明智光秀の子供達を一覧解説!本能寺の変の後子供達はどうなった?

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「明智光秀」には、何人の子供がいたのでしょうか?

 

確定的な史料はなく、『明智軍記』では「34女」、別の史料では正室と側室の間に「67女」をもうけたとありますが、はっきりしていません。

 

この記事では、謎の多い「光秀の子供とその生涯」について、わかっていることに推測を交えて解説してきます。

 

これを読んで、「なるほど、光秀の子供」と、疑問をスッキリと解消して下さいね。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

1,明智光秀の子供は、諸説あるものの「3男4女」または「6男7女」いたとされる。嫡男は「明智光慶(あけち みつよし)」。有名な「細川ガラシャ」は光秀の三女

 

2,「本能寺の変」の直後、光秀の「長女」「次女」は坂本城落城と同時に亡くなった。三女「ガラシャ」と四女は生き延び、他の子供たちは亡くなったか逃げ延びたか、定かではない

 

3,長男「明智光慶」は、光秀の側室「ふさ」とともに逃亡し、現在の千葉県へたどり着いたという説がある。また別の説によると、出家して「妙心寺」の僧侶となり、光秀の肖像画を守り続けたとも言われている。


明智光秀の子供たちを一覧で紹介

明智光秀の子供の数は、はっきりしていないと申しました。

 

しかし、光秀に複数の子供がいたことだけは確かです。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

『明智軍記』という資料によれば、正室「煕子(ひろこ)」との間に「3男4女」、『鈴木叢書』という資料によれば、正室「煕子」や彼女の死後に結婚した側室との間に、「6男7女」があったと言われています。


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ただ残念なことに、「明智軍記」も「鈴木叢書」も、どちらも決定的な史料とは見なされていません。

 

しかし『明智軍記』は、光秀が亡くなってから100年以上も経過した江戸時代に書かれた軍記物であるものの、他の史料で知ることのできない情報が含まれており、見過ごすことができないものです。

 

そのため『明智軍記』は、「明智家の内情に詳しい者の子孫が編纂に加わった」という可能性を指摘されています。

 

『明智軍記』には、光秀と正室「煕子」の間に生まれた子供の情報が書かれており、側室の産んだ子供についての記述はありません。

 

あくまでも私見ですが、『明智軍記』の編纂には、煕子の実家「妻木家」の子孫(江戸時代も旗本として存続していた)が関わったのではないか、と考えています。

 

この記事では、『明智軍記』に記載された光秀の子供の情報を元に、光秀が煕子の前に愛した女性「千草の産んだ子供」と、「側室の産んだ子供」の情報を加える形でご紹介していきますね。


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先妻「千草」の子

*「山岸光信」の娘「千草」の産んだ子供

 

・長庶子(山岸光重)

生年不詳(1550年〜1555年頃?)

光秀は煕子と結婚する前、叔父の1人である「山岸光信」の娘「千草」と愛し合い、男子をもうけたと言われる。

千草とは結婚していないことから、身ごもった千草と光秀を結婚させようとしたものの、出産で千草が亡くなったため結婚が不可能になった可能性も考えられる。

生まれた子は山岸家が引き取り、元服後は「山岸光重」と名乗り、美濃国の郷士となったと考えられている。

一説には、光秀の家臣になり、「明智光重」と名乗ったとも言われている。


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正室「煕子」の子

*煕子の産んだ子供

 

・長女(倫、明智秀満の妻)

1556年】か【1557年】生まれ。

1556年】、明智城が落城した時、光秀は身重の煕子を背負って逃げ延びた。

おそらく、その時に胎内にいたのが、この長女だと思われる。

成長後、「荒木村次」に嫁ぐが、舅(しゅうと)の「荒木村重」が信長に謀反を起こしたため、「倫」は離縁され、実家に戻される。

その後、光秀のいとこ「明智秀満」と再婚。

《明智秀満》
「引用元ウィキペディアより」

 

・次女(名前不詳、明智光忠の妻)

1560年】頃の生まれ。

三女(珠・ガラシャ)が【1563年】生まれであることから、長女(倫)を【1557年】生まれと仮定

すると【1558年〜1562年】の間に誕生したと考えられる。

成長後、光秀のいとこ「光忠」に嫁いだ。

夫・光忠は、【1540年】生まれと言われており、次女とは20歳ほど年齢差があることになるため、姉「倫」と同様に、いったんは他家に嫁いだが、生別か死別で実家にもどり、「光忠」と再婚した可能性も考えられる。


