戦国武将「上杉謙信」が「どんな人」だったのか、超わかりやすく解説いたします。
上杉謙信は、戦国時代に「最強」と呼ばれた「戦いの天才」。
さらに「正義感」が強く、困っている人を助け続けた「正義の武将」でもありました。
謙信はなぜ強かったのか?そしてどれくらい強かったのか?
「実は女性だった」という説もありますが、それもあわせて解説いたします。
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この記事を短く言うと
上杉謙信の性格とは?
上杉謙信(うえすぎけんしん)
上杉謙信とは、戦国時代を生きた武将です。そのとてつもない強さから、彼を「戦国最強の武将」に推す声も多い「軍神」。
生涯に「69回」も戦争をして「43勝2敗24分」という、他の武将と比べても極端にスゴイ記録を残しています。2敗というのも、明確に「ボロ負け」したわけではありません。
謙信には、一つの特徴があります。「領地拡大」を目指す「欲にまみれた戦国時代」を生きた人物としては珍しく「正義」を大切にした武将なのです。
謙信の性格は、「自分を頼ってきた者を守り、攻め込んできた者を撃退する」、まさに「弱きを助け強きをくじく」という言葉をそのまま実行した武将でした。
「聖将」・・・・上杉謙信を、こう呼ぶ人もいます。聖なる武将・・・・謙信は、「織田信長」や「武田信玄」のように、領土を増やして天下を狙う「野心的な武将」たちとは全く異なる、まさに「正義の味方」だったのです。
誰もが「領土を拡大」「天下統一」を目指した「戦国時代」、上杉謙信は何を目指していたのか?
謙信は、没落してしまったみずからの主君「足利将軍家」を復興することを目指していました。詳しくは後述しますが、謙信は自らの任地である「関東」を制圧することを目指していたのです。
上杉謙信・女性説!実は何の根拠もなかった
上杉謙信には、「実は女性だった」という説があります。残念ながら事実ではありません。謙信は男性でした。
この「謙信女性説」・・・。発端は、歴史作家「八切止夫」という人が、スペインの「トレド」という都市の修道院から発見した「古い報告者」をもとにして発表したものです。
スペイン人の船乗り「ゴンザレス」さんが、戦国時代に日本をおとずれ、その調査報告書をスペイン国王「フェリペ二世」に送ったのですが、そこには「上杉景勝の叔母」と記されていたのです。
上杉景勝の叔母とはどういうことなのでしょうか・・・。
上杉景勝とは、上杉謙信の姉の息子、つまり甥です。
上杉景勝は、のちに謙信の養子となり、上杉家の当主となっています。
この「上杉景勝の叔母」を、上杉謙信のことだと、作家「八切止夫」さんは結論づけたのです。
しかし、この説には何の根拠もなく、あっちこっちから厳しく批判されたのだとか。
確かに、上杉謙信には、「本当に男なのかな?」と思ってしまうような逸話がいくつかあります。
・女性を決して近づけなかった
・子供がいなかった
などなど。
しかし、それは「信心深かったために、戒律をかたく守り、女性を決して近づけなかった」ためです。
謙信が女性であった可能性は、限りなくゼロに近いと考えられます。
ただ、謙信が女性であった可能性について、「新しい可能性」を考察してみました。
以下のリンク記事に、その「新しい可能性」について記しましたので、よろしければお役立てくださいませ。
謙信はどれくらい強かった?強かった理由は何か
謙信は、とてつもなく戦争が強く、「戦国最強の武将」と評価されることが結構あります。ライバルの「武田信玄」もまた「戦国最強」とよく言われていますが、「謙信」のほうが強かったと思われます。
なぜか?「第四次川中島の戦い」で、圧倒的に有利だったはずの「武田信玄」が、謙信よりも多くの犠牲を出しているからです。
1561年、武田信玄が「20000」の軍団を率いて「川中島の戦い」へ出撃。謙信は「13000」の軍を率いて「川中島」で武田軍をむかえうちます。
「妻女山(さいじょさん)」・・・・・・謙信は、敵地のど真ん中である「妻女山」へ陣取ったのです。信玄は驚きました。「妻女山」に陣取るということは、自殺行為に等しかったからです。武田軍は「2万」、上杉軍は「1万3千」。武田軍は1.5倍もの兵力をもっており、しかも謙信は敵地に陣取る・・・。信玄が圧倒的に有利でした。
ところが、戦ってみると、謙信はその圧倒的な強さで「武田軍」を圧倒。
軍の死傷者割合は、武田・上杉ともに同じくらいですが、武田軍は信玄の弟で副将「武田信繁」、軍師「山本勘助」などの主要人物を失っており、「損害は武田軍のほうが多かった」と考えられます。
圧倒的不利な状況にみずからを追い込み、敵を誘い出して決戦に持ち込む・・・。いわゆる「ノーガード戦法」ですね。
命知らずな戦法をとった謙信は、「戦国最強」と呼ばれた「武田信玄」をも圧倒し、「川中島の戦い」でその強さを証明したのです。
謙信は、なぜそれほど強かったのか?
