上杉謙信の「死因」や「最後の様子」について、誰かに尋ねられても、ハッキリと答えられる方は、少ないかもしれません
実は筆者自身も、「上杉謙信」については知っていたものの、自分の手で調査してみるまで、「上杉謙信の死因・最後」については答えられませんでした
この記事では「上杉謙信」の「死因」「最後の様子」について、ひと目で分かるようにまとめました
「上杉謙信」の「最後」について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです
これを読んで、謙信についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,上杉謙信の『死因』は?
「脳溢血(のういっけつ)」と考えられている
2,上杉謙信の『没年月日』は?
旧暦・天正6年3月13日
新暦・1578年4月19日
享年「49」歳
3,上杉謙信の『最後の様子』は?
【天正5年9月23日(1577年11月3日)】の「手取川の戦い」のあと、ふたたび出陣する準備をしているときに、【天正6年(1578年)3月9日】、居城「春日山城」のトイレで倒れ、昏睡状態におちいり、その4日後に急死した。
4,上杉謙信の『辞世の句』は?
- 「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」
- 「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」
上杉謙信の『死因』は何?
上杉謙信の死因は「脳溢血(のういっけつ)」。
脳溢血とは、脳から出血することです。
生前の上杉謙信は、大の「酒好き」だったことで知られています。
極度の飲酒とかたよった食生活(「塩」や「梅干し」などを酒の肴(さかな)としていたことによる「塩分の取り過ぎ」など)による「高血圧」。
それが原因でおこった「脳血管障害」が、上杉謙信が急死した原因とみられており、現在では定説となっています。
「上杉謙信」の史料を見た、現代の医師たちによる意見でも
- 高血圧症
- 糖尿病
- アルコール依存症
- 躁鬱気質
だったとする見解が多いそうです。
「上杉謙信」の死因については、「脳溢血」以外にも、「胃がん」もしくは「食道がん」と「脳卒中」を併発したとする説もあります。
つまり、上杉謙信が急に倒れてそのまま亡くなった理由は、「酒を暴飲」し「塩分濃度の高いものを暴食しすぎた」ため、ということになるでしょう。
上杉謙信の『没年月日』と『最後の様子』
「没年月日」と「享年」
旧暦・天正6年3月13日
新暦・1578年4月19日
享年49歳
(満年齢48歳)
「最後の様子」
猛将「柴田勝家」がひきいる織田軍との「手取川の戦い」、その戦いに勝利した上杉謙信は、【天正5年(1577年)12月18日】、居城である春日山城へ帰還。
【同年12月23日】には、次なる遠征にむけての大動員令を発しています。
【天正6年(1578年)3月15日】、謙信は、春の雪解けと同時に遠征を開始する予定だった、と言われています。
しかしその6日前である【3月9日】、出陣の準備中に、春日山城内のトイレで突然たおれます。
【同年3月13日午後2時」、軍神とよばれた名将「上杉謙信」は、急死。
倒れたあと昏睡状態におちいった症状から、死因は「脳溢血」との見方がされています。
遺骸には鎧(よろい)を着せて、太刀を帯びさせて、甕(かめ)の中へ納め、漆(うるし)で密封されました。
この甕は、上杉家が「関ヶ原の戦い」で敗北し、「徳川家康」の命令によって米沢(山形県米沢市)へ移ったあとも、米沢城の本丸に安置され、【1868年】の「明治維新」のあと、米沢藩の歴代藩主が眠る御廟へと移されました。
上杉謙信は、生涯独身だったため、実子がいませんでした。
後継者候補となる養子が二人いました。
謙信が養子としたのは、姉「仙桃院」の子「上杉景勝」。
もう一人が、宿敵であった「北条氏政」の弟「上杉景虎」。
二人のどちらを後継者とするか、謙信は生前まったく決めていなかったため、死後に上杉家の家督をめぐって「御館の乱(おたてのらん)」が勃発。
この跡目争いに勝利した「上杉景勝」が、養父「上杉謙信」の後継者として上杉家の当主に就任。
米沢藩の初代藩主となったわけが、義兄「上杉景虎」との血で血を洗う内乱によって、名門「上杉家」の勢力は一気に衰えることとなります。
未遂に終わった上杉謙信の遠征計画、いったいどこへ攻め込もうとしたのかは、今でもわかっていません。
- 「京都へ向かって『織田信長』を打倒しようとしていた」
- 「『北条氏政ひきいる北条氏討伐』のため、関東へむけて侵攻しようとしていた」
このどちらかであると推測されていますが、詳細は不明のままになっています。
上杉謙信の『辞世の句』と意味
「上杉謙信」の辞世の句は、現在まで「2つ」が伝えられています。
極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸(か)かる雲なし
【自分が死んだら、私は極楽か地獄どちらへ行くのかはわからない。
しかし、どちらへ行くことになってもかまわない。
今の私の心は、雲のかかっていない月のように、一片の曇りもなく晴れやかである】
四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒
【私の49年の人生など、まるで一眠りする間に見た夢のように、みじかく儚いものだ。
生涯の栄華など、まるで盃(さかずき)一杯の酒のようなものでしかなかったのだ】
この歌は、有名な物語「邯鄲(かんたん)の枕」という作品を引用したものと考えられます。
春秋戦国時代(紀元前770~221年)の中国において、「盧生(ろせい)」という人物が、趙国の都「邯鄲」へ立身出世を夢みて旅立つ途中、仙人「呂翁(りょおう)」からもらった枕をつかって眠り、夢の中で次々と欲望・願望をかなえていく・・・という物語です。
栄華を極めたあと、夢の世界のなかでの一生を終えた盧生は、自分が火をつけた焚き火のふちで目覚め、人間の一生など「夢幻の如く」であると悟り、故郷へと帰っていったのでした。(のちの「夢落ち」という終わり方の元祖と考えられている)
この物語から、「邯鄲の夢」という言葉が生まれたのですが、これは
「人の栄華など、ひとかけらの夢にすぎない、儚いものなのだ」
という意味です。
ちなみに、趙国の都「邯鄲」は、このあと滅びの運命をたどります。
名将「李牧」の奮闘もむなしく、邯鄲で生まれ育った「秦の始皇帝」と、その部下「王翦(おうせん)」によって滅ぼされることとなるのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,上杉謙信の『死因』は?
「脳溢血(のういっけつ)」と考えられている
2,上杉謙信の『没年月日』は?
旧暦・天正6年3月13日
新暦・1578年4月19日
享年「49」歳
3,上杉謙信の『最後の様子』は?
【天正5年9月23日(1577年11月3日)】の「手取川の戦い」のあと、ふたたび出陣する準備をしているときに、【天正6年(1578年)3月9日】、居城「春日山城」のトイレで倒れ、昏睡状態におちいり、その4日後に急死した。
4,上杉謙信の『辞世の句』は?
- 「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」
- 「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」
以上となります。
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