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お市の方の家系図をわかりやすく!織田信長との関係を解説

皆さんは、お市の方(おいちのかた)を、ご存知でしょうか?織田信長の妹、それがお市の方です。

実は「お市の方」について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

この記事では「お市の方の【家系図】や【織田信長との関係】など」をそれぞれ、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

今は「お市の方」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、「お市の方」に詳しくなれます。

この記事を読んで、「お市の方」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

1,お市の方(おいちのかた)とは、今から【450年前】に活躍した「織田信長」の妹。戦国武将「浅井長政」に嫁いでいる

2,「お市の方」には「浅井長政」との間に三人の娘が生まれている。そしてその三女「江」を通じて、子孫が現代にも繋がっている

3,「お市の方」は夫「浅井長政」が兄「織田信長」と敵対したため、兄妹でありながら敵味方に分かれて戦うこととなる

目次

【お市の方】とは何者なのか?何をした人かを解説

【お市の方(おいちのかた)】とは、今から【450年前】に活躍した「織田信長」の妹です。

《お市の方》
『引用元ウィキペディアより』

「お市の方」は、夫「浅井長政」とともに兄「信長」と交戦。

夫「浅井長政」を討った兄「信長」が「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれると、三人の娘を連れて「柴田勝家」と再婚。

その「柴田勝家」が「羽柴秀吉」に「賤ヶ岳の戦い」で敗れ自刃すると、「お市の方」も一緒に自刃し亡くなるのでした。

波乱の生涯を生きた「お市の方」は、【1583年】に「37歳」で亡くなっています。


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お市の方【子孫と家系図】

「お市の方」には「浅井長政」との間に三人の娘をもうけています。

そしてその三女を通じて、子孫が現代にも繋がっているのです。

お市の方・家系図

お市の方には、「茶々」「初」「江」という三人の娘がいました。

その三女「江」が、子孫を現代につなげているのです。

もっとも有名な「お市の方」の子孫といえば、「天皇陛下」です。

実は、お市の方の三女である江が、夫・徳川秀忠と結婚する前に、ひとりの娘を産んでいるのです。

江は、豊臣秀吉の甥である羽柴秀勝という男性との間に完子(さだこ)姫という娘を産んでいます。

その完子姫の子孫が、現在の天皇陛下なのです。

→→→→→【お市の方の子孫と家系図】についてくわしくはこちら


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お市の方と【織田信長との複雑な関係】

「お市の方」と「織田信長」は、父母を同じくする兄妹でした。

その「お市」は、「織田信長」の盟友「浅井長政」に嫁ぎます。

「浅井長政」は、【1570年】に「金ヶ崎城の戦い」で突然「織田信長」を裏切ります。

お市は夫「浅井長政」に味方し、兄「信長」と敵対。

これ以降、「お市の方」と「織田信長」は、兄妹でありながら敵味方に分かれて戦うこととなるのです。


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お市の方の二人の夫【浅井長政】と【柴田勝家】

「お市の方」の夫となった二人の武将、「浅井長政」と「柴田勝家」。

実は「お市の方」は、生涯に三回結婚したと言われています。

  • 最初の夫は「不明」
  • 二人目の夫が「浅井長政」
  • 最後の夫が「柴田勝家」

つまり、「浅井長政」との結婚は、再婚だったというわけです。

最初の旦那が誰なのかは、不明。

ちなみに「浅井長政」も再婚です。

一説によれば、「お市の方」の長女「茶々」は、「浅井長政」の娘ではないとも言われています。

それによると「お市の方」と「最初の夫」の間に生まれた子が「茶々」なのだとか。

「お市の方」と「柴田勝家」のあいだに子供はいません。

二人は、結婚してから1年で夫婦そろって亡くなっています。

