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織田信長のライバルは誰?本願寺顕如・武田信玄・上杉謙信との戦いと仏教勢力との激闘を解説

※当サイトはアフィリエイトプログラムに参加しています。この記事は2026年4月時点の史料・学術情報をもとに作成しています。

この記事の著者

レキシル史郎|歴史専門の調査・編集ライター/大河ドラマ研究家/経営者視点の歴史分析

歴史学者ではありませんが、一次史料・学術書を徹底調査し、複数の説を公平に整理する編集者です。大河ドラマほぼ全作品の視聴経験をもとに、史実と演出の違いを比較しています。経営経験から戦国武将の決断を現代ビジネスに接続する解説が得意です。大阪城・名古屋城・岐阜城・犬山城・関ヶ原・比叡山延暦寺などに複数回訪問、京都市内各所にも何度も足を運んでいます。

目次

織田信長の最大のライバルは誰?結論を一言で解説

10年にわたって戦闘を続けた一向宗の指導者・本願寺顕如を、「最大のライバル」と見なす見方もあるが、武田信玄・勝頼、上杉謙信などを最大のライバルとする見方も根強いとされます。1570年から1580年まで続いた「石山合戦(石山戦争)」は、信長の生涯で長期戦の一つとして挙げられますが、どの戦争が最も長かったかは史料によって解釈が分かれます(出典:サライ「10年もの長きにわたって戦い続けた宗教勢力」)。ただし「ライバル」の定義によっては、武田信玄・武田勝頼や上杉謙信を挙げる見方もあり、諸説あります。

織田信長(三宝寺蔵)
引用元「Wikipediaコモンズ」より
この記事を3行でまとめると

織田信長の最大のライバルは、10年にわたる石山合戦を戦った本願寺顕如が有力候補。仏敵と呼ばれた信長との宗教戦争は2万人以上の犠牲を生みました。

② 武田信玄・武田勝頼との戦いも10年に及び、長篠の戦いを経て1582年に武田家は滅亡。武田勝頼を最大のライバルとする見方もあります。

③ 信長は比叡山焼き討ち・高野山攻めなど仏教勢力と全面対決しましたが、すべての宗教を否定したわけではないとされる近年の研究もあります。


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本願寺顕如と石山合戦|10年に及ぶ織田信長最大の戦争

石山合戦のはじまり|1570年の退去命令

織田信長は1570年、本願寺顕如に対し本拠地・石山本願寺からの退去を命じました。大阪湾に面し、淀川・大和川の水運を握る石山本願寺の立地は、信長が西国平定の拠点として狙う一等地でした(のちに豊臣秀吉が同地に大坂城を築いています)。

現在の大阪城内にある石山本願寺跡地

退去命令に激怒した本願寺顕如は、信長を「仏敵」と呼び、全国の一向宗門徒に決起を呼びかけます。これが「石山合戦(石山戦争)」の幕開けです。資金力は寄進で潤沢、傭兵や武器も全国から調達できる本願寺は、立地の良さもあって長期籠城に耐える条件が整っていました(出典:東本願寺の法統「顕如上人と石山合戦」)。


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10年戦争の主要な出来事と年表

出来事
1570年信長が石山本願寺に退去命令。顕如が決起。野田・福島の戦い
1571年長島一向一揆との戦闘激化。比叡山焼き討ち
1574年長島一向一揆を制圧(信長の弟・信興、兄・信広が戦死)
1575年越前一向一揆を平定
1576年毛利水軍が本願寺へ兵糧搬入(第一次木津川口の戦い)
1578年九鬼嘉隆の鉄甲船が毛利水軍を撃破(第二次木津川口の戦い)
1580年正親町天皇の勅命による講和成立。顕如は石山本願寺を退去

講和は名目で、内実は信長の要求がすべて通った事実上の本願寺降伏でした。一向宗は「進者往生極楽、退者無間地獄(進めば極楽、退けば地獄)」を旗印に、命を惜しまず戦ったため、信長軍は終始苦戦を強いられたのです。


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信長は佐久間信盛を追放した

石山合戦終結後、信長は本願寺攻略を担当した織田家最古参の重臣・佐久間信盛を追放処分にしました。理由は「あまりにも時間をかけすぎた」というもの。19か条にも及ぶ折檻状を突きつけられ、信盛は高野山へ追放されています。古参中の古参を放逐するほど、本願寺顕如は信長を苦しめた相手だった、ということです。

