この記事では「織田信長」と「大阪城」の「関係」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「信長と大阪城の意外な関係」を、カンタンに理解できます。
「織田信長」は「大坂」という地に「拠点となる巨大な城をつくろうとしていた」のです。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」と「大阪城」の関係とは?
織田信長は、大坂へ拠点となる巨大な城をつくろうとしていた
2,「信長」最大の宿敵「本願寺顕如(ほんがんじ けんにょ)」と「大坂城」の関係とは?
「本願寺顕如」の拠点「石山本願寺」の跡地に、「大坂城」が建てられた
3,なぜ「信長」は、「大坂城」へ拠点をつくろうとしたのか?
大坂が、西国攻略のための拠点として、とても有効な地だったから
目次
織田信長と「大阪城」の意外な関係とは?信長は大坂に引っ越す予定だった
「安土城」に拠点を置いていた「織田信長」ですが、「本能寺の変」で死ななかったら「大坂城」へ拠点を移していただろう、といわれています。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」
「大坂城」は、信長の部下であり、後継者ともいわれている「豊臣秀吉」がつくった城です。
しかし、もしも「織田信長」が「本能寺の変」で「明智光秀」に殺害されていなかったら、信長は「大坂城」をつくっていたでしょう。
「信長」は、「本能寺の変」の直前、現在「大坂城」がある「石山」という地を、甥の「津田信澄」に任せていました。
この頃、大坂の地には「千貫矢倉」という巨大な矢倉があったといわれています。
矢倉があったということは、【城】とまではいかないものの、「砦」のような防御施設・拠点があったということでしょう。
「大坂城をつくった人は誰なのか?」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
信長が「10年」も戦った宿敵「本願寺顕如」と「大坂城」の関係
実は、現在「大阪城」が立っている地には、信長が生きていた戦国時代の当時、「石山本願寺」という巨大なお寺がありました。
その「石山本願寺」を支配していたのは、「一向衆」と呼ばれる宗派と、一向衆のトップ「本願寺顕如(ほんがんじ けんにょ)」という人物です。
当時からこの地は、「要塞都市」として有名で、しかも交通の便も良い重要な拠点だったのです。
信長は、この「重要拠点」である「石山本願寺」の地を手に入れようと、なんと【10年】にわたって「本願寺顕如」と戦い続けたのでした(石山戦争)
いくら重要拠点とはいえ、10年もかけて戦いを続けるとは、信長はなぜそれほどまでに「大坂」にこだわったのか?
実は「大坂」という地は、信長の「西国攻略」にとって、無くてはならない重要拠点だったのです。
なぜ信長は「大坂城」へ引っ越すつもりだったのか?
信長が、なぜ「大坂」をそれほどまでに必要としたのかというと「大坂へ引っ越せば、西国攻略が便利になるから」です。
当時の「大坂(石山本願寺)」は、瀬戸内海に通じた港を持った地でした。
しかも「淀川」という、「京都」とつながった水運の便も良い地だったのです。
当時は、現代とは違って「鉄道」や「自動車」がないので、人や馬の力を使わずに自動的に動いてくれるのは、船を利用した「水運」だけだったのです。
さらに「大坂」は、東西と北の三方向を海に囲まれていて、難攻不落の地だったのです。(埋め立てられる以前、石山本願寺(大阪城)は海に囲まれていた)
- 北に、天皇がいる「京都」
- 南に、商業都市「堺」
- 西に、交通の大動脈である「瀬戸内海」
大坂は、水運を利用するのに便利この上ない「瀬戸内海」を通じて、「西国」と強力につながっていたのです。
交通に便利な地であれば、人が集まりやすく大都市が作りやすい、ということです。
「人が集まる」ということは、「お金が集まる」ということです。
お金が集まるなら、そこから「税金」を集めれば、圧倒的な資金が手に入るわけです。
資金が手に入るということは、その資金で、強大な軍団をつくることができるし、「鉄砲」などの強力な兵器を、たくさん買うことができます。
西国と「瀬戸内海」の水運でつながっているなら、「中国」・「四国」・「九州」へ【船】をつかって大軍団を送ることができます。
さらには「朝鮮国」への出陣も、大坂を拠点にすれば、やりやすいでしょう。
「京都」という日本の中心から近く、「西国・朝鮮」への出陣にも便利。
だからこそ、織田信長は「大坂」という地を高く評価し、拠点にしようと考えていたのです。
秀吉が「大坂城」をつくった理由とは?
豊臣秀吉が、なぜ「大坂」を拠点に選んだのかというと、信長と同じ理由です。
「織田信長」が「大坂」を評価していたことを知っていたのでしょう。

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」
【1583年】、豊臣秀吉は「大坂城」の築城を開始します。
秀吉は、息子「豊臣秀頼」が生まれると、大坂城を「秀頼」に与えて、自分は京都の「伏見城」や、近年発掘された「京都新城」で生活したのでした。
大坂城は、当時最新の技術を注ぎ込まれてつくられた「最新鋭の防衛拠点」です。
秀吉は自分が死んだあと、息子「秀頼」を守るために、大坂城をつくったのだといわれています。
しかし「大坂城」は、「徳川家康」の罠で、大坂城の防御力の源であった「堀」を埋め立てられ、無力化されてしまうのです。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」
【1615年】、大坂城は「大坂夏の陣」で落城。
豊臣秀頼は、母「茶々(淀殿)」とともに自害します。
こうして、豊臣家は滅び去ったのでした。
秀頼を守るためにつくった大坂城は、家康によって、もろくも崩れ去ったのでした。
「豊臣秀頼」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」、大坂へ拠点となる巨大な城をつくろうとしていた
2,「信長」最大の宿敵「本願寺顕如(ほんがんじ けんにょ)」の拠点「石山本願寺」の跡地に、「大坂城」が建てられた
3,「信長」にとって、大坂は西国攻略のための拠点として、とても有効な地だった
以上となります。
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