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・三女(珠、「細川忠興」の妻、洗礼名「ガラシャ」)

1563年】、越前生まれ。

成長後、「織田信長」の命令で「細川藤孝」の嫡男「忠興」と結婚。

忠興との間に「3男2女」に恵まれる。

同い年の忠興とは美男美女の夫婦として知られる。

《細川忠興》
「引用元ウィキペディアより」

 

・四女(京子、津田信澄の妻)

1566年】頃の生まれ。

三女「珠」が【1563年】生まれであり、長男「光慶」が【1569年】頃の生まれと言われていることから、【1564〜1568年】の間に生まれたと考えられる。成長後、信長の甥「津田信澄(つだ のぶずみ)」に嫁ぎ、2人の男子に恵まれる。

(津田信澄は、織田信長に謀反を起こして討ち取られた弟「織田信勝(信行)」の息子)


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・長男(十五郎、明智光慶、玄琳、南国梵桂)

1569年】頃の生まれ。

1582年】に光秀が山城国愛宕山(京都市右京区)で催した愛宕百韻に「光慶」の名前があることから、実在が確実視されている。

 

・次男(十次郎、自然、光泰)

1572年】頃の生まれ。

茶匠「津田宗及(つだ そうぎゅう)」の茶会に光秀の子として「自然(じねん)」という名前があることから、実在が確実視されている。

 

・三男(乙寿丸)

1576年】頃の生まれ。

光秀の妻「煕子」は【1576年】、「天王寺砦の戦い」の直後に、過労で倒れた光秀を看病して回復させたのち、自身が病に倒れ、【同年11月】に坂本城で亡くなっている。

乙寿丸を懐妊していた最中、もしくは出産直後に光秀を看病し、その無理がたたって煕子は亡くなった可能性が考えられる。


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側室の子

*側室・原仙仁の娘の産んだ子供

・六女(名前不詳、川勝丹波守の妻)

生年不詳(1577〜1582年?)

原仙仁は公家だと言われているが、詳しいことがわかっていない。

光秀に嫁いだ「原仙仁の娘」は、女子を1人出産したと言われる。

 

*側室・北村保光の娘の産んだ子供

・末子(内治麻呂、喜多村保之)

1582年】生まれ。

煕子の死後、光秀が娶った側室「北村保光の娘」が産んだ男子で、光秀の末子。


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養女

*養女として迎えた子供

 

・五女(織田信長の娘・秀子、筒井定次の妻)

生年不詳(1562年〜1564年頃?)。

信長の三女。

【1578年】頃、「筒井定次」に嫁ぐ。

光秀の養女として「筒井定次」に嫁いだと考えられているが、光秀の実子を信長の養女として格式をあげた後、筒井家に嫁がせた可能性も指摘されている。

「本能寺の変」のその後!子供たちどうなったのかを解説

1582年】の「本能寺の変」は、光秀の子どもたちの運命を、悲劇的な方向に向かわせたました。

 

彼らがどのような運命を辿ったのか、簡単にご紹介します。


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先妻「千草」の子

・長庶子(山岸光重)

本能寺の変後の消息不明。

光秀の家臣「明智光重」と、この長庶子が同一人物ならば、山崎の合戦に、もしくは坂本城落城で亡くなった可能性が考えられる。

憶測だが、「光重」が「乙寿丸」を連れて逃げ延び、「荒深小五郎」と名乗って「乙寿丸」を養育したのかも知れない。


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正室「煕子」の子

*「煕子」の産んだ子供

・長女(倫、明智秀満の妻)

1582年」、坂本城落城時に夫「秀満」とともに死亡。

 

・次女(名前不詳、明智光忠の妻)

1582年】、坂本城が落城した時に夫「光忠」とともに死亡。

 

・三女(珠、細川忠興の妻、洗礼名「ガラシャ」)

1582年】、「本能寺の変」で、夫と舅は父「光秀」に味方せず、謀反人の娘となった「珠」は、夫によって味土野(みどの)という人里離れた地へ幽閉される。

1584年】、「豊臣秀吉」の取りなしで細川家屋敷に戻される。

1587年】、イエズス会士の計らいで侍女「清原マリア」によって受洗、ガラシャという洗礼名を授かる。

1600年】、「関ヶ原の戦い」の直前、「徳川家康」に味方した夫「忠興」が出陣したのち、「石田三成」に人質にされることを拒絶。

家臣に介錯させ、壮絶な最期を遂げた。

光秀→ガラシャの血脈は、現在の皇室に伝わっている。


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・四女(京子、津田信澄の妻)

