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徳川家康を超簡単に説明!家康の功績や歴史的事件を一覧表でご紹介!

今回のテーマは徳川家康とくがわいえやすです。

 

この記事では、徳川家康とはどういう人なのかについて、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば徳川家康の功績を、カンタンに理解できます。

 

徳川家康とは永き平和を実現した偉い人なのです。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,徳川家康とは何者なのか?

徳川家康は、戦国時代に活躍した戦国武将。織田信長おだのぶなが豊臣秀吉とよとみひでよしと同じ時代を生き、戦国を終わらせて永き平和を実現した人物。

 

2,徳川家康とは、何をした人なのか?

徳川家康は、江戸幕府という臨時政府をつくり、100年以上も内戦が続いた戦国時代を終わらせて、江戸時代という平和な時代を実現した

 

3,徳川家康がかかわった歴史的事件とは?

桶狭間おけはざまの戦い、清洲同盟きよすどうめい姉川あねがわの戦い、三方ヶ原みかたがはらの戦い、長篠ながしのの戦い、本能寺ほんのうじの変、伊賀越いがごえ、小牧・長久手こまきながくての戦い、小田原征伐おだわらせいばつ朝鮮出兵ちょうせんしゅっぺい関ヶ原せきがはらの戦い、大坂の陣などに、家康は関わりがある。

目次

徳川家康とは何者なのか?超簡単に短く解説

徳川家康は、今から【約450年前】を生きた戦国武将です。(1543~1616年)

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

江戸幕府(徳川幕府)を開いて、戦国時代を終わらせた人物です。

 

現在の愛知県岡崎市で産まれた徳川家康は、戦国の覇者・織田信長と同盟し、天下人・豊臣秀吉の部下となり、戦国を生き延びました。

 

名将・武田信玄たけだしんげんと敵対し、三方ヶ原の戦いで惨敗しながらも生き残ったことでも有名です。

 

織田信長と豊臣秀吉が亡くなると、その後を継ぐかのように天下を支配し、世界史上でもめずらしい【253年】もの長期の平和を実現したのです。

 

→→→→→【徳川家康は何した人なのか】についてくわしくはこちら

 


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徳川家康が残した功績とは、いったい何か?

徳川家康の最大の功績といえば、平和を実現したことでしょう。

 

家康は、【1615年】の大坂夏の陣から、【1868年】の明治維新めいじいしんまで、【253年】にも渡る長期間の平和を実現した、世界でも類を見ない功績の持ち主なのです。

 

織田信長と豊臣秀吉。徳川家康より先に天下を支配していたこの二人は、朝鮮出兵などの外国との戦争を計画していました。

 

しかし家康は戦争を避けて、ただただ平和を実現しようとしたのです。

 

厭離穢土おんりえど欣求浄土ごんぐじょうど

 

という言葉をご存知でしょうか?

 

この厭離穢土・欣求浄土とは、徳川家康が旗印としたスローガンです。

 

「汚れた世を極楽浄土に変えてみせる」

 

というような意味なのですが、家康は、戦国時代という地獄を、まさに極楽浄土のような平和なものへと変えてみせたのです。

 

平和を実現した徳川家康は、厭離穢土・欣求浄土の夢を実現したわけです。

 

→→→→→【織田信長と徳川家康の関係】についてくわしくはこちら

 


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徳川家康に関係する歴史的事件を、年表一覧で解説

徳川家康が関係している歴史的事件を、カンタンに一覧で表示しました。

 

家康の生涯において、特に有名なものだけをピックアップしております。

 

【1560年】桶狭間の戦い
織田信長が今川義元いまがわよしもとを少数の軍団で討ち果たした戦い。この戦いに、徳川家康は今川義元軍の先方として参加していた

 

【1562年】清洲同盟
徳川家康が織田信長の居城・清洲城きよすじょうで軍事同盟を締結。この同盟は、本能寺の変で織田信長が亡くなるまで20年も機能した。

《織田信長》
クリックすると拡大できます
「引用元ウィキペディアより」

【1570年】金ヶ崎かねがさき退き口のきぐち
織田信長とともに朝倉義景あさくらよしかげの支配する越前国えちぜんのくにを攻めた徳川家康。しかし織田信長の同盟者・浅井長政あざいながまさが裏切り、危機におちいった。家康は、羽柴秀吉はしばひでよし(豊臣秀吉)とともに織田信長を守り通した

