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織田信秀の家系図と子孫!子供や側室が何十人もいたの?

皆さんは【織田信秀おだのぶひでの子孫・家系図や側室】を、ご存知でしょうか?

実は信秀の子孫について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

この記事では信秀の家系図・子孫を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

今は信秀の末裔について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、【信秀の血を引く子孫】に詳しくなれます。

この記事を読んで、織田信秀の子孫や家系図・側室などの疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 織田信秀には、嫡子・織田信長以外にも、20人以上の子供がいた。信秀の血筋は、娘【いちの方】浅井長政あざいながまさの三女【おごうの方】を通じて、現在にもつながっている
  2. 織田信秀の子孫・末裔には、現在の天皇陛下がおられる。信秀の血筋は、皇室へと受け継がれている
  3. 信秀には、無数の側室がおり、領地が増えるたびに側室も増えていったという逸話があるらしい
目次

【織田信秀】の家系図

織田信秀には、子供が合計で20人以上いたとされています。

織田信秀
引用元ウィキペディアより

その中でも、三男・織田信長は、のちに天下統一目前までいくこととなる名将です。

ちなみに信長と母親を同じくする兄弟は

  1. 織田信行のぶゆき(別名・信勝のぶかつ
  2. 信包のぶかね
  3. お市の方

織田信秀・信長の家系図
家系図の引用などはご遠慮くださいませ

信行は謀反を起こして誅殺されています。

信包は、同母弟であるためか、他の兄弟と違って信長から厚遇されています。
(信包の母は不明ですが、兄・信長から格別のあつかいを受けているため、同母弟と推測されています)

信包は豊臣秀吉・徳川家康に従って、丹波たんば国(京都中部と兵庫東部)の柏原藩を治めました。

しかし柏原藩は改易され、信包の子孫は旗本として織田信裕のぶひろの代に明治維新をむかえています。

お市の方は、浅井長政・柴田勝家に嫁いでいます。

長女・茶々は、豊臣秀吉の側室となり、その子である鶴松と豊臣秀頼を産んでいます。

三女・お江は、豊臣秀吉の甥である羽柴秀勝に嫁ぎ、完子姫さだこひめを産んでいます。

その後、お江は羽柴秀勝が亡くなった後、二代将軍・徳川秀忠と再婚し、三代将軍・徳川家光を出産しています。

信秀の血筋は、現在も続いています。


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【織田信秀】の子孫

フィギュアスケート選手・織田信成さん

織田信秀の末裔といえば、フィギュアスケートの織田信成さんが有名です。

しかし織田信長の直系子孫たちからすると、織田信成さんは、何者なのかがはっきりしていないのだとか。

信秀の子孫は各地におられ、信長の弟で茶人の織田有楽斎の子孫が愛知県で有楽流茶道を継承しておられます。

天皇陛下

もっとも有名な織田信秀の末裔といえば、天皇陛下ではないでしょうか。

信秀の娘であるお市の方は、三女【おごうの方】を出産していますが、この三女を通じて天皇陛下に信秀の血がつながっているのです。

織田信秀の孫にあたるお江の方は、二人目の夫である羽柴秀勝はしばひでかつとのあいだに完子さだこを出産しています。

完子の子孫が、天皇家へ嫁ぎ、現在の天皇陛下につながっておられます。

そのため、天皇陛下は織田信秀の子孫なのです。


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【織田信秀】の側室たちの逸話

信秀は、子だくさんであったことからもわかるように、数多くの側室そくしつをかかえていました。

かなりの女好きで、息子・信長の乳母をも側室にしてしまったほど。
(この乳母は、信長の乳兄弟である池田恒興の母親)

戦に勝利するたびに、側室が一人増えていった、という逸話もあるほどです。

それだけの側室をかかえる経済力を、信秀はもっていました。

交通の要衝をおさえ、そこから税金をとって、莫大な冨を築き上げたといわれています。

その経済力は息子の織田信長にも引き継がれ、子だくさんというその特徴もまた、信長に継承されることとなるのです。

また、信秀が複数の側室と、数多くの子供を残したおかげで、織田家の末裔は現在まで続いています。

生存戦略としては、信秀の戦略は成功したと言えるでしょうね。


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織田信秀が亡くなったその後に、何が起こったか

信秀が亡くなったあと、家督を継承した織田信長には、苦難の道がまっていました。

周囲は敵だらけ。勝ち目も薄い。

しかし信長は、これらを見事に撃破していくのです。

この頃の信長の敵といえば、主に【4つの勢力】がいました。

  1. 織田信友(尾張国守護代・もともとは信秀・信長の主であった家柄)
  2. 織田信勝またの名を織田信行(信長の弟)
  3. 今川義元(当時日本最強最大クラスの戦国大名)
  4. 斎藤義龍(信長に友好的だった妻の父親である斎藤道三が、実の子である斎藤義龍に殺された)

信長はこれらを、策略・謀略・戦術・戦略、ありとあらゆる手を尽くして、上から順番に倒していきます。

斎藤義龍は【1561年】に病死していますが、その子の斎藤龍興を、【1567年】に美濃国から追放。

そして【1568年】、足利義昭・明智光秀・細川藤孝らと出会い、ついに京都を制圧することに成功するのです。

これら強敵を次々と撃破できたのは、信秀が残した豊かな財力があったからです。

その後の織田信長は、【1582年】に本能寺の変で亡くなるまで、日本の中央をほぼ制圧していきます。

それはすなわち、関東から中国地方までの大勢力を作り上げるのです。

信長がこれほどの勢力拡大に成功できた理由は、信長が経済力を重視したためです。

他の大名が農業を重視する中、信長は貨幣かへい制度を重視して、経済振興けいざいしんこうに全力をそそぎます。

そこで得られた莫大な経済力で、織田軍団は最新式の装備と、膨大な兵力、そしてその兵力を養う食糧を持つことができたのです。

この信長の経済センスは、父の信秀からゆずりうけたものでした。

信長の天下統一事業は、父の信秀によって土台をつくられたのです。

織田信秀について、可能な限りのすべてを調べて、以下のリンク記事で解説いたしました。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 織田信秀には、実に20人以上も子供がいた。信秀の血筋は、娘であるお市の方の三女・お江の方を通じて、現在にもつながっている
  2. 現在の天皇陛下は信秀の末裔にあたられる。信秀の血筋は、皇室へと受け継がれている
  3. 信秀には、無数の側室がおり、領地・城が増えるたびに側室も増えていったという逸話がある

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

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