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織田信長の政策まとめ一覧!「政策のねらいと結果」をカンタン解説!

この記事では「織田信長がおこなっていた政策」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「信長の政策と、その狙い」を、カンタンに理解できます。

 

「織田信長の政策」は「商業を重視した政策」なのです。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

1,「織田信長」がおこなっていた「政策」とは?
織田信長は「楽市楽座」、「関所撤廃」、「撰銭令」、「道路整備」、「拠点移動」など

 

2,信長の政策は、どのような「結果」をもたらしたのか?
信長の政策は、「商業の発展」という結果をもたらし、信長は莫大な資金を手に入れた。その資金で、信長は強力な軍団を誕生させることに成功し、領土を拡大していった

 

3,信長は「天才」だったのか?
信長は確かに天才かもしれないが、「革新的」なわけではなく、父「織田信秀」や「六角氏」の政策をマネしていた点もある

織田信長の「政策まとめ一覧」

「織田信長」が実行した政策といえば

  • 「楽市楽座」
  • 「関所撤廃」
  • 「撰銭令」
  • 「道路整備」
  • 「頻繁な拠点の移動」

などでしょう。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

織田信長は、戦国時代の武将たちが「農業」を重視していた時代としては珍しく、【商業】を重視していました。



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ですから、「農業を発展させるための政策」ではなく、「商業を発展させるための政策」が目立ちます。

 

信長は、「商業」、つまり「物流」を支配して、そこから得られる「莫大な資金」を利用し、天下統一へと駆け上がったのです。

 

「楽市楽座」、「関所撤廃」、「撰銭令(えりぜにれい)」、「道路整備」

 

どれもこれも、「商業を発展させるための政策」だったのです。



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信長がおこなった政策の「ねらい」と「結果」

信長は、「楽市楽座」などの政策で、「商業・商売がさらに発展すること」を狙っていました。

 

「楽市楽座」とは、「」と呼ばれる「独占的に商売を行う組合」を廃止して、「場」で誰もが商売をできるようにした政策です。

「楽市楽座」という政策のおかげで、誰もが自由に商売をできるようになり、誰もが利益をあげ、その利益でさらに買い物をし、市場はさらに活気づきました。

 

「関所撤廃」によって、物流がさらに盛(さか)んになりました。

「関所」では「通行税」が取られていたため、その「通行税」が上乗せされて物の値段が上昇。

しかし「関所」が無くなったことで、物の値段が下がり、買い物客は一気に増加。庶民は買い物が楽にできるようになったのです。(「関所撤廃」には、現代の「消費税」を減税したような効果があった)

さらに「関所」が無くなったことで、物流の速度が上がり、「ほしい物が迅速に手に入る」ようになったのです。



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「道路整備」によって、「道幅」は広くなり、道に落ちていた石や木片などはキレイに掃除されて、馬車が行き来しやすくなり、物流の速度は格段に上昇。

これにより、物の売買はさらに迅速となり、人々が「物を売って利益をあげる」ことも「物を買って豊かになる」ことも、さらに迅速となりました。

 

「撰銭令(えりぜにれい)」は失敗でした。

当時は、「貨幣」が統一されていなかったので、「撰銭令」といって、「価値のある貨幣」のみ選(え)りすぐって使うようにしようとしたかったのですが、これは返って市場の混乱を招き、「米を使った物々交換」を助長する事となったのです。

 

「拠点移動」も、各地の商売を盛んにしました。

「織田信長」は、「那古野城」、「清州城」、「小牧山城」、「岐阜城」、「安土城」と、生涯に何度も拠点を移動しています。

「武田信玄」も「上杉謙信」も、拠点を生涯にわたって移動していません。

信長は、敵勢力から奪い取った領地の中に拠点を移動して、自ら支配しました。

そうすることで、敵から奪い取った領地での「反乱」が、起こらないように細かく迅速な支配ができるようになりました。

こうして信長が住み着いた場所は、「反乱」や「戦争」が起こらず、平和で安心な地域となり、人が集まり商売が盛んとなったのです。

ほぼ同時代を生きたイタリアの「ピッコロ・マキャベリ」は、その著書「君主論」で、「敵の領地を奪い取ったら、そこへ移り住んで支配せよ」と言っています。

 

秦の始皇帝」も愛読した「韓非子」と並んで、現代でも愛読されている「帝王学」のバイブル「君主論」の思想を、信長は見事に実践していたのです。

 

「韓非子」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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信長は「天才」でもなんでもなかった!実は「人のマネ」ばかりしていた!