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佐久間信盛が追放された詳しい経緯と、信長の冷徹な人事の背景を知りたい方は、こちらの記事もお役立てください。

👉 「織田信長が佐久間信盛を追放した理由とは?原因はサボりだった?」を読む

ここでは本願寺顕如との10年戦争を整理しました。次は、信長が戦った仏教勢力全般――比叡山・高野山・本願寺との関係を見ていきます。


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織田信長と仏教勢力の戦い|比叡山焼き討ち・高野山・石山本願寺

比叡山焼き討ち|1571年、信長が延暦寺を焼いた理由

織田信長は元亀2年9月12日(西暦では1571年9月30日頃)に、比叡山延暦寺を焼き討ちにしたとされています。直接の理由は、延暦寺が信長の敵である浅井長政・朝倉義景をかくまったことに対する報復です。信長は事前に「中立を守るか、味方になるか、敵となって滅びるか」の三択を通告したものの、延暦寺はこれを無視したと『信長公記』は伝えます(出典:Wikipedia「比叡山焼き討ち」)。

比叡山延暦寺・根本中堂(筆者撮影・根本中堂が修復中のため、ドームで覆われていた)

筆者は比叡山延暦寺に複数回訪問していますが、根本中堂周辺に立つと、王城鎮護の霊場としての厳粛さと、焼き討ちで失われたものの大きさが今も伝わってきます。当時の人々にとってこの行為は前代未聞であり、激しい非難を招いたと記録されています(出典:サライ「なぜ信長は延暦寺焼打をしたのか?」)。

高野山攻め|1581年の高野聖追放

1581年、信長は高野山攻めに着手します。きっかけは、信長配下の使者を高野山が殺害したこと、そして反信長派の武士をかくまったこととされます。高野聖と呼ばれる高野山の僧侶の追放や、一定数の僧侶の処刑が伝わりますが、具体的な人数や対象については史料に一貫した記録はなく、「数百人」などは概数としての伝聞にとどまります。

ただし高野山攻めは本格的な軍事衝突に至る前に、翌1582年の本能寺の変で信長が亡くなったため中断しました。信長が長く生きていたら、高野山もまた焼き討ちの運命をたどった可能性があった、と筆者は考えています。

信長が弾圧した宗教と、保護した宗教

宗教・宗派信長の対応
一向宗(浄土真宗本願寺派)10年戦争。長島・越前で一揆衆を殲滅
天台宗(比叡山延暦寺)1571年焼き討ち
真言宗(高野山金剛峯寺)1581年高野聖追放・処刑
法華宗(日蓮宗)安土宗論(1579年)で他派と論争させる
キリスト教南蛮寺建立を認め、宣教師を保護
【筆者考察】信長は無神論者ではなく「政治の敵」を排除しただけ

筆者は、信長が「すべての仏教を否定した無神論者」というイメージは誤解だと考えています。信長が攻撃した仏教勢力は、いずれも武装し、政治的に敵対した集団です。逆にキリスト教や、政治的に従順な禅宗寺院は保護しました。経営者の視点で見ると、信長は「宗教そのもの」ではなく「自分の支配に逆らう武装組織」を排除したと言えるでしょう。近年の研究でも、神田千里氏ら歴史学者は信長の宗教観を「現実主義的な統治者の視点」として再評価しています(出典:Yahoo!ニュース/渡邊大門氏記事)。


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ここでは仏教勢力との戦いを整理しました。次は、もう一人のライバル候補――武田信玄・勝頼親子との激闘を見ていきます。

織田信長と武田信玄・勝頼|長篠の戦いと「首を蹴った」逸話

Q:長篠の戦いどっちが織田信長?

1575年の長篠の戦いは、織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼軍を破った戦いです。信長は陣城(即席の防御陣地)と鉄砲を活用した戦術で、武田軍に大打撃を与えました。ただし「鉄砲三段撃ち」は近年の研究で疑問視されており、戦術の実態は議論が続いています(出典:プレジデントオンライン「最新の研究でわかった長篠の戦いの本当の姿」)。

武田信玄・勝頼との10年戦争

武田信玄が西上作戦を開始したのは1572年。三方ヶ原の戦いで徳川家康を惨敗させ、信長を恐怖に陥れました。信玄は翌1573年に死去し、その戦略と反信長同盟の継続は息子・武田勝頼に引き継がれ、甲斐・信濃・駿河の武田家勢力は1582年の甲州征伐で覆されるまで約10年間拮抗したとされます。本願寺との戦いと並ぶ、信長にとって長期戦の宿敵でした。

