この記事では「織田信長の生涯において最大のライバルとは誰か」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「信長のライバル」を、カンタンに理解できます。
「織田信長の最大のライバル」は「本願寺顕如」です。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」の生涯で最大の「ライバル」とは?
「一向宗」をひきいた「本願寺顕如」こそが、信長の生涯で最大のライバルではないだろうか
2,「本願寺顕如」と「織田信長」は、どのような関係だったのか?
「織田信長」は、「本願寺顕如」がひきいた「一向宗」と、「石山戦争」と呼ばれる戦いで、「10年」の長きに渡って争った。
3,「武田信玄」や「上杉謙信」、「今川義元」は、ライバルと呼べるか?
「織田信長」は、「信玄」「謙信」「義元」を極端に恐れていた節がある。対等なライバルとはとても言えない
「織田信長」生涯最大の「ライバル」は誰?
戦国の覇者「織田信長」の最大のライバルは「武田信玄」でも「上杉謙信」でもなく、宗教勢力「一向宗」と、そのトップ「本願寺顕如(ほんがんじ けんにょ)」でしょう。
信長は【1570~1580年】の間、「10年」という長きにわたり、「本願寺顕如」がひきいた「一向宗」という宗教勢力と戦っていたのです。
信長は、生涯に数々の敵と戦いを繰り広げてきました。
- 弟「織田信勝」
- 「今川義元」
- 「斎藤義龍・龍興」
- 「浅井長政」
- 「朝倉義景」
- 「三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)」
- 「足利義昭」
- 「武田信玄」
- 「上杉謙信」
- 「毛利輝元」
信長は、これらの強敵と戦いぬいてきましたが、最も長く戦ったのは、「本願寺顕如」と「一向宗」だったのです。
ライバル「一向宗・本願寺顕如」との「10年」におよぶ「石山戦争」とは?
【1570年】、信長は「本願寺顕如」と「一向宗」に対して、その拠点である「石山本願寺」からの退去を命令しました。
信長は「石山本願寺」という、地の利の良い場所を、西国平定の拠点にしようとしたのです。(地の利が良い「石山本願寺」の跡地には、豊臣秀吉が「大坂城」をつくっている)
この勝手な退去命令に激怒した「本願寺顕如」は、「一向宗(浄土真宗の一派)」をひきいて「織田信長」を「仏敵」、つまり「仏の敵である悪魔」と呼んで開戦したのです。
【1570年】、「石山戦争」と呼ばれる「本願寺顕如」と「織田信長」の戦争が勃発します。
【1580年】、10年続いた「石山戦争」は、「本願寺顕如」が「石山本願寺」から退去することを条件に、「織田信長」と「講和」して終結します。
しかし「石山本願寺」からの退去は、織田信長の要求がすべて通った形になっています。
そのことからもわかるように、「講和」といいながらも、事実上の「本願寺顕如・全面降伏」です。
「信長」は、「10年」もの時間をかけて、宿敵「本願寺顕如」を倒しているのです。
信長はこの戦いを担当していた「佐久間信盛」を戦後に「追放処分」としています。
追放の理由は、「佐久間が本願寺攻略に、あまりにも時間をかけすぎた」から。
織田家最古参の武将「佐久間信盛」を追放処分とするほどに、「本願寺顕如」は信長を苦しめたのでしょう。
「佐久間信盛が追放された理由」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「織田信勝」・「斎藤義龍」・「今川義元」はライバルと呼べるのか?
信長を苦しめた「ライバル」といえば「本願寺顕如」だけではありません。
「信長のライバル候補」には、数々の武将たちの名前があがると思います。
- 弟「織田信勝」
- 「斎藤義龍」
- 「今川義元」
しかし、彼らを「織田信長のライバル」と呼ぶのは、若干の違和感があります。
その理由は、以下のとおりです。
信長の弟「信勝」はあっけなく信長に敗北しています。なによりもその後あっけなく暗殺されています。
信長の義父「斎藤道三」の息子「斎藤義龍」は、若くして病死しているため、それほど信長と積極的に戦っていません。
「海道一の弓取り」と呼ばれた名将「今川義元」は、長く織田を苦しめた宿敵と言って良いでしょう。
しかし「今川義元」からすれば、信長は「ライバル」などではなく、ただの「隣国の活きの良い若造」でしかありません。
「今川義元」と「織田信長」がライバル関係とは、当時「織田信長」自身も思っていなかったでしょう。それだけの差があったのです。
信長は「今川義元」を、ライバル視するのではなく、一種の「憧れ」、「畏敬の念」のようなものを抱いていたのだと思います。
その証拠に信長は「桶狭間の戦い」で「今川義元」から奪った名刀「宗三左文字」を「義元左文字」と呼んで生涯大切にしました。
信長は「本能寺の変」で亡くなるまで、「義元左文字」を手元において愛用していたのです。
「義元左文字」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「武田信玄・勝頼」と「上杉謙信」を、「織田信長」は恐れていた
「武田信玄」とその息子「勝頼」、そして「上杉謙信」は、「織田信長」のライバルと呼べるのでしょうか?
織田信長はこの三名を、極端に恐れていました。
信長は「武田信玄」との直接対決を露骨に避けていましたし、「上杉謙信」との「手取川の戦い」に、信長は参戦していません。
「信長」は、この2人を怖がっていたことが、「直接対決がない」という事実からも、よくわかります。
【1575年】の「長篠の戦い」で、信長はやっと「武田勝頼」と直接対決しました。
しかし信長は、「陣城」と呼ばれる即席の防御陣地、つまり「砦」をつくって全く出てきませんでした。
【1582年】の「甲州征伐」においても、「信長」は「武田勝頼」を最期まで恐れていました。
「武田勝頼」を滅ぼしたのは、信長の息子「織田信忠」です。
なんと信長は、「武田家」がほとんど滅びてから、やっと出陣しているのです。
信長は「勝頼」を、「比類なき大将」と呼んで恐れていました。
- 「武田信玄」
- 「武田勝頼」
- 「上杉謙信」
彼らを「織田信長のライバル」と呼ぶには、信長は彼らを恐れすぎていたと思います。
信長は「信玄」や「謙信」のことを「ライバル」などとは、決して言えなかったのではないでしょうか。
「武田信玄」と「上杉謙信」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」の生涯で最大の「ライバル」は、「一向宗」をひきいた「本願寺顕如」ではないだろうか
2,「織田信長」は、「本願寺顕如」がひきいた「一向宗」と、「石山戦争」と呼ばれる戦いで、「10年」の長きに渡って争った。
3,「織田信長」は、「武田信玄」や「上杉謙信」または「今川義元」を極端に恐れていた節がある。対等なライバルとはとても言えない
以上となります。
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