1582年】、「本能寺の変」の後、夫「津田信澄」は舅「光秀」と謀反を共謀したと噂が流れ、その噂を信じた信長の三男「神戸(織田)信孝」と「丹羽長秀」によって攻め滅ぼされた。

その後の「京子」の消息は不明だが、処刑あるいは自害したという記録はなく、息子たちも殺されていないので、京子は出家して尼になるなどして生き長らえたと推測される。

「信澄」と「京子」の長男「昌澄」は、「藤堂高虎」の推薦により「秀吉」に仕え、その子孫は徳川幕府の旗本として、幕末・明治維新まで続いた。

《藤堂高虎》
「引用元ウィキペディアより」

 

・長男(十五郎、光慶、玄琳、南国梵桂)

1582年】、「本能寺の変」の後の消息は、亀山城で病死したとする説、坂本城で他の一族と自害したとする説、上総国に落ちのびたという説など、諸説入り乱れている。

諸説の中に、妙心寺で出家して「玄琳(げんりん)」と名乗り、後に摂津国で本徳寺を開いたとする説があり、「光秀生存説」とも絡む興味深いものとなっている。

 

・次男(十次郎、自然、光泰)

1582年】、「本能寺の変」の後、坂本城で他の一族とともに死亡。

 

・三男(乙寿丸)

1582年】、坂本城が落城した時に死亡したと言われているが、美濃国に落ち延びたという伝承がある。

現在の岐阜県山県市へ、父「光秀」とともに落ち延び、そこで「荒深小五郎」と名を変えた父「光秀」とともに暮らした、と言われ、現在も山県市内には「荒深」姓が残っている。


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側室の子

*側室・原仙仁の娘の産んだ子供

 

・六女(名前不詳、川勝丹波守の妻)

『鈴木叢書』によれば、成長後に「川勝丹波守」と結婚。

1582年】、坂本城が落城した時には、運良く逃げ延びたのか、もしくは母の実家である原仙仁の邸宅にいて難を逃れたのかも知れない。

 

*側室・北村保光の娘の産んだ子供

・末子(内治麻呂、喜多村保之)

1582年】、坂本城が落城した時、まだ赤ん坊だった「内治麻呂」を抱え、「北村保光の娘」は実家に逃げ延び、そこで子供を養育した。

保之は成長後、江戸町年寄となる。

晩年は、妙心寺から明智家系図を受け取り、実父が「明智光秀」だと確信した。

1638年】に死亡。


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養子

*養女として迎えた子供

 

・五女(織田信長の娘・秀子、筒井定次の妻)

1601年】、嫡男「筒井順定」を出産。

夫「定次」が伊賀上野藩主となるが、【1608年】に改易された。

1615年】、「大坂夏の陣」で夫「定次」と嫡男「順定」は、豊臣家への内通を江戸幕府から疑われて自害。

恐らくその後、出家して尼となったであろう「秀子」は、【1632年】に亡くなった。


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【逸話】息子「明智光慶」は、出家して「あの肖像画」を今に伝えた!

「本能寺の変」後の光秀の長男「十五郎光慶」の消息は、諸説紛々だと書きました。

 

父「光秀」の謀反を知ってショックを受け、丹波亀山城で病死した、あるいは坂本城で、他の明智一族と運命を共にした。

 

中には、「光秀の側室・フサと上総国(千葉県)へ逃げのびた」というものもあります。

《坂本城の石垣:あけびさんによる写真ACからの写真》

千葉県市原市に、明智光秀側室のものと伝わる墓があり、墓石には「フサ」「重五郎」「重五郎の妻」の、名前と戒名が刻み込まれているのです。

 

この墓は、墓石に名前が刻まれた重五郎の子孫(光秀の子孫)の方たちが、現在も大切に守り続けています。

 

嫡男が上総国に落ちのびたと考える人たちは、『重五郎=十五郎』、つまり光秀の嫡男「明智光慶」だと考えているわけですね。

 

さて、『明智軍記』と「愛宕百韻」に、光秀の長男として名前が出てくる「十五郎光慶」ですが、『鈴木叢書』にはその名前がありません。

 

