前田利家の死因は何?最期の様子と遺言に込められた徳川家康への想い

加賀百万石「前田利家」の「死因」と「最期の様子」などを、わかりやすく解説いたします。
かぶきもの」と呼ばれ、天下人「豊臣秀吉」の親友であった「前田利家」
その死因は何だったのか?
一説によると、死因は「がん」だったのだとか。
利家の寿命が、もう少し長かったら、「天下」が取れていたかもしれない!!!
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この記事を短く言うと
- 「前田利家」の死因は「がん」の可能性が高い。利家は、持病の「腹痛」で苦しんでいた。
- 「利家」は、徳川家康を暗殺しようとしていたらしいが、断念。最期は妻の「おまつ」が作ってくれた「くさりかたびら」をことわって亡くなった
- 利家のお墓は「石川県金沢市」の「野田山墓地」または「宝円寺」にある。遺言からは「徳川家康」のことを警戒している様子がうかがえる。
目次
前田利家の死因!最期は「がん」で亡くなった
「前田利家」の死因は、内蔵の「がん」であったという説があります。
特に「消化器官系」の「がん」であった可能性が高いのだとか。

《前田利家》
「引用元ウィキペディアより」
もともと、前田利家は持病であった「差しこむような腹痛」で苦しんでいました。
この「差しこむような痛み」は「胆石」による「発作」なのではないかと言われています。
正確に、どういった部位の「がん」であったかはわかりません。
しかし、徐々に衰弱して亡くなる様子からみても、「がん」であった可能性が高いでしょう。
1599年4月27日、前田利家は「大阪」の自宅で亡くなります。
享年62歳
徳川家康よりも遥かに人望があったという、人徳の名将「前田利家」。
もしも利家が生きていたら、徳川家康の天下はなかったかもしれません。
前田利家の最期!あと少し長生きしてたら天下が取れた
あと少し長生きだったら、徳川家康の天下はなかった
1598年、前田利家が亡くなる前年、天下人だった「豊臣秀吉」が亡くなります。