「お市の方」が「浅井長政」と「柴田勝家」を結婚相手に選んだのには、理由がありました。

「浅井長政」との結婚は、完全に政略結婚。

「浅井家」と「織田家」の同盟締結をより強固なものにするために、「お市の方」は「浅井長政」に嫁いだのです。

また、「柴田勝家」との結婚にも、意味があります。

このとき、「柴田勝家」は「羽柴秀吉」と開戦寸前の状態でした。

「お市の方」は「柴田勝家」を勝利させるため、勝家に嫁ぐことで、自分を支持する「織田家の家来たち」を「柴田勝家」に味方させようとしたのでしょう。

その目論見は、むなしく失敗。

お市が嫁いだ夫「浅井長政」も「柴田勝家」も、ともに敗死してしまいます。

余談ですが、2023年の大河ドラマ【どうする家康】の第3話において、家康とお市の方が信長から結婚を命じられるシーンがありました。

二人は結婚しませんでしたが、二人の不思議な縁は、その後の日本の歴史を左右することとなります。

詳しくは、以下の【お市の方の3人の夫たち】のリンク記事で解説していますが、家康とお市という二人の血を引く徳川家光とくがわいえみつが、徳川幕府を完成させることになるのです。

→→→→→【お市の方の3人の夫たち】についてくわしくはこちら


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お市の方の【三人の娘たち】

お市の方には、「浅井長政」との間に「三人の娘」がいました。

  • 長女「茶々」
  • 次女「初」
  • 三女「江」

通称「浅井三姉妹」と呼ばれたこの「三人の娘たち」は、戦国時代に大きく関わることになります。

長女「茶々」は、「淀殿」と呼ばれ、「豊臣秀吉」の側室となって「豊臣秀頼」を産みます。

次女「初」は、名将「佐々木道誉」で自らのいとこにあたる「京極高次」に嫁いでいます。

三女「江」は、二代将軍「徳川秀忠」の妻となり、三代将軍「徳川家光」と、「後水尾天皇」の后となって「明正天皇」を産んだ「和子」を出産。

この三女「江」が産んだ娘「完子(さだこ)」が、天皇陛下の先祖にあたるお方です。


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お市の方の【息子】

お市の方には、浅井長政との間に「万福丸」「万寿丸」という息子がいた・・・という説があります。

しかし、最近ではこの「万福丸」「万寿丸」という二人の息子は、「浅井長政」と前妻の子であり、「お市の方」の子ではないと考えられています。

二人の子は「お市の方」の養子になったと言われています。

血の繋がりはなくとも、「万福丸」「万寿丸」は、お市の方の息子として過ごしたのでしょう

【1573年】、長男「万福丸」は、浅井家滅亡と同時に処刑。

次男「万寿丸」は、副田寺というところで住職になっています。

「万福丸」は、「茶々」の異母兄というわけです。

その「万福丸」を無残な方法で処刑し、さらに母「お市の方」を死なせた「羽柴秀吉」に、「茶々」は嫁ぐこととなるのです。


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お市の方と【豊臣秀吉】

「お市の方」と「豊臣秀吉」は、どういう関係だったのでしょうか?

「秀吉」は、「お市の方」に好意を抱いていたという噂があります。

その証拠というか、秀吉は「お市の方」の長女「茶々」を側室として、寵愛しています。

「淀殿」と呼ばれるようになる「茶々」は、もしかすると「お市の方」と似ていたのかもしれません。

ただ、「秀吉」は「本能寺の変」のあとに開かれた「清洲会議」で、「お市の方」と「柴田勝家」の再婚を後押ししたとも言われています。

好意を抱いていたのに、他人との結婚を後押しするとは・・・。

本当に好意を抱いていたのでしょうか?

ちなみに秀吉の側室となった長女「茶々」は、一説によると「父の浅井長政に似ており、全然美しくなかった」とも言われています。

《浅井長政》
「引用元ウィキペディアより」

これが「浅井長政」の肖像画です。

そしてこっちが「茶々」こと「淀殿」

淀殿(茶々)
「引用元ウィキペディアより」

確かに、「茶々」は、母よりも父に似ている気がします・・・。


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お市の方は【美人】だったのか?

「お市の方」は、よく「戦国一の美女」と呼ばれています。

本当に美人だったのでしょうか?