『鈴木叢書』では、長男として「玄琳(げんりん)」というお坊さんの名前と、その玄琳が「妙心寺に入った」ということが書かれています。

 

このことから長男は、もともと「光慶」という名前だったが、妙心寺で出家して「玄琳」と名乗るようになった、と考えられるようになりました。

 

妙心寺の僧侶「玄琳」は、塔頭・瑞祥院に居住し、同じく妙心寺の塔頭・大心院主の「三英瑞省」に弟子入りして、仏門にはげみます。

《京都・妙心寺》
「引用元ウィキペディアより」

三英瑞省の檀那は、光慶の姉・珠(細川ガラシャ)の夫である「細川忠興」であり、居住した「瑞祥院」は、江戸初期には光慶の母「煕子」の実家である妻木家が檀那となっていました。

 

このように妙心寺の僧侶「玄琳」は、光秀にまつわる者達に、とても関わりが深いのです。


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正室の産んだ長男、つまり嫡男でありながら、「光慶」には「初陣を飾った」という記録がありません。

 

あくまでも私見ですが、光秀は光慶を武将に向かないと判断し、【1582年】の「本能寺の変」が起こる前に、光慶を妙心寺で出家させたのではないかと思います。(もしかすると光慶は、病弱だった、または「武田信玄」の次男「海野信親」のように、盲目だったため出家したのかもしれない)

 

こうして光慶は僧侶「玄琳」となったのでしょう。

 

さて、妙心寺で修行した玄琳(光慶)は、和泉国貝塚(大阪府貝塚市)に向かい、そこで「大日庵」を開きます。

 

「大日庵」は、後に発展して「海雲寺」となりましたが、戦火で焼失したため、岸和田に移転して、寺の名を「本徳寺」と改めました。

 

「本徳寺」で玄琳(光慶)は、父「光秀」の肖像画を描かせ、位牌を作っています。

 

この光秀の肖像画はとても有名なものですから、画像をご覧になった方は多いでしょう。

 

「明智光秀の肖像画」として現存する唯一のものです。

本徳寺所蔵の明智光秀肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン

素直に考えれば、玄琳(光慶)が、父の供養を行うために作ったと考えられますよね。

 

ところがその肖像画には

「放下般舟三昧去(仏門に入って去っていった)」

という不思議な言葉がかかれているのです。

 

また光秀の位牌の裏には

「当寺開基慶長四己亥」

と書かれています。

 

「当寺開基」はこの寺を開いたという意味ですし、【慶長4年】は【1599年】で関ヶ原の戦いの前年です。

 

「光秀の位牌」の裏の文言によると「光秀が【1599年】にこの寺を開いた」という意味になり、【1582年】、「山崎の合戦」後に小栗栖で落武者刈りにあって「光秀」が亡くなったことと矛盾していますよね。

 

光慶が玄琳であることと、光秀が山崎の合戦後も生き延びたという伝承が、ここで繋がるのです。


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光秀は「山崎の合戦」後に宇治でかくまわれ、妙心寺に玄琳(光慶)を訪ねて行ったものの、玄琳(光慶)はすでに「妙心寺」を去って、「和泉国貝塚の大日庵へと移った」と知らされました。

『天王山より山崎合戦地を望む:松波庄九郎さんによる写真ACからの写真』

玄琳(光慶)の後を追って大日庵に向かい、そこで光秀は息子の手によって得度(とくど)され、出家して潜伏生活を送ったと考えても、無理はないのではないでしょうか。

 

大阪府貝塚市の大日庵があった付近には

「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」

という俗謡が残っています。

 

「十兵衛」とは「光秀」のことですから、「妻の髪を売った光秀が隠れ住んでいる」とこの俗謡は歌っているのですね。

 

ところで、【1599年】は光秀と同一人物説のある「南光坊天海」僧正が、武蔵国川越(埼玉県川越市)にある「喜多院無量寿寺」の住職となった年でもあります。

《川越市・喜多院無量寿寺》
「引用元ウィキペディアより」

関東に移住する父と、生きて対面することはもうないだろうと考えた玄琳(光慶)が

「放下般舟三昧去(仏門に入って去っていった)」

と肖像画に書き加えたのかもしれませんね。

 

その後、玄琳(光慶)は妙心寺の住職となり、『明智系図』を作成したと言われています。

 

1635年】、玄琳(光慶)は光秀の側室が産んだ末子「喜多村保之」にたいして、『明智系図』を送りました。

 

2人が生きて対面することはなかったでしょうが、腹違いの長兄と末弟の胸には、どんな思いが去来したのでしょうか。


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『明智光秀の子供達』について「ひとこと」言いたい!