実は「織田信長」の政策は、そのほとんどが「人のマネ」です。

 

「革新的」だの「革命児」だのと言われていた「織田信長」ですが、本当はそれほど「革新的」な人ではなかったのかもしれません。

 

「楽市楽座」という政策は、信長のライバルだった南近江国の支配者「六角氏」が最初に行った政策です。

 

「拠点移動」の政策も、もともとは「信長」の父「織田信秀」が行っていた政策です。

 

「信秀」は、「那古野城」、「古渡城」、「末盛城」と、生涯に何度も拠点を移動しているのです。



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「関所撤廃」は、信長が最初に行なった政策でした。

 

しかし、この「関所撤廃」も、父「信秀」のアイディアが根本にあります。

 

そもそも「商業を重視する政策」が、「信長」独自のアイディアではなく、父「信秀」が行っていた政策なのです。

 

信長は、父「信秀」の政策をマネしたに過ぎません。

 

その「マネ」の果てに、物流を発展させるための「関所撤廃」を思いついたのです。

 

革命児「織田信長」ですが、実はそれほど「革命的」ではなかった、ということです。

 

「織田信秀」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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信長が「天下統一」目前まで勢力拡大できた「真の理由」とは?

織田信長が「天下統一」の目前まで勢力拡大できた真の理由は、「商業を重視したことにより、いくら負けても即座に復活できるようになった」ことにあります。

 

信長の商業政策によって、物はいくらでも売れるようになりました。

 

信長は、領地からもたらされる豊富な産物を、即座に現金に替えることができたのです。

 

その莫大な現金で、信長は「無数の傭兵(足軽)」を無尽蔵に雇いいれて、と「最新式の兵器(鉄砲など)」を次々と購入していきます。

 

しかも【傭兵】は、「半農半兵」とは違って、「農繁期」に戦線離脱する恐れがないため、長期遠征が可能でした。(半農半兵は、田植え時期になると田仕事のために戦線離脱していた)



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信長は、「長期間戦える傭兵」の特徴を活かして、遠く離れた敵の城を、大軍団と砦で、けっして無理に攻撃することなく緩(ゆる)く包囲。

 

その大軍団の食料は、「整備された道路」と「豊富となった市場」で調達し、次々と補給。

 

敵は信長の圧倒的な物量と物流力に音を上げて降伏。

 

降伏したら、その土地の「道路も整備」して「商業」も発展させて、また次の土地を侵略。

 

つまり信長は、「勝てば勝つほどに金持ちとなり、さらなる大軍団を遠くへと送り込めた」のです。

 

そして何よりも、信長のやり方なら、「負けても負けても、即座に復活する」ことができます。

 

どういうことかというと、傭兵は「金」さえあればいくらでも雇えますし、「鉄砲」などの物資も、金があればいくらでも補給できます。



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信長の「商業重視政策」は、金が市場をめぐることで、いくらでもお金が入ってくる仕組みになっているので、「金を使ったらまたすぐ金が入ってくる」のです。

 

そのため、いくら負けても、即座に「金」で新しい軍団を用意できるということ。

 

信長は、決して強くありません。

 

「武田信玄」や「上杉謙信」に比べたら、その生涯戦績も悪いし、そもそも敗北した回数が多すぎます。

 

しかし、それでも「信玄」や「謙信」が成し遂げられなかった「天下統一」へ、信長がもっとも近づけた理由は、「いくら負けても即座に復活できた」から。

 

信長は、父「信秀」から学んだ「商業重視政策」を、さらに発展させることで、天下統一目前まで、勢力拡大できたのです。

 

「織田信長の生涯戦績」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

 

ちなみに、人気漫画「センゴク」でも、信長が「銭のチカラ」つまり「金の特徴」を最大限に利用して、天下を狙ったという逸話が描かれています。

以下の「センゴク天正記」では、「武田勝頼」と「真田昌幸」が、その「金の特徴」を活かして、滅亡寸前の武田家を再興する様子が描かれていました。

 

筆者個人の感想ですが、「センゴク」は、これまでとは異なる視点で歴史を描いていて、とても面白い作品でした。

新しい視点から、歴史を学び直すことができる、とても良いマンガ」だと思います。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「織田信長」がおこなっていた「政策」は、「楽市楽座」、「関所撤廃」、「撰銭令」、「道路整備」、「拠点移動」など

 

2,信長の政策は、「商業の発展」という結果をもたらし、信長は莫大な資金を手に入れた。その資金で、信長は強力な軍団を誕生させることに成功した

 

3,信長は確かに天才かもしれないが、「革新的」なわけではなく、父「織田信秀」や「六角氏」の政策をマネしていた点もある

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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