武田信玄
「武田信玄
「Wikipediaコモンズ」より引用」より引用
武田家との戦い
1572年武田信玄、西上作戦開始。三方ヶ原で徳川家康を撃破
1573年武田信玄、進軍中に死去
1575年長篠の戦い。織田・徳川連合が武田勝頼を撃破
1582年甲州征伐。武田勝頼が天目山で自害、武田家滅亡

信長が武田勝頼の首を蹴ったとされる逸話

江戸中期の逸話集『常山紀談』などには、信長が武田勝頼の首を前に罵り、杖で2回突き、最後に蹴ったとされるエピソードが記されています。ただし『信長公記』やその他の同時代史料にこの記述は見られないため、史実の信頼度は低く、後世の創作あるいは誇張の可能性が強いとされています(出典:Yahoo!ニュース/渡邊大門氏「信長は武田勝頼の首を蹴飛ばしたのか」)。

【筆者考察】首を蹴った逸話が映す「恐怖の裏返し」

筆者は、この「首を蹴った」逸話に類似した行為が、信長公記に記される浅井長政の頭蓋骨に金箔を貼った逸話と重なる点に注目しています。義弟だった浅井長政の頭蓋骨を前に踊ったというこの行為は、死者への礼節とも、敵の力を吸収する呪術とも解釈されますが、いずれにしてもただの儀礼と片付けるには異様です。筆者は、これらの行為は「長年恐れていた相手をようやく倒したことによる、緊張の糸が切れた反動」ではないかと感じています。武田勝頼を倒したわずか3か月後、信長は少数の供回りだけで本能寺へ向かい、明智光秀にあっけなく討たれました。武田家滅亡で「最大の脅威が消えた」という油断が、本能寺の悲劇を招いたのかもしれません。こう考えると、武田勝頼こそ信長の生涯最大のライバルだった、という解釈も十分成り立ちます。

しかし、筆者は思うのですが、信長は信玄と勝頼を過大評価しすぎていたのではないでしょうか。筆者は信長の居城・岐阜城と、信玄・勝頼の居城である躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた・現在の武田神社)に行ったことがあります。躑躅ヶ崎館に行った時に思ったのは、信玄と勝頼は、とても貧しかったのではないかということです。躑躅ヶ崎館の跡地は、とても小さく、国の支配者が住まう場所には思えなかったのです。甲府を高台から見下ろしてみると、とても狭い盆地であることがわかります。これでは生産力も乏しかったと思います。

それに対して、信長が住んでいた岐阜城からの眺めは凄まじいものがありました。眼下には肥沃な濃尾平野がどこまでも広がり、巨大な河川である長良川・木曽川・揖斐川が、水運と農業用水に利用できる位置にありました。甲府盆地とは比べ物にならない生産力があることが、一目でわかりました。圧倒的な財力の差があったにも関わらず、信長は信玄と勝頼を恐れたのは、それだけ信玄と勝頼が戦上手だったのでしょう。しかし、鉄砲や刀剣などの装備のほか、最大動員兵力など、あれだけの生産力の差があったら、恐れる必要があるとは、筆者には思えないのです。

岐阜城(稲葉山城)天守からのみた濃尾平野!名古屋駅まで見渡せる!左前方にかすかに2本並んだタワーが見えるが、そこが名古屋駅(筆者撮影)

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武田信玄と上杉謙信、信長とのライバル関係をより深く知りたい方はこちらもどうぞ。

👉 「武田信玄・最強説を考察!ライバル・上杉謙信とどっちが強い?」を読む

ここでは武田家との戦いを整理しました。次は、もう一人の北の宿敵・上杉謙信との関係を見ていきます。

織田信長と上杉謙信|手取川の戦いと避けた直接対決

手取川の戦い|信長は参戦しなかった

1577年の手取川の戦いでは、上杉謙信が織田軍の柴田勝家らを破りましたが、信長自身は参戦していません。信長は謙信との直接対決を露骨に避け続けたと評価されることが多く、これも「信長は謙信を恐れていた」とされる根拠の一つです。