「明智光秀」に複数の子供がいたのは確実ですが、正確な人数については、この記事で述べてきたように不明です。

 

人気DJの「クリス・ペプラー」さんは、お父さんがアメリカ人、お母さんが日本人のハーフです。

 

クリス・ペプラーさんのお母さんは、美濃国土岐氏の末裔ですが、代々「光秀の子孫」と伝えられてきたのだとか。

《桔梗紋》
「引用元ウィキペディアより」

明智氏は元々土岐氏の支流ですが、なぜ土岐氏の末裔が「光秀の子孫」と言い伝えたのでしょう?

 

ある番組の企画で、クリス・ペプラーさんの先祖を辿ったところ、「土岐頼次」の長男「土岐頼勝」が、クリス・ペプラーさんのご先祖様であることが判明しました。

 

この土岐頼勝という人物が、実は「坂本城」が落城したときに逃れた光秀の息子であり、「土岐頼次」の養子となって「頼勝」と名乗ったのではないか、と作家「明智憲三郎」氏は推測しています。

 

その「明智憲三郎」氏はというと、光秀の子「於隺丸(おづるまる)」の子孫で、江戸時代は「明田」姓を名乗り、明治時代になって明智に戻したとおっしゃっていますが、『明智軍記』『鈴木叢書』には、「於隺丸」の名前は見当たりません。

 

つまり、現在伝わっている記録に残っていない(見つかっていない)側室や子供がいた可能性があるということです。

 

上総国に「十五郎」が逃げたという伝承も、もしかしたら記録に残っていない男子が逃げ延び、フサは側室ではなくその男子の乳母だったのかもしれませんね。

 

坂本城が落城した時に、「明智秀満」は光秀の妻子と自分の妻子を殺害して自害した、と言われていますが、「喜多村保之」のように、城から逃げ延びた子は、他にもいたかもしれません。

 

もしかしたら、これを読んでいるあなたも、「明智光秀の末裔の1人」かも知れませんよ。

 

一度、お寺の過去帳などで、自分のご先祖さまを調べてみてはいかがでしょう?


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,光秀の子供は、諸説あるものの「3男4女」または「6男7女」いたとされる。嫡男は「明智光慶」。三女は有名な「細川ガラシャ」

 

2,「本能寺の変」の直後、光秀の「長女」「次女」らは坂本城落城と同時に亡くなった。三女「ガラシャ」と四女は生き延び、他の子供たちは亡くなったか逃げ延びたか、諸説ある

 

3,長男「明智光慶」は、光秀の側室「ふさ」とともに逃亡し、現在の千葉県へたどり着いたという説がある。または、出家して「妙心寺」の僧侶となって、父「光秀」の肖像画を守り続けたとも言われている

明智光秀には複数の子供がいました。

 

残念なことに、その性別と人数の正確な数字は確定されていません。

 

光秀の子供の多くは、【1582年】の「本能寺の変」の後、坂本城が落城した時に亡くなった、と考えられています。

《本能寺の変》
「引用元ウィキペディアより」

「本能寺の変」の後も生きていたのが確実なのは、三女「細川ガラシャ」、そして推測ですが四女の「津田信澄の妻・京子」の2人くらいのものでしょう。

 

伝承を含めれば、妙心寺の僧侶「玄琳」となった長男「光慶」、美濃国に落ち延びた「乙寿丸」、側室の産んだ末子「内治麻呂(喜多村保之)」、「川勝丹波守」の妻となった「六女」、養女として嫁がせた信長の三女「秀子」が、「本能寺の変」の後も生き延びています。

 

現代に記録が伝わっていない(見つかっていない)側室や、その子どもたちがいた可能性を否定はできませんから、「クリス・ペプラー」さんや「明智憲三郎」さんのように、あなたも光秀の末裔かもしれませんよ。

 

一度、お寺の過去帳などでご先祖様を調べてみると良いかも知れませんね。

《妙心寺の塔頭・退蔵院の石庭と枝垂れ桜:Hiro1960さんによる写真ACからの写真》

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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コメント

    • tsujinaka teruo
    • 2020年 2月 17日

    DNAで検査すれば語り事なのか生物学的に真実生が裏付けを伴っているのかもう少し判別が議論の対象に価値するものか理解出来ると考えますが

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