この記事では「織田信長の三男・織田信孝」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「織田信孝の最期」を、カンタンに理解できます。
「織田信孝」は「次男」であるにもかかわらず、母の身分が低かったために「三男」となった人なのです。
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この記事を短く言うと
1,「織田信孝」とは何者なのか?
「織田信長」の三男で、信長の側室「坂氏」の子。母の身分が低かったため「次男」であるにもかかわらず、「三男」として育てられた
2,「本能寺の変」のあと、「信孝」はどうなった?
「山崎の戦い」で羽柴秀吉とともに「明智光秀」を討ったが、「清須会議」で信長の後継者になれなかった。「賤ヶ岳の戦い」で「柴田勝家」が秀吉に敗北して亡くなると、兄「信雄」に切腹させられた
3,三男だった「織田信長」と、同じく三男だった「織田信孝」は、なぜそれほど違う人生を歩んだのか?
「信長」は正室の子であったため、家督継承できた。しかし「信孝」は側室の子だったため、家督継承など絶対に出来ない地位にいた
目次
信長の三男「織田信孝」とは何者か?身分の低い「母」から生まれた悲劇
織田信孝(おだ のぶたか)は、織田信長の三男です。
武勇のほまれ高い人物だったといわれています。

《織田信孝》
「引用元ウィキペディアより」
「信孝」は、三男とされていますが、実際には次男であったといわれています。
信孝の兄で、信長の次男「信雄」は、三男「信孝」よりも20日ほど遅く生まれたと言われています。
しかし「信孝」は、母親の身分が低かったため、「次男」であるにもかかわらず、「三男」とされたのでした。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」
「信孝」の母は「坂氏」と呼ばれた女性です。
ただ、「坂氏」のどういった立場の女性なのかが、まったく不明なのです。
正確な素性はわからないということは、とにかく身分が低い女性であったと推測できます。
同じ側室の子「織田信雄」の兄であるにも関わらず、三男として育てられた理由は、「母親の身分が低かった」ことが原因なのでしょう。
「織田信長の子供」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「本能寺の変」から「信孝の最期」まで!悲劇的な最期!
【天正10年(1582年)6月3日】、織田信孝は、織田家の重臣「丹羽長秀」とともに、大軍団をひきいて「大坂」にいました。
「四国」の大名「長宗我部元親」を討伐するために、出陣予定だったのです。
ところが、その前日、「織田信長」が「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれてしまったのです。
このとき、信孝と丹羽長秀の部隊は、そのほとんどが逃亡。
仕方なく信孝は「羽柴秀吉」を待って合流し、秀吉とともに「明智光秀」を討伐します。
数カ月後、「清須会議」と呼ばれる会議に出席した信孝は、織田家の後継者になりたいと、名乗りをあげました。
しかし、羽柴秀吉の頑強な抵抗にあって、織田家の後継者は、信長の孫「三法師」に決定。
このときから、織田家は「織田信孝・柴田勝家」と、「織田信雄・羽柴秀吉」という二大派閥に割れて、内部抗争を始めてしまうのでした。
「信孝」は「柴田勝家」とともに秀吉に対抗。
【1583年】、信孝の抵抗も虚しく、「賤ヶ岳の戦い」で「柴田勝家」は妻「お市の方」とともに自害します。
このとき「柴田勝家」と協力して「岐阜城」で「秀吉・信雄軍」と戦っていた「信孝」は、降伏。
そして兄「信雄」によって、自害させられてしまいます。
享年26歳。
切腹した際に、内臓を掴んで壁に投げつけたといわれています。
切腹した「愛知県・安養院」には、信孝の血がついた「掛け軸」が今も残っているのです。
辞世の句は、秀吉への怨念をうたった、凄まじいものとなっています。
「昔より 主を内海の 野間ならば やがて報いん 羽柴筑前」
意味は、以下のとおりです。
この「内海の野間」という場所は、「源頼朝・義経」兄弟の父「源義朝」が、部下「長田忠致」に裏切られて亡くなった場所だ。
長田忠致は、その後「源頼朝」によって悲惨な処刑をほどこされて死んだという。
羽柴筑前守秀吉よ。
そなたにも、主君である私を殺した天罰が、今に降ることだろう。
その報いを、待っているがいい。
「長田忠致」は、「源義朝」を裏切って殺し、「平清盛」にその首を差し出した人です。
「壱岐守(いきのかみ)」という官位を褒美として与えられたものの、「美濃・尾張くらいはもらえると思っていた」と不満を漏らしたことで有名です。
その後、「長田忠致」は「源義朝」の息子「源頼朝」に仕えました。
そこで必死に働き、悲願であった「美濃・尾張をやる」と、頼朝から約束された「長田忠致」は喜びます。
ところが、頼朝は父の仇であった「長田忠致」を、無残にも処刑してしまうのでした。
頼朝は「長田忠致」に対して、
「約束通り、【身の終わり(美濃・尾張)】を与えてやる」
と言って、処刑したのだと言われています。
余談ですが、「織田信長」の妻「帰蝶」の父「斎藤道三」は、裏切りや毒殺を繰り返して下剋上を達成したその有様を批判され
「斎藤道三の『身の終わり(美濃・尾張)』は近い」
と落書きをされた、という逸話が残っています。
「斎藤道三」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
同じく三男だった「織田信長」と、三男「信孝」は何が違ったのか?