結論から言いますと、「本当に美しい人だった」と考えられます。

理由は簡単で、夫「浅井長政」に寵愛されているからです。

お市の方は、【1567~1568年】に「浅井長政」と結婚しています。

このとき「お市の方」の年齢は【21~22歳】。

当時の初婚年齢は平均で【13~14歳】。

かなりの晩婚です。

「浅井長政」は【1573年】に織田信長によって滅ぼされています。

つまり「お市の方」と「浅井長政」は、わずか【5年】の間に3人の娘をもうけているのです。

浅井長政から、かなりの寵愛を受けたということです。

当時としては「晩婚」で、年齢も重ねていた「お市の方」が、なぜ浅井長政に寵愛されたかというと、やはり「お市の方」が美しかったからでしょう。

ちなみに「織田信長」の正室「帰蝶(濃姫)」は、信長とのあいだに子供を産むことはありませんでした。

次女「初」が育てた「溪心院」という人が、「溪心院文」という記録を残しているのですが、そこにはこんなことが書かれています。

「お市の方は、37歳であるにもかかわらず、22~23歳に見えるほど、若作りで美形であった」

やはり、かなりの美人だったのでしょうね。

ちなみに、「お市の方は、高身長な大女だった」という説がありますが、これは大河ドラマ「信長 KING OF JIPANG」で追加された創作です。

実際に「お市の方」が高身長だったという説はありません。


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お市の方の【性格】

「お市の方」の性格は、かなり気性が激しかったと思います。

  • 「兄である織田信長に徹底抗戦」
  • 「夫であった柴田勝家とともに自刃」

壮絶な生涯を生き抜き、壮絶に散った「お市の方」

ただ、心優しく信心深い面もあり、滋賀県長浜市にある「小谷寺」には、お市の方が奉納した「厨子(ずし)」と呼ばれる仏具があります。

また、同寺にはお市が大切に持っていた「愛染明王」の小さな「念持仏(ねんじぶつ)」も残っています。

お市の方の【肖像画・画像】

「お市の方」の肖像画は、現在「高野山・持明院」が所蔵しています。

《お市の方》
『引用元ウィキペディアより』

この肖像画は、長女「茶々」が、書かせたものです。

【1589年】、「茶々」は「豊臣秀吉」の息子「鶴松」を出産しました。

このとき、喜び舞い上がっていた「秀吉」の許可を得て、「茶々」は父「浅井長政」と母「お市の方」の肖像画を書かせたのです。

《浅井長政》
『引用元ウィキペディアより』

「浅井長政」の肖像画も、「高野山・持明院」に所蔵されています。

浅井長政の肖像画は複数存在しており、上で「茶々」の肖像画と比べたものもまた「浅井長政」の肖像です。


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お市の方【小豆を送った意味とは】

お市の方が「金ヶ崎の退き口」の際に、兄「織田信長」にたいして「小豆の入った袋」を送り、夫「浅井長政」の裏切りを知らせたという伝説があります。

なぜ「小豆」が入った袋が、「浅井長政」の裏切りを伝えているのでしょうか?

「小豆」は「小豆坂の戦い」を示唆している、という説もあります。

実は「信長」と「お市」の父「織田信秀」が、「小豆坂の戦い」という戦で、「今川義元」に大敗しているのです。

この「小豆坂の戦い」、後ろから攻撃されて「織田信秀」は敗北しているのです。

とはいえこれは、後世の創作です。

お市の方が、小豆を送って浅井長政の裏切りを知らせたという事実はありません。

小豆を入れた袋の両端を縛ったことで、信長が前に朝倉、後ろに浅井に挟撃され、袋の鼠であることを示唆したため、中に入れられた小豆にはそもそもあまり意味がないという説もあります。

この場合、袋の両端を縛った、ということが何より大事になりますので、中身がお米だろうが大豆だろうが、なんでも良かったのかもしれません。


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お市の方の【最期】

最期の様子

「お市の方」は、「織田信長」が亡くなった翌年の【1583年】、夫「柴田勝家」とともに「北ノ庄城」で自刃し、亡くなっています。

「賤ヶ岳の戦い」で「羽柴秀吉」に「柴田勝家」が敗れたため、「お市の方」も窮地におちいったのです。

もともと「羽柴秀吉」は「お市の方」に好意を抱いていたためか、「お市の方」を助けるように願い出たとも言われています。

ところが「お市の方」はそれを拒否。

三人の娘たちの身柄を保護してくれるように、秀吉に頼み、自分は夫とともに自害。

それほどまでに、秀吉のことを嫌っていたのかもしれません。

辞世の句

「お市の方」の辞世の句は、以下のとおりです。

さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ郭公(ほととぎす)かな

さらぬだに うちぬるほどの なつのよの ゆめじをさそふ ほととぎすかな

(夏の夜に泣くホトトギス その鳴き声が まるで別れの悲しさを誘っているように聞こえる)