ただし、当時信長は本願寺・毛利・松永久秀ら多方面と戦っており、軍を北陸へ集中投下できなかった事情もあります。「恐れていた」のか「戦略的に余力がなかった」のかは、史料の解釈によって分かれます。

上杉謙信の死で消えた「最大の脅威」

1578年、謙信は春日山城のトイレで脳卒中とされる症状で倒れ、49歳で急死しました。謙信の死は信長にとって「天佑」と呼べるほどの幸運で、北陸方面の最大の脅威が突然消えたのです。これにより信長は西国の毛利攻めに本格的に集中できるようになりました。

ここでは上杉謙信との関係を整理しました。次は、若き日の信長を脅かした隣国の名将たち――今川義元・斎藤義龍・弟・信勝を見ていきます。


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今川義元・斎藤義龍・織田信勝はライバルと呼べるか

今川義元|憧れと畏敬の対象だった隣国の名将

「海道一の弓取り」と呼ばれた今川義元は、若き信長にとって圧倒的な格上の存在でした。1560年の桶狭間の戦いで信長が義元を討ち取ったのは、ほとんど奇跡的な勝利です。

注目すべきは、信長が義元の愛刀「宗三左文字」を奪ったあと、これを「義元左文字」と改名し、本能寺の変で亡くなるまで生涯愛用したことです。ライバルというよりも、「畏敬の対象」「憧れの存在」だった――そう感じさせるエピソードです。

関連記事で深掘り

信長が生涯愛用した「義元左文字」の現在の所在や歴史を知ると、信長と今川義元の関係がより立体的に見えてきます。

👉 「今川義元の愛刀『義元左文字』と愛用の鉄兜は今どこにあるのか?」を読む

斎藤義龍・織田信勝|短命だった早期のライバル

信長の義父・斎藤道三を討った斎藤義龍は、若くして病死したため、信長と本格的に戦う期間が短かった人物です。1561年、35歳で病没しました。

信長の弟・織田信勝(信行)も、稲生の戦いで敗れた後、再び謀反を企てたことが露見し、1557年に清洲城で信長に誘殺されました。これらの人物は信長を脅かした時期はあるものの、長期にわたるライバルとは呼びにくい存在です。


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ここではかつての強敵を整理しました。次は、現代の映像作品で描かれた信長と本願寺顕如の関係を見ていきます。

大河『豊臣兄弟!』『麒麟がくる』『秀吉』で描かれた信長と本願寺顕如

織田信長と本願寺顕如の対立は、近年の大河ドラマでも重要なテーマとして描かれてきました。筆者が大河ドラマほぼ全作品を視聴してきた経験から、それぞれの作品の信長像と顕如像を比較してみます。

作品名放送信長役/顕如の描かれ方特徴
大河ドラマ『豊臣兄弟!』2026年(NHK)信長:小栗旬秀吉・秀長兄弟の視点から、信長の天下統一事業と本願寺・武田との戦いが描かれる
大河ドラマ『麒麟がくる』2020年(NHK)信長:染谷将太/顕如の存在感あり明智光秀の視点から、信長の宗教政策と仏敵としての顕如の対立が丁寧に描かれた
大河ドラマ『秀吉』1996年(NHK)信長:渡哲也渡哲也さんの威厳ある信長像が印象的。竹中直人さんの秀吉、仲代達矢さんの千利休も強烈

とくに筆者の印象に残っているのは、1996年大河『秀吉』で渡哲也さんが演じた織田信長です。仏敵と呼ばれることをも辞さず宗教勢力と全面対決する迫力、武田勝頼を恐れながらも最終的に滅ぼす冷徹さ――重厚な俳優としての存在感が、信長の複雑な内面を見事に体現していました。

2020年大河『麒麟がくる』では染谷将太さん演じる信長が、明智光秀(長谷川博己)の視点から「ライバルたちと戦い続ける孤独な天才」として描かれており、本願寺との戦いの非情さも色濃く演出されていました。

【筆者考察】2026年『豊臣兄弟!』が描く信長像への期待

筆者は、2026年大河『豊臣兄弟!』で小栗旬さん演じる織田信長像に大きな期待を寄せています。秀吉・秀長兄弟の視点から見る信長は、これまでの大河の主人公目線で描かれた信長とは異なる立ち位置になるはずです。とくに本願寺顕如や武田勝頼との戦いを、家臣・秀長の目線から「上司・信長の決断と苦悩」として描く構成は新鮮で、信長のライバル論にも新しい光を当てる可能性があります(出典:NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』公式)。