 

【1570年】姉川の戦い
家康は、同盟者・織田信長の援軍として、この戦いに参加。少数の軍団で朝倉義景の大軍を撃破し、浅井長政の軍におされて危機にひんした織田信長を助けて、勝利に大きく貢献した

 

【1573年】三方ヶ原の戦い
名将・武田信玄ひきいる戦国最強・武田軍を相手に、家康が惨敗した戦い。この戦いに敗北した家康は、敗戦直後の自らの姿を絵師に残させたという。武田信玄はこの数カ月後に病死

 

【1575年】長篠の戦い
武田信玄の子・武田勝頼たけだかつよりひきいる戦国最強・武田騎馬軍団を相手に、織田信長と協力して、大量の鉄砲をつかって完勝した戦い。近年の研究では、鉄砲の連射はなかったといわれている

 

【1582年】甲州征伐こうしゅうせいばつ
武田勝頼を滅ぼした戦い。家康は織田信長の嫡子ちゃくし織田信忠おだのぶただがひきいた織田軍と協力して、長年の宿敵・武田を滅ぼし、幼い頃に過ごした駿河国するがのくにを信長から与えられた

 

【1582年】本能寺の変
徳川家康の同盟者であった織田信長が、重臣・明智光秀に裏切られて討たれた事件。このとき家康は、京都・本能寺に近い堺の町を観光していた。家康最大の危機の始まり。

 

【1582年】神君伊賀越え
本能寺の変により、信長が明智光秀あけちみつひでに討たれ、光秀は徳川家康にも刺客しかくを向けた。これを逃れるために家康は、伊賀国いがのくにの道を通って領地へ逃亡。のちに東照大権現とうしょうだいごんげんという神としてまつられた家康。それにちなんで後世において神君しんくんをつけて神君伊賀越しんくんいがごえと呼ばれることとなる家康の人生最大の危機。

 

【1584年】小牧・長久手の戦い
豊臣秀吉と徳川家康の戦い。局地戦では家康が勝利したものの、外交戦では秀吉が完勝したため、2年後に家康は秀吉に降伏し部下となった。

 

【1590年】小田原征伐
豊臣秀吉による天下統一の最終戦。家康もこの戦いに参戦して、秀吉の指揮下で小田原城おだわらじょうを攻めた。小田原城の城主・北条氏直ほうじょううじなおは家康の娘婿むすめむこだった。伊達政宗だてまさむねが秀吉に臣従し、小田原城も降伏したため、天下統一が完了。小田原北条家おだわらほうじょうけは滅亡。

 

【1592~1598年】朝鮮出兵(文禄ぶんろく慶長けいちょうえき
豊臣秀吉による外国との戦争。家康はこの戦いに軍を出兵させることはなかったが、本陣の肥前名護屋城ひぜんなごやじょうで、秀吉を補佐。渡海しようとする秀吉を前田利家まえだとしいえとともに制止した。

 

【1598年】豊臣秀吉・死去
天下人・豊臣秀吉が死去したため、徳川家康が秀吉の子・豊臣秀頼とよとみひでよりを補佐することとなった。家康は天下を奪い取るために豊臣家の分断を狙い、策略をめぐらせ始める。

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」

【1600年】関ヶ原の戦い
豊臣秀吉亡き後の天下をめぐる天下分け目の戦い。石田三成いしだみつなりがひきいた西軍と、徳川家康がひきいた東軍の戦い。これに勝利した徳川家康は、徳川の天下をほぼ手中に収めた。ちなみに石田三成の軍を西軍せいぐん、徳川家康の軍を東軍とうぐんと呼ぶ理由は、このとき双方が豊臣軍を自称していたため、区別をつける目的で西軍・東軍と呼んでいる。

 