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」
秀吉の死より、豊臣秀吉の次に位置していた実力者「徳川家康」が「天下取り」に動き出すのです。
秀吉の死後、天下は「徳川家康の派閥」と、「前田利家の派閥」。この2つの派閥に分かれていました。
つまり「徳川家康に味方する武将たち」と、「前田利家に味方する武将たち」に分かれたのです。
このとき、実は「前田利家」に味方した武将の数のほうが、多かったといわれています。
そのまま「徳川家康」と「前田利家」が戦っていたら、前田利家が勝利していたでしょう。
しかしすでに病気だった前田利家は、天下を取ることなく、亡くなったのです。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」
本当かどうかはっきりしていませんが、利家は「病気見舞い」にきた「家康」を、布団の中に隠していた「刀」で斬り殺そうとしたという逸話があります。
ところが気が変わったらしく、息子の「利長」を家康に託しています。
利家・・・もしも生きていたら、「徳川幕府」は存在していなかったかもしれません。
前田利家の最期!「くさりかたびら」の逸話
利家は、死の間際に妻「まつ」から「くさりかたびら」を渡されたといいます。
おまつ
「あなたはたくさんの人を殺しました。
地獄行きは避けられません。
どうかこれを着ていってくださいませ」
利家
「俺は生涯において、義理のたたない戦は一度もしたことはない。
俺が地獄行きだというなら、先に行った連中とともに、閻魔と合戦してくれる。
その【くさりかたびら】は、お前があとから被って来い」
その後、利家は腹部へのあまりの激痛により、自ら腹を斬って亡くなったとも言われています。
これを聞いた宿敵「徳川家康」は、利家の最期を「見事」と言って褒めたたえたのでした。
利家の『お墓』と『遺言』!徳川家康を警戒していた?
前田利家のお墓!「野田山墓地」と「宝円寺」
利家のお墓は「石川県金沢市」に2か所あります。
・「野田山墓地」
・「宝円寺」
利家のお墓は、「野田山墓地」に、妻「おまつ」のお墓とともにあります。
また、同じ「石川県金沢市」の「宝円寺」にも、利家の墓があると言われています。
「宝円寺」は、前田利家がつくった「前田家」の菩提寺。
一説によると、「病気見舞い」にきた徳川家康を暗殺しようとした際、死を覚悟した前田利家は、この「宝円寺」に「自画像」と「自分の髪」を埋めたのだとか。
利家の遺言!徳川家康との戦争を心配していた!
利家は、死後に徳川家康と前田家が戦争になった場合を想定し、数々の遺言を残しています。
・もしも「豊臣秀頼」公に反乱を起こすものがいたら、前田家全軍16000名で撃破せよ。
・合戦となったら、敵の領地に一歩でも踏み込んで戦え。自分の領地内を戦場にしてはならない。(これは織田信長流の戦い方だった)
・新しく召しかかえた家来は、20年仕えたら、譜代の家来と同じにあつかって良い。
おそらく、利家は息子の「利長」が、「徳川家康」と戦う可能性を考えていたのです。
「家康」を大変に警戒している様子がわかります。
利家は最期の最期まで、徳川家康へ「警戒」や「恐怖」といった想いを抱いていたのでしょう
実際、利家が亡くなると、家康は息子「前田利長」を滅ぼそうとします。
しかし、利家の妻「おまつ」が、家康のいる「江戸」へ人質となって行ったため、徳川と前田は和解。
両家は婚姻関係を結び、前田家は「日本最大の大名」として「明治維新」まで存続することとなるのです。
『前田利家』について「ひとこと」言いたい!
前田利家・・・・実は「勝ち馬に乗る」のがとても上手な「世渡り上手」だったと言われています。
「かぶきもの」「槍の又左衛門」などと呼ばれた豪傑。
まさに「体育会系」ですが、その世渡りは実に「たくみ」です。
「本能寺の変」で「織田信長」が亡くなると、「柴田勝家」について、親友「羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)」と対立。
しかし「柴田勝家」が、「羽柴秀吉」に負けそうになると、即座に秀吉にのりかえ。
また、利家が亡くなる直前、「豊臣家」と「徳川家」を天秤にかけて、最期は「徳川家康」に乗りかえています。
このおかげで、利家は「織田家」「豊臣家」という主人の家が滅亡したのちも「加賀百万石」の大領地を支配する「日本最大の大名」として存続。
21世紀の今なお、前田家はつづいているのです。
利家・・・非常に体育会系で「福島正則」や「加藤清正」のような「武断派」と呼ばれる武闘派の面々からは、かなり慕われていたと言われています。
「人から慕われる人徳」があって、しかも「世渡り上手」・・。
もはや天下を取る実力があったと考えて良いはずなのに、寿命が足りずに天下が取れなかったのです。
秀吉は、生前に「鍋島直茂」という名将に対して、こんな言葉を残しています。
「鍋島直茂は、天下をとるには知恵も勇気ももっているが、ゆいいつ覇気が足りない」
前田利家も、世渡り上手な「知恵」と、武勇にすぐれており「勇気」をもっていました。
ただ、「覇気」・・・つまり「天下を取ることへの欲望」が足りなかったのではないでしょうか。
徳川家康は、欲望をおもいっきりさらけだして、手段を選ばず、がむしゃらに天下を取りに行っています。
8代将軍「徳川吉宗」も、「征夷大将軍」になるために、露骨にその欲望をみせています。
目標への執念。天下への欲望が、かぶきもの「前田利家」には足りなかった気がします。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 前田利家の死因は「がん」。おそらく消化器官のガンで亡くなったのだろう
- 利家は、最期に「徳川家康」を暗殺しようとしていたらしい。しかしそれを中止して病死した。最期は妻「おまつ」がつくった「くさりかたびら」をことわって亡くなった
- 利家のお墓は「石川県金沢市」の「野田山墓地」、または「宝円寺」にある
以上となります。
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