2026年大河『豊臣兄弟!』で小栗旬さん演じる信長と、本願寺・武田家との戦いがどう描かれるのか、ぜひご自身の目で確かめてみてはいかがでしょうか。U-NEXTでは過去の大河ドラマ『麒麟がくる』『秀吉』なども配信されており、染谷将太さんや渡哲也さんの信長像と見比べることもできます。31日間の無料トライアル期間があるため、まずはお試しで視聴してみるのも一案です。

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ここでは大河作品の信長像を比較しました。次は、よくある質問にFAQ形式で回答します。

織田信長のライバルに関するよくある質問(FAQ)

Q:織田信長の最大のライバルは誰ですか?

10年にわたる石山合戦を戦った本願寺顕如を、最大のライバルとする見方がある一方、武田信玄・武田勝頼、上杉謙信などを最大のライバルとする見方もあります。長期戦という点では、武田信玄・勝頼親子(1572〜1582年の10年)も同等の候補で、どちらを「最大」とするかは評価軸によります。

Q:鳴かぬなら殺してしまえホトトギスと言った人は誰ですか?

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」は、織田信長の性格を表したとされる句です。ただしこの句は江戸時代後期に詠まれた創作で、信長本人の言葉ではありません。続いて「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス(豊臣秀吉)」「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス(徳川家康)」と三人を対比させた句として広まりました。

Q:長篠の戦いどっちが織田信長?

1575年の長篠の戦いでは、織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼軍を破りました。信長は陣城と大量の鉄砲を活用したとされますが、「鉄砲三段撃ち」は近年の研究で疑問視されています。武田軍の主力も騎馬隊ではなく長槍隊だったとする見方が有力です。

Q:織田信長が死に際に言ったセリフは?

『信長公記』では、本能寺の変で襲撃を受けた信長は「是非に及ばず」と一言述べたと伝わります。「もはや仕方がない」「やむを得ない」といった意味で、明智光秀の謀反を察知した瞬間の覚悟の言葉とされます。「人間五十年〜」の幸若舞は、桶狭間の戦い前に舞ったとされる場面で、本能寺での辞世とは異なります。

Q:織田信長は仏教に対して何をしたのですか?

信長は武装し政治的に敵対した仏教勢力(本願寺・比叡山延暦寺・高野山)を激しく攻撃しましたが、すべての仏教を否定したわけではありません。安土城下に総見寺を建立し、政治的に従順な禅宗寺院は保護しました。「無神論者」というイメージは近年の研究で見直されつつあります。


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まとめ|織田信長のライバルから見える戦国の本質

本日の内容をまとめます。

記事の要点

織田信長の最大のライバルは、10年にわたって戦い続けた本願寺顕如とする見方が有力です。石山合戦は信長を最も苦しめた長期戦でした。

② 武田信玄・武田勝頼親子との戦いも10年に及び、武田勝頼をライバルと見る解釈も成立します。長篠の戦いの「鉄砲三段撃ち」は近年見直されています。

③ 信長は比叡山焼き討ち・高野山攻めなど仏教武装勢力と全面対決しましたが、すべての宗教を否定したわけではない、というのが近年の研究の主流です。

④ 今川義元・斎藤義龍・織田信勝もかつての強敵ですが、長期にわたるライバルとしては本願寺顕如・武田勝頼が双璧です。

織田信長のライバルをたどると、戦国時代が「武将同士の戦い」だけでなく、「武装宗教勢力」「家臣団」「血族」を巻き込んだ複層的な権力闘争だったことが見えてきます。本願寺顕如か、武田勝頼か――どちらを最大のライバルとするかは、読者一人ひとりの「ライバル観」によって変わるのが、信長という武将の奥深さだと、筆者は考えます。

本日も「レキシル」へお越しくださり、誠にありがとうございました。またのお越しをお待ちしております。


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参考資料

この記事の著者(再掲)

レキシル史郎|歴史専門の調査・編集ライター/大河ドラマ研究家/経営者視点の歴史分析

歴史学者ではなく、複数の説を公平に整理する編集者です。大河ドラマほぼ全作品の視聴経験と、大阪城・名古屋城・岐阜城・犬山城・関ヶ原・比叡山延暦寺などへの複数回訪問、京都市内各所への訪問経験をもとに、史実と演出の違いを比較しています。

最終更新日:2026年4月29日

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