織田信長の名言集と、その意味を解説
有名な「殺してしまえホトトギス」や「人生50年」
そこに隠された意味とは?
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この記事を短く言うと
・織田信長の名言は、現実主義でありながら、理想を捨てない、さらに闘争心にあふれたものが多い
・「殺してしまえホトトギス」という句は、信長がつくったのではなく「松浦静山」という大名が後世につくった
・「敦盛」の「人間(じんかん)五十年」とは、「人間の寿命・人生は五十年」という意味ではない
信長の名言集!
「絶対は絶対にない」
迷信を信じなかった織田信長らしい言葉です。
この言葉には「絶対に不可能なことというのは、存在しない」という意味も込められているようです。
「仕事は自分で探し、創るもの。与えられた仕事のみやるのは雑兵」
与えられた仕事をこなすだけの者は、たとえ長年使えてくれた「林通勝」「佐久間信盛」ですら切り捨てる!
「羽柴秀吉」「明智光秀」を重用した、合理主義者「信長」の本心が見て取れます。
「たしなみの武辺は、生まれながらの武辺に勝る」
信長は、実は若い頃から「馬術」に熱中していたとのこと。
その人並み外れた馬術を活かして、後の「金ヶ崎の退き口」で九死に一生を得たとも言われています。
身体の大きさなどにより、生まれながらに喧嘩が強いものもいますが、『しっかりと訓練を積んだ武のほうが役に立つ』・・と言いたいのでしょうね。
「臆病者の目には、敵は常に大軍に見える」
どんな困難にも屈しなかった信長。
「臆病者には、どんな仕事も困難に映る」と言いたかったのかもしれません。
臆することなく立ち向かい、実際にやってみれば、対したことない場合もしばしば・・・。
「理想を持ち、信念に生きよ
理想・信念を失ったものは、戦う前から負けている
そんな者は廃人も同然」
「天下布武」という信念を抱き、寝る間も惜しんで戦い続けた信長。
理想に燃え、信念を貫いたその生き様を言葉にすると、こうなるのでしょう。
現実主義者の信長が、理想を抱いていた・・矛盾するようですが、強い理想があったからこそ、戦い抜けたのです。
「必死に生きてこそ、生涯は光を放つ」
本能寺の変で命を落とすまで、必死に駆け抜けた信長。
必死に考え、必死に動き、必死に戦ったからこそ、あれほどの輝きを放つ一生となったのでしょう。
現実主義者でありながら、理想を抱いてた、闘争本能に溢れた信長らしい名言集です。
「殺してしまえホトトギス」の意味
「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
織田信長の性格を表現する俳句ですね。
他にも2人の天下人を表現する、似たような俳句が残っています。
豊臣秀吉
「鳴かぬなら 鳴かせてみしょう ホトトギス」
徳川家康
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」
この俳句は平戸藩9代目藩主「松浦静山」がつくったと言われています。
役に立たないなら「殺してしまえ」という「信長」
なんとか工夫を凝らして「鳴かせてみせよう」という「秀吉」
「鳴くまで待ち続ける」という「家康」
しかし、家康は「忍耐強い」タイプではなく、実は短気。
信長も「残忍」と言われていますが、それは法を犯した者に対してのみ。
実は信長は、同盟や盟約を結んだ相手に対して、自分から破棄したことは一度もありません。
盟約を結んだ相手を大切にした、実は寛大で、しかも忍耐強い人だったのです。
「ホトトギスを待てない、短気な家康の性格」について、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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「人生50年」の意味と、秘密
「人間五十年
化天(下天)のうちを比ぶれば
夢幻の如くなり
一度生を享け
滅せぬもののあるべきか」
信長がよく舞ったと言われる「能」の「敦盛」
実際に信長が好んだのは「能」ではなく、「幸若舞」の「敦盛」だったようですが・・・。
幸若舞・・・能より明るく、もう少し「民謡」に近い「歌」ののようなもの。
「人間五十年」における秘密
この「人間五十年」という一説には、よく勘違いされている秘密があるのです。
「人間五十年」は、「人間の平均寿命は、約50年」という意味で、解釈されています。
実際には意味が違います。
「人間(じんかん)五十年」
これは「仏の世界における一昼夜は、人間界の五十年にあたる」という仏教の教えを説明しているのです。
わかりやすく訳すと以下のようになります。
仏界と人間界では時間の流れが異なり、仏界の一日は人間界の五十年
まるでそれは夢幻のようなものだ。
一度生まれたからには、滅びないものなどあるわけがない。
儚いものなのだ
「人間五十年」・・・これは「人生は短い」ということを言っているのです。
「全力で生きる」ことを諭した信長が「敦盛」を好んだのもわかる気がします。
ちなみに、この「敦盛」という幸若舞のモデルとなった「平清盛」の甥「敦盛」は、「一ノ谷の合戦」において、16歳という若さで亡くなっています。
それと、信長は当初、自らをして「平清盛の末裔」と自称していました。
もしかしたら、敦盛を好んでいたのは、武家政権誕生の基礎を築き上げた「平清盛」の正統後継者は自分だ、と主張したかったのかもしれません。
「信長の生い立ちから死ぬまで」について、以下のリンク記事で詳しく解説させていただいております。
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「信長と、その城」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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まとめ
本日の記事をまとめますと
・信長の名言集は、現実主義者信長にしては「理想」を求めるものが多い
・「殺してしまえホトトギス」・・・信長は残忍と言われているが、寛容な面もあった
・「人間五十年」とは、人生五十年ではなく、「仏界の一日は、人間界では五十年にあたる」と説明している一説
以上となります。
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