この歌、同時に亡くなった夫「柴田勝家」が残した辞世の句と、とても上手に相対する形になっています。

間違いなく、「柴田勝家」の辞世の句と、同時に作られたものだということがわかります。

柴田勝家の辞世の句は、以下の通りです

夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲井にあげよ山郭公

なつのよのゆめじはかなきあとのなをくもいにあげよやまほととぎす

夏の夜にみる夢のような、儚い一生だったが、やまほととぎすよ、せめて私の名前だけは、後世にも語り継がれるほど、雲の上まで高く高く運んでおくれ

夏の夜・夢路・ほととぎす、という三つの単語を共通して使っていることがわかりますね。

「お市の方」のお墓は、夫「柴田勝家」と同じ、福井県福井市の「西光寺」にあります。


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お市の方の「生涯年表」

「お市の方」の生涯年表をカンタンに解説いたします

実は、お市の方の前半生は、全くわかっていません。

【1547年】(お市の方1歳)

「お市の方」が、「織田信秀」とその妻「土田御前」の娘として誕生。「織田信長」の13歳下の妹

【1548年】(2歳)

「第二次小豆坂の戦い」で「織田信秀」が敗北

【1560年】(14歳)

「桶狭間の戦い」で「織田信長」が「今川義元」を討ち取る

【1567~1568】(21~22歳)

「お市の方」が「浅井長政」と結婚

【1569年】(23歳)

長女「茶々」誕生

【1570年】(24歳)

次女「初」誕生

「浅井長政」が「織田信長」を裏切る(「金ヶ崎の退き口」)

「姉川の戦い」で浅井朝倉連合軍が、織田徳川連合軍に敗北

【1573年】(27歳)

三女「江」誕生

「浅井長政」戦死

【1582年】(36歳)

「本能寺の変」で「織田信長」が「明智光秀」に討たれる

「山崎の戦い」で「明智光秀」が「羽柴秀吉」に討たれる

「清洲会議」の後、「お市の方」が「柴田勝家」に嫁ぐ

【1583年】(37歳)

「賤ヶ岳の戦い」で「柴田勝家」が「羽柴秀吉」に大敗。

「柴田勝家」と「お市の方」が「北ノ庄城」で自刃。


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【お市の方】が亡くなった【その後】、何が起こったのか?

「お市の方」が亡くなったあと、「三人の娘たち」は、兄「信長」と敵味方に別れた母「お市の方」と同じように、敵味方に分かれて戦う運命におちいります。

【1614年】、長女「茶々」は息子「豊臣秀頼」とともに大坂城で「徳川家康」と開戦。

「大坂冬の陣」です。

三女「江」は、「徳川家康」の三男「豊臣秀忠」の正室でした。

この「大坂の陣」、徳川家康がひきいていたものの、名目上は「徳川秀忠」が総大将でした。

つまり

  • 豊臣軍の総大将「豊臣秀頼」は、長女「茶々」の子
  • 徳川軍の総大将「徳川秀忠」は、三女「江」の夫

というわけです。

次女「初」は、大坂城の「茶々」のそばにいて、「豊臣家」と「徳川家」の終戦を斡旋しました。

「初」の講和交渉もあり、一度、両者は和睦し、「大坂冬の陣」は終戦。

しかしその約3ヶ月後の【1615年】、またしても両者は開戦。

「大坂夏の陣」です。

この戦いの結果、「豊臣秀頼」は母「茶々」とともに自刃して亡くなります。

江の娘「千姫」は、「豊臣秀頼」の妻でしたが、「大坂城」からなんとか脱出。

母「江」のもとへと帰還しました。

その後、「江」が【1626年】に他界。

次女「初」も【1633年】に亡くなっています。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「お市の方」とは、「織田信長」の妹。戦国武将「浅井長政」や「柴田勝家」に嫁いだ

2,「お市の方」には「浅井長政」との間に「茶々」「初」「江」という三人の娘が生まれている。三女「江」を通じて、子孫が現代にも繋がっている

3,「お市」は夫「浅井長政」が兄「織田信長」と敵対したため、兄妹でありながら敵味方に分かれて戦っている

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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