【1603年】征夷大将軍せいいたいしょうぐんに就任
徳川家康が全ての武士たちのトップに位置する身分・征夷大将軍に就任。このときから、家康の本拠地・江戸えどに幕府という臨時政府がおかれることとなった。江戸時代の始まりであり、このときから明治維新で西郷隆盛さいごうたかもりによって滅ぼされるまで、江戸幕府は日本を支配し続けた。

 

【1614~1615年】大坂の陣
大坂城にいた豊臣秀吉の子・豊臣秀頼と徳川家康の戦い。かつては天下人として君臨していた豊臣秀頼も、このときには力をほとんど失い、家康には対抗できなかった。【1614年】の大坂冬の陣における真田信繁さなだのぶしげ(真田幸村ゆきむら)たちの奮戦もむなしく、【1615年】の大坂夏の陣で豊臣秀頼は自害。豊臣家は滅亡した。

 

【1616年】徳川家康・死去
家康は、居城・駿府城すんぷじょうで、【73年4ヶ月】の生涯を終えた。数え年で享年【75歳】。死因はがんと考えられている。

 

辞世の句は2つ

  1. 嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は あかつきの空
    (もはや目覚めることもないと思ったら、もう一度目覚めることができるとは、嬉しいものだ。さて、もう一眠りしようかな)
  2. 先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ
    (一足先にあの世へ行くのも、この世に残るのも、あまり違いのないものさ。私は誰も道連れにしようとは思わない。決して誰も追って来てはいけないよ。頼むから殉死はしないでくれよ。さらばだ。)

 

→→→→→【信長・秀吉・家康の生涯年表】についてくわしくはこちら

 


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徳川家康は、善人だったのか?それとも極悪人だったのか?

徳川家康は、いい人だったのか?それとも極悪人だったのでしょうか?

 

筆者の勝手な意見ですが、家康は善人であったと思っています。

 

理由は簡単で、家康は平和を望み、願った人だからです。

 

家康は、豊臣秀吉が死んだ後、秀吉から託された息子・秀頼を大坂夏の陣で死に追いやり、天下を奪い取った人物です。

 

これは、悪人と呼ばれても仕方ない悪事でしょう。

 

なんといっても、秀吉との秀頼を守るという約束を破っているのですから。

 

しかし家康はおそらく、秀頼の支配では天下は平和にはならない、と思っていたのでしょう。

 

自分しか、平和を実現することはできないと固く信じていたのだと思います。

 

家康は確かに、秀吉を裏切り、秀頼を死に追いやりました。

 

ですが家康が実現した【253年】もの長い平和は、その失点を補って余りあると思います。

 

平和を実現し、数え切れない人の命を救った

 

この家康の功績は、日本史でも屈指の功績と言えるのではないでしょうか。

 

命を守った徳川家康は、善人、そして英雄と呼ぶにふさわしい人物であると思います。

 

とはいえ、その後の江戸時代は、徳川家康が願った世の中とは、まったく異なる時代となってしまいました。

 

鎖国によって対外貿易を制限したため、国の発展は失われ、幕藩体制ばくはんたいせいという政治の形によって人民の引越しは基本的に禁止され、重税によって餓死者が続出。

 

日本人の平均身長も低く、栄養がしっかりと取れていない時代だったのです。

 

江戸時代は、家康が望んだ平和を手に入れた代わりに、自由と豊かさを失った、日本史上でも最悪な時代であったと、筆者は思っています。

 

そんな豊かさと自由を失った極貧の時代が、本当に家康が望んだ世界だったのか、筆者は疑問に思っています。

 

→→→→→【徳川家康の死因】についてくわしくはこちら

 


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,徳川家康は、戦国時代に活躍した戦国武将。織田信長や豊臣秀吉と同じ時代を生き、戦国を終わらせて永き平和を実現した人物。

 

2,徳川家康とは、江戸幕府という臨時政府をつくり、100年以上も内戦が続いた戦国時代を終わらせて、江戸時代という平和な時代を実現した

 

3,桶狭間の戦い、清洲同盟、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、本能寺の変、伊賀越え、小牧・長久手の戦い、小田原征伐、朝鮮出兵、関ヶ原の戦い、大坂の陣などに、家康は関わりがある。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

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