実は「織田信長」も三男でした。
しかし同じ三男の「信孝」とは違い、織田家の家督を継承し、「信孝」とは全くことなる人生を送っています。
なぜか。
理由は簡単で、母親の身分が高かったからです。
信長の母は信秀の正室「土田御前」という女性です。
それに対して「信孝」の母は「坂氏」という、素性すらわからない、身分の低い女性だったのです。
実は「信長」の「兄」であるにも関わらず、弟「信長」の家来として扱われた人がいます。
信長の兄「織田信広」です。
信広は、信長の兄であるにも関わらず、正室の子ではなかったため、織田家の家督継承ができませんでした。
当時は「母親の身分」が、家督継承に対する大きな後ろ盾でした。
そのため「正室の子」でなくては、よほどのことがない限り、家督を継承できなかったのです。
「伊達政宗」の息子「伊達秀宗」は、長男でありながらも側室の子でした。
そのため政宗の正室「愛姫(めごひめ)」の息子である弟「忠宗」に、伊達家の家督を持っていかれています。
鎌倉時代の執権「北条時宗」の兄「北条時輔」は、母が側室であったため、家督を正室の子である弟「時宗」に持っていかれています。
さて、織田信長の息子「織田信忠」は、側室「生駒氏」の子でありながら、家督を継承しています。
なぜ「信忠」は、側室の子でありながら、家督継承できたのでしょうか?
理由は簡単で、「信長」の正室「帰蝶」には、子供がいなかったためです。
信忠は「帰蝶」の養子となることで「正室の子」という体裁を整えて、織田家の家督を継承しています。
信孝は、「母の身分」が低かったために、信雄の兄であるにも関わらず、弟扱いされて「信雄」を恨んでいたといわれています。
「帰蝶」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
もしも信孝が生きていたら、歴史はどう変わっていたのか?
「賤ヶ岳の戦い」で、もしも「信孝」と「柴田勝家」が、「秀吉」と「信雄」に勝利していたら、どうなっていたでしょうか?
おそらく「信孝」が織田家の当主となって、天下を平定していただろうと思います。
もともと「賤ヶ岳の戦い」は、
- 「織田家を乗っ取ろうとする一派(羽柴秀吉)」
- 「織田家を守ろうとする一派(柴田勝家・織田信孝)」
この両者の戦いです。
これに信孝が勝利していたら、織田家は存続していたはず。
そしてもし「織田家が」存続していたら、信孝は「柴田勝家」を補佐として、天下統一事業を継承していたでしょう。
ここで1つ不安要素が出てきます。
徳川家康です。
信孝が「徳川家康」を味方にできたかどうか、ちょっと怪しい感じがします。
もしも「家康」を味方に出来たとしたら、天下統一も夢ではなかったでしょう。
しかし、家康がもしも「信孝」を翻弄し、織田家を真っ二つにするような行為をしでかしていたら、家康に天下を持っていかれたかもしれません。
ちょうど「豊臣秀頼」が「家康」に天下を奪われたように、信孝も家康に天下を奪われたかもしれないと思います。
「徳川家康」の動きをどこまで封じることができるかが、「織田信孝」が天下を取れたかどうかの鍵となるでしょう。
「豊臣秀吉」を「秀吉包囲網」でがんじがらめにした「徳川家康」。
「秀吉」に比べたら、若い「織田信孝」など、相手にもならなかったかもしれませんね。
「柴田勝家」と「徳川家康」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信孝」とは「織田信長」の三男で、信長の側室「坂氏」の子。母の身分が低かったため「次男」であるにもかかわらず、「三男」として育てられた
2,「本能寺の変」のあと、「信孝」は「山崎の戦い」で羽柴秀吉とともに「明智光秀」を討ったが、「清須会議」で信長の後継者になれなかった。「賤ヶ岳の戦い」で「柴田勝家」が秀吉に敗北して亡くなると、兄「信雄」に切腹させられた
3,「信長」は正室の子であったため、家督継承できた。しかし「信孝」は側室の子だったため、家督継承など絶対に出来ない地位にいた
以上となります。
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ありがとうございました。
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