この記事では「織田信長が、父親の葬式で、父の位牌に抹香を投げつけた理由」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「信長が抹香を投げつけた理由」を、カンタンに理解できます。
「織田信長」は「周囲を油断させるために抹香を投げた」のです。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」が「父の葬式」でやらかしたエピソードとは?
「織田信長」は、父「織田信秀」の葬式で、父の位牌に向かって「抹香」と呼ばれる粉状のお香を投げつけて、周囲を驚かせた
2,信長が「抹香」を投げつけた理由とは?
抹香を投げつけるという暴挙に出ることで、「周囲を油断させる」とともに、「暗殺のリスク」を避けたのだろう
3,礼儀作法を守った弟「織田信勝」と「信長」の差とは?
周囲に気に入られようとしただけの弟「織田信勝」と、生き残りのために演技をやりきった兄「織田信長」では、あまりにも器が違いすぎた
織田信長が父「織田信秀」の葬式で、「位牌」に「抹香」を投げつけた逸話
「織田信長」といえば、父親の葬式で、父の位牌に「抹香」という「粉のお香」を投げつけたエピソードで有名です。
【1552年】、「織田信長」の父「織田信秀」が病死します。
その葬儀に遅れて現れた「織田信長」は、葬式には全く似合わない「ド派手な衣装」で父の葬式に現れます。
それだけではありません。
信長は「お焼香」の際に、突然、父の位牌に向かって「抹香」を投げつけたのです。
参列していた各地の豪族たちは、信長の暴挙に驚き、「やはり織田信長は馬鹿(うつけ)だ」と噂し合ったのです。
しかしこれは、信長の罠でした。
信長の公式記録「信長公記」には、このとき葬儀に参列していた一人の僧侶が残した「不思議な言葉」が記録されています。
「これこそ国を支配する者の器だ」
と、「謎の僧侶」は抹香を投げつけた「織田信長」を絶賛したのです。
おそらくこの「謎の僧侶」だけは、信長の真意を見抜いていたのでしょう。
「織田信秀」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
なぜ「信長」は、抹香を投げつけたのか?「2つの理由」があった
織田信長が「抹香」を投げつけた理由は、「敵からの暗殺を回避するため」と「敵の油断を誘うため」でした。
「うつけ」のふりをしていれば、敵勢力から「危険な奴だ」と見なされません。
つまり、暗殺される危険性を極力減らすことができるのです。
敵からすれば、ライバルである「織田家」のトップが【バカ】であってくれれば、これほど助かることはないのですから。
また、「うつけ」を演じると、相手は「信長」に油断し、スキをつくってくれます。
織田信長は、おそらく父「信秀」に命じられ、うつけの演技をして、「暗殺」を回避していたのでしょう。
「信長公記」には、「ド派手な衣装」と「だらしない言動」を繰り返しながらも、信長が「弓」や「鉄砲」そして「兵法」を、毎日毎日休まずに訓練していた様子が記録されています。
信長は決して「うつけ」などではなく、父「織田信秀」から最高の教育を施された「エリート」だったのです。
信長の弟「織田信勝」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
行儀作法を守った弟「信勝」と、「うつけ」を演じた兄「信長」の差
織田信長の弟「信勝」は、父「織田信秀」の葬儀で、礼儀を守った素晴らしい作法を披露しました。
この「織田信勝」に対して、周囲は称賛します。
しかし信勝は、ただ「周囲から気に入られる自分」を演じただけに過ぎませんでした。
つまり自分の頭で考えて行動したのではなく、周囲に気に入られようとしただけでした。
それに比べて兄「信長」は、「周辺諸国」の全てを油断させようとしたのです。
そうすることで織田家の生き残りを図ったのでした。
- 自分の頭で考えない弟「信勝」
- 自分の頭で考えて国を守るために行動した兄「信長」
どちらが名将なのかは、比べるまでもないでしょう。
ただし、若き名将「信長」も、たった1つだけ失敗しました。
「うつけ」のふりをしすぎたために、家老「平手政秀」が、信長の「奇行」を止めさせるために切腹してしまったのです。
「信長」は、長年自分を育て守ってくれた側近「平手政秀」の死を悲しみ、「政秀寺」という菩提寺を建立。
自分の軍師「沢彦宗恩」を「政秀寺」の住職にして、その菩提を弔っています。
「織田信長の軍師」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
葬儀の1年後、信長の才能を見抜いた名将「斎藤道三」
葬儀の1年後【1553年】、信長は妻「帰蝶」の父である「斎藤道三」と、「聖徳寺」という寺で会談しました。
この会談で、「斎藤道三」は「織田信長」の非凡な才能を見抜いたと言われています。
信長はここでも「うつけ」を演じ、ド派手な服装で「聖徳寺」へ向かいました。
「聖徳寺」へ向かう「織田信長」の姿を、道三は「とある小屋」の中から盗み見ていました。
ド派手な衣装を着た「信長」を見た「斎藤道三」は、「信長」を「うつけ」だと確信し、油断したのです。
「聖徳寺」に現れた信長は、美しく凛々しい正装に着替えて、立派な若武者姿になっていました。
信長は、「道三」が盗み見ていることを計算に入れて、わざとド派手な格好で聖徳寺へ向かったのでした。
もしかすると「道三」の周囲には、信長のスパイがいたのかもしれません。
「道三が聖徳寺への道の途中で、信長の様子を盗み見ている」
という情報を、信長は未然に得ていたのかもしれません。
道三は、会見のあと、不満げにこう言ったと「信長公記」に記されています。
「無念だ。我が息子たちは、あの《うつけ》の家臣に成り下がるだろう。」
その予言は的中し、道三の息子2人「利堯(としたか)」と「利治(としはる)」は、信長の家臣となります。
その2人は、信長に尽した忠臣として、歴史に名を刻むこととなるのです。
「斎藤道三の子供たち」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」は、父「織田信秀」の葬式で、父の位牌に向かって「抹香」と呼ばれる粉状のお香を投げつけて、周囲を驚かせた
2,信長が「抹香」を投げつけた理由は、抹香を投げつけるという暴挙に出ることで、「周囲を油断させる」とともに、「暗殺のリスク」を避けたのだろう
3,周囲に気に入られようとしただけの弟「織田信勝」と、生き残りのために演技をやりきった兄「織田信長」では、あまりにも器が違いすぎた
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
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ありがとうございました。
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