格な系譜を重んじる旧家の世界では、「文書で証明できない分家」を慎重に扱う傾向があるためでしょう。
結論として、織田信成さんが信長の子孫であることは「状況証拠や家の伝承はあるが、100%の客観的証明は(現状では)難しい」というのが、最も誠実な歴史的見解です。
しかし、彼のあの底抜けに明るいキャラクターや、世界の大舞台で結果を残す勝負強さは、凡人にはない「何か」を感じさせます。「細かい系図の整合性よりも、彼が織田信長の子孫として愛されている事実こそが重要だ」……そう感じるファンも多いのではないでしょうか。
織田信長の子孫と言われる芸能人・有名人
信成さん以外にも、芸能界や文化人の中には「信長の子孫」とされる人々がいます。中には、意外なあの人も……?
織田信成以外にもいる?スケート選手の血筋
信成さんの母親である織田憲子(おだのりこ)さんも、元フィギュアスケート選手であり、現在は名コーチとして知られています。信成さんの活躍の陰には、母の熱心な指導がありました。
織田家の血筋が身体能力、特にバランス感覚やリズム感に影響しているのかは定かではありませんが、親子二代で氷上のアーティストとして活躍しているのは事実です。信長も「敦盛」を舞うのが好きでしたから、「舞う」才能は遺伝しているのかもしれませんね。
織田有楽斎の子孫・茶道家元の織田宗裕氏
信長の弟であり、武将としてだけでなく茶人としても名を馳せた織田有楽斎(うらくさい/長益)。東京の「有楽町(ゆうらくちょう)」の地名の由来になったとも言われる人物です。
彼の系統は、武家として大名(柳本藩)になっただけでなく、茶道「有楽流(うらくりゅう)」の家元として、その文化を現代まで守り続けています。
現在の有楽流17代宗家である織田宗裕(そうゆう)氏は、有楽斎の直系子孫として活動されています。こちらは系譜もしっかりとしており、誰もが認める正真正銘の「織田家の末裔」です。武力ではなく文化で家を存続させた、もう一つの織田家の勝利の形と言えるでしょう。
なぜ桔梗紋を使ってはいけないのか
織田家の家紋といえば、五つの花弁を持つ「織田木瓜(おだもっこう)」が有名です。しかし、織田家の子孫や関係者の間では、ある特定の家紋がタブー視されてきたという都市伝説があります。


引用元「Wikipediaコモンズ」より
それが「桔梗紋(ききょうもん)」です。



桔梗紋って……あの水色の家紋だよね?


引用元「Wikipediaコモンズ」より
そうです。本能寺の変で主君・信長を裏切った、明智光秀の家紋です。裏切り者の象徴として、織田家関係者はこの紋を激しく嫌悪したと言われています。


引用元「Wikipediaコモンズ」より
実際には、桔梗紋は美しく縁起の良い柄として多くの武家で使われていましたが、織田家の勢力圏や子孫の家では、遠慮して使われなくなったという逸話が残っています。もしあなたの家の家紋が桔梗紋なら、もしかしたらご先祖様は光秀に味方した一族だった……かもしれませんね。
織田信長の六女は誰?娘たちのその後
最後に、歴史の影に隠れがちな信長の娘たちにスポットを当ててみましょう。男子に比べて記録が少ない彼女たちですが、その人生は政略結婚という名の「女の戦い」そのものでした。
政略結婚に使われた信長の娘たち
信長は、娘たちを有力大名との同盟を強固にするための「かすがい」として活用しました。彼女たちの嫁ぎ先リストを見るだけで、当時の信長の外交戦略地図が浮かび上がってきます。
- 冬姫(ふゆひめ):蒲生氏郷(がもううじさと)へ。氏郷は信長に才能を愛された名将。
- 永姫(えいひめ):前田利長(前田利家の息子)へ。加賀百万石の礎となる。
- 五徳(徳姫):松平信康(徳川家康の息子)へ。織田・徳川同盟の象徴。
ちなみに、ネットでよく検索される「六女」については、「三の丸殿(さんのまるどの)」であるという説が有力です。彼女は本能寺の変の後、父の仇とも言える(直接の仇ではありませんが)豊臣秀吉の側室となりました。


引用元「Wikipediaコモンズ」より
「天下人の娘」というプライドと、「没落した家の娘」という現実。秀吉の妻として生きる彼女の心中には、どのような葛藤があったのでしょうか。
徳川家康の息子・信康に嫁いだ徳姫の悲劇
娘たちの中で最も悲劇的、かつ歴史を大きく動かしてしまったのが、長女・徳姫(五徳)です。
彼女は徳川家康の長男・信康に嫁ぎましたが、夫婦仲は冷え切っていたと言われています。さらに、姑である築山殿(つきやまどの)との折り合いも最悪でした。
ある日、徳姫は父・信長に一通の手紙を送ります。
「夫の信康と、姑の築山殿は、宿敵である武田家と内通しています」
この「十二ヶ条の訴状」と呼ばれる手紙が決定打となり、信長は家康に対し、妻と息子の処断を命じたとされています(信康事件)。結果、信康は切腹、築山殿は殺害されました。
「愚痴を聞いてほしかっただけなのに、夫を殺すことになってしまった」のか、それとも「父の威光を借りて夫を排除しようとした」のか。真相は闇の中ですが、徳姫はその後、徳川家を離れて京都でひっそりと長い余生を送りました。
娘たちを通じて広がった織田家の影響力
悲劇もありましたが、娘たちが各地の大名家に嫁いだことで、織田の血は全国に拡散しました。
前田家、蒲生家、細川家、丹羽家……。江戸時代の大名家系図を見ると、母方や祖母方に織田家の女性の名を見つけることが多々あります。織田信長という強烈な個性のDNAは、形を変えて日本中の名家に刻まれ、その後の歴史を陰から支え続けていたのです。
まとめ:織田信長の家系図から見える壮大な歴史ドラマ
織田信長の家系図を巡る旅、いかがでしたでしょうか。
今回ご紹介したポイントを、最後にもう一度振り返ってみましょう。
- 信長のルーツは平氏ではなく、古代の神官「忌部氏」である説が有力。
- 信長の血は、お市の方→江→完子→九条家を通じて、現在の皇室(今上天皇)に受け継がれている。
- 織田信成氏の家系図には証明できない「空白期間」があるが、完全に否定されるものでもない。
- 次男・信雄の系統は、改易の危機を乗り越え、江戸時代まで大名(柏原藩・天童藩)として存続した。
信長自身は本能寺で倒れ、「天下布武」の夢は幻となりました。しかし、彼の「血」と「遺伝子」は、妹や子供たちという強靭なリレー走者たちによってバトンを繋ぎ、400年後の現代というゴールテープを切ることに成功しました。
家系図の線一本一本に、生き残りをかけた人間たちの必死のドラマがある。そう思うと、無機質な系図が、まるで大河ドラマの脚本のように生き生きと見えてきませんか?
歴史は、勝者だけの物語ではありません。生き残った者たちの物語でもあるのです。
「レキシル」では、他にも戦国武将たちの意外な真実や、教科書には載らない裏話をたくさん紹介しています。ぜひ、他の記事も覗いてみてくださいね。









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