なぜ謙信は、それほどまでに戦争が強かったのでしょうか?
幼い頃から「戦ごっこ」が好きで、ジオラマをつくって軍に見立てた人形を動かす遊びにハマっていたと言われています。
これが、後の「戦上手」の下地となったのでしょう。
また、「孫子の兵法」と並ぶ兵法書「呉子の兵法書」を学んでいたようです。呉子は、軍の使い方を教える兵法書なので、采配能力が極めて高かったのです。
謙信は、軍団を自在に操る技術が優れており、誰もかなわないほど強かったわけです。
筆者の個人的な印象なのですが、謙信は純粋に「戦争が好きだった」のではないでしょうか。
それでは誰もかなわないはずです。
余談ですが、謙信のジオラマは、その後武田勝頼の息子である武田信勝にゆずられたといいます。
『上杉謙信』について「ひとこと」言いたい!
上杉謙信が本気で天下を狙っていたら・・・
武田信玄もかなわなかった上杉謙信は、天下が取れたでしょうか?
おそらく、可能だったのではないでしょうか。
謙信は経済への才能もあり、謙信が治めた越後は、それ以来生活水準が劇的に向上したと言われています。塩を輸入できず、困っていた宿敵「武田信玄」に塩を高値で売りつけたという説もあるほど、商売上手だったのです。
戦国の覇者「織田信長」が、どうしてあれほどの短期間で、天下統一に向けて大きく躍進できたかと言うと、「金を増やす能力」に長けており、その金で、圧倒的な物量をもって全国へ派兵したから。
謙信にも、「経済力」があったため、おそらく信長と同じような、経済重視の戦い方ができたのではないでしょうか。
本気になれば「天下統一」も夢ではなかったと思います。
ただし、本気になればの話です。本気になどなれなかったでしょう。
なぜなら、謙信は正義感が強く、欲を持たない人物だったから。
領土をひろげる野心を持たず、ただただ弱いものを助け続ける。
宿敵であった「武田信玄」も、死の間際に息子「武田勝頼」へ、「私が死んだら謙信を頼れ」と、宿敵に息子をたくすという遺言を残すほど・・・。
また宿敵「北条氏康」も
「謙信は、骨になっても義理をとおす男」
と評価していたといいます。
天下統一・・・可能だったけど、やらなかった・・・。もったいない気もしますね。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 上杉謙信は「戦国最強」とよばれた「軍神」。正義感が強く、野心がなく、頼ってくる人たちを助け続けていた
- 「謙信は女性だった」という説があるが、根拠がとぼしく、可能性は極めて低い
- 名将「武田信玄」を、「川中島の戦い」で圧倒。最強「武田信玄」もかなわなかった。謙信のほうが強かったと言っていいだろう